May 26, 2012
韓国・慶州へのワンデー・トリップ (おわり)
慶州は、よく『屋根のない博物館』と称される。 それほどに遺跡・文化財がゴロゴロ転がるほどにあるという地域なのだ。 日本で例えるならば奈良のような所である。
以下、國立慶州博物館の展示品を紹介しながらワンデー・トリップのまとめとする。

写真は新石器時代の磨製石斧(蔚珍・厚浦里遺跡)≪國立慶州博物館カタログより≫
これは余談だが、奈良県の土地造成や土木・建築に関わる業者は工事を請け負った地区の地下に遺物・遺跡が出土しないよう工事着工前に真剣に祈るらしい。 この業者が祈る気持というのも分からなくはない。 工事中に土器等の遺物が出土したなら文化財保護法により届け出ることが義務付けられており、届出によって文化財
担当官による試掘等の確認調査が行われ、遺跡らしいと判断されたなら更なる調査発掘作業に入ることとなる。
確認調査は早くても4~5日はかかり、通常1週間から2週間を目途としているが、この間の業者の工事はストップしなければならないし、確認調査の費用は工事請負の業者と施主の負担となるのだから真剣に祈るという気持ちも分かる。
写真は新石器時代の櫛目文土器(金泉・松竹里)≪國立慶州博物館カタログより≫
埋蔵文化財包蔵地として遺跡等が埋もれている可能性があるということを示した地図が建築課や文化財課にはあるはずだが、発掘される確率が高いという言わば占いのようなもので、当たるも八卦当たらぬも八卦と同様なのである。 しかし、遺跡というのは平面的広がりを持つものだから、1坪程度の調査では済まない。 また地層には累重の法則があるように、新しい遺跡の下部に古い遺跡が重なっている場合もある。 更に、遺跡というのは予想し得ない所で発掘・発見される場合もある。

『金冠』(金冠塚・5世紀)≪國立慶州博物館カタログより≫
我が家は丘陵地の端に位置するが、谷あいになっている下の地域から棚田になっていた丘陵斜面の造成工事が年を追って徐々に行われてきた。 我が家の建つ丘陵一帯は松を含む雑木林だったが棚田耕作はそれ以前から行われていた。 ひな壇状の棚田を宅地に造成する工事がいよいよ我が家の下まできた或る日、工事現場を見た私の目に相当数の土器片が散らばっているのを確認したのだった。 我が家からは6mばかり下の現場に降りて土器片を見たところ、いずれも須恵器の皿や高坏であった。 工事業者は当然届け出るだろうが、まさか丘陵斜面でと、面喰らったに違いなかったと思う。 黙って工事を進めても一目につかない分からない場所である。 しかも既に土器片を含めた土を掘り上げ盛っていたので急遽県の橿原文化財研究所に調査を依頼した。
研究所からは偶然私の後輩がやってきて調査を開始することが決定。 以後10日ばかり調査を行った結果、平城京で使用する須恵器の窯跡の灰原であろうということであった。 (この大量の土器片出土に関して工事業者からの届け出があったとは聞いていない)
ここ掘れワンワンではないが、現在の奈良市は平城京を地理的に包含している爲どこを掘っても遺跡を掘り当てる可能性が高く、そうした意味合いでも慶州とはよく似ていると言えるかもしれない。

何と言っても慶州は新羅千年の都であった土地なのだから。
写真は國立慶州博物館の正門を入った所から考古館を撮ったものだが敷地が広く、屋外に展示されている文化財も多い。
展示のための建造物は上の考古館のほか、美術館、雁鴨池館、特別展示館がある。 また、子ども達のための博物館も用意されている。
私は博物館めぐりを随分してきたが、日本で言えば東京、京都、奈良、これらを訪れる場合、2~3時間を限度と
している。 理由は簡単。 頭・目・足が疲れて体がもたないのだ。 しかし、韓国で言えば國立中央博物館とか、各国の首都にある博物館は頑張って4~5時間、時に6時間を充てることもある。 或いは2日間に分けて連日通うとか。
これも理由は簡単である。 国内の博物館なら健康であれば何時でも何度でも行くことができるが、外国の博物館・美術館の場合そうはいかないからである。
新羅の石塔や石仏造りが盛んになったのは三国統一された頃、つまり7世紀頃からだが、新羅の石塔は写真のように高い基壇に三層の塔身に屋蓋台、それに欠けているが相輪
で成り立っているのが特徴である。
大きい小さいに拘らず何枚もの石を積み上げて組み合わせて行くという手法であり、大きい石塔では前ページで紹介した芬皇寺の三層の石塔のように安山岩を板状の磚(かわら)として積み上げたものがあり、写真のように花崗岩を細工して積み上げたものもある。
雁鴨池館前の庭にある写真の石塔は相輪部までの完全な形で三層石塔を見ることができる。
下は崇福寺の双亀趺と後ろに見えるのは鐘閣に吊り下げられている聖德大王神鐘である。

2匹の亀は碑文の基壇で崇福寺址にあったもの。 碑文には新羅第38代・元聖王(ウォンソンワン・在位785~798)の冥福を祈った新羅末の文人・崔致遠(チェ・チウォン)の文が彫られていたらしい。
聖德大王神鐘は『エミレの鐘』とも呼ばれているとか。 エミレというのは鐘の音が子どもの「お母さん」と呼ぶ声に似ているところからだと言うのだが、これは私には分からない。 梵鐘についても前ページで芬皇寺の鐘を紹介しているので参考までに。
屋外展示の石仏についても少し紹介しておこう。

この仏頭は慶州・南山の鉄瓦谷にあったもので8世紀末から9世紀初めの統一新羅時代の作である。 高さが1m53cmで重量は1.7t。
仏頭の高さが小柄な人の身長に匹敵するのだ。 いったい如何ほどの仏像だったのか、これは大いに興味のわくところだが南山の鉄瓦谷に胴体となるものは発見されていないのだと。
観音菩薩立像の写真だが、頭部は早くに(日帝強占期とカタログには表記)國立慶州博物
館に移されていたが、胴体は慶州・狼山西麓の陵只塔のあたりに埋まっていたらしい。
それが1975年に同一のものと分かり、更に蓮華座も発見されて一体像となったのだとか。
宝冠の仏像は風化して見れないが、左手に浄瓶をぶら下げていることから観世音菩薩像に違いないと判断したらしい。 が、ううん?観音さんは衆生を救うために相手によって33の姿に変身するってことは知ってるが、浄瓶たるものを持ってたのだろうか。 気が付かなかった。
最後は、獐項里の石像仏立像。
この仏像は慶州陽北面獐項里に散乱していたものを復元したものらしい。 胴体以下が無いのに何故立像であると言えるのか。 それは立像の台座があったからなのだと。
高さ2m50cm。8世紀頃に造られたもの。
國立慶州博物館の展示物について、ほんの、ほんの、ほんの一部だけ紹介したが、見応えのある博物館であり、しかも日本の歴史とも似通った面が多々あるので展示品についての理解もしやすく親しみすら感じる。 私は3度目の訪問になったが、毎回満足して帰ることができるので嬉しく思っている。
予想通り博物館の見学時間が最も長くなった。 いかに貸切りにしたとは言え、タクシーの運転手に3時間も待たせるのは悪いと思い、営業運転するかコーヒーでも飲んできてくれと言っておいたのだが、丁度3時間を経て正門前へ出てきたら駐車場に車を置いて待っていてくれた。 尋ねると、どこへも行かずに待っていてくれたのだと。 なんとも律儀な運転手であった。

旧正月前、陽が暮れるのは早い。
釜山・南浦洞まで帰ってきたら6時を過ぎていたので、そのまま市場の店へ。 今夜もナックチを酒肴にビールと焼酎である。
以下、國立慶州博物館の展示品を紹介しながらワンデー・トリップのまとめとする。

写真は新石器時代の磨製石斧(蔚珍・厚浦里遺跡)≪國立慶州博物館カタログより≫
これは余談だが、奈良県の土地造成や土木・建築に関わる業者は工事を請け負った地区の地下に遺物・遺跡が出土しないよう工事着工前に真剣に祈るらしい。 この業者が祈る気持というのも分からなくはない。 工事中に土器等の遺物が出土したなら文化財保護法により届け出ることが義務付けられており、届出によって文化財
担当官による試掘等の確認調査が行われ、遺跡らしいと判断されたなら更なる調査発掘作業に入ることとなる。確認調査は早くても4~5日はかかり、通常1週間から2週間を目途としているが、この間の業者の工事はストップしなければならないし、確認調査の費用は工事請負の業者と施主の負担となるのだから真剣に祈るという気持ちも分かる。
写真は新石器時代の櫛目文土器(金泉・松竹里)≪國立慶州博物館カタログより≫
埋蔵文化財包蔵地として遺跡等が埋もれている可能性があるということを示した地図が建築課や文化財課にはあるはずだが、発掘される確率が高いという言わば占いのようなもので、当たるも八卦当たらぬも八卦と同様なのである。 しかし、遺跡というのは平面的広がりを持つものだから、1坪程度の調査では済まない。 また地層には累重の法則があるように、新しい遺跡の下部に古い遺跡が重なっている場合もある。 更に、遺跡というのは予想し得ない所で発掘・発見される場合もある。

『金冠』(金冠塚・5世紀)≪國立慶州博物館カタログより≫
我が家は丘陵地の端に位置するが、谷あいになっている下の地域から棚田になっていた丘陵斜面の造成工事が年を追って徐々に行われてきた。 我が家の建つ丘陵一帯は松を含む雑木林だったが棚田耕作はそれ以前から行われていた。 ひな壇状の棚田を宅地に造成する工事がいよいよ我が家の下まできた或る日、工事現場を見た私の目に相当数の土器片が散らばっているのを確認したのだった。 我が家からは6mばかり下の現場に降りて土器片を見たところ、いずれも須恵器の皿や高坏であった。 工事業者は当然届け出るだろうが、まさか丘陵斜面でと、面喰らったに違いなかったと思う。 黙って工事を進めても一目につかない分からない場所である。 しかも既に土器片を含めた土を掘り上げ盛っていたので急遽県の橿原文化財研究所に調査を依頼した。
研究所からは偶然私の後輩がやってきて調査を開始することが決定。 以後10日ばかり調査を行った結果、平城京で使用する須恵器の窯跡の灰原であろうということであった。 (この大量の土器片出土に関して工事業者からの届け出があったとは聞いていない)
ここ掘れワンワンではないが、現在の奈良市は平城京を地理的に包含している爲どこを掘っても遺跡を掘り当てる可能性が高く、そうした意味合いでも慶州とはよく似ていると言えるかもしれない。

何と言っても慶州は新羅千年の都であった土地なのだから。
写真は國立慶州博物館の正門を入った所から考古館を撮ったものだが敷地が広く、屋外に展示されている文化財も多い。
展示のための建造物は上の考古館のほか、美術館、雁鴨池館、特別展示館がある。 また、子ども達のための博物館も用意されている。
私は博物館めぐりを随分してきたが、日本で言えば東京、京都、奈良、これらを訪れる場合、2~3時間を限度と
している。 理由は簡単。 頭・目・足が疲れて体がもたないのだ。 しかし、韓国で言えば國立中央博物館とか、各国の首都にある博物館は頑張って4~5時間、時に6時間を充てることもある。 或いは2日間に分けて連日通うとか。これも理由は簡単である。 国内の博物館なら健康であれば何時でも何度でも行くことができるが、外国の博物館・美術館の場合そうはいかないからである。
新羅の石塔や石仏造りが盛んになったのは三国統一された頃、つまり7世紀頃からだが、新羅の石塔は写真のように高い基壇に三層の塔身に屋蓋台、それに欠けているが相輪
で成り立っているのが特徴である。 大きい小さいに拘らず何枚もの石を積み上げて組み合わせて行くという手法であり、大きい石塔では前ページで紹介した芬皇寺の三層の石塔のように安山岩を板状の磚(かわら)として積み上げたものがあり、写真のように花崗岩を細工して積み上げたものもある。
雁鴨池館前の庭にある写真の石塔は相輪部までの完全な形で三層石塔を見ることができる。
下は崇福寺の双亀趺と後ろに見えるのは鐘閣に吊り下げられている聖德大王神鐘である。

2匹の亀は碑文の基壇で崇福寺址にあったもの。 碑文には新羅第38代・元聖王(ウォンソンワン・在位785~798)の冥福を祈った新羅末の文人・崔致遠(チェ・チウォン)の文が彫られていたらしい。
聖德大王神鐘は『エミレの鐘』とも呼ばれているとか。 エミレというのは鐘の音が子どもの「お母さん」と呼ぶ声に似ているところからだと言うのだが、これは私には分からない。 梵鐘についても前ページで芬皇寺の鐘を紹介しているので参考までに。
屋外展示の石仏についても少し紹介しておこう。

この仏頭は慶州・南山の鉄瓦谷にあったもので8世紀末から9世紀初めの統一新羅時代の作である。 高さが1m53cmで重量は1.7t。
仏頭の高さが小柄な人の身長に匹敵するのだ。 いったい如何ほどの仏像だったのか、これは大いに興味のわくところだが南山の鉄瓦谷に胴体となるものは発見されていないのだと。
観音菩薩立像の写真だが、頭部は早くに(日帝強占期とカタログには表記)國立慶州博物
館に移されていたが、胴体は慶州・狼山西麓の陵只塔のあたりに埋まっていたらしい。それが1975年に同一のものと分かり、更に蓮華座も発見されて一体像となったのだとか。
宝冠の仏像は風化して見れないが、左手に浄瓶をぶら下げていることから観世音菩薩像に違いないと判断したらしい。 が、ううん?観音さんは衆生を救うために相手によって33の姿に変身するってことは知ってるが、浄瓶たるものを持ってたのだろうか。 気が付かなかった。
最後は、獐項里の石像仏立像。この仏像は慶州陽北面獐項里に散乱していたものを復元したものらしい。 胴体以下が無いのに何故立像であると言えるのか。 それは立像の台座があったからなのだと。
高さ2m50cm。8世紀頃に造られたもの。
國立慶州博物館の展示物について、ほんの、ほんの、ほんの一部だけ紹介したが、見応えのある博物館であり、しかも日本の歴史とも似通った面が多々あるので展示品についての理解もしやすく親しみすら感じる。 私は3度目の訪問になったが、毎回満足して帰ることができるので嬉しく思っている。
予想通り博物館の見学時間が最も長くなった。 いかに貸切りにしたとは言え、タクシーの運転手に3時間も待たせるのは悪いと思い、営業運転するかコーヒーでも飲んできてくれと言っておいたのだが、丁度3時間を経て正門前へ出てきたら駐車場に車を置いて待っていてくれた。 尋ねると、どこへも行かずに待っていてくれたのだと。 なんとも律儀な運転手であった。

旧正月前、陽が暮れるのは早い。
釜山・南浦洞まで帰ってきたら6時を過ぎていたので、そのまま市場の店へ。 今夜もナックチを酒肴にビールと焼酎である。
May 25, 2012
韓国・慶州へのワンデー・トリップ (つづきの続き)
慶州で確実にタクシーに乗れるのは高速バスターミナルや市外バスターミナル、或いは韓国鉄道の慶州駅である。 勿論流しのタクシーをつかまえることはできるが、観光スポットと呼ばれる所で空車を見付けるのは難しい。 観光スポットへ来るタクシーは帰りも同じ客を乗せる、予約の客待ち状態にあるのが通常なのだ。
天馬塚のある大陵苑だとか國立博物館のように慶州を訪れる観光客が100%立ち寄る所では空車が出ることもあるが、これはなかなか難しい。 インフォメーションのある所ではタクシーを呼んでもらうことが出来るが、前回訪れた時に私は随分時間のロスをしてしまったので、今回は慶州駅をスタート地点として武烈王陵⇒金庾信将
軍墓⇒芬皇寺⇒國立博物館⇒高速バスターミナルのコースでタクシーを1台借り上げてしまった。
芬皇寺(ブンファンサ)は新羅第27代王・善徳(ソンドク)女王が634年に建立した寺である。
写真は芬皇寺の三層の石塔。 芬皇寺が建てられた当初は写真の石塔も三層ではなく七層か九層の石塔であったらしいが、1238年モンゴル帝国の侵攻で破壊された善徳女王建立の皇龍寺の70mもの高さがあったと推
定されている九層木塔と同様に破壊されたのかもしれない。
慶州では石を素材とした石塔、石仏などをよく目にするが、芬皇寺の三層の石塔もそれらのひとつであり、写真で分かるだろうか、安山岩を板状に加工したものを積み上げて造られているが新羅初期の石塔の特徴だということである。
石塔の第一層の四面にはそれぞれに龕室(がんしつ)があり、花崗岩を彫った仁王像と石扉で守られている。
1915年に朝鮮総督府が解体修理を施して三層の塔を再建したが、その折に二層と三層の塔身の間から花崗岩で作られた石函が発見された。 縦横63cmの石函の内部を削り、その中には舎利盒の他、金銀の針やハサミ、玉、貝など様々なものが発見されている。 ≪参考 ・ 國立慶州博物館及びカタログより≫

この三層の石塔、つまり石造の卒塔婆が建っている基壇の四方には石造の獅子が塔を守るように建てられている。 龕室入口の仁王像もそうだが、獅子像も千数百年の時を経て創建当初の完全な姿形で残っているわけではないが、それなりに当時を彷彿とさせる雰囲気を醸し出している。
善徳女王は三国統一のための礎を築いた人でもあるが、仏教の保護にも熱心だったようで、芬皇寺のほか、先に書いた皇龍寺の九層の木塔や霊廟寺なども建てている。
芬皇寺創建当初よりある井戸で護国龍変魚井と呼ばれている。 井戸の中に龍が棲んでいるという伝説もあるが、花崗岩の外側を八角形に削り、内側を円形に彫ることによって仏教の八正道と結びつける説明の方が真実味があるように思うのだが・・・
芬皇寺には180トンもの重さの薬師如来仏像が安置され、慈蔵(ジャジャン)が中国から持ち帰った仏舎利や大蔵経の一部も納めてあったらしいが今は無い。 モンゴル帝国の侵攻で廃寺になっただけでなく、豊臣秀吉の朝鮮侵略、李氏朝鮮時代は儒教が国教であったため仏教弾圧が強く寺の復興に
は随分の時間がかかったらしい。
写真は現在普光殿に安置されている薬師如来像で1774年に造られたもの。
慈蔵という僧は636年に唐へ行き、仏法を学んで帰国して芬皇寺に住まいし新羅の戒律宗を開いた人であり、皇龍寺の九層の木塔を建てるよう善徳女王に進言した人でもある。 当時は慈蔵のほか芬皇寺に留まり華厳経などの仏典解釈を書いた元暁(ウォンヒョ)や、日本でも華厳宗の祖師として名高い義湘(ウィサン)らが活躍している。
釜山や慶州に近いところにある寺としては、善徳女王の647年に慈蔵によって建てられた通度寺(トンドサ)や、文武王の頃に義湘によって建てられた梵魚寺(ポモサ)が有名である。 また元暁の弟子である審祥(シムサン)
が華厳経を日本に伝えたことでも有名である。 ※ 審祥については新羅人か日本人かはっきりしないが、大安寺(奈良)に長く住んでいた。
鐘閣より三層石塔を見た写真。

韓国の梵鐘の特徴を表すものとして、鐘の上端部分で鐘を吊り下げる輪の部分が一匹の龍になっている点がひとつ。 これが中国の梵鐘の場合は2匹の龍で形作られているものが多い。
この写真では見えにくいが、龍の角の後ろあたり、ちょうど梵鐘の真ん中に音筒という突起が出ているのだが、これが微妙に鐘の振動に影響を与えるようで、これが2点目。
鐘の上部に乳廓と呼ぶ蓮華文などで四角く囲われた個所があり、そこに蓮華のつぼみ状の乳頭が9個ずつ配されている。 そうした乳廓が4つで合計36個の乳頭があると、これが3点目。
4点目は鐘を突く位置に蓮華文と鐘の胴周りに飛天像が入っている点。
國立慶州博物館のカタログでは韓国の梵鐘の特徴として以上のようなことを挙げており、「鐘の美しい曲線と人の心に響く鐘の音は中国や日本の鐘を圧倒している」と書いている。 が、ちょっと引っ掛かるのだ。 鐘の鋳造について形が異なることや文様の異なり、或いは鐘の音色の異なりを挙げるのは分かるのだが、鐘の音が『中国や日本の鐘を圧倒している』と書いているのには、ああ又か、と少々白けウンザリする思いである。
心に響くなどと個々の感性を取り上げ、我が一番などという意味合いにとらえられる表現を国の機関が公刊するカタログに記載するなど私の感覚では有り得ないことなのだが・・・・・
まあ、それはそれとして國立慶州博物館のことを少し紹介しよう。
天馬塚のある大陵苑だとか國立博物館のように慶州を訪れる観光客が100%立ち寄る所では空車が出ることもあるが、これはなかなか難しい。 インフォメーションのある所ではタクシーを呼んでもらうことが出来るが、前回訪れた時に私は随分時間のロスをしてしまったので、今回は慶州駅をスタート地点として武烈王陵⇒金庾信将
軍墓⇒芬皇寺⇒國立博物館⇒高速バスターミナルのコースでタクシーを1台借り上げてしまった。芬皇寺(ブンファンサ)は新羅第27代王・善徳(ソンドク)女王が634年に建立した寺である。
写真は芬皇寺の三層の石塔。 芬皇寺が建てられた当初は写真の石塔も三層ではなく七層か九層の石塔であったらしいが、1238年モンゴル帝国の侵攻で破壊された善徳女王建立の皇龍寺の70mもの高さがあったと推
定されている九層木塔と同様に破壊されたのかもしれない。慶州では石を素材とした石塔、石仏などをよく目にするが、芬皇寺の三層の石塔もそれらのひとつであり、写真で分かるだろうか、安山岩を板状に加工したものを積み上げて造られているが新羅初期の石塔の特徴だということである。
石塔の第一層の四面にはそれぞれに龕室(がんしつ)があり、花崗岩を彫った仁王像と石扉で守られている。1915年に朝鮮総督府が解体修理を施して三層の塔を再建したが、その折に二層と三層の塔身の間から花崗岩で作られた石函が発見された。 縦横63cmの石函の内部を削り、その中には舎利盒の他、金銀の針やハサミ、玉、貝など様々なものが発見されている。 ≪参考 ・ 國立慶州博物館及びカタログより≫

この三層の石塔、つまり石造の卒塔婆が建っている基壇の四方には石造の獅子が塔を守るように建てられている。 龕室入口の仁王像もそうだが、獅子像も千数百年の時を経て創建当初の完全な姿形で残っているわけではないが、それなりに当時を彷彿とさせる雰囲気を醸し出している。
善徳女王は三国統一のための礎を築いた人でもあるが、仏教の保護にも熱心だったようで、芬皇寺のほか、先に書いた皇龍寺の九層の木塔や霊廟寺なども建てている。
芬皇寺創建当初よりある井戸で護国龍変魚井と呼ばれている。 井戸の中に龍が棲んでいるという伝説もあるが、花崗岩の外側を八角形に削り、内側を円形に彫ることによって仏教の八正道と結びつける説明の方が真実味があるように思うのだが・・・芬皇寺には180トンもの重さの薬師如来仏像が安置され、慈蔵(ジャジャン)が中国から持ち帰った仏舎利や大蔵経の一部も納めてあったらしいが今は無い。 モンゴル帝国の侵攻で廃寺になっただけでなく、豊臣秀吉の朝鮮侵略、李氏朝鮮時代は儒教が国教であったため仏教弾圧が強く寺の復興に
は随分の時間がかかったらしい。写真は現在普光殿に安置されている薬師如来像で1774年に造られたもの。
慈蔵という僧は636年に唐へ行き、仏法を学んで帰国して芬皇寺に住まいし新羅の戒律宗を開いた人であり、皇龍寺の九層の木塔を建てるよう善徳女王に進言した人でもある。 当時は慈蔵のほか芬皇寺に留まり華厳経などの仏典解釈を書いた元暁(ウォンヒョ)や、日本でも華厳宗の祖師として名高い義湘(ウィサン)らが活躍している。
釜山や慶州に近いところにある寺としては、善徳女王の647年に慈蔵によって建てられた通度寺(トンドサ)や、文武王の頃に義湘によって建てられた梵魚寺(ポモサ)が有名である。 また元暁の弟子である審祥(シムサン)
が華厳経を日本に伝えたことでも有名である。 ※ 審祥については新羅人か日本人かはっきりしないが、大安寺(奈良)に長く住んでいた。鐘閣より三層石塔を見た写真。

韓国の梵鐘の特徴を表すものとして、鐘の上端部分で鐘を吊り下げる輪の部分が一匹の龍になっている点がひとつ。 これが中国の梵鐘の場合は2匹の龍で形作られているものが多い。
この写真では見えにくいが、龍の角の後ろあたり、ちょうど梵鐘の真ん中に音筒という突起が出ているのだが、これが微妙に鐘の振動に影響を与えるようで、これが2点目。
鐘の上部に乳廓と呼ぶ蓮華文などで四角く囲われた個所があり、そこに蓮華のつぼみ状の乳頭が9個ずつ配されている。 そうした乳廓が4つで合計36個の乳頭があると、これが3点目。
4点目は鐘を突く位置に蓮華文と鐘の胴周りに飛天像が入っている点。
國立慶州博物館のカタログでは韓国の梵鐘の特徴として以上のようなことを挙げており、「鐘の美しい曲線と人の心に響く鐘の音は中国や日本の鐘を圧倒している」と書いている。 が、ちょっと引っ掛かるのだ。 鐘の鋳造について形が異なることや文様の異なり、或いは鐘の音色の異なりを挙げるのは分かるのだが、鐘の音が『中国や日本の鐘を圧倒している』と書いているのには、ああ又か、と少々白けウンザリする思いである。
心に響くなどと個々の感性を取り上げ、我が一番などという意味合いにとらえられる表現を国の機関が公刊するカタログに記載するなど私の感覚では有り得ないことなのだが・・・・・
まあ、それはそれとして國立慶州博物館のことを少し紹介しよう。
May 23, 2012
韓国・慶州へのワンデー・トリップ (つづき)
武烈王陵を訪れて次に向かう先は金庾信将軍墓である。
金庾信(キムユシン)将軍は武烈王(ムヨルワン)の忠臣であり、660年に5万の新羅軍を率いて唐の13万の軍勢との挟撃によって百済を滅ぼした知将とも勇将とも称されている人である。 百済の階伯将軍が決死5千の兵を率いて対したのが金庾信将軍であった。
金庾信は595年に生まれ、15歳で花郎(ファラン)となり学問と武術の修錬に励んだとされ、後年、武烈王となる金春秋も花郎の出身であったという。 花郎とは新羅の真興王の時代(540~576)に確立された青年貴族の教育制度であるというのが一般的解釈になっており、韓国時代劇テレビドラマでも化粧を施した美少年戦士集団と
して描かれている。
だが、「李氏朝鮮王朝時代(1392年~)には、花郎は男芸者を意味する言葉に変っている」ことを挙げているものもあるし、朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月休戦)の時に、韓国・李承晩大統領が青少年の愛国心の育成と高揚のために花郎と結び付けさせたとの説もある。
つまり、果たして花郎がどういったものであったかは史料の少なさから推量できても断言はできないというのが実際のところのようだ。 諸説あるが、興味があればURLを挙げておくので参考にどうぞ。
http://inuiyouko.web.fc2.com/folklore/whis01.html
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/3249/hwarang.html
写真は金庾信将軍墓の墓域に入るためのチケット買い、石段を上がった所にある石碑。 新羅太大角干の表題の下に金庾信の業績などが書かれている。 新羅でも同じだが聖徳太子の冠位十二階と同様に等級と京位(冠位)が定められ、1等級の伊伐飡(イボルチャン)=角干を筆頭に17階級の冠位があったそうな。
ところが、この金庾信将軍に関しては角干ではなく大角干、その更に上の太大角干という冠位が与えられている
ように、彼に対しては破格の扱いなのである。
写真は金庾信将軍墓への墓参道に建つ門。
朝鮮の三国時代、高句麗・百済・新羅のいずれもが統一を願っていたが、それは他国を併呑してしまうという軍事力による統合であり、そのため三国間は常に緊張状態にあったことを既に書いてきた。
経緯はあるが、554年には羅済同盟を解消して新羅と戦った百済の聖王が戦死。 新羅と百済の対立が続き、やがて百済と高句麗は麗済同盟を結んで新羅に圧力を加えていった。 この時は新羅の善徳女王が中国・唐に救援を求めるも拒否され不安定な国内外の政情の中で善徳女王が亡くなる。 この折に金廋信は金春秋と共に真徳女王を擁立して親唐路線(羅唐同盟)を推進、654年に真徳女王が亡くなると金春秋を第29代新羅王・武烈
王として即位させ、660年に唐と共同して百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼして三国の統一を成し遂げた。
上の門を入って墓参道を少し歩いて行くと写真のような金庾信将軍墓が見えてくる。
墓前の左手の墓碑には『新羅太大角干金庾信墓』と彫られているが、先にも書いた通り新羅の冠位で最上位は角干であり、『大』の称号が与えられたのは百済を滅ぼした功績(660年)によるもので、第30代文武王(武烈王の子)の時には高句麗を滅ぼした功績(668年)によって『太』の称号が加えられた。
朝鮮半島の統一を果たす大きい役割を果たしたということでは『大』『太』の称号を授かるのも当然と言えよう。
ところで、このお墓の右手、写真の墓碑と対を為す場所にも墓碑がある。
その墓碑には『開國公純忠壮烈興武王墓』とあるのだが、墓の字の辺りが汚れていたのでよく見ると、陵という字が彫られていたように見えた。
これは、ううん? ええっ?墓と陵はちょっと意味が違うのである。
金庾信が彼の功績によって特別枠によって『大』『太』の敬称を授かったことは紹介したが、更に後の時代、新羅第42代王・興徳王(在位・826年~836年)によって『興武王』とされているのである。 追贈ではあるが『王』となれば陵との表示でも良いかと思ってみたりしたが、これはよく分からないままになっている。
金庾信が新羅の国や王室に果たした功績は大きいが、彼の妹は武烈王の夫人となり、彼自身も武烈王の三女
を夫人に迎えている。 そして武烈王と金庾信の妹との間に出来た子が文武王となっていることから考えれば功績以上の待遇が例え彼の死後であっても与えられることについて特段の不思議もないのかもしれない。
金庾信将軍墓も形状は円墳であるが、土山が崩れないように周囲をグルッと石で囲んだ立派な墓である。
しかも墓を囲む石板には干支の動物が12体刻み彫られているのだ。
これは王の墓よりも立派と言えるかもしれない。
はて、これは何だったろうか。
上からサル(申)、ヒツジ(未)、タツ(辰)だったように思うのだが・・・

これの続きはまた。
金庾信(キムユシン)将軍は武烈王(ムヨルワン)の忠臣であり、660年に5万の新羅軍を率いて唐の13万の軍勢との挟撃によって百済を滅ぼした知将とも勇将とも称されている人である。 百済の階伯将軍が決死5千の兵を率いて対したのが金庾信将軍であった。
金庾信は595年に生まれ、15歳で花郎(ファラン)となり学問と武術の修錬に励んだとされ、後年、武烈王となる金春秋も花郎の出身であったという。 花郎とは新羅の真興王の時代(540~576)に確立された青年貴族の教育制度であるというのが一般的解釈になっており、韓国時代劇テレビドラマでも化粧を施した美少年戦士集団と
して描かれている。 だが、「李氏朝鮮王朝時代(1392年~)には、花郎は男芸者を意味する言葉に変っている」ことを挙げているものもあるし、朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月休戦)の時に、韓国・李承晩大統領が青少年の愛国心の育成と高揚のために花郎と結び付けさせたとの説もある。
つまり、果たして花郎がどういったものであったかは史料の少なさから推量できても断言はできないというのが実際のところのようだ。 諸説あるが、興味があればURLを挙げておくので参考にどうぞ。
http://inuiyouko.web.fc2.com/folklore/whis01.html
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/3249/hwarang.html
写真は金庾信将軍墓の墓域に入るためのチケット買い、石段を上がった所にある石碑。 新羅太大角干の表題の下に金庾信の業績などが書かれている。 新羅でも同じだが聖徳太子の冠位十二階と同様に等級と京位(冠位)が定められ、1等級の伊伐飡(イボルチャン)=角干を筆頭に17階級の冠位があったそうな。
ところが、この金庾信将軍に関しては角干ではなく大角干、その更に上の太大角干という冠位が与えられている
ように、彼に対しては破格の扱いなのである。写真は金庾信将軍墓への墓参道に建つ門。
朝鮮の三国時代、高句麗・百済・新羅のいずれもが統一を願っていたが、それは他国を併呑してしまうという軍事力による統合であり、そのため三国間は常に緊張状態にあったことを既に書いてきた。
経緯はあるが、554年には羅済同盟を解消して新羅と戦った百済の聖王が戦死。 新羅と百済の対立が続き、やがて百済と高句麗は麗済同盟を結んで新羅に圧力を加えていった。 この時は新羅の善徳女王が中国・唐に救援を求めるも拒否され不安定な国内外の政情の中で善徳女王が亡くなる。 この折に金廋信は金春秋と共に真徳女王を擁立して親唐路線(羅唐同盟)を推進、654年に真徳女王が亡くなると金春秋を第29代新羅王・武烈
王として即位させ、660年に唐と共同して百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼして三国の統一を成し遂げた。上の門を入って墓参道を少し歩いて行くと写真のような金庾信将軍墓が見えてくる。
墓前の左手の墓碑には『新羅太大角干金庾信墓』と彫られているが、先にも書いた通り新羅の冠位で最上位は角干であり、『大』の称号が与えられたのは百済を滅ぼした功績(660年)によるもので、第30代文武王(武烈王の子)の時には高句麗を滅ぼした功績(668年)によって『太』の称号が加えられた。朝鮮半島の統一を果たす大きい役割を果たしたということでは『大』『太』の称号を授かるのも当然と言えよう。
ところで、このお墓の右手、写真の墓碑と対を為す場所にも墓碑がある。
その墓碑には『開國公純忠壮烈興武王墓』とあるのだが、墓の字の辺りが汚れていたのでよく見ると、陵という字が彫られていたように見えた。これは、ううん? ええっ?墓と陵はちょっと意味が違うのである。
金庾信が彼の功績によって特別枠によって『大』『太』の敬称を授かったことは紹介したが、更に後の時代、新羅第42代王・興徳王(在位・826年~836年)によって『興武王』とされているのである。 追贈ではあるが『王』となれば陵との表示でも良いかと思ってみたりしたが、これはよく分からないままになっている。
金庾信が新羅の国や王室に果たした功績は大きいが、彼の妹は武烈王の夫人となり、彼自身も武烈王の三女
を夫人に迎えている。 そして武烈王と金庾信の妹との間に出来た子が文武王となっていることから考えれば功績以上の待遇が例え彼の死後であっても与えられることについて特段の不思議もないのかもしれない。金庾信将軍墓も形状は円墳であるが、土山が崩れないように周囲をグルッと石で囲んだ立派な墓である。
しかも墓を囲む石板には干支の動物が12体刻み彫られているのだ。これは王の墓よりも立派と言えるかもしれない。
はて、これは何だったろうか。
上からサル(申)、ヒツジ(未)、タツ(辰)だったように思うのだが・・・

これの続きはまた。