September 14, 2017

喫茶店について《つづき》-最終

さて、思い出をもとに私なりの喫茶店をまとめ映じてみよう。
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学生時代のこと、京都・河原町三条のビル地下に『六旺社(ろくようしゃ)』という喫茶店があった。地下の店ながら明るい感じのイメージが残っている。
s-2017-09-14_164819河原町四条木屋町・高瀬川ほとりに『みゅーず』という山小屋風の喫茶店があった。この店と河原町の間に『築地』という喫茶店もあった。どちらもいわゆる音楽喫茶で、クラシックを聴きたい時に行った店だ。『みゅーず』は今は無いが『築地』は6年ばかり前にも行っている。
店内は学生時代と変わらずクラシック・レコードの音が流れ、生クリームたっぷりのウィンナコーヒーも変わらないままだった。
先日、某新聞でバイオリニスト葉加瀬太郎も学生の頃に『築地』を訪れていたことを知ったが、彼は東京藝大だから堀川高校に通っていた頃のことだろうか。
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私が子どもの頃、喫茶店に行くような者(もん)は不良と思われていたが、私自身、高校生の頃に喫茶店へ行っていたのだから、喫茶店に対する世間の評価も時代の変化と共に変わってきていることの証しとも言えるかも。
河原町四条、祇園下には花崗岩剥き出しの外壁というイメージの『石』という喫茶店にも行ってた。
今は無くなっているが京都市立弥栄中学校の隣あたりにあり、一昨年だったか祇園・中村楼でジジ&ババの集いを開催したが、宴お開きの後に皆で行って喫茶を楽しんだらしいから今も店はあるのだろう。
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思い出す喫茶店は大阪にもある。
心斎橋の道頓堀よりに『喫茶BC』があった。階段を上がって2階に店があったが、曜日ごとにコーヒー豆を替えて提供していたことを思い出す。心斎橋の北はずれには『喫茶MJB』もあった。
入ったことがないが『アジア・コーヒ』という看板を掲げる店が大阪市内に何軒かあったが、店の外観雰囲気は私の喫茶店のイメージとはズレて何だか大衆食堂『めし』といった記憶が残っている。
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やはり喫茶店というイメージで私の記憶を代表するのは千日前の『丸福珈琲店』だろう。
学生時代から病気で出歩けなくなるまで、ミナミへ出れば寄っていたし、堺筋淡路町に開店した店もタイ・レストランを訪れる度に寄っていた。
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つまり、私が喫茶店だと思う店の条件を箇条書きに表せば、
1. コーヒーの香り味わいを楽しませてくれる店
2. クラシック音楽を聴きながらコーヒーを飲める店。
3. 静かな環境でコーヒーを飲み、一人でゆったりした時間を過ごすことの出来る店。
4. 時に友人たちとコーヒーを飲みながら時間を気にせず話に興じることが出来る店。
5. コーヒーなど飲み物の提供を主とする店。
まとめると上のような店が私のイメージする喫茶店と言えようか。
勿論私的なオモイであって喫茶店を定義付けようとするものではない。
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まあイメージ・カラーとしては焙煎したコーヒー豆色となり、先に挙げた『築地』などピッタリだ。
学生時代にアルバイトで入っていたとR子が語った近鉄・八戸ノ里駅前の喫茶店も私のイメージに適合する店である。今もあるかどうか分からないが、私がコーヒーを飲んでいると総白髪の司馬遼太郎、本名は福田氏だが、杖をつきながら奥さんとよく来られたものだった。
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喫茶店について《つづき》-3

『喫茶店はコウイフモノ』と明確に言い切れないと感じたので様々な記憶を探りながら私なりの思いをまとめてきた。
しかし、ヒトの記憶や思考というのはスズメバチの巣のように重層的に広がり、しかも巣の球体内に限定することなく際限無く膨らむもので、とても全て書ききれるものではない。
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どんなことでも疑問に感じたことがあれば、その原点(典)、つまり元始まりの部分を探し求めるのが常道であり、人が心の持ちようや生きる道に迷った時、キリスト教なら原典である聖書に答えを求めるのと同じことだと私は思っているのだ
だから喫茶店について考え始めた際、『喫茶店』は『喫』『茶』『店』それぞれ漢字の持つ意味を思い、次いで複合語としての『喫茶』『喫茶+店』『茶店』と考えを進めたのだった。
800年ばかり遡って栄西の『喫茶養生記』に思いを至らせたのも上のような理由からだった。
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『茶店』については学生時代に「さてん・へ行こか」と喫茶店を省略して話していたことを思い出したり、元々は「ちゃみせ」と呼んでいたであろうことも思った。s-2017-09-14_072339
神仏信仰が宗教として成り立ち、民衆の間で定着、更に広がっていく中で神社仏閣を芯に門前町の発達と同時的に宿場町や街道の整備発展があったものと推量出来る。
神社仏閣では参詣者のために湯茶接待処を設け、門前町や街道では茶や団子を商う茶店が生まれたのだ。
しかし茶店として商う茶は日本茶、多分番茶を焙じた茶か白湯であったのではと想像したので、現代に生きる私がイメージする喫茶店とは違うと感じたのだった。
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私がイメージする喫茶店は、やはりコーヒーを飲む店ということになる。
コーヒーを飲む店となると、やはり原点はヨーロッパに求めることになると思う。
s-2017-09-13_132742事実ユーロ諸国のコーヒー消費量は断然多く、以前スウェーデンを訪れた際にバス運転手がそのことを自慢げに話していたことを思い出した。
オープン・カフェが多かったが建物の中にもテーブルがあり、大概カウンター席も設けられていた。
そんな中で喫茶店の原点と言える店がイタリアにあった。
s-2017-09-13_133058創業1720年、カッフェ・フローリアン(Caffè Florian)でヴェネチアのサン・マルコ広場の回廊の一画に店舗があり、店内の雰囲気は日本の喫茶店に似ていた。晴れていればオープン・カフェとして広場にもテーブルが出されるらしいが、家内と訪れた折は雨降りで、しかも回廊にまで人が溢れていたので店に入りはしなかった。
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こうして記憶を辿りながら喫茶店について綴ってくると私なりの『喫茶店』のイメージが固まってきたような・・・・・
カフェーでもミルクホールでもない。スペインのバルやイタリアのバールでもない。何だか日本独自の喫茶店という発展の道をたどってきたような感じがするのだ。
今一度、私の記憶をもとに私流の喫茶店のイメージを描いてみよう。
《最終回へ》
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September 12, 2017

喫茶店について《つづき》-2

思い出というのは懐かしく楽しかったことも思い浮かぶが辛く悲しいことも合わせ繫がり甦るもので、人間の記憶能力というのは・・・・・
ともあれ喫茶店を定義付けることは私には出来ないが、思い出を辿りながら私なりに喫茶店をイメージすることは出来てきたようだ。
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天王寺(民衆)駅から南方向に階段を下りると地下鉄天王寺駅改札口フロアに出るが、その南側に『まえだ』という小さな甘党の店があり、クラスメートのN(故人)やMと何度か行ったことがある。s-2017-09-12_150854
甘党の店ゆえ行くたびに女学生でいっぱい。ワイワイ騒がしい状態で彼女達は餡蜜や蜜豆、s-2017-09-12_154051かき氷などを食べていたが私は磯辺焼きだったことも思い出した。私たちは甘党喫茶と呼んでいたがこの店を喫茶店に含めるのはチョット違うなというのが今の私の思いだ。
いろいろと思い出す中で喫茶店についての私のイメージが随分ハッキリしたものになってきた。
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私は大学へ通うのに当初京阪電車を利用していた。母親が亡くなってから祖父の家で叔母たちと共に生活していたため京都へ通うのに便利だったからだ。
乗降駅は京橋駅。現在、京阪の線路は高架になりJR環状線の上を通っているが、当時は平地でJR環状線の下を潜っており、駅も現在とは反対で環状線の東側に位置し、上り下り別々のプラットホームで改札も別々に設けられていた。
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この京橋駅界隈での思い出もいろいろあるが、従兄弟のK兄ちゃん(故人)やYちゃんに教えてもらったことが多い。
時間が合わず特急待ちする時には上りホームの改札口を入って直ぐ右にあった京阪フルーツパーラーでコーヒーをs-2017-09-12_144954飲むとか、5人で満席という小っちゃな喫茶・結花はドライカレーが美味しく、Yちゃんが代替わりだと私をママに紹介してもくれた。
京都へ通うということではK兄ちゃんもYちゃんも大先輩だったのだ。
ドライカレーやスパゲッティ(ナポリタン)を提供していてもコーヒーや紅茶が主だから結花は喫茶店であろう。しかし京阪フルーツパーラーは、結構メニュー内容が豊富だったからパーラーで良いだろう。
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masatukamoto at 15:42|PermalinkComments(0)
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