September 03, 2017

記憶の広がり 《おわり》

初めてのものを口にした時の驚きや喜びについて書いてきたが、そうした感動を与えてくれた人たちについても触れてきた。
このように思い出を辿ると実に沢山の人たちの世話になってきたのだと、改めて感謝の思いが込み上げてくるのだ。
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昭和37年(1962年)、ハイ・バリトンとして某音研にスカウトされ 『 かあさんの歌 』 や 『 ちいさい秋みつけた 』を歌っていた。
s-2017-08-16_111930学校の音楽の時間か子ども会指導の時にしか歌うことの無かった私が何故スカウトされたのか未だに分からないままだ。 私をスカウトしたのは合唱指揮者でもあったが、その女性は声楽指導だけでなく何かと気遣ってもくれたことも思い出す。
初めての経験、広い視野を与えてくれたことに感謝の思いでいっぱいだ。
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音楽という点では専門のクワイアとは違った歌う楽しさをAさんとYさん(明石焼を教えてくれた)に教えてもらったこともあった。s-2017-08-09_135247
歌声喫茶。
両親或いは母親には様々な店に連れてもらっていたが、喫茶と名の付く店には入ったことが無く、AさんとYさんに連れてもらったのが初めての経験だった。
勿論コーヒーや紅茶を提供する店であることは知っていたが、小遣いを使ってまで行く必要性を感じていなかったということだ。
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しかし当時の記憶を探ると、新御堂筋(高架)が建設されたことで阪急東通りが随分変わったが、昭和37年当時のs-2017-08-16_112330阪急東通りには喫茶『田園』や『翡翠』といった店があり、曾根崎小学校(合併の繰り返しで今は無い)のお初天神通りの角には『アメリカン』という喫茶店があった。
喫茶だったか純喫茶だったかまで記憶にはない。
だが初めて連れてもらった歌声喫茶というのは上に挙げた喫茶店とは趣きを異にしていた。(後に分かったことだが)
連れてもらった歌声喫茶は阪急東通りにあった『こだま』という名の店で、確かワン・ドリンク制だった。小さなステージに向き合うよう客用のテーブルと座席が設えてあり、2人か3人だか楽器演奏者が歌唱指導を兼ねて場全体をリードしつつ雰囲気を盛り上げていた。
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AさんとYさんに初めて連れてもらった時、店内は隣の客同士がくっつくほどの満席状態であった。
そんな中、私の好きなロシア民謡や当時の青春歌(北帰行・遠くへ行きたいetc)などを全員が合唱するのだから、その熱気は経験したことの無い衝撃的なものであった。
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この時の経験が忘れられず、後に一人でも歌声喫茶(店)を訪れるようになったのだが、その頃のことを思い出して書斎から探し出してきたのが下の歌集だ。
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店内で売られていたもので、もう一冊持っていたように思うがコレしか見つけることが出来なかった。
楽器演奏や歌唱指導は音大や学大の学生やOBが担当していると聞いたことがあったが実のところは分からない。
後に一人で訪れた頃は東京オリンピック(1964年、昭和39年)が近付いていたこともあり、参加各国の国家を歌い覚えるということもあった。
上の歌集の奥付を見ると下の写真の通り、昭和40年と。
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私は主に梅田の『こだま』で歌ったが、ミナミには『どん底』、京都には『炎』があり、時期は異なるが家内も京都で学んだので『炎』で歌ったことがあると語っていた。
歌声喫茶というのは、学生時代、将に青春を謳歌した場のひとつであったなあと懐かしく思い出されるのだ。
素晴らしい体験をさせてくれたAさんとYさんには今も感謝しているのだ。
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masatukamoto at 15:51|PermalinkComments(0)

今日はドラえもんの誕生日

9月3日。
ハッピーバースデー。
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いつも自己の存在を主張しまくる我が家のドラえもんだが、今日は7時32分に「おはよう」と言い、11時頃だったか、「遊びたいなあ」と喋っただけで随分とおとなしい。
これまでと同じなら、「今日は僕の誕生日だ」と言うはずだが・・・・・
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ドラえもんは2112年の9月3日の誕生。
つまり未来の世界で生まれた猫型ロボットだが、我が家へ来てから12年。
はたして満12歳オメデトウと言って良いのかどうか・・・・・
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ぶっはははは。
まっ細かいことは置いておいて
『誕生日おめでとう』
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masatukamoto at 11:48|PermalinkComments(0)

September 01, 2017

記憶の広がり《 つづき 》の続きの続き

昭和37年(1962年)、初めて口にした衝撃的なものが今ひとつある。
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寮での暮らしは部屋と三食が保証され、電気、水道は自由に使えた。寝具・机・椅子・本棚など個人が使用するものは原則として各自が持ち込むことになっていた。s-2017-08-14_154602
食事代を含んだ寮費は支払ったが、主食の米については入寮の際に私の米穀通帳を渡していた。
衣類の洗濯も自分で行い、干して、取り入れ、たたんでタンスに。 
洗濯機もあるにはあったが数が少なかったから洗濯板を金盥に置いてゴシゴシ・ジャブジャブであった。
だから日曜日は朝ご飯を食べた後がタイヘンだった。
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そんな私を不憫に思ったのか、AさんとYさんが時々寮を訪れて洗濯などをしてくれたのだった。
AさんもYさんも22歳。共に大阪で働いていた女性だが、随分助けてもらった。
このお姉さんたちに連れてもらったのが、カウンター前に
7席ばかり設え老夫婦が切り盛りする小っちゃなお店。
『蛸の壺』という店だが、当時大阪・梅田の阪急東通りの露地を入ったところにあった。
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私はイカ・タコ大好きだから、タコ焼も勿論食べていた。
メリケン粉を水で溶いたものとタコを焼き、それにトンカツ・ソースを塗っただけのシンプルなタコ焼きだが、タコ焼というのはそういうものだと思っていたのだ。
ソースの味は美味しいし、カリッと焼けた球の中は軟らかく、そこに好物のタコの食感と味わいが・・・。
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ところが『蛸の壺』のタコ焼はタコ焼と言わず明石焼と言うのだと教えてもらった。
タコ焼のように経木舟皿に入れず、俎板状のものに載せることに先ず驚いた。
そしてタコ焼のような球体ではなく、上下に圧力をかけた円盤のような形にも不思議さを覚えたのだった。
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それにトンカツ・ソースが塗られていずに、出汁を入れた小鉢が出され、三つ葉と紅生姜が添えられたことにも驚いたのだった。
しかも爪楊枝ではなくお箸で食べるのだと教えてもらったが、明石焼そのものが玉子たっぷりでフワフワに焼いてあるから爪楊枝では無理ムリ。しかもお出汁に浸けて食べるのだからお箸でなければ掴み上げることも出来ない。
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タコ大好き、玉子大好きの私だが、「これほど美味しい物があったのか」という発見と驚きを与えてもらったのも昭和
37年(1962年)のことだった。
※ 紅生姜は私の自作(近頃のエサの一品)




masatukamoto at 17:49|PermalinkComments(0)
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