July 20, 2007

函館朝市ほか

オンボロ家に住んでると何やかやと・・・、このところ連日業者が入っての修理工事。
業者の相手はせにゃならず、我が仕事の進捗具合は・・・無残。

それでも、早朝から夜中まで合間を縫って何とかかき上げ、ははははは、掻き上げるほどの髪の毛も無く、書きもの書き上げ、何とかプリンターを鞭打つところまで漕ぎ着けた。

函館の町は40年ぶりだろうか。
駅前はコロッとかわってしまい、汚なかった駅前の市場(失礼)=函館朝市の変貌ぶりにも驚いてしまった。
そらあ、40年も経てば変わって当然。

駅前のホテルにチェックインして、小休止の後、ホテルの直ぐ隣になる朝市(市場)から函館の町をブラつくことにした。

市場の場所は以前のまま(多分)だが、店舗の数が増えたようだし、市場が広がったような気がした。

しかし、何と言っても町をブラつき始めたのが3時過ぎ。朝市の名前の通り朝は早くて午前6時には店が開いているのだから閉まるのも早い。
写真のように開いている店はない。
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下は市場の前の小路なのだが、外観の雰囲気が昔の市場のイメージに近いような感じが・・・人間の記憶はいい加減なものだから・・・
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函館の港には青函連絡船として活躍した“摩周丸"が係留されているのだが、魚市場の岸壁にはイカ釣り船が停泊していた。

昔に比べれば船体が大きくなった。

イカ漁の解禁が6月1日なので、それまで、ひと休みなのだろうか。

遠くに見えるのが函館山である。
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下の写真は赤レンガの倉庫群で、金森倉庫。

今は、倉庫を開放してレストランや土産物店などとなっているが、外観はレトロな港町の雰囲気を良く表している。

町の中も比較的古い建造物の保存に努め、町全体をしっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出すようにしている。

最近、レトロという言葉を観光客誘致宣伝のために使っている北九州市の門司地区とは残念ながら規模が違っている。
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しかし、函館の場合も歴史的建造物は一部地域を除いて点在しているのが残念。

日本の場合は『面』での保存が難しい、と言うよりも、たまたま残ってきたもの、それを保存しようという考え方が、これも“たまたま"時代の流れの中で一致したに過ぎないと考えざるを得ないように感じることが多くある。

勿論、戦争で焼けてしまったということもあるだろう。或いは、老朽化による危険性から解体せざるを得なかった場合もあるだろう。

だが、日本の場合は、そうした理由でなく、土地の効率的利用や近代化などと、目先の利益や利便性のために歴史的建造物を解体してきたことの方が多いのではないだろうか。

明治期、鎖国から開国政策への転換によって、日本人の世界観や文化観に大きい変革が起きたことは確かで、“文明開化”“鹿鳴館”という言葉に代表されるような『西洋かぶれ』現象に傾き、西洋文化をどんどん取り入れることに力を注いできた。

しかし、外国人に日本文化の素晴らしさを教えられることによって『民芸運動』が起こり、日本文化を見直すという動きが始まった。

だが、大正期から昭和に至っても、“モボ"“モガ"など、西洋文化を取り入れる気風は継承され、戦後復興時期も、その後も欧米崇拝的な思潮は日本人の文化観の中に生き続けてきた。

ヨーロッパの都市などでは歴史的建造物群を面として、広い範囲で公的に保存を義務付け、個々の文化財はもとより、町の景観全体を保存対象としている。

日本の場合、現に住まいしている人たちの利便性や、個人としての現代的生活への願いをどうするか、狭い日本の国土の中で文化財の保存、保護にあたっての問題は多い。

古都・京都における京都タワー建設時もそうであったし、祇園でのマンション建設、京都駅の改修・新築工事など、土地利用と景観保存・保護についての論争が過去何度も繰り返し行われてきたが、結局、京都も近代的ビル群が建ち並び、点の保存・保護は行っても、面として広がりのある保存、保護という考え方は見捨てられてきた。
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上の写真のように、函館の町も同様である。

近代的ビルや高層マンションに囲まれて、旧き時代を感じさせる建造物がポツンと残っている。

この対比が良いと言う者もいる。

だが、大事なことは、一度壊してしまうと元へは戻せないということをしっかり基本に置いた上で、長い将来を見据えた計画を策定することが大切であり、目先のことだけを考え、点や一部分だけのことを考える開発は日本の文化を守る上でも再考する必要があるのではないだろうか。

“美しい国づくり”などと抽象的な言葉を並べ、一方では自然や景観を破壊する乱開発を許してきた政治屋に、真に日本文化を守る考えがあるのかどうか。

利権がらみで点の保存すら反故にされた例も多い。某県の某小学校校舎もそうした類いである。

“美しい国づくり”などと、安っぽいナショナリズムからの発想ではなく、人類のかけがえの無い資産(遺産)をどう保存、保護、活用すべきか、後世への継承の大切さを政治屋どもには頭を冷やして考えてほしいものだ。


at 13:23|Permalink

July 02, 2007

いよいよ函館 1

天候は回復しつつあったのだが、津軽海峡を吹く風は強く、海は荒れて白い三角波が無数に立ち上がり、甲板デッキには長い時間立っていることが出来なかった。

やがて渡島半島と雪を被った山々が見え始め、函館が近付いてきていることを感じさせた。
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渡島半島と本州・竜飛岬の間の津軽海峡の海底を青函トンネルが通っているのである。

距離的には函館の汐首岬と大間崎の方が近いようなのだが、地質的に安定しないという理由で現在の青函トンネルの位置になったらしい。 

函館港の自然の防波堤とも言える“函館山”が見え始めた。
写真手前の島のようなもので、牛が臥せっているような形をしているので“臥牛山”とも呼ばれている。
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100万ドルの夜景とか、世界3大夜景の1つとか称される函館の夜景は、この函館山の頂上から、写真の奥方向を見た時の夜景を言うのである。

いよいよ北海道上陸である。
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4時間の船旅を終えて函館フェリー埠頭に。

私も船に強い方ではないが、心配していた家内も平気。 先ずは良かった良かった。

前日までの雨天走行でドロンドロンの愛車を走らせ、今日より2日間の予約を入れているハーバービューホテルへ。
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上がハーバービューホテル (JR函館駅側から撮影)

建物の裏に地下駐車場への入口があり、ホテルの建物の直ぐ右側が“函館朝市”の場所である。

下はJR函館駅(ハーバービューホテル側より撮影)
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函館朝市”は駅の建物の左手になり、駅とホテルは斜めの関係で向かい合っているのである。

JR函館駅も綺麗なビルになってしまったし、駅前の様子もコロッと変わってしまい昔の面影が無くなってしまった。

どことなく魚クサイ駅だったのだが・・・それに市場も変わってしまった。

市場など函館の町については次回に紹介したい。





at 10:05|Permalink

北海道へ向かう 3

第7便3号『はやぶさ』は午前11時35分定刻に離岸。

沢山のトラックや乗用車を航送することになった『はやぶさ』であるが、船上部の客室(カーペット敷きの広間)は混雑しているという状況ではなかった。

トラックの運転手たちには乗務員用の部屋があるし、また、テレビを視聴しタバコが吸えるラウンジもあって、多くの運転手たちはラウンジで昼食の弁当を広げたりしていたので、私達は自動販売機を設置してある小さな部屋にいることにした。

この小さな部屋にはテーブルと4つの椅子が置いてあり、ガラス窓越しに外の景色が見える上、灰皿が設置されていたからなのである。

天候は徐々に回復傾向にあり、青森港のフェリー埠頭を出航した『はやぶさ』は、波静かな陸奥湾を穏やかに航行していった。

ぼちぼち竜飛岬を左に見るという辺りを航行していた時、甲板デッキで津軽半島を眺めていた私は一定のリズムで白い波が立つ様子を目に留めた。
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うん? イルカではないだろうか・・・
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6頭のイルカがフェリーに沿って伴走しているのである。
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伴走と言うのが正しいのか伴泳と言うべきか・・・
しばらくの間、フェリーと共に見事なドルフィン・キックで泳いでくれたが、船足の方が速く、やがて後方に見えなくなってしまった。

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イルカは船のエンジン音に興味を持って共に泳いでくれるようだが、イルカの伴走はタイのアンダマン海で小型エンジンを積んだロングテール・ボートの供にジャンプしながら泳いでくれた時以来でとても嬉しい気分であった。

アンダマン海ではイルカの方が遥かに速かったが・・・

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やがて、フェリー進行方向の右手に下北半島が見えてきた。

上の写真が下北半島であり、向って左端が“大間崎"、右端の方が佐井の“仏ヶ浦"あたりである。

“大間崎"は大間漁港のある町で、最近では津軽海峡でのマグロの一本釣りで有名なところである。

“仏ヶ浦"というのは、大間と、ニホンザルの北限の地として名高い脇野沢村との中間に位置し、風雨や荒波によって浸食を受けた白い凝灰岩が海岸に沿って林立する景勝地で、昭和40年頃は佐井から船で行かねば訪れることが出来なかった所である。

現在は自動車道路が通っている。 余談ではあるが、下北半島近辺の海で遭難した者は海流の関係で皆、この“仏ヶ浦"に上がるのだと聞かされたことがあった・・・40何年か昔の話である。


at 07:07|Permalink
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