February 01, 2007

昨年末の旅行 ?

ここ4年間、毎年クリスマスから大晦日にかけて広島から博多へと西国への旅を繰り返している。

年末は恒例となってしまったが、春夏秋冬、それぞれの季節に1乃至2回は同じコースをたどっている。

満室で断られない限り、毎回同じホテルを利用する。

いわば常宿である。

一度、国際学会の開催時期と重なり、仕方なく他のホテルを利用したことがあるが、常宿というのは何かと便利で、満室となっていても、直前予約であっても相当な無理を聞き入れてくれるものである。

私が常宿と定めているのは、広島では『リーガロイヤル広島』、博多では、『ハイヤット・レジデンシャル・スゥイート』である。

幾つものホテルを比べ、立地、部屋の広さ、設備、スタッフの対応など、総合的に評価した結果であり、これまでのところ満足している。

博多へ直行するなら飛行機でも良いのだが、私は沿線の景色も楽しみたいためにJR新幹線を利用することにしている。

気が向いたところでの途中下車が可能であるとの理由からだ。

それと、新幹線では『ひかりレールスター』のオフィスカーの喫煙車、それも座席を1-Aと定め、求めている。

時間的には『のぞみ』が速いのだが、『レールスター』は新大阪・博多間なので、眠りこけていても終着駅の新大阪で乗り過ごす心配がない。

また、『のぞみ』の座席配列が3席・2席の縦列に対して、『レールスター』は2席・2席の縦列配置のために隣席との幅が広く、座席が若干広めに感じられるのである。

これは体型的に横幅の広い私にとって、とても有り難く、嬉しいことなのである。

欧米の鉄道は座席が広くゆったりしているが、日本の鉄道は国鉄以来狭っ苦しい。

日本の鉄道が狭軌道であり、これまでの日本人の体躯が欧米人に比べて一般的に小柄であったことも理由なのかもしれないし、運送効率を高くするということも理由の一つになっているのかもしれない。

それに『レールスター』の座席を1-Aとするのは、下りの場合に海が見える窓側であることと、1番のABCD席にはパソコン電源があるということを理由として挙げることができる。

贅沢と言われればそれまでだが、自分なりの快適さを求めれば、ホテルにしろ鉄道にしろ、このようなものとなり、それらが旅の楽しさを増大させる一因ともなっているのである。


at 07:00|Permalink

January 16, 2007

昨日に続いて

教育基本法改正案は昨年4月末に政府が国会に提出し、民主党も独自の教育基本法案を提出していたが、昨年末に国会で可決・成立されました。

安倍内閣は昨年の臨時国会で改正教育基本法の成立を最優先課題としてきましたが、今年は憲法改正を掲げています。

自民党・安倍政権が何を目論んでいるか、誰の目にも明らかになってきたと言えるのではないでしょうか。

慎重な態度を取ってきた公明党も、政府与党に組してモノ言えぬ政党に成り下がったのか、はたまた『大臣なりたい病』に侵されたのか、自民党に寄り添ってばかりいます。

構造改革だ、自民党をぶっ壊すと叫び、郵政民営化を踏み絵にして多数議席を占めた小泉自民党を支持した人たちの全てが教育基本法の改正や防衛庁の省への昇格、そして日本国憲法の改正にまで賛成して投票したのでしょうか。

非常に大きい疑問を私は感じておりますが、法律を作り、改正する権限が立法府である国会の、国民に選挙で選ばれた国会議員らにある以上、制定された法律を認めないわけには参りません。

それだけに国会では充分なる審議を行ってもらいたいと、私も『日本教育学会歴代会長「教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望」に対する教育学研究者賛同署名への署名をもって意思表示をして参りました。

なぜ今、改正の必要があるのか、しかも全面改正の必要があるのか、新法を制定する、或いは全面改正なら、その廃止の理由も含めて充分に審議し、説明をしなければなりませんでした。

しかし、前・教育基本法の限界や問題点、或いは運用によって改善可能な事柄、また改正することによる利点や弊害の予測などに関して、とても充分と言える審議は行われてはきませんでした。

教育基本法を急ぎ改正しなければ出来ない教育改革とは一体何なのか。

前・教育基本法は、教育は政治から独立し、法はそのための限界を定めるもので、教育への不当な支配をチェックすることが精神となっており、これは日本国憲法の精神でもあるが、改正教育基本法では、教育は法に従うべきことを強調しています。

この法を作るのが立法府である国会、つまり国会議員、その法律の範囲で実際に政治を行うのが行政府としての政府ですから、政府・各行政官庁の指示・管理が強まることは充分に予想できます。

これまででさえ教育現場や教員の自主的教育活動が制約を受け、制限されてきた状況から管理主義的教育に拍車がかかることは明らかです。

国家による道徳教育が強制され、愛国心というものも押し付けられることになるでしょうし、教員免許状の更新や教員に対する評価が行われることにより、一層モノ言えぬ状況が生じ、教員も子どもたちも国が示す特定の方向だけを見るように規制されて行くでしょう。

これは非常に危険なことです。

また、防衛庁が防衛省に昇格したことは、単に役所の格が上がっただけではありません。

これまでの自衛隊はdefense for securityで海外へ出て行くことは憲法上出来なかった為、周辺事態法やイラク特措法など、こじ付けの法律を作って、アメリカのポチよろしく尻尾を振っていたのです。

しかし、防衛省というのは国軍の統合本部、言い換えれば参謀本部であり、海外での活動も通常活動となってしまったのです。

これまでも海外現地での軍事・戦地の境界を曖昧にし、国民に対して自衛隊の行動を秘密にしてきたことが、軍事機密として更に国民の目から遠ざけられることとなることが充分に予想されます。

いつか来た道と忘れ去る程遠い昔のことではありません。

わずか70年ばかり前に、モノ言えぬ、いや、モノを言わせぬ状況を作り出し、無謀な戦争に国民全てを引きずり込んだ道を再び歩んでいるように思えます。

国家統制の教育を進める教育基本法の改正。

海外での軍事行動を通常任務とする防衛省への格上げ。

このように外堀を埋めて、いよいよ平和憲法に手をかけようと、なし崩し的に推し進める自民党安倍政権に、待ての指示を下せるのは私たち国民以外に無いのです。

太平洋戦争で多くの犠牲者を出し、過ちを再び起こさないと誓って制定した日本国憲法を、戦力を持たず、国と国の交戦権を認めないと定めた世界に冠たる私達の日本国憲法を改正する必要を私は認めません。

私だけでなく、息子たち、娘たち、そして孫たちにも平和で安心して暮らせる国際社会を創りだし、継承していってほしいから。


at 10:29|Permalink

January 15, 2007

小正月を迎えて

前回、年の初めを寿ぎ、皆さん方とともに新年を迎えることができた喜びを言葉にしてみました。

事実、今年も又、若い方達が沢山我が家へお越し下さり、新年の宴を催しました。

私は、彼らのことを息子・娘と思い接していますので、彼らの子どもは私の孫ということになります。

今年は、昨年誕生した孫が3人新たに加わり、ジイジイとしては一層嬉しい正月となりました。

しかしながら、今日1月15日。

1926年の今日、悪名高き『治安維持法』が学生社会科学連合会弾圧のために初めて適用されました。

京都の大学を中心に学生運動、労働者運動に関わりを持つとされた大学教官や学生多数を検束。
司法省・検事局・全国警察が一体となり、国家権力を傘に着て報道の差し止めを行い、民主運動の弾圧にかかったのです。

その時の文部大臣・岡田良平は全国における社会科学研究を禁止するというメチャクチャなことを行いました。

これ以後、国家権力は弾圧を強化し、社会・共産主義者の検挙・拘束を繰り返し、警察での拷問は当たり前で、虐殺行為まで行ってきました。

その結果、モノ言えぬ社会風潮が広まり、やがて大政翼賛会という一国一党の考えをもとに国民全てを戦争の泥沼に引きずり込むという暗い歴史を我が国は辿ってきました。

ところで、昨年末より教育基本法の改正、防衛庁の防衛省への昇格が自民、公明、民主の各政党の賛成により国会で可決・成立しました。

イジメと、それに関連した児童・生徒の自殺、大学進学に関連しての高校における世界史未履修、教員の適性にかかる諸々の問題など、マスコミはこぞって教育界に問題があると、教育基本法改正への援護射撃を行っているかのように私の目には映りました。

同様に、国籍不明船の国境侵犯、北朝鮮の日本人拉致、北朝鮮のミサイル発射、北朝鮮の核実験、韓国や中国との国境線引きなどの問題は日本の主権を侵害されたものとして、国民に対して不安と同時にナショナリズムを喚起させるものでもあります。

それらは、日本の防衛は現状で良いのかといった防衛論議を巻き起こさせ、日本の国の根幹である憲法を改正するという論議までも、何に躊躇することもなく行わせるという背景になっています。

これまでタブーとされてきた憲法改正論議。

それをタブーでは無く、まな板の上に平気で載せるような状況を作り上げてきました。

論議することが悪いのではなく、何ゆえにタブーとされてきたのか、そのことをしっかりと見据えてかからねばならないと思うのですが、アメリカが押し付けた憲法だからだとか、軍隊を持たぬ国は世界に無いからとか、危機感ばかりを強調して9条を変えるなどと、私には小手先で弄んでいるようにしか見えないのです。


日本国憲法は、日本の国と国民の在り方を示し、日本と世界の国々の進むべき方向を指し示す原典であると私は考えています。

非道な侵略を行い、馬鹿げた戦争に国民全体を駆り出し、その結果、国土は焦土と化し、死ぬ必要も無かった多くの国民の犠牲を出してきたことに対して、それらの反省の上に立って、戦力を保持しない、国と国の交戦権を認めないという世界に比類なき、世界に誇れる憲法を制定してきたのです。

平和』。
これは世界中の人々が等しく求めるものです。

平和を希求するために、世界の国々と手をたずさえて進むための日本独自の憲法があって良いではないですか。

それゆえに、現憲法の改正論議はタブーとされてきているのです。

近年、行政府にしろ立法府にしろ、しかも司法も含めた日本国の舵取り役たちが進める日本の国の将来に対して、不安と恐れを抱いているのは私だけでしょうか。

年の初めに、国の未来を担う息子や娘たち、そして孫たちに安心して暮らせる平和な国を譲り渡すことが出来るのだろうかといった思いを抱いた正月の宴でもありました。


at 08:22|Permalink
記事検索
月別アーカイブ