March 04, 2007

飯塚

長崎街道の名残りをと思って博多から篠栗線で飯塚まで行ったが、旧街道を想像させるような所は無いということが駅員やタクシー運転手との会話で知る事ができた。

駅前に博物館があるのだが、月曜日であったために休館で見学することも出来ず、準備不足であったことを反省せずにはおれなかった。

しかし、飯塚、隣の田川、直方は、かつての筑豊炭田の中心地。

近代以降、三井、三菱、住友、古河などの財閥が石炭を掘りまくり、八幡、若松、戸畑などの鉄鋼産業と結び付き、北九州工業地帯を支えていたのである。

青春の門』。

1970年であったろうか、五木寛之が『筑豊篇』を発表した。

主人公・伊吹信介が生まれ育ったのが田川であり、後に母親と共に塙竜五郎の世話で移り住んだのが飯塚である。

戦前から昭和20年代にかけての時代設定で、信介が18歳、独り立ちするまでの成長過程が書かれた作品であり、炭鉱に関わっての記述もある。

五木は1932年生まれだから75歳。

旧制福岡県立八女中学から早稲田大学の露文を出て、48歳の時に仏教学の聴講のため龍谷大学に通った。

彼の社会を見る観点には共鳴することも多く、好きな作家の一人である。

青春の門』の伊吹信介の生き様にも共感すべき部分が多く、『筑豊篇』以降、『自立篇』、『放浪篇』、『堕落篇』、『望郷篇』、『再起篇』と読み進めてきた。

現在、第6部まで発表されているわけだが、まだ続くことであろう。

五木のことはさておき、石炭産業が衰えが閉山して随分になる。

飯塚を始めとする筑豊の町々は寂れ、石炭産業が華やかであった頃の姿がどのようになっているのか、この事も興味があったのでタクシー運転手に案内を頼み巡ってみた。

下は『青春の門』で“黒富士”と呼ばれた『ボタ山』である。
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小説では田川・針谷鉱の骨富士が描かれていたが、上は飯塚の『ボタ山』であり、閉山後40年も経つと、黒い山も緑の山に変容している。

ボタ山』の“ボタ”というのは、地中の石炭鉱脈を掘り崩し砕石したものを選別(選炭)し、有用な石炭以外のカスのことを言うのである。

筑豊炭田や大牟田の三池炭鉱などでも、掘削・採炭作業は地下坑道内の重労働のために男性がその仕事を担い、地上での選炭作業は女性が行っていた。

女性達が選炭作業を行って選り分けられたカスである“ボタ”は一定箇所に捨てられ積み上げられていった。

それが『ボタ山』である。

人工的に積まれて出来た山なので、崩落の危険とは常に背中合わせの状態であり、採炭が行われていた頃には土砂崩れの事故もあった。

また、カスと言っても完全なカスばかりでは無く、石炭質の部分も含まれていたため、自然発火で山が燃えるという危険な状況を抱えてもいたのが『ボタ山』である。

それが大きい山になっているのだから、一体どれ位の石炭を掘り出したものやら・・・

月が出た出た 月が出た ヨイヨイ 
 三池炭鉱の上に出た
 あんまり煙突が長いので 
 さあどうや お月さん 
 
煙たかろ サノ ヨイヨイ 

随分昔、赤坂小梅が唄って有名になった『炭坑節』であるが、選炭婦たちが、仕事をしながら唄っていたと言うことだ。

余 談
歌詞に『三池炭鉱』と出てくるので、私はてっきり大牟田の三井三池炭鉱の歌だと思い込んでいたのだが、実際は筑豊炭田の歌であったそうだ。









at 12:35|Permalink

February 28, 2007

長崎街道

私の旅は一定箇所に滞在して、そこを基点に足を延ばせる範囲を楽しむという形態のものが多い。

最初っからコースが決まっているような、時間通りに決められた行動をするのはスカン。

生来の我が侭がそのようにさせるのかもしれないが、旅程表通りに動く旅行は、一人旅に関しては20歳で終わりにした。

時間が許せば、気にいった所で何泊も滞在する・・・もっとも、予約しているホテルが空泊まりになるので馬鹿らしい面も無いではないが、それ以上に素晴らしい感動を味わうことが出来るのも事実である。

私は何度も博多に滞在しているが、一度、九州の旧街道を訪ねてみたいと、かねがね思っていた。

交通機関が著しい発展を遂げた近代に入って我が国の道路整備も随分と進んだが、それ以前、つまり江戸時代には江戸・日本橋を起点とした道路、いわゆる五街道と呼ばれる東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道が道中奉行の差配下にあって、比較的良く整備されていた。

日光や箱根などの他、杉並木や1里塚などは現在でも当時の様子を想像出来るようなものが残されている。

これら五街道から延びる道は勘定奉行差配のもとで整備され、人馬・物資の通行・運搬に供せられ、江戸を守るという観点のもとで五街道同様に重要視され、厳重な管理の下に置かれていた。

それらの道を脇往還(わきおうかん)とか脇街道と呼び、仙台道やその先の北海道・函館に延びる松前道、京都・大阪間の大坂街道(京街道)、九州の長崎街道なども重要な脇街道であった。

私は高校生の頃、京街道を何度か歩いたことがあるが、淀川沿いの道はトラックが頻繁に通る部分もあったが、淀川の堤に沿って歩く道は何とも長閑けしものであり、今も懐かしく思い出す。

大坂城・京橋から寝屋川を通って淀(淀城)へ。

淀からは歴史に名高い『鳥羽街道』と『伏見街道』(竹田街道)に分かれて京都・三条大橋が京街道である。

昨年末に私が歩いてみようと思い立ったのは『長崎街道』である。

江戸から東海道京街道山陽道(ひとまとめに)、そして九州・小倉から長崎までを『長崎街道』と呼んでいるのである。

小倉(筑前)・長崎(肥前)間が57里、およそ220km、この間に25の宿場があったらしい。

内、筑前6宿と言って、黒崎(小倉)、木屋瀬(こやのせ)、飯塚内野山家(やまえ)、原田が筑前(福岡県)の宿場町であった。

今回全てを巡り歩くには距離が長いし、時間も無いので北九州市八幡西区の黒崎宿木屋瀬宿、飯塚市の飯塚宿内野宿に限った。

山家宿原田宿も現在の筑紫野市になる。

どこの街道も概ね同じであるが、殆どの部分は拡張されて国道となっており、旧街道の面影は無い。

強いて探すならば、旧街道でも難所と呼ばれていた峠越えの道などに若干見られる程度である。

長崎街道』でも最大の難所と言われる飯塚市の内野宿と筑紫野市の山家宿の間にある冷水峠には旧道が残っているらしいが、タクシーの運転手に車は3キロものトンネルで潜り抜けることが出来るけど歩くのは大変だから止めておくことを勧められた。

さもありなんと、ここでは簡単に行く先を変更することとした。

若ければ行ってたろうと思いながら、今更のように歳を自覚した次第。




at 15:30|Permalink

博多・長浜屋台

広島に関わってページを沢山割いてしまった。

それだけ思い出や思い入れが多く深いということなのだが、博多へ移動することにする。

博多の常宿はハイヤット・レジデンシャル・スゥイート

博多にハイヤットのホテルは3つあるのだが、しばらく滞在するという向きにはもってこいのホテルである。

場所が百道浜(ももちはま)のため、立地としては他のホテルに比べて条件は悪い。

レジデンス(residence)との名前通り各部屋が住居仕様となっており、電磁調理器、全自動洗濯乾燥機が据え付けられて長期滞在には便利なのである。

この百道浜は人工浜を持つ完全な埋立地で、元のフビライが大船団を擁して壱岐、対馬、博多と攻め込んできた1274年の文永の役、1281年の弘安の役の頃は博多湾の海底であつた場所である。

ハイヤットホテルの直ぐ前は西南学院中学・高校の敷地で、裏側には福岡市博物館、そして福岡タワーも近く、区画整理された百道地区には高層マンションや企業のビルが林立している。

ちなみに元寇の折に掘られ築かれた防塁の跡はホテルの南側4~500m辺りに位置する西南学院大学の構内に一部が保存されている。

ホテルから長浜までは車で10分程度と近い。

博多の台所と呼ばれているのは『柳橋市場』であるが、長浜には魚市場があり、博多の魚はココに揚がってくる。

トンコツで有名になった博多ラーメンの発祥地がココ長浜なのである。

日も明けやらぬ冷え込んだ魚市場でのセリの合間に、素早く食べる事が出来、しかも体が温まるというトンコツラーメンが、ココ長浜の仲買人たちの間で好まれ広まっていったのである。
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この長浜に元祖・長浜ラーメンの店舗もあるが、屋台も数多くある。

それらの屋台の多くは『とん吉』グループの屋台なのだが、それら『とん吉』グループを率いる重鎮『安さん』(ブルーの服を着た男)。

漫才コンビ『やすしきよし』の『横山やすし』こと『やっさん』にソックリなことから、各テレビに引っ張り出され、今や有名人である。
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が、横山やすし氏は言動が乱暴で世間を騒がせたけれど、長浜の『安さん』は穏やかで、おとなしく、ベッピンの年頃の娘を持つええ親父さんである。

以前は遊軍として各屋台を回っていた『安さん』が『長浜安さん』の屋台を構えて1周年を迎えた。

屋台は結構高いのだが、『安さん』の屋台はなかなか良心的なのである。

まずは、安さんに

1周年おめでとう
 これからも益々の発展を祈念する

このページでも祝いの言葉を贈っておく。

友人の第三共進丸の船長、焼肉・玄風館の大将、福岡アビスパのNらとは既に祝いの言葉を述べた。

写真は、コワーイ息子どもと祝った時のもの。


at 13:39|Permalink
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