November 04, 2006

アウシュヴィッツ・平和への祈り ?

囚人たちの生命と財産を奪い、劣悪な環境下で囚人同士を競わせ、将に飴と鞭を使い分けて囚人管理を行い、栄養失調、病気などの理由で働けなくなった者や反抗する者に対しては更なる手段を用いていた。

下の写真はビルケナウ収容所の共同便所である。
手前の方は壊れているが、ただ便器の穴が開けられているだけ。
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当初は妊婦と子どもは全てガス室送りであった。(後に子どもは収容されるようになった。)

地下の監房、その他の懲罰(鞭打ち、後ろ手に縛って体を吊るす)

生体による医学実験(男女の断種実験、有害物塗布など)

生体による薬学実験(新薬投与実験など)

集団絞首台

写真は『死の壁』と呼ばれる銃殺場
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ガス室と焼却炉

ナチ親衛隊員から、シャワーを浴びさせると言われた人々は脱衣場で衣類を脱ぎ、シャワー室に見せかけた600坪ほどの地下の部屋に2000人が詰め込まれ、扉を閉じた後、ナチ親衛隊員が天井の穴からチクロンBを投下。

中の人々は15分程度で全員が窒息死。

その後、死体から金歯が抜かれ、髪の毛が刈り取られ、指輪やピアスも取られた。

そして1階の焼却炉で焼かれたのである。

死体が多い時には外へ運び出し、積み上げて焼いた。

焼かれた灰は肥料として使われたり、近くの川や池に捨てられ、金歯は金の延べ棒として、髪の毛はマットレスや布として使っていた。

全くメチャクチャなことを行っていたのである。

ビルケナウの収容所跡には2棟の焼却炉とガス室が破壊された状態で残っているが、犯罪の証拠隠滅を図るためにナチ親衛隊によって爆破されたものである。

下の写真は、ナチス政権下犠牲者国際記念碑
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記念碑はビルケナウ収容所跡の引き込み線路の終着点、証拠隠滅のために爆破された焼却炉とガス室の側に建っている。

このビルケナウ(アウシュヴィッツ収容所2号)の面積が53万坪。
アウシュヴィッツ収容所(1号)も入れると相当な広さとなる全域を国立オシフィエンチム博物館としてポーランドが保存・公開している。

先に挙げた中谷 剛 氏は、この博物館の職員の一人で日本語担当のガイドを務めておられる。

オシフィエンチム博物館を訪れられる折には是非とも案内を乞うていただきたいものである。

と言うより、通り一遍の物見遊山の旅行ではなく、ほんの60数年前に行われた蛮行の歴史の場を是非訪れていただきたいものである。

広島、長崎を訪れると同じように・・・





at 15:58|Permalink

アウシュヴィッツ・平和への祈り ?

ヨーロッパ各地から収容所に送り込まれて来た人々はナチスから存在しない農場や土地を買わされたり、単に東ヨーロッパに移住させられるものと思い込まされていたので、持ち運び出来る貴重な物をトランクケースに詰め込んで収容所行きの列車に乗せられたのであった。
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ブジェジンカ・アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ特別積み下ろし場。

遠方に引き込み線路を跨ぐ監視塔の棟が見える。(正門)

写真撮影の場所が終点。

線路は行き止まりである。

密閉された貨車に身動き出来ないほどに詰め込まれ、食料も無いまま7日間から10日間の旅をさせられて来た人々は、この積み下ろし場でナチ親衛隊の将校と医師の前に一列で並ばせられて『選別』が行われたのである。

医師の指1本が右に傾くか左に傾くか。

労働出来そうか出来そうにないか。

出来そうなら収容所へ。

出来そうでなければガス室へ。

運ばれてきた人々のうち、70%~75%をガス室へ送ったと、アウシュヴィッツ収容所の元・所長・ルドルフ・へス(ナチ親衛隊)が証言している。

人々が収容所に送り込まれた日、収容所の管理局長は囚人たちに対して、
お前たちに出口は一つしかない。焼却炉の煙突だ。』
と言っていたそうである。

送り込まれた人たちは衣服を取られ、髪の毛を刈られ、貴重品なども全て取り上げられてガス室、或いは収容棟へ。

厳しい気候のアウシュヴィッツ。

詰め込み状態の収容所棟。

朝食はコーヒー?と呼ばれた500ccの液体。
昼食は腐った野菜で作られた水のような1ℓのスープ。
夕食は黒パン(300g)、マーガリン(3g)、薬草の飲み物。
1日の食事量1300~1700カロリー。

厳しい管理と監視下での重労働。

極悪の衛生状態。(伝染病の発生)

収容所へ送り込まれた人々も悲惨な状況下に置かれ、所内でも『選別』が行われていた。





at 14:28|Permalink

アウシュヴィッツ・平和への祈り ?

私達がポーランドのクラコフを訪れた最も大きい理由。

それは、アウシュヴィッツ強制収容所跡への慰霊と見学を目的とするものであった。

午前8時、事前にチャーターしておいたロマンさんのタクシー(シルバーのベンツ)で小雨模様の中、ホテルを出発。

なだらかに広がる丘陵状の農地、幾つかの点在する小さな集落を通り過ぎ、緑濃い樹林帯を抜けて、ほぼ1時間。

広い草原のような所に幾棟かのレンガ造りの建物群が見えた。

既に数台の乗用車が駐車している場所にマロンさんもベンツを並べて駐めた。

ここで事前に説明をお願いしていた中谷 剛 氏と出会い、収容所を案内していただいた。

アウシュヴィッツというのはドイツ名で、ポーランドではオシフィエンチムと言う。

収容所の門にはARBEIT MACHT FREI と掲げられている。
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1939年の戦闘の後、オシフィエンチム市もドイツ第三帝国の領土となり、その際にナチスがアウシュヴィッツと名前を変更したのである。

1940年、ポーランド人政治犯を収容し、ポーランド人虐殺に利用するためナチス・ドイツが造ったのであるが、やがて全ヨーロッパのユダヤ人、ジプシー、それにソ連軍の捕虜も送り込むようになった。

だから強制的に収容、拘禁された囚人の国籍はヨーロッパ中に及び、南はギリシャ、北はノルウェーからの人々もおり、ポーランド人の他、チェコ人、ユーゴスラビア人、オーストリア人、フランス人、そしてドイツ人も含まれていた。

当初、アウシュヴィッツ収容所は14棟の1階建てと6棟の2階建てがあったが、やがて、囚人たちの労働力で全てを2階建てに改築し、8棟の建物を新築した。

それで収容施設が足りず、ブジェジンカ村にアウシュヴィッツ第2号、モノヴィツェ村にアウシュヴィッツ第3号、その他にも小さい収容所を40箇所もナチス・ドイツは囚人を働かせて造っていった。

高圧電流の流れる鉄条網に囲われた収容棟。
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上はアウシュヴィッツ収容所1号
現在、アウシュヴィッツ1号の一部とブジェジンカの(アウシュヴィッツ2号)が見学出来る。

館内での写真撮影は遠慮してほしいと言われているが、悲惨な状況を想像すれば、とても写真を撮ろうという気が起こらなかった。




at 10:11|Permalink
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