February 15, 2007

『鹿島』 6

夏の夜はなかなか暗くならないが、それでも離島の8時、9時ともなれば家々の灯は落ち墨を流したような漆黒と静けさに包まれる。

防波堤に出れば、チャプンチャプンと規則正しく打ち寄せる波の弾ける音と舫いである舟とロープが僅かに擦れてギギー、ギギーと唸る音が聞こえるだけである。

ある日の朝のこと、『おかず調達係』の中学生が、
「今夜、ウナギを釣りに行こうか」
と誘ってくれた。
「ああ」
と返事はしたものの、『鹿島』に川など無い。
だから、私は勝手にアナゴのことかと思っていた。

「どれくらいの大きさのが釣れるの?」
と尋ねると、
「これくらいかなあ」
と、両手を広げて教えてくれるのだが、それを見て私は驚いてしまったが、同時に中学生が私を担ごうとしているのだと思いもした。

それほど大柄ではない中学生ではあったけれど、両手を広げると1mは悠にあり、指を伸ばした両手の先で作る円は直径が10cmはあろうかという太さ。
そんなウナギを見たことも聞いたことも無かった私は、彼がハモか太刀魚のことでも話しているのかと思っていた。

そのことを調査グループの面々に話してみたけれど、誰一人信じる者はいなかった。

しかし、ウソかマコトか、その日の調査が終われば皆で一緒に行こうということになり、夕食を終えて待っていた。
やがて、中学生が5寸釘とワイヤー、テグス、それに小さなバケツに白魚を入れたものを持ってやって来た。
何をするのかと見ていると、金槌で5寸釘を叩いて『U字型』に曲げているのである。
そして、それに1mばかりのワイヤーを結わえ、その先にテグスを結び付けているのである。
その道具を持って私達は真っ暗な海へ向かったのである。

5寸釘を曲げた針など・・・

カレイやキスなどを釣る針を知ってはいるが・・・

一緒に行った皆が知らなかった。

釣れるまでは一切声を出すなということだったので、細長い防波堤の先端に一つだけ点灯している蛍光灯の明かりに向かって、皆が一列に並んだまま葬列の如く黙って中学生の後に従った。
蛍光灯が僅かに照らす明かりの下で、彼は白魚を3匹、大きい5寸釘の針にチョンがけして真っ黒な内海に向かって放り投げた。

そのままジッとしていたが、15分か20分か過ぎた頃、彼は、つまんでいたテグス糸をドンドンゆるめていった。

それから2分くらい経っただろうか、彼は勢いよくテグス糸を引っ張り、その後は休むことなくズンズン糸を引いていき、「懐中電灯」と叫ぶ彼の声で糸の先を照らしていると、何と大きい真っ黒なヘビのような生き物が長い体を8の字にくねらすように上がってきたのだ。

これには流石に皆が驚いてしまった。

後で確かめに尋ねたのだが、これはやっぱり『うなぎ』なんだと。

産卵のためにやって来るのだそうな。

明くる日、『うなぎ丼』として全員の昼食に供したが、ハッキリ言って美味しいとは言えない代物であった。

しかし、これも『鹿島』での良い思いでの一つである。



at 17:29|Permalink

『鹿島』 5

瀬戸内海を航行する大型船の殆どは『来島海峡』を通過してからか、通過する前かに『鹿島』の南方を通るのである。

つまり、『鹿島』の南に位置する四国・伊予との間の海域は瀬戸内を航行する大型船の高速道路の料金ゲートみたいなところなのである。

海峡が狭いために一層潮の流れが速く、高度な操船技術が要求されるのである。

源義経が平氏を西国に追った時も、応仁の時期から戦国時代にかけても潮の流れを知り尽くし、船を操る技術に秀でた水夫たちは重宝された。

安芸水軍、小早川水軍、村上水軍は瀬戸内の水軍として名高い。

和歌山には雑賀水軍、熊野水軍、伊勢には九鬼水軍と歴史上に名を留める水軍がある。

芸予海域で名高き『村上水軍』は、『能島村上』『来島村上』『因島村上』と主流三家に分かれるが、当然『鹿島』一帯の制海権も握っていたのであろう。

倉橋島は昔・長門島と呼ばれ7世紀前半に朝鮮・新羅への使者が船旅の途中の停泊地としているし、天然の入り江を利用した造船のための日本で最古のドックもある。

倉橋島で最も高い山が『火山(406m)』であり、この山もゴロゴロとした風化の進んだ花崗岩の岩肌を見せている。

『火山』と書くが『カザン』ではなく『ひやま』と呼ぶ。

雨で煙っているが、下の写真中央の山が倉橋島の『火山』であり、『鹿島』より撮ったものである。        写真撮影は2006年11月
0b6f186a.jpg

水軍、時に海賊でもあったわけだが、彼らの連絡・伝達の方法に『狼煙(のろし)』が用いられたことがあるようだ。

幾つもの島が織り成す瀬戸内海にあって、島影になって見えない獲物の船も、島の高台に登れば遠くの島々までも見通せることを利用し、『狼煙』を上げることで、電話も無線も無い時代に遠距離通信を可能にしていたわけだ。

下の写真は『鹿島大橋』の上から『鹿島』の瀬戸地区を見たもので、手前の防波堤は昭和41年の頃には無かったもの。
白いコンクリートの建物や上の部分の島を回り込むような道路も無かったし、それに連なるように右に延びる防波堤も無かった。

3c301ed4.jpg

しかし、写真でも分かるように透き通る綺麗な海は今も変わっていないように思えた。

宿舎を提供していただいた『上○』さんの家には、当時中学生の息子さんがいたのだが、彼が私達調査グループの『おかず調達係』であり、野菜や魚などを毎朝運んでくれた。

この辺りの海域は海底が花崗岩のゴツゴツした岩礁が多く、今では高級魚となってしまった『オゴゼ』などを、毎朝運んでくれた。

もっとも、私達には料理の専門家もいなかったので、毎朝それをブツ切りにして味噌汁のダシとして使っていたが、お椀の中で、アノ顔が睨んでくるのを見ると椀にクチをつけて汁を飲むのは流石に躊躇せざるを得なかった。

この中学生であった『おかず調達係』とは幾つかの思い出がある。


at 15:51|Permalink

『鹿島』 4

下の図に『鹿島』があるが、図の右上、赤色のバス停マークが『室尾』であり、昭和41年当時のバスの終点であった。

赤色の太い線が現在のバス路線で、Aの位置の『鹿老渡(かろうと)』が現在の終点であり、続く細く赤色の線は現在、町がマイクロバスを走らせているそうである。

17498c87.jpg
上の図で分かるように、
私達は『室尾』でバスを降り、
そこの浜辺から老人が操船する
小さな通学用のポンポン船に乗せ
てもらい、B地点の『瀬戸』という
集落まで運んでもらったのである。


当時はAの位置からの
道路も『鹿島大橋』も無く、
『鹿島』は本土の呉市からも
四国・松山市からも
遠く離れた離島
だったのである。


『瀬戸』の集落から丘を越えた
ところの小さな入り江の浜に面
して島の小学校がある。
『つるや荘』と書かれた所の上
である。

私達が島を訪れた時、浜には亡くなった人を荼毘に付したと思われる
井桁が組まれていた。


図でも凡その想像がつくかもしれないが、『鹿島』には平地らしいところは少なく、海岸部が僅かに平地なのだが、急な丘面の迫る狭い場所に人々の家が建ち、丘の斜面で果樹や野菜を栽培していたのである。

こうした状況は40年を経た現在も殆ど変わっていなかった。

私達10数人が調査活動に入ることを了承してくれた時、「宿は提供するが食料の米は持参してほしい」と言われたことでも分かるように、『鹿島』では米を栽培していなかったのである。

これは栽培していなかったというよりも、栽培できなかったと言う方が正しい。

土地の広さ、勾配、土質、水利など、水耕田の条件が整った自然環境になかったことが大きい条件であった。

当時の人々の生活は半農半漁、農業と言えるほどのものでは無かったから漁業が中心であったと言えるのだが、陽が昇らぬ暗いうちからの仕事は相当な重労働であり、島民の平均寿命は全体的に都会のそれに比べて著しく低く、女性よりも男性の方が更に若かったことを当時の調査結果の記憶として頭に残っている。

下の写真は、上の図の『鹿島大橋』の鹿島側からA地点の方角、つまり『鹿老渡』の方向の景色である。
7e07600f.jpg
写真のように風光明媚な海岸線を持つ地域なのであるが、見て分かるように海岸から丘の高台までの勾配はきつくて平地は少ない。

『鹿老渡』の茶色っぽい部分は花崗岩の風化した面で、波の浸食を激しく受けて大きく削れ、洞窟状になっている場所が幾つか見られる。

瀬戸内海一帯の基盤は花崗岩であることが、これまでの多くの地質調査で明らかにされているが、花崗岩は地下深くでマグマが長い時間をかけて、ゆっくり冷えてできた岩石であり、岩石を構成する結晶も大きく育っているのが特徴である。

そのように地下深くで冷え固まった花崗岩(帯)が、どうして海の上、陸上にあるのかというのは地学的な問題である。

瀬戸内海一帯の基盤となる岩石は地下深くで出来上がった後、地球のダイナミックな運動で一度は隆起(盛り上がり)し、また想像を絶するような長い時間を経て、今度は沈降(沈み込む)して、そこに海水が流入して瀬戸内海が出来たと学問上は説明されているのである。

瀬戸内海の『瀬戸』という言葉の意味は、海峡が狭く潮流が速く激しい場所のことを言う。

だから、瀬戸内海は、いずれの場所でも潮の流れは速い。

『鹿島』の『瀬戸』という集落も、現在『鹿島大橋』が架かっている『鹿老渡』との間の海峡が狭く潮の流れが速いことから名付けられたであろうことは想像に難くない。

潮流の激しいこの海域にあって、先述した『鹿老渡』の侵食された洞窟というのは将に天然の要塞であり、海賊たちが舟を隠す場所としては最良の所と言えるのである。

芸予諸島と呼ばれる安芸の国(広島県)と四国・伊予の国(愛媛県)の間には大小さまざまな島嶼が入り組んで散らばっている。

この芸予諸島の東部の島々を結んで、現在では『しまなみ街道』が通り、尾道市と今治市の間を自動車で走ることが出来るようになっており、今治市と直ぐ前の大島の間は『来島海峡』と呼ばれる瀬戸内海航行の難所中の難所として有名である。




at 14:01|Permalink
記事検索
月別アーカイブ