February 10, 2007

『はざま』 生駒の割烹

このお店についても、そろそろ紹介しても良い頃かと思う。

私が初めて、このお店を訪れたのは・・・もう4年前になるだろうか。

確か平成14年(2002年)の秋だったように記憶している。

友人の奥さんに店のことを教えてもらって一緒に訪れたのだが、開店して間もない頃であったように思う。

今年は2007年だから、多分、開店5周年目を迎えたのだろうと思う。

旬彩割烹『はざま』
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近鉄・奈良線、生駒駅下車、駅から言えば近鉄デパートの北東方向へ歩いて数分の場所にある。

4階建てのビルの1階に駐車場と、上の写真のような階段状の入口がバス通りに面してある。

             下は、階段を上った所にある玄関である。

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下は、玄関を入った位置からの2階の客席。
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上の写真・左奥から玄関方向を見た写真。
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2階は写真のようなテーブルと椅子を置いた席と、カウンター席があり、カウンターの奥が厨房になっている。

3階は掘り炬燵式の和室仕様になっており、小部屋に仕切られているが、仕切りを外すことも出来る。

道路に面してはいるものの、静けさを確保出来た良い店構えである。

何ゆえに『はざま』を紹介するか・・・

私は、前ページまでに店を選ぶ3つの条件について書いてきた。

この旬彩割烹『はざま』は、それに合致すると判断するからである。

一品料理もあるが、コース料理として3種類ある。

お昼には、コース料理と同じ食材を用いた箱膳風のものを提供し、ご婦人方の人気を集めている。
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上の写真は、ある月の『先付け』であるが、私は家内と2人で月に一度は訪れている。

一つには、月ごとに献立が変わるので、それを楽しみにしているのである。

勿論、料理について不足を抱いたことはこれまで無い。

お運びは、若いお嬢さんと店長氏が行っているが、配膳のタイミングが良いのである。

それに、若いお嬢さんでありながら、気配りに優れているのである。

以前のフロア・マネージャー氏も現在の店長氏も、なかなかお酒の造詣深く、酒類についても安心できる。

酒に関して不足を述べれば、サッポロ・ビールを置いていないこと。

しかし、ヱビス・ビールがあるので、ちょっと贅沢な瓶で満足はしている。

カウンターにいる板前のA氏は人柄良く、刺身を担当しているが向上心強く好ましく思える。

あまり誉め言葉を並べるのも良くないが、割烹『はざま』の味を決めるのは厨房で監督、自ら腕を振るうH氏である。

初めて店を訪れた時から、生駒にもエエ店が出来たもんやと、料理の美味しさについて感心していたのだが、後に聞き知ったのだが、H氏は高麗橋『吉兆』本店で修行していたのだとか。
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それを聞いて納得。

料理の味わい、器の選定、盛り付けの美的感覚・・・配膳のタイミングなど、どれをとっても流石に『吉兆』・湯木氏のもとで学ばれただけのことはあると感心した次第。

高麗橋の座敷に連れてもらったのは随分昔。

『吉兆』も帝国ホテルをはじめ、リーガロイヤル京都、嵐山など、もう20店舗を超えているのではないだろうか。

湯木氏の料理や器などの文化観は、茶の湯に通じた日本文化そのものである。

『おもてなしの心』・・・旬彩割烹『はざま』で感じられることは誠に嬉しいことである。


at 14:37|Permalink

横道へのついでに 料理(店)を論ず 4

つまり『雰囲気』というものは醸し出す方も感じ取る方も、物質を介在する場合もあるが、精神的な感情が交差することによって得られるものであり、現象ではない場合が圧倒的に多い。

客に良い雰囲気を感じ取ってもらおうと、取って付けた様な態度を見せてもダメである。

勿論、それを努力として認めないわけではない、それが至極通常の何気ない平時の姿勢となった時、そこには素晴らしい雰囲気が生まれていると私は確信に近い思いを持っているのである。

例を挙げた方が分かりやすいかもしれない。

『マナガツオの西京焼』を例に。

名前の通り、マナガツオの切り身を京都産の白味噌に漬けた焼き物である。

素材と味噌の吟味、魚の下処理、味噌への漬け込み時間、焼き加減などは当然上々の出来映えとし、盛り付けも色合い、大きさなどを考え合わせ、黒っぽい粟田焼の平皿に盛ったとする。

器の質量感と色合いにマッチし、視覚、嗅覚、味覚に食感と文句の付けようもない。

これらは客が現象として認め、自らの感覚として納得し得ることである。

ところが、この調理長、マナガツオを盛り付ける前に器の平皿を温めておいた。

これは、客が皿に手を触れなければ分からないことである。

通常、箸と椀には触れても、他の鉢や皿に手を触れることは少ない。

つまり、現象としては客には見えない行為、これが心配りなのである。

客に分かってもらおうとする行為ではなく、分かってもらえなくとも最高の状態で客に食べてもらおうという料理人の気遣いなのである。

こうした気遣いのもとに、調理人の自信と誇りに満ちた作品が生まれるのである。

『一期一会』とは、目に見えない気配り、心配りを相手の立場に立って行うということであり、宗教を引き合いに求めるならば、代償を求めない愛、或いは阿弥陀仏の無量光(本願)の如き広大無辺なる慈悲にも通じるものと私は考えている。

茶の湯における亭主の客に対する歓待の姿勢・『一期一会』。

お店の『雰囲気』は、張りぼての見せ掛けではない。

随分の『横道』となってしまったが、私が通うに値する店と評定する店が、いかに少ないか分かっていただけたであろうか。




at 13:17|Permalink

横道へのついでに 料理(店)を論ず 3

大切にし、通うに値する店と言うのは、さほどに多いものではない。

将に、独断と偏見、私の『わがまま』と言えるものかもしれない。

しかし、料理にしろ、店の造作や用いられている器、或いは店の主や、そこで働く人々にしたところで、根本の部分では全て『わがまま』、自己主張の結果としての姿が見えているのである。

絵画も同様であり、絵描きは‘お山の大将’なのである。

自分の思想や主張したいことを『絵画』という結果として発表して世に問い、その評価を受けて一喜一憂し、満足するか、或いは悩み、考え、新たな主張を公表するのである。

他人の主張には諸手を挙げて賛同出来るものもあれば、唾棄すべき全くツマラン主張もある。

これは十人十色、百人百様であって当然である。

人物を主題にした作品であっても、ルオーが描くようなタッチは嫌いだが、藤田嗣治は好きだとする人がいても不思議ではない。

つまり、通うに値する店と私が評定しても、それは所詮自分の好みに合う店であり、料理であるということなのである。

と言って、これまで述べてきたように、全く世間ズレした評定尺度を持って判定してきたわけではないことは理解していただけるかと思う。

食材吟味、調理の技術、美的感覚などを総合しての料理、そしてそれに対応する価格、そして、店の造作だけでなく、店の主や働いている人たちの対応の全てが相乗的に醸し出される店の雰囲気。

この『雰囲気』が、通う店に値するかどうかの大きい評価ポイントとなるのである。

これは、「いらっしゃいませ」とか、「ありがとうございました」などという、常識的で誰の目にも見えるようなものだけではない。

常識と書いたように、これらは『一期一会』の精神をもってすれば出来て当然のことなのである。

自分の料理に自信と誇りを持って、客が食する時点で最高の評価を得ることが出来るという心配りが雰囲気を高めることにつながるのである。

勿論、それが客に対する『押し付け』的なものであってはいけないことは言うまでもない。

よく引き合いに出されることに、夕食を懐石風に提供する温泉旅館のことがある。

熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに、これは料理を提供する方も食する方にとっても当然のことである。

しかし、先の旅館などの場合、客が多いだの、厨房と客室が離れているだのと何かと理由があるのだろうが、冷えた揚げ物が供せられたり、蒸し物、焼き物にしても同じようなことがよくある。

これは、お互いにとって最低の結果にしかならない。

「冷えてもウマイ物がある」などと、これは屁理屈でしかない。

長くなるので次回に・・・・・



at 08:11|Permalink
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