March 16, 2024
編成時期
日本の各テレビ局の番組編成は概ね《二期制/年》で行われているように思う。 前期が4月から9月、後期が10月から3月と、大学の二期制に似ている。
番組自体は余程のことが無い限り潰されることは無い。ただし主要な出演者が何らかの犯罪行為に関わったり視聴者の毀誉褒貶の度合いによっては出演者の交代が行われてきたことを私は知っている。
勿論、番組評判が良くて視聴率が高い番組は当然の如く長寿番組と呼ばれ、年度を越えても放映されるものだ。
ニュース、スポーツ、歌謡音楽などは特別のものとして除外するが、単独の番組として長い歴史を誇っているものに『徹子の部屋』がある。
第1回放映が1976年(昭和51年)2月のことだったとか。今年が2024年だから49年目入っているのだからTV番組殿堂博物館入り確実だ。(博物館があればだが)
今月で最後となる番組に『ブラタモリ』もある。
タモリ=森田一義氏を私が知ったのはテレビ番組『笑っていいとも』でだった。結構人気を博していたようだが、私の関心をひくほどの番組ではなかった。私が興味を感じたのは『ブラタモリ』が放映されて以後のことだ。日本各地を巡り、その土地の地勢や地質と歴史の関係性について専門家と明らかにしていく番組だが、そこで私と同じ興味を示しながら番組展開していくタモリに共感したからだと思うのだ。
だから私の希望としては、もっと続けてほしいと願っているのだが、まあ仕方なかろう。
仕方ないということでは『サンデーモーニング』の司会者として長く務めてきた関口宏氏が今月末で膳場貴子さんと交替すると聞いた。
『サンデーモーニング』は1987年10月に放映が開始されたと聞くので関口氏は36年間務めたということだ。週1回であっても一般的な勤続年数に匹敵する年月だ。穏やかな司会で極端に偏ることなく大いに楽しませて頂いた。残念だがご苦労様と声掛けしておきたい。
関口氏よりバトンを受ける膳場さんはテレビを通してしか知らない。たしか息子たちと同世代の人だと承知しているが、とても信頼できる女性との印象を持っており、仕事ぶりを期待して見ていたいと思う。
春は別れと巣立ちの時期。淋しくもあり楽しくもありだ。
一昨日もこのことについて書いたのだった。
写真は、焼肉『千久左』でのもの。
私が好きなのは厚切りタン、ハラミ、ツラミ、ココロなどだが、いずれも少しずつ頂く。タンはレモンと塩で。他は肉とサムジャンをサンチュに包んで頂く。飲み物はビールとマッコリ(3つ目の写真の甕と杓)だ。
番組自体は余程のことが無い限り潰されることは無い。ただし主要な出演者が何らかの犯罪行為に関わったり視聴者の毀誉褒貶の度合いによっては出演者の交代が行われてきたことを私は知っている。
勿論、番組評判が良くて視聴率が高い番組は当然の如く長寿番組と呼ばれ、年度を越えても放映されるものだ。
ニュース、スポーツ、歌謡音楽などは特別のものとして除外するが、単独の番組として長い歴史を誇っているものに『徹子の部屋』がある。
第1回放映が1976年(昭和51年)2月のことだったとか。今年が2024年だから49年目入っているのだからTV番組殿堂博物館入り確実だ。(博物館があればだが)
今月で最後となる番組に『ブラタモリ』もある。
タモリ=森田一義氏を私が知ったのはテレビ番組『笑っていいとも』でだった。結構人気を博していたようだが、私の関心をひくほどの番組ではなかった。私が興味を感じたのは『ブラタモリ』が放映されて以後のことだ。日本各地を巡り、その土地の地勢や地質と歴史の関係性について専門家と明らかにしていく番組だが、そこで私と同じ興味を示しながら番組展開していくタモリに共感したからだと思うのだ。
だから私の希望としては、もっと続けてほしいと願っているのだが、まあ仕方なかろう。
仕方ないということでは『サンデーモーニング』の司会者として長く務めてきた関口宏氏が今月末で膳場貴子さんと交替すると聞いた。
『サンデーモーニング』は1987年10月に放映が開始されたと聞くので関口氏は36年間務めたということだ。週1回であっても一般的な勤続年数に匹敵する年月だ。穏やかな司会で極端に偏ることなく大いに楽しませて頂いた。残念だがご苦労様と声掛けしておきたい。
関口氏よりバトンを受ける膳場さんはテレビを通してしか知らない。たしか息子たちと同世代の人だと承知しているが、とても信頼できる女性との印象を持っており、仕事ぶりを期待して見ていたいと思う。
春は別れと巣立ちの時期。淋しくもあり楽しくもありだ。
一昨日もこのことについて書いたのだった。
写真は、焼肉『千久左』でのもの。
私が好きなのは厚切りタン、ハラミ、ツラミ、ココロなどだが、いずれも少しずつ頂く。タンはレモンと塩で。他は肉とサムジャンをサンチュに包んで頂く。飲み物はビールとマッコリ(3つ目の写真の甕と杓)だ。
masatukamoto at 13:00|Permalink│Comments(0)│
March 14, 2024
率先垂範
先月末、政倫審への出席を渋っていた自民党・安倍派の幹部に「志のある議員に説明責任果たしてもらう」との思いを込めて岸田総理自らが衆院政倫審に出席した。
私は正直に岸田首相『やるな』と思った。
しかし答弁の様子をテレビで見ていて、ツマラン何の説明にもならん内容に『やっぱりか』と呆れるばかりだった。
首相自ら岸田派・宏池会の政治資金に関し『率先垂範』で語るかと期待していたのだ。
自ら進んで手本を示し模範となることを『率先垂範』と言う。
範を垂れるとは勿論良い見本となることを言う。
しかしどうだ。岸田君は善い手本を示し得たか。『否』だ。
国民みんなが見ている前で、《まともに答えないとはこうするのだ》という見本を示しただけ。
つまり政倫審への出席を渋っていた自民党の政治屋どもに
「てめえら、こんなふうに誤魔化すくらい出来るだろ。」
と悪の手本を示した。つまり『率先垂悪』とも言えることをやりおったのだ。
これで手形の裏書を得たように、我も我もと政倫審への出席を申し出た。
しかし今日の世耕も橋本も最低の態だった。
これでも未だ説明しない奴もいるのだから自民党の政治屋どもの醜さ汚さに比べるものは無いと言わざるを得ない。ほんまに情けない。
私は正直に岸田首相『やるな』と思った。
しかし答弁の様子をテレビで見ていて、ツマラン何の説明にもならん内容に『やっぱりか』と呆れるばかりだった。
首相自ら岸田派・宏池会の政治資金に関し『率先垂範』で語るかと期待していたのだ。
自ら進んで手本を示し模範となることを『率先垂範』と言う。
範を垂れるとは勿論良い見本となることを言う。
しかしどうだ。岸田君は善い手本を示し得たか。『否』だ。
国民みんなが見ている前で、《まともに答えないとはこうするのだ》という見本を示しただけ。
つまり政倫審への出席を渋っていた自民党の政治屋どもに
「てめえら、こんなふうに誤魔化すくらい出来るだろ。」
と悪の手本を示した。つまり『率先垂悪』とも言えることをやりおったのだ。
これで手形の裏書を得たように、我も我もと政倫審への出席を申し出た。
しかし今日の世耕も橋本も最低の態だった。
これでも未だ説明しない奴もいるのだから自民党の政治屋どもの醜さ汚さに比べるものは無いと言わざるを得ない。ほんまに情けない。
masatukamoto at 16:30|Permalink│Comments(0)│
弥生3月も半ば
昨日は国産ロケット・カイロス打ち上げ失敗の報に残念な思いがした。
国産ロケットと言えば私が小学5年の頃、糸川英夫博士がペンシルロケット発射実験を行った時のことを思い出す。このロケットは名前通り鉛筆と同様20cmほどの長さだった。これも春だったと記憶している。
春3月は別れの月だとか巣立ちの月、或いは上巳の節句から雛月とか桃月・桜月と呼ばれることもある。
正月は新珠の年立ち返る吉祥の月として様々な言いようがあるが、3月は年度納めの月としての言いようもある。
各地で行われる卒園・卒業式も年度納めの行事であり、別れと巣立ちの月でもある。近頃はアメリカや欧州の学校のように学期始めを秋にしようとの風潮もあるが、それはともかく日本語は歳時様々な事柄に因んだ言葉が無数にあり、それらを生み育ててきた日本人の風流さに私はとても素晴らしい思いを抱いているのだ。
春3月は『弥生』ともいう。『弥』という漢字には『いよいよ』とか『ますます』という意味がある。また『生』には芽吹き、生えるという意味がある。
友人の結婚披露宴の席で研究所長が『高砂や~この浦舟に』と朗じ、続いて「ご両家の弥栄弥栄をお祈り・・・」と述べていた通り『弥栄(いやさか)』には『ますます栄える』という意味が込められているのだろう。
余談だが京都・八坂神社石段下の四条東大路に京都市立弥栄中学校があった。この石段下は三叉路の交差点になっており、南北の東大路を走る市電と西への四条通を走る市電が交差する場所だったのだ。今は市電が無くなり路面のレールも無くなっているが、私の学生時代は緑色と黄色に塗られた市電が走っていた。昭和20年代初めの終戦直後の市電を私は知らないが、長兄はお酒を飲んでブラブラ石段下交差へ来ると横たわり、終電が過ぎたレールに頬耳を当てていたと語っていた。酔った頬にレールの冷たさは心地良かったのであろう。何とも豪放な長兄だが、当時は自動車の通行量も少なかったからだろう。この交差点は私や家内にとっては、河原町通~四条通をデモ行進してきて解散地点の円山公園への入口にあたる場所であり、デモ解散地の交差点としての記憶が深い。
八坂神社の八坂は(やさか)と読む。弥栄中学の弥栄も(やさか)と読むが、(いやさか)とは読まない。地名や人名にはそれぞれに由来があり、それを聞くと「へえー」とか「そうやったんや」などと感嘆の声を上げることが多い。土地の形状、方角、目印などに因む名前が多いもので、八坂も古くに支配していた豪族の名前が由来であるとする説や、東山一帯には幾つもの谷や坂があるので八坂と呼ぶようになったなどの説があり、いずれが真実かは決められない。
西本願寺の大谷本廟も東山五条にあるが、この地域も龍がうねるような谷が幾つもある。
漢字には偏旁冠脚がある。『豅』、偏が谷で旁が龍という難しい漢字だが、これをオオタニと読む。本願寺の山号が龍谷であり、親鸞聖人の廟地が大谷であることが龍谷大学の名称の由来だと。
京都市立弥栄中学校の校名が八坂ではなく弥栄になったのには地域の人々の願いが込められていたのであろうことは充分想像できることだ。しかし弥栄中学校は平成22年度(2010年度)をもって閉校し、六波羅蜜寺そばの開睛中学校に統合されたのだと。
この弥栄中学校は昭和40何年だったか、家出した子どもを引き取るために訪れたことがあった。
当時の校長が私を呼び、今から京都へ行って子どもを引き取ってこいと私に命じたのだった。担任でもないのにどうしてと思う前に、君は京都に詳しいからと校長。忘れていた記憶まで蘇ってしまった。
数珠繋ぎという言葉がある。
旧い記憶も新しい記憶も数珠が繋がるが如くに連なっており、ひとたび機会があれば本街道・間道の別なく体中の血管を巡るが如くに蘇ってくるものだ。
際限が無いように思えるのでこれくらいに。
※ 写真の料理は鮨一でのもの。
国産ロケットと言えば私が小学5年の頃、糸川英夫博士がペンシルロケット発射実験を行った時のことを思い出す。このロケットは名前通り鉛筆と同様20cmほどの長さだった。これも春だったと記憶している。
春3月は別れの月だとか巣立ちの月、或いは上巳の節句から雛月とか桃月・桜月と呼ばれることもある。
正月は新珠の年立ち返る吉祥の月として様々な言いようがあるが、3月は年度納めの月としての言いようもある。
各地で行われる卒園・卒業式も年度納めの行事であり、別れと巣立ちの月でもある。近頃はアメリカや欧州の学校のように学期始めを秋にしようとの風潮もあるが、それはともかく日本語は歳時様々な事柄に因んだ言葉が無数にあり、それらを生み育ててきた日本人の風流さに私はとても素晴らしい思いを抱いているのだ。
春3月は『弥生』ともいう。『弥』という漢字には『いよいよ』とか『ますます』という意味がある。また『生』には芽吹き、生えるという意味がある。
友人の結婚披露宴の席で研究所長が『高砂や~この浦舟に』と朗じ、続いて「ご両家の弥栄弥栄をお祈り・・・」と述べていた通り『弥栄(いやさか)』には『ますます栄える』という意味が込められているのだろう。
余談だが京都・八坂神社石段下の四条東大路に京都市立弥栄中学校があった。この石段下は三叉路の交差点になっており、南北の東大路を走る市電と西への四条通を走る市電が交差する場所だったのだ。今は市電が無くなり路面のレールも無くなっているが、私の学生時代は緑色と黄色に塗られた市電が走っていた。昭和20年代初めの終戦直後の市電を私は知らないが、長兄はお酒を飲んでブラブラ石段下交差へ来ると横たわり、終電が過ぎたレールに頬耳を当てていたと語っていた。酔った頬にレールの冷たさは心地良かったのであろう。何とも豪放な長兄だが、当時は自動車の通行量も少なかったからだろう。この交差点は私や家内にとっては、河原町通~四条通をデモ行進してきて解散地点の円山公園への入口にあたる場所であり、デモ解散地の交差点としての記憶が深い。
八坂神社の八坂は(やさか)と読む。弥栄中学の弥栄も(やさか)と読むが、(いやさか)とは読まない。地名や人名にはそれぞれに由来があり、それを聞くと「へえー」とか「そうやったんや」などと感嘆の声を上げることが多い。土地の形状、方角、目印などに因む名前が多いもので、八坂も古くに支配していた豪族の名前が由来であるとする説や、東山一帯には幾つもの谷や坂があるので八坂と呼ぶようになったなどの説があり、いずれが真実かは決められない。
西本願寺の大谷本廟も東山五条にあるが、この地域も龍がうねるような谷が幾つもある。
漢字には偏旁冠脚がある。『豅』、偏が谷で旁が龍という難しい漢字だが、これをオオタニと読む。本願寺の山号が龍谷であり、親鸞聖人の廟地が大谷であることが龍谷大学の名称の由来だと。
京都市立弥栄中学校の校名が八坂ではなく弥栄になったのには地域の人々の願いが込められていたのであろうことは充分想像できることだ。しかし弥栄中学校は平成22年度(2010年度)をもって閉校し、六波羅蜜寺そばの開睛中学校に統合されたのだと。
この弥栄中学校は昭和40何年だったか、家出した子どもを引き取るために訪れたことがあった。
当時の校長が私を呼び、今から京都へ行って子どもを引き取ってこいと私に命じたのだった。担任でもないのにどうしてと思う前に、君は京都に詳しいからと校長。忘れていた記憶まで蘇ってしまった。
数珠繋ぎという言葉がある。
旧い記憶も新しい記憶も数珠が繋がるが如くに連なっており、ひとたび機会があれば本街道・間道の別なく体中の血管を巡るが如くに蘇ってくるものだ。
際限が無いように思えるのでこれくらいに。
※ 写真の料理は鮨一でのもの。
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