May 31, 2015
5月のこと・・・(1)
5月も晦日となったので書き洩らしたことを少々。
早朝コンサートに限らず日中の曲目でもフィンランド月間が延びている。
作曲、指揮、演奏と様々な音楽家を順次巡っていると終演が見えない。《笑》
カレヴィ・アホ(Kalevi Aho)もフィンランドの作曲家の一人で、これまで10数本の交響曲を発表している。
彼の多くの作品について私は未だほんの一部しか聴いていない。 と言うのも彼の作品(CD)を入手するのが難しいのだ。
バッハやベートーベンなどは演奏家も多く、彼らの全集も出ており聴こうと思えば誰でも聴ける状況にある。
最近、オスモ・ヴァンスカ(Osmo Vänskä)がラハティ交響楽団(Sinfonia Lahti)を指揮してのCDが販売されているので多くの作品を聴くことが出来るようになった。 しかしそれでも猶カレヴィ・アホの作品に触れる機会は少ない。
この度入手したのはヨーン・ストルゴース
(John Storgårds)
がラハティ交響楽団とラップランド室内管弦楽団を指揮してのルオスト交響曲(第12番)。
ルオストと言うのは
Mt.Luostoのことで、
参考までに地図上で位置を示してみる。
Mt.Luostoは標高は高くないがラップランドと呼ばれる緯度の高い地域にあり、オーロラ・ツアーで有名なロヴァニエミよりも更に100キロメートルばかり北東に位置するから長い冬の自然環境としては大変厳しい所に違いない。
そんなラップランドにも短いが夏が訪れる。
交響曲第12番(Luosto)は『オーケストラと室内管弦楽、10人の野外音楽家と2人の歌手のための』という副題が付けられている。
このサブテーマに沿ってMt.Luostoの斜面に指揮者、歌手、演奏家と聴衆が集い野外演奏会が開かれたのだ。
カレヴィ・アホがどのような思考をもって交響曲第12番
(Luosto)を作曲したのか私は知らないが、ラップランドの地勢を想像しながら聴いたのだった。
ユハ・カンガス(Juha Kangas)指揮でオストロボスニア室内管弦楽団(Ostrobothnian
Chamber Orchestra)が演奏する北欧に関連する作曲家の作品集CD。
また訪ねることが出来るかどうか。
フィンランドの自然環境や神話などなど、音や思いなどをない交ぜにCDを楽しませてもらったのだ。
早朝コンサートに限らず日中の曲目でもフィンランド月間が延びている。
作曲、指揮、演奏と様々な音楽家を順次巡っていると終演が見えない。《笑》
カレヴィ・アホ(Kalevi Aho)もフィンランドの作曲家の一人で、これまで10数本の交響曲を発表している。
彼の多くの作品について私は未だほんの一部しか聴いていない。 と言うのも彼の作品(CD)を入手するのが難しいのだ。
バッハやベートーベンなどは演奏家も多く、彼らの全集も出ており聴こうと思えば誰でも聴ける状況にある。
最近、オスモ・ヴァンスカ(Osmo Vänskä)がラハティ交響楽団(Sinfonia Lahti)を指揮してのCDが販売されているので多くの作品を聴くことが出来るようになった。 しかしそれでも猶カレヴィ・アホの作品に触れる機会は少ない。
この度入手したのはヨーン・ストルゴース
(John Storgårds)
がラハティ交響楽団とラップランド室内管弦楽団を指揮してのルオスト交響曲(第12番)。
ルオストと言うのは
Mt.Luostoのことで、
参考までに地図上で位置を示してみる。
Mt.Luostoは標高は高くないがラップランドと呼ばれる緯度の高い地域にあり、オーロラ・ツアーで有名なロヴァニエミよりも更に100キロメートルばかり北東に位置するから長い冬の自然環境としては大変厳しい所に違いない。
そんなラップランドにも短いが夏が訪れる。
交響曲第12番(Luosto)は『オーケストラと室内管弦楽、10人の野外音楽家と2人の歌手のための』という副題が付けられている。
このサブテーマに沿ってMt.Luostoの斜面に指揮者、歌手、演奏家と聴衆が集い野外演奏会が開かれたのだ。
カレヴィ・アホがどのような思考をもって交響曲第12番
(Luosto)を作曲したのか私は知らないが、ラップランドの地勢を想像しながら聴いたのだった。
ユハ・カンガス(Juha Kangas)指揮でオストロボスニア室内管弦楽団(Ostrobothnian
Chamber Orchestra)が演奏する北欧に関連する作曲家の作品集CD。
また訪ねることが出来るかどうか。
フィンランドの自然環境や神話などなど、音や思いなどをない交ぜにCDを楽しませてもらったのだ。
美味し酒
5月もいよいよ終わり。
新緑に燃える山も濃い緑の部分が『もこもこ』と膨らみ広がってきているような・・・・・
日の出の時刻に合わせて撮影している写真を久しぶりに提示してみよう。
前回は4月26日の日の出を27日付けのブログに記載しているが、その時の日の出位置は示準にしているテレビアンテナ(写真中央)の右側だったが、昨5月30日には左側に見えるようになっていた。
しかも、日の出時刻は5時8分くらいに。
季節の移り変わりに気付く事が最近ちょくちょくある。
Sさんに頂いた破(淡)竹にしろ新玉ネギにしろサヤエンドウにしろ野菜(も)大好き人間の私には季節の変わりを感じさせてくれる嬉しい作物であった。
上の写真は莢(さや)から取り出した空豆。
写真左側のソラマメは少し切れ目を入れ、ただ塩茹でしただけのものだが、これが私の大好物。
元気だった頃なら塩茹での空豆だけで酒瓶が空いてしまったであろう。
弁解するようだが、私の場合ウワバミのように酒をがぶ飲みするのではなく、料理を主にチビリチビリと飲むので大酒のみの類いではないのだ。
美味し料理があれば結果として酒の量が増えていたというだけのこと。
だから酒が嫌いなわけでも酒に呑まれるということもない。
では酒が強いか弱いかと問われれば『うーーむ』。
人並みに酔い、目が回ることなど常のことだ。 が、ぶっ倒れることは無いし、ぶっ倒れる以前に飲まないという自制心はキッチリと働く。
だから、酔って覚えていないなどと無様な無責任な飲み方をすることは決して無い。
頂戴した破(淡)竹もコレで終わり。
お醤油で刺身を頂くように味わうのが私にとっては最良の食べ方であった。
ともあれ美味いお酒を美味い料理とともに味わうという飲み方をしてもう何十年にもなる。
何でも良い、酔えば良い、気持ち良く気分が高揚するなら塩ひとつまみでも良い、酒の味も質も問わないという飲み方を卒業して40年を過ぎてしまった。
神経系の実験に供した食用ガエルの脚(もも)に塩をふってガスバーナーで焼き、それを肴に消毒用エタノールの水割りを飲んだこともある。
しかし、これは『遊び心』。 小遣いが不足していたわけでもないし、何が何でもアルコールを口にしたかったわけでもない。
タコは真蛸が美味いことは以前にも書いているが、明石海峡や紀淡・鳴門海峡など近い海で獲れたタコなら活け(生)でも茹でたものでも家内は買ってきてくれるのだ。
写真は和歌山のものを少量のオリーブ油で軽く炒めたもの。
掲載した写真のような料理のいずれとも相性の良い酒が以前にも紹介している奈良・中本酒造の『山鶴』。
私にとっては少々高級な精米歩合40パーセントの純米大吟醸酒である。
一言で言えば『うまい』酒であり、『上等』とも。
私は常々『日本酒は料理とと共に楽しむもの』で、料理と酒が互いに相乗的に関わり合う間柄が最高だと言ってきた。
だから癖のキツイ、自己主張の強い酒を私は好まない。
そうした私の感覚にぴったりくる日本酒のひとつが『山鶴』なのだが、少々価格が高い上、足が不自由なために買い求めに行けない、故に配送費用が上積みとなり、何とも悲しく痛いという『泣きっ面に蜂』の状態なのだ。
以前から生協の店に置いているからと『春鹿』を買ってきてくれている家内だが、先日『蔵人の詩』を見付けたからと買ってきてくれた。
家内が散歩や買い物のついでに買ってきてくれるのだが、
720ml瓶と言えど荷物を持って急坂を登ってくることは大変疲れることだ。
何やかやとワカッチャイルケド・・・・・
新緑に燃える山も濃い緑の部分が『もこもこ』と膨らみ広がってきているような・・・・・
日の出の時刻に合わせて撮影している写真を久しぶりに提示してみよう。
前回は4月26日の日の出を27日付けのブログに記載しているが、その時の日の出位置は示準にしているテレビアンテナ(写真中央)の右側だったが、昨5月30日には左側に見えるようになっていた。
しかも、日の出時刻は5時8分くらいに。
季節の移り変わりに気付く事が最近ちょくちょくある。
Sさんに頂いた破(淡)竹にしろ新玉ネギにしろサヤエンドウにしろ野菜(も)大好き人間の私には季節の変わりを感じさせてくれる嬉しい作物であった。
上の写真は莢(さや)から取り出した空豆。
写真左側のソラマメは少し切れ目を入れ、ただ塩茹でしただけのものだが、これが私の大好物。
元気だった頃なら塩茹での空豆だけで酒瓶が空いてしまったであろう。
弁解するようだが、私の場合ウワバミのように酒をがぶ飲みするのではなく、料理を主にチビリチビリと飲むので大酒のみの類いではないのだ。
美味し料理があれば結果として酒の量が増えていたというだけのこと。
だから酒が嫌いなわけでも酒に呑まれるということもない。
では酒が強いか弱いかと問われれば『うーーむ』。
人並みに酔い、目が回ることなど常のことだ。 が、ぶっ倒れることは無いし、ぶっ倒れる以前に飲まないという自制心はキッチリと働く。
だから、酔って覚えていないなどと無様な無責任な飲み方をすることは決して無い。
頂戴した破(淡)竹もコレで終わり。
お醤油で刺身を頂くように味わうのが私にとっては最良の食べ方であった。
ともあれ美味いお酒を美味い料理とともに味わうという飲み方をしてもう何十年にもなる。
何でも良い、酔えば良い、気持ち良く気分が高揚するなら塩ひとつまみでも良い、酒の味も質も問わないという飲み方を卒業して40年を過ぎてしまった。
神経系の実験に供した食用ガエルの脚(もも)に塩をふってガスバーナーで焼き、それを肴に消毒用エタノールの水割りを飲んだこともある。
しかし、これは『遊び心』。 小遣いが不足していたわけでもないし、何が何でもアルコールを口にしたかったわけでもない。
タコは真蛸が美味いことは以前にも書いているが、明石海峡や紀淡・鳴門海峡など近い海で獲れたタコなら活け(生)でも茹でたものでも家内は買ってきてくれるのだ。
写真は和歌山のものを少量のオリーブ油で軽く炒めたもの。
掲載した写真のような料理のいずれとも相性の良い酒が以前にも紹介している奈良・中本酒造の『山鶴』。
私にとっては少々高級な精米歩合40パーセントの純米大吟醸酒である。
一言で言えば『うまい』酒であり、『上等』とも。
私は常々『日本酒は料理とと共に楽しむもの』で、料理と酒が互いに相乗的に関わり合う間柄が最高だと言ってきた。
だから癖のキツイ、自己主張の強い酒を私は好まない。
そうした私の感覚にぴったりくる日本酒のひとつが『山鶴』なのだが、少々価格が高い上、足が不自由なために買い求めに行けない、故に配送費用が上積みとなり、何とも悲しく痛いという『泣きっ面に蜂』の状態なのだ。
以前から生協の店に置いているからと『春鹿』を買ってきてくれている家内だが、先日『蔵人の詩』を見付けたからと買ってきてくれた。
家内が散歩や買い物のついでに買ってきてくれるのだが、
720ml瓶と言えど荷物を持って急坂を登ってくることは大変疲れることだ。
何やかやとワカッチャイルケド・・・・・
May 23, 2015
一人だけの夕膳で一献
表題の通り昨夜の夕食は私一人だけで済ましたのだった。
勿論自分で台所に立って・・・・・など出来ないので家内が出かける前に惣菜の鉢をお盆に乗せて食卓に置いてくれたものを頂いたのだ。
湯沸しポットや酒瓶も置いてくれていた。
ともかく立ち上がり歩き座るという動作を極力少なくするようにして、私一人の時の転倒事故が起きる確率を出来る限り低くしようとしてくれているのだ。
有難いことだ。
ところで昨夜の鉢の一つには破竹(はちく)を軽く茹でたものが盛られていた。
破竹は淡竹とも書き、時期的には春先から出回る孟宗竹の筍に続いて出てくるものだが市場で売られているのを私は見たことがない。
上の写真が破竹(淡竹)で長さ約80cm、胴下部の直径10cm足らずであった。
これほどの丈になった孟宗竹の筍なら硬くて食べられないが、破竹の場合は苦味(えぐ味)も無くて柔らかいのである。
昨夜はワサビ醤油で頂いた。
写真の新玉ネギや破竹、サヤエンドウに空豆などは家内の音楽仲間のSさんがご主人と共に収穫したものを持って来て下さったのだ。
筍は孟宗竹が3月から5月にかけてよく出廻り、今春我が家も頂き物を食べたことをブログに書いた。
そして5月19日に破竹を頂き、今月下旬から来月にかけては真竹の筍になるだろうか。
6月から7月頃は東北地方の山で根曲り竹(姫竹)の筍の季節となる。 この根曲り竹というのは千島笹(チシマザサ)の筍で鉛筆2~3本程度の太さで長さも20cmに満たないものを食べてきた。
野菜たっぷり美味しい惣菜を幾つも用意してくれたので、やはりお酒をと。
いつも通り芋焼酎『佐藤黒』を 1 対 9 程度の超々薄い湯割りでチビリチビリ。
しかし白湯のようなのを飲んでいても美味しくないので日本酒を飲むことに。
銘柄は『蔵人の詩』。
精米度合い6割、アルコール度16度と少し高めのお酒だが、家内が用意しておいてくれたもので『山鶴』を造っている中本酒造のお酒だ。
今回初めて仕入れたのだが、味わいとしては口当たり良く飲みやすいお酒であった。 しかし軽いという感じではなく、なかなかしっかりしたお酒で私にとっては『飲み過ぎ要注意』の札を貼らねばならないものに分類できる。
しかし如何に美味しいお酒であっても、一人で飲む酒というのは精神的にはウマクナイのだ。
私が一人で飲みに出かけるということはこれまでちょくちょくあった。
『ちょくちょく』ではなく『しょっちゅう』と言うべきでしょと、家内はよく言うが・・・・・
ウマイ料理には美味し酒。
料理と酒の関係は相乗関係にあり、それに人が加われば私にとっては最上となるのだが、家内が出かけたこの夜、私の相手をしてくれたのは
パーシー・フェイス(Percy Faith)に
ウェルナー・ミューラー
(Werner Müller)の楽団。
ウェルナー・ミューラーはリカルド・サントス(Ricardo Santos)楽団の名前の方がよく知られているかもしれない。
余程面白く興味が湧くテレビ番組があれば別だが私の相手は音だけの方が良く、この夜の演奏のメインはエフゲニー・ムラヴィンスキー指揮でレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の演奏によるチャイコフスキーの交響曲5番と6番。 それにスヴャトスラフ・リヒテルのピアノによるピアノ協奏曲1番。
今はレニングラード・フィルハーモニー交響楽団とは言わずサンクトペテルブルク交響楽団と名称が変わってしまっている。
1970年、大阪万国博の折にレニングラード・フィルのコンサートを聴きに行った。 そうした意味でも古く懐かしい演奏ということになる。
美味し料理に美味し酒、それに素敵な音楽で先ずます楽しい時を過ごすことができた。
家内が帰ってきたのは 9 時半すぎ。
仏蘭西料理の夕食会だったらしいが、レストランが某駅近くで乗り継ぎがスムースだったので早く帰ることが出来たのだとか。
料理や友人たちのことを次から次へと語っていたので家内も楽しい時を過ごすことが出来たのだろう。
良かった、良かった。
勿論自分で台所に立って・・・・・など出来ないので家内が出かける前に惣菜の鉢をお盆に乗せて食卓に置いてくれたものを頂いたのだ。
湯沸しポットや酒瓶も置いてくれていた。
ともかく立ち上がり歩き座るという動作を極力少なくするようにして、私一人の時の転倒事故が起きる確率を出来る限り低くしようとしてくれているのだ。
有難いことだ。
ところで昨夜の鉢の一つには破竹(はちく)を軽く茹でたものが盛られていた。
破竹は淡竹とも書き、時期的には春先から出回る孟宗竹の筍に続いて出てくるものだが市場で売られているのを私は見たことがない。
上の写真が破竹(淡竹)で長さ約80cm、胴下部の直径10cm足らずであった。
これほどの丈になった孟宗竹の筍なら硬くて食べられないが、破竹の場合は苦味(えぐ味)も無くて柔らかいのである。
昨夜はワサビ醤油で頂いた。
写真の新玉ネギや破竹、サヤエンドウに空豆などは家内の音楽仲間のSさんがご主人と共に収穫したものを持って来て下さったのだ。
筍は孟宗竹が3月から5月にかけてよく出廻り、今春我が家も頂き物を食べたことをブログに書いた。
そして5月19日に破竹を頂き、今月下旬から来月にかけては真竹の筍になるだろうか。
6月から7月頃は東北地方の山で根曲り竹(姫竹)の筍の季節となる。 この根曲り竹というのは千島笹(チシマザサ)の筍で鉛筆2~3本程度の太さで長さも20cmに満たないものを食べてきた。
野菜たっぷり美味しい惣菜を幾つも用意してくれたので、やはりお酒をと。
いつも通り芋焼酎『佐藤黒』を 1 対 9 程度の超々薄い湯割りでチビリチビリ。
しかし白湯のようなのを飲んでいても美味しくないので日本酒を飲むことに。
銘柄は『蔵人の詩』。
精米度合い6割、アルコール度16度と少し高めのお酒だが、家内が用意しておいてくれたもので『山鶴』を造っている中本酒造のお酒だ。
今回初めて仕入れたのだが、味わいとしては口当たり良く飲みやすいお酒であった。 しかし軽いという感じではなく、なかなかしっかりしたお酒で私にとっては『飲み過ぎ要注意』の札を貼らねばならないものに分類できる。
しかし如何に美味しいお酒であっても、一人で飲む酒というのは精神的にはウマクナイのだ。
私が一人で飲みに出かけるということはこれまでちょくちょくあった。
『ちょくちょく』ではなく『しょっちゅう』と言うべきでしょと、家内はよく言うが・・・・・
ウマイ料理には美味し酒。
料理と酒の関係は相乗関係にあり、それに人が加われば私にとっては最上となるのだが、家内が出かけたこの夜、私の相手をしてくれたのは
パーシー・フェイス(Percy Faith)に
ウェルナー・ミューラー
(Werner Müller)の楽団。
ウェルナー・ミューラーはリカルド・サントス(Ricardo Santos)楽団の名前の方がよく知られているかもしれない。
余程面白く興味が湧くテレビ番組があれば別だが私の相手は音だけの方が良く、この夜の演奏のメインはエフゲニー・ムラヴィンスキー指揮でレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の演奏によるチャイコフスキーの交響曲5番と6番。 それにスヴャトスラフ・リヒテルのピアノによるピアノ協奏曲1番。
今はレニングラード・フィルハーモニー交響楽団とは言わずサンクトペテルブルク交響楽団と名称が変わってしまっている。
1970年、大阪万国博の折にレニングラード・フィルのコンサートを聴きに行った。 そうした意味でも古く懐かしい演奏ということになる。
美味し料理に美味し酒、それに素敵な音楽で先ずます楽しい時を過ごすことができた。
家内が帰ってきたのは 9 時半すぎ。
仏蘭西料理の夕食会だったらしいが、レストランが某駅近くで乗り継ぎがスムースだったので早く帰ることが出来たのだとか。
料理や友人たちのことを次から次へと語っていたので家内も楽しい時を過ごすことが出来たのだろう。
良かった、良かった。