February 15, 2007

『鹿島』 4

下の図に『鹿島』があるが、図の右上、赤色のバス停マークが『室尾』であり、昭和41年当時のバスの終点であった。

赤色の太い線が現在のバス路線で、Aの位置の『鹿老渡(かろうと)』が現在の終点であり、続く細く赤色の線は現在、町がマイクロバスを走らせているそうである。

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上の図で分かるように、
私達は『室尾』でバスを降り、
そこの浜辺から老人が操船する
小さな通学用のポンポン船に乗せ
てもらい、B地点の『瀬戸』という
集落まで運んでもらったのである。


当時はAの位置からの
道路も『鹿島大橋』も無く、
『鹿島』は本土の呉市からも
四国・松山市からも
遠く離れた離島
だったのである。


『瀬戸』の集落から丘を越えた
ところの小さな入り江の浜に面
して島の小学校がある。
『つるや荘』と書かれた所の上
である。

私達が島を訪れた時、浜には亡くなった人を荼毘に付したと思われる
井桁が組まれていた。


図でも凡その想像がつくかもしれないが、『鹿島』には平地らしいところは少なく、海岸部が僅かに平地なのだが、急な丘面の迫る狭い場所に人々の家が建ち、丘の斜面で果樹や野菜を栽培していたのである。

こうした状況は40年を経た現在も殆ど変わっていなかった。

私達10数人が調査活動に入ることを了承してくれた時、「宿は提供するが食料の米は持参してほしい」と言われたことでも分かるように、『鹿島』では米を栽培していなかったのである。

これは栽培していなかったというよりも、栽培できなかったと言う方が正しい。

土地の広さ、勾配、土質、水利など、水耕田の条件が整った自然環境になかったことが大きい条件であった。

当時の人々の生活は半農半漁、農業と言えるほどのものでは無かったから漁業が中心であったと言えるのだが、陽が昇らぬ暗いうちからの仕事は相当な重労働であり、島民の平均寿命は全体的に都会のそれに比べて著しく低く、女性よりも男性の方が更に若かったことを当時の調査結果の記憶として頭に残っている。

下の写真は、上の図の『鹿島大橋』の鹿島側からA地点の方角、つまり『鹿老渡』の方向の景色である。
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写真のように風光明媚な海岸線を持つ地域なのであるが、見て分かるように海岸から丘の高台までの勾配はきつくて平地は少ない。

『鹿老渡』の茶色っぽい部分は花崗岩の風化した面で、波の浸食を激しく受けて大きく削れ、洞窟状になっている場所が幾つか見られる。

瀬戸内海一帯の基盤は花崗岩であることが、これまでの多くの地質調査で明らかにされているが、花崗岩は地下深くでマグマが長い時間をかけて、ゆっくり冷えてできた岩石であり、岩石を構成する結晶も大きく育っているのが特徴である。

そのように地下深くで冷え固まった花崗岩(帯)が、どうして海の上、陸上にあるのかというのは地学的な問題である。

瀬戸内海一帯の基盤となる岩石は地下深くで出来上がった後、地球のダイナミックな運動で一度は隆起(盛り上がり)し、また想像を絶するような長い時間を経て、今度は沈降(沈み込む)して、そこに海水が流入して瀬戸内海が出来たと学問上は説明されているのである。

瀬戸内海の『瀬戸』という言葉の意味は、海峡が狭く潮流が速く激しい場所のことを言う。

だから、瀬戸内海は、いずれの場所でも潮の流れは速い。

『鹿島』の『瀬戸』という集落も、現在『鹿島大橋』が架かっている『鹿老渡』との間の海峡が狭く潮の流れが速いことから名付けられたであろうことは想像に難くない。

潮流の激しいこの海域にあって、先述した『鹿老渡』の侵食された洞窟というのは将に天然の要塞であり、海賊たちが舟を隠す場所としては最良の所と言えるのである。

芸予諸島と呼ばれる安芸の国(広島県)と四国・伊予の国(愛媛県)の間には大小さまざまな島嶼が入り組んで散らばっている。

この芸予諸島の東部の島々を結んで、現在では『しまなみ街道』が通り、尾道市と今治市の間を自動車で走ることが出来るようになっており、今治市と直ぐ前の大島の間は『来島海峡』と呼ばれる瀬戸内海航行の難所中の難所として有名である。




at 14:01|Permalink

February 14, 2007

『鹿島』 3

私達が乗った『室尾』行きのバスは午後1時か2時頃に呉市駅を出発し、途中何人かの乗降があったが、殆ど停留所で停まることもなく、始発から終点の『室尾』まで乗車したのは私達3人だけという至って経済効率の悪いバスであった。

室尾』の浜辺にある停留所に着いたのは午後6時近く、日没に近い時刻で、この日の最終バスから降りた客は私達3人と老婆が一人だけ。

1日に3本か4本のバスだから最終と言えるほどのものではないが。

バスのエンジン音が止まってしまえば浜に打ち寄せる波の音が聞こえるだけ。

軒先を寄せ合うように家が何軒か建ってはいるものの、店らしいものも、旅館らしいものも何も無い。

日は刻々と暮れ、心細く不安感でいっぱいだったことを記憶している。

停留所の位置から更に先の方に、下部が白っぽい茶色の肌を剥き出しにされた黒っぽい丘が半島のように突き出ているのが見えていた。

多分、島を造り上げている花崗岩が波の侵食と風化によって肌色のように見えるのだろうと想像しながら、ここからどうして『鹿島』に渡ろうかと悩んでいた。

室尾』の漁師にでも頼んで渡してもらおうかと相談している時に、沖の方からポンポンポンと焼玉エンジンの音が近付いて来ることに気付いた。

しばらくして、10人程度が乗れるくらいの、決して大きくはない舟が浜辺に舳先を乗り上げ、老人が一人降りてきた。

それで、『鹿島』へ渡りたい旨を話しかけると、将に渡りに舟。 この舟は『鹿島』から来て、用事を済ませたら『鹿島』へ帰るのだと。

そんなわけで、老人が用件を済ませて戻ってくるのを待って『鹿島』まで渡してもらうことになり、その上、今夜の宿も夕食も何もかも世話をしてもらうことになった。

それまでの不安なんか雲散霧消、20分ばかりの間、心地よい潮風を受けながら老人との会話に話が弾んだ。

今夜の宿に紹介してくれるというお宅は『上○▲郎』いや『上○▲夫』さんだったか、度忘れしてしまったが、『鹿島』には当時、旅館など無く、夏の間、頼まれて広島女学院の生物クラブの合宿に離れ家を貸している家だということであった。

日も暮れての突然の訪問であったにも拘らず、快く泊めて頂き、食事の提供もしていただいたのである。

明くる日から事前の調査に入り、『鹿島』の4つの集落を回って調べたところ、調査対象としての条件に合致することが明確になったので、夏の調査の時点で再度の宿舎提供を依頼した。

これが私達の『鹿島』との出会いであった。

ところで、先のポンポン船の老人、彼は『鹿島』の中学生が『室尾中学校』へ通うために、朝と夕に通学船を運行する係りなのだとか。

この日は、たまたま中学生を『鹿島』に連れ帰った後、用事が出来たので『室尾』までやって来たのだとか。 私達にとっては大助かりであった。

at 16:38|Permalink

『鹿島』 2

鹿島』に関する話題に戻ることとする。

これまで少し述べてきたように、京都からへ行くのは昭和41年5月の時点でも随分時間のかかるものであった。

詳細は省くが、当時、4大工業地帯と呼ばれた京浜、中京、阪神、北九州が工業の盛んな地域であり、産業人口の集中化現象がこれらの都市圏に見られたが、その生産性や資本規模などの点において東京、大阪が群を抜いていた。

昭和37年(1962年)に新産業都市建設促進法が施行され、地方の工業開発を進め、人口集中を分散化することによって地域格差の是正を図ろうとする動きが国を挙げて出ていたが、様々な経済効率の問題もあって、直ぐに効果が出るものではなく、各地の産業別就労人口において第一次産業人口が大きく減少するのはもっと後になってからである。

全国総合開発計画(一全総)により地方の産業発展が図られる過程において、私達は僻地と呼ばれていた地域の発展がいかにあるべきか、また、産業発展に伴って生じる公害などのことも踏まえ、今後の発展の有りようを考えるべく、僻地の現実態を調査する目的をもって、その照準を離島に求めた。

地域経済を専門とするW、歴史・民俗を専門とするY、地学・地理と教育を専門とする私の3名が対象となる離島を選定するために瀬戸内・芸予方面に向かったのである。

に辿り着くまでに大崎上島大崎下島上蒲刈島下蒲刈島などを巡ったが、諸々の条件の適合を考え合わせて、これらの島を断念し、呉市の南端の離島『鹿島』を目指すことにしたのである。

呉駅から倉橋島の南端・室尾までは呉市交通局のバスが出ているのだが、当時は1日に3本か4本しかなかった。
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今でこそ左のような
観光地図も出ているが、
当時は国土地理院発行の
2万5千分の1の地図、

倉橋島鹿老渡
3枚だけしか無く、
時刻表にしても
地方のバス時刻など、
細かいものは無く
大変に困った。

地図・中央の音戸町
広島県安芸郡、倉橋島
の北端で、呉市とは
音戸の瀬戸』を境に
している海岸に沿った
集落である。(左側の青線枠内が拡大図である。)

音戸の瀬戸』というのは、瀬戸内海の海上交通の発展に力を尽くした『平の清盛』が掘削させて海路を造ったと伝えられており、それを記念する『』が音戸町側に建てられているが、これの真偽のほどについては調べていないので分からない。

海峡そのものは、それほど広いものではないが、その深さや流れる潮の速さを考えると、単なる伝説に過ぎないように思う。

私達がバスで『室尾』に向かった折には、この『音戸の瀬戸』にループ式の橋が既に設けられていた

下の赤い橋がループ式の『音戸大橋』であり、手前が呉市側、向かい側が音戸町である。             写真撮影は11月中旬
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自動車が橋梁に上り下りするため、音戸町側呉市側倉橋島の東側海岸に沿ってうねるように走り、徐々に南下し、やがて小さな丘を越え双方に渦巻き状の道路が造られている。

背の高い船舶が航行する際の障害にならないよう橋げたの高度を高くしてあるのだ。

バスは地図上の赤い線に従って、倉橋島の東側海岸に沿ってうねるように走り、徐々に南下し、やがて小さな丘を越えて釣士田の集落に入る。


倉橋島では音戸の集落に次ぐ規模である。
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地図上部の赤線が3本交わるあたりが釣士田であり、バスは暫く島の西海岸沿いを走った後に急坂を上って島の南側の海岸部へ下って行く。

その後、海岸に沿った道をクネクネと走り、赤いバス路線が最も地形的にくびれた部分、ここが『室尾』という小さな集落であるが、当時は、ここがバスの終点であった。

呉市駅前』から、この『室尾』のバス停留所までの所要時間、当時は4時間の行程で、運賃が840円だったろうか。

その頃の京都・広島間の国鉄の学割運賃(5割引き)が1000円程度であったから、それに匹敵するほどの金額であり、1日に3往復か4往復しか無かったバス便であることを考え合わせれば、この『室尾』の地でさえ、いかに辺鄙な所であったか想像出来るであろう。

上の地図上、最下部の真ん中が『鹿島』であり、その上に2つの島のような塊が見えるが、これは島では無く、『室尾』から陸続きに延びているものであり、『鹿老渡(かろうと)』という小さな集落である。

現在は、この『鹿老渡(かろうと)』の北端まではバスが行っているが、そこから『鹿老渡(かろうと)』を縦断して『鹿島大橋』を越え、『鹿島』島内へは町営のマイクロバスが運行しているらしい。






at 12:16|Permalink
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