February 10, 2007

横道へのついでに 料理(店)を論ず 3

大切にし、通うに値する店と言うのは、さほどに多いものではない。

将に、独断と偏見、私の『わがまま』と言えるものかもしれない。

しかし、料理にしろ、店の造作や用いられている器、或いは店の主や、そこで働く人々にしたところで、根本の部分では全て『わがまま』、自己主張の結果としての姿が見えているのである。

絵画も同様であり、絵描きは‘お山の大将’なのである。

自分の思想や主張したいことを『絵画』という結果として発表して世に問い、その評価を受けて一喜一憂し、満足するか、或いは悩み、考え、新たな主張を公表するのである。

他人の主張には諸手を挙げて賛同出来るものもあれば、唾棄すべき全くツマラン主張もある。

これは十人十色、百人百様であって当然である。

人物を主題にした作品であっても、ルオーが描くようなタッチは嫌いだが、藤田嗣治は好きだとする人がいても不思議ではない。

つまり、通うに値する店と私が評定しても、それは所詮自分の好みに合う店であり、料理であるということなのである。

と言って、これまで述べてきたように、全く世間ズレした評定尺度を持って判定してきたわけではないことは理解していただけるかと思う。

食材吟味、調理の技術、美的感覚などを総合しての料理、そしてそれに対応する価格、そして、店の造作だけでなく、店の主や働いている人たちの対応の全てが相乗的に醸し出される店の雰囲気。

この『雰囲気』が、通う店に値するかどうかの大きい評価ポイントとなるのである。

これは、「いらっしゃいませ」とか、「ありがとうございました」などという、常識的で誰の目にも見えるようなものだけではない。

常識と書いたように、これらは『一期一会』の精神をもってすれば出来て当然のことなのである。

自分の料理に自信と誇りを持って、客が食する時点で最高の評価を得ることが出来るという心配りが雰囲気を高めることにつながるのである。

勿論、それが客に対する『押し付け』的なものであってはいけないことは言うまでもない。

よく引き合いに出されることに、夕食を懐石風に提供する温泉旅館のことがある。

熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに、これは料理を提供する方も食する方にとっても当然のことである。

しかし、先の旅館などの場合、客が多いだの、厨房と客室が離れているだのと何かと理由があるのだろうが、冷えた揚げ物が供せられたり、蒸し物、焼き物にしても同じようなことがよくある。

これは、お互いにとって最低の結果にしかならない。

「冷えてもウマイ物がある」などと、これは屁理屈でしかない。

長くなるので次回に・・・・・



at 08:11|Permalink

February 05, 2007

横道へのついでに、料理(店)を論ず 2

料理(店)を論ずるということで、ひとつの料理に対し、調理・提供する立場と、受ける側の客としての自分の立場について書いてきた。

それらについて芸術や真剣を比喩として用いたように、私は決して料理を軽く扱うつもりは無い。

それは、『生きている』、いささか宗教的に言えば『生かさせていただいている』上での楽しみであるだけではなく、与えられた生命そのものを健康に維持させる上での根幹に関わる行為につながることであるからでもある。

同じようなモノはあっても、二度と同じものを食せないことは時の流れに似ている。

静寂な深閑にあって一人沈思黙考し、あたかも時が止まっているかのように思えていても、時間というものは淀みなく流れ過ぎ去っているものである。

前ページで料理に立ち向かう時、その心を『一期一会』という言葉を用いて表した。

私達が用いる4文字熟語『一期一会』の出典は、利休の弟子・宗二の『山上宗二記』・「茶湯者覚悟十躰」の1条、『道具開き、亦は口切は云うに及ばず、常の茶湯なりとも路地へ入るより出づるまで、一期に一度の会のように、亭主を敬い畏るべし』に求められる。

『一期』とは、一人の人生・・・一生涯のことを言い、『一度の会』即ち『一度の茶会』と解し、『一会』と表す。

宗二は千利休の高弟だから、宗二の茶の心得を解すには利休の精神を語らねばならない、が、ここでは詳説を省く。

亭主が茶会に客を招いた時、先ず控えの間で応接を行う。
その後、路地・・・庭先を歩いて茶室に向かう。
茶室に入るのに『にじり口』と称する、くぐり入らねばならないような戸口から入室するが、将に、にじって出入りするので、そうした名前が付けられたのであろう。70センチ弱の枠である。
通常、4畳半以下の炉を切った狭い空間で亭主が茶を点て、客に供する。

『道具開き』、つまり客を迎える準備の段階から、例え普段の喫茶であろうとも、茶室へ向かう路地・庭先であろうとも、客が来た時から帰ってしまうまで、一生涯に一度のことであり、二度あるものとは思わぬ心構えで接しなければならないという心得を説いたものである。

料理を提供し、戴くという関係を『真剣勝負』『一期一会』と私が称した所以である。


at 19:59|Permalink

横道へのついでに、料理(店)を論ず 1

前ページでぶどう組について書いた。

シマをミナミとする私には近鉄・奈良線の小阪駅は途中下車、それも準急に乗ってのことなので気持ち良く酔った身で立ち寄ることはシンドイ。

難波から快速、それも座れそうにない時は座席指定の特急にすることが多いくらいなのだから。

しかし、食材の吟味に力を入れ、調理に工夫を重ね、日本酒、焼酎の品揃えも良く、更に店の雰囲気が素晴らしいとなれば立ち寄ってみようかという気になるものである。

店の雰囲気は、私が訪れる店を選ぶ上での3条件の一つである。

1番目は『』、つまり『商品』である。

2番目は『店の雰囲気』。

3番目は『価格』である。

この3条件が揃わない限り、先ず2度目に訪れることは無い。

2度、3度と訪れていた店であっても、この条件が欠けると私の足は遠のくのである。

営業する店の立場からすれば『客は全て大切』である。

しかし、『私一人が客ではない』とする立場も当然店の側にはある。

ところが、私にとって『その店』は『一軒きり』なのである。

茶席の心得に一期一会という教えがある。

一期一会』については次ページ以降で述べることとして、『1軒きり』の店を訪れる客としての私は、訪れる店の外観を眺めることから始まって、勘定を済ませて店を出で、今一度、店を振り返り見るまで、将に真剣勝負の時間やと言える。

料理を造って出す方も真剣なら、それを戴く私の方も心して立ち向かう。

手料理という言葉があるように、ロボットが材料、分量などを記憶させられて大量に同一品質の商品を生産するのと違い、将に手製の、ひとつひとつ味や盛り付けなどが同じようであっても微妙に異なるものが提供されるのであるから、私は提供される料理を芸術と同じものと常々考えているのである。

つまり、仕上げられて客に提供される作品(料理)は完成品でなければならないと。

世に言うところの芸術作品は、その作家の思想・思い・願い、主張と言ったことが凝縮された結果であり、その結果としての作品は作家の言いたい語りたいことを代弁するものでなければならず、それ故に、その作品が存在し、その作品が評価されることによって、その作家の値打ち(社会的評価)が決まっていくものなのである。

絵画、彫刻、陶芸、音楽、映画、小説など、いずれも同じであり、こうした点において料理も同じであると私は考えているのである。

つまり、習作は幾つあったとしても、完成品は1つであり、それだけ精魂が込められたモノで、造り直しがきかないモノだということである。

私が2度3度と通い訪れている店は、当然先の3条件を満たしているということになる。

このブログのページに書き込んでいる店は、その3条件を満たしているか、或いは満たしていないかのどちらかであり、記述内容で判断していただきたい。

主に1番の条件『味』について書いてきたが、長くなるので2番の『店の雰囲気』については次ページに記すこととする。


at 11:30|Permalink
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