May 13, 2014
母の日のこと
リハビリ施設付近の遺跡の話題に戻りたいのだが日々何かと変化があり、一気呵成にと思いつつ、なかなかスタートラインにすら立てないのが近頃の私である。
しかしこれは残念と言うよりも、むしろ有り難く喜ぶべきことと思っている。
下半身の機能回復が今ほど進んでいなかった頃は思うように動けず、出来ることは座って手を動かし考えを巡らせることぐらいであった。
ところが不安定で立ち歩きするたびに倒れないかと不安で、そのため立ち歩くことが苦になっていたのだが、最近は少しずつ自信が備わり行動に広がりが出てきたためにすることが増えてブログの更新内容にも影響が出ているのだ。
それと共に私が少しばかり留守番が出来るので家内が用事で出かける機会も増えてきて、これも喜ばしいことである。
5 月の第 2 日曜にあたる
11日、日本では母の日である。
この日家内は大阪市内までリコーダーの練習に出かけていたのだ。
家内が作っておいてくれた昼食を済ませ、ノンビリとバロックを楽しんでいた時に Y 君が訪ねて来てくれた。
母の日だからとカーネーションのお花にケーキを持ってきてくれたのだ。
いつもいつも気遣い頂き感謝感謝である。
何かあれば直ぐに、まるで息子のように頼み事を・・・・・
嫁の H さんも二人の子育てで忙しい状況にあることは分かるし、この日初めて聞き知ったのだが Y 君の父上が二度目の手術を受けるために再入院されているんだと。
知らなかったとは言え申し訳ないやら有り難いやら・・・
先月には私の誕生日の祝いに嫁の H と長女 K ・長男 K を連れて我が家を訪れてくれたし、私のベッドでの本読み用のフロアスタンドのLED電球を仕事帰りに買ってきてもくれた。
ほんに何もかも世話になっているのだ。
お茶一杯の愛想も出来ず誠にスマン。
お礼を言うつもりでいた家内だが、帰宅時刻が遅くなったことや明くる日に自分も大学病院で検査を受けるために薬の服用や何やかやとバタバタ。
3日前からの食事制限と前日夕食からの絶食で、月曜日は早朝から出かけて夕刻に帰ってきた。
幸いにも手術入院を伴うヤヤコシイ病気ではなかったようで、当人は勿論のこと私も安堵したのだ。
今家内に倒れられようものなら我が家はにっちもさっちも行かないこと明白。
私自身のリハビリの問題もあるが、何もしてあげられない今の状況に先ず耐えられないだろう。
そんなことをいろいろ考え、 Y 君をはじめ、関わる全ての方たちに感謝である。
そうそう、 Y 君は家族四人で若狭の方へ旅をしたとかで、お土産まで頂いてしまった。
アサリに生姜。それに黒豆きな粉とぶっははははは、好物ばかり。
勿論、わ ・ た ・ し ・ の好物だが、家内が安倍川餅を食べさせてくれるかどうか・・・むむむむむ
ケーキは K の。
あの山小屋風の喫茶店と言うかコンディトライかな ? パティスリー ?
まあ何でもええけど、あの店のケーキは美味いんや。
嫁 H さんの十何年か後輩がこの店でアルバイトしとったなあ。 同女の彼女、語学留学でニュージーランドへ行って直ぐに大地震に遭遇。 この時の地震で奈良女子大の学生らが亡くなったのを思い出した。
地震はさておき、今回頂いたケーキも美味しかった、有難う。
しかしこれは残念と言うよりも、むしろ有り難く喜ぶべきことと思っている。
下半身の機能回復が今ほど進んでいなかった頃は思うように動けず、出来ることは座って手を動かし考えを巡らせることぐらいであった。
ところが不安定で立ち歩きするたびに倒れないかと不安で、そのため立ち歩くことが苦になっていたのだが、最近は少しずつ自信が備わり行動に広がりが出てきたためにすることが増えてブログの更新内容にも影響が出ているのだ。
それと共に私が少しばかり留守番が出来るので家内が用事で出かける機会も増えてきて、これも喜ばしいことである。
5 月の第 2 日曜にあたる
11日、日本では母の日である。
この日家内は大阪市内までリコーダーの練習に出かけていたのだ。
家内が作っておいてくれた昼食を済ませ、ノンビリとバロックを楽しんでいた時に Y 君が訪ねて来てくれた。
母の日だからとカーネーションのお花にケーキを持ってきてくれたのだ。
いつもいつも気遣い頂き感謝感謝である。
何かあれば直ぐに、まるで息子のように頼み事を・・・・・
嫁の H さんも二人の子育てで忙しい状況にあることは分かるし、この日初めて聞き知ったのだが Y 君の父上が二度目の手術を受けるために再入院されているんだと。
知らなかったとは言え申し訳ないやら有り難いやら・・・
先月には私の誕生日の祝いに嫁の H と長女 K ・長男 K を連れて我が家を訪れてくれたし、私のベッドでの本読み用のフロアスタンドのLED電球を仕事帰りに買ってきてもくれた。
ほんに何もかも世話になっているのだ。
お茶一杯の愛想も出来ず誠にスマン。
お礼を言うつもりでいた家内だが、帰宅時刻が遅くなったことや明くる日に自分も大学病院で検査を受けるために薬の服用や何やかやとバタバタ。
3日前からの食事制限と前日夕食からの絶食で、月曜日は早朝から出かけて夕刻に帰ってきた。
幸いにも手術入院を伴うヤヤコシイ病気ではなかったようで、当人は勿論のこと私も安堵したのだ。
今家内に倒れられようものなら我が家はにっちもさっちも行かないこと明白。
私自身のリハビリの問題もあるが、何もしてあげられない今の状況に先ず耐えられないだろう。
そんなことをいろいろ考え、 Y 君をはじめ、関わる全ての方たちに感謝である。
そうそう、 Y 君は家族四人で若狭の方へ旅をしたとかで、お土産まで頂いてしまった。
アサリに生姜。それに黒豆きな粉とぶっははははは、好物ばかり。
勿論、わ ・ た ・ し ・ の好物だが、家内が安倍川餅を食べさせてくれるかどうか・・・むむむむむ
ケーキは K の。
あの山小屋風の喫茶店と言うかコンディトライかな ? パティスリー ?
まあ何でもええけど、あの店のケーキは美味いんや。
嫁 H さんの十何年か後輩がこの店でアルバイトしとったなあ。 同女の彼女、語学留学でニュージーランドへ行って直ぐに大地震に遭遇。 この時の地震で奈良女子大の学生らが亡くなったのを思い出した。
地震はさておき、今回頂いたケーキも美味しかった、有難う。
May 12, 2014
近頃のリハビリ状況
理学療法士に我が家へ来てもらって受ける訪問リハビリが 6 月初めには終わるのだと。
1 回が40分、それが 1 週間に 2 回。
私の機能回復の現況、つまり障害の実情と回復傾向、それに回復に取り組む意欲と実践、これらを総合して考えると大変少ない少ない僅かな僅かな機会だが、その機会も終わる、否、終えさせられるのだ。
退院後のケアとして自宅へ PT を派遣するというのが病院の立場だったが、訪問リハビリと通所リハビリを重複して受けられないだとか、半年を越えて訪問リハビリは受けられないのだとか、介護保険に関する方針や実際指導など行政の姿勢について私には分からんことが多い。
回復を願っている人について、その人の病気や障害の実情に合わせ、真に快復に向かっての手だてが講じられているかどうか医療・介護の実態には疑問を感じはするが、現行のキマリなら仕方がないか。
ところで私自身のリハビリの原状だが、下の写真は歩行訓練で初めて道路を歩かせてもらった時のもので、 3月17日の拙ブログに掲載している。
次の下の写真も同じ場所での撮影だが、 5月 8日の時のもので、ふたつの写真には 50日の差がある。
葉っぱだけだった平戸ツツジが、見事に花を咲かせるようになっており、映像上は季節の変化をハッキリ見てとれる。
私の方は外見上ダウンのチョッキがウィンド・ブレーカーに変わっただけで、見かけ上両手に杖を持ち何の変化も見れない。
しかし、50日の間には写真では見えない変化があるのだ。
3月の時点ではココで折り返して平坦な道のみを歩いて我が家へ戻り、その際 M・PT が私の背後にくっ付いて歩いてくれたのだった。
ところが 5月の時点ては、 M・PT は私の横を歩き、 3月の時点では歩かなかった更に遠くまで歩いているのだ。 しかも緩やかな勾配ではあるが上り下りの変化のある道を、である。
もっとも上り勾配は先ず支障なく歩けるが、下り勾配は膝が抜けると言うか崩れる心配があり、決して安定しているとは言い難いが確実に回復に向かっていることは実感している。
さて、写真に写っているのは平戸ツツジであり、赤紫色の花はオオムラサキ、薄桃色系で花の中央が薄紅~赤色に染まったアケボノ、白色花のシロタエなどが代表的なヒラドだが、平戸だけでも交配種は随分あり私には分別出来ない。
分からないという点では今年の 5月 2日、我が家へ嫁に来てから初めて花を咲かせたのが写真の風蘭である。
義兄がイワヒバと寄せ植えにしていたのを
1 鉢頂いたのが一昨年のこと。 その冬に私が入院することになり、何の世話もしないままだったが、家内が咲いたよと鉢を持ってきて見せてくれたのだ。
風蘭だったか長生蘭だったか分別できなかったので義兄に尋ねたところ・・・・・
兄の答えは 『 風蘭 』。
40年前に他界されたお父さんが隠岐の島に自生する風蘭だと学友から貰って来たのをずっと兄が株分けしつつ育ててきたものなんだと。
隠岐から義兄の家へ、そして分けられた株の 1 鉢が我が家へ来てくれたのである。
そして写真の如く純白の小さいが綺麗な花を咲かせてくれたのだ。
『 清楚 』 という言葉が将にピッタリの花である。
1 回が40分、それが 1 週間に 2 回。
私の機能回復の現況、つまり障害の実情と回復傾向、それに回復に取り組む意欲と実践、これらを総合して考えると大変少ない少ない僅かな僅かな機会だが、その機会も終わる、否、終えさせられるのだ。
退院後のケアとして自宅へ PT を派遣するというのが病院の立場だったが、訪問リハビリと通所リハビリを重複して受けられないだとか、半年を越えて訪問リハビリは受けられないのだとか、介護保険に関する方針や実際指導など行政の姿勢について私には分からんことが多い。
回復を願っている人について、その人の病気や障害の実情に合わせ、真に快復に向かっての手だてが講じられているかどうか医療・介護の実態には疑問を感じはするが、現行のキマリなら仕方がないか。
ところで私自身のリハビリの原状だが、下の写真は歩行訓練で初めて道路を歩かせてもらった時のもので、 3月17日の拙ブログに掲載している。
次の下の写真も同じ場所での撮影だが、 5月 8日の時のもので、ふたつの写真には 50日の差がある。
葉っぱだけだった平戸ツツジが、見事に花を咲かせるようになっており、映像上は季節の変化をハッキリ見てとれる。
私の方は外見上ダウンのチョッキがウィンド・ブレーカーに変わっただけで、見かけ上両手に杖を持ち何の変化も見れない。
しかし、50日の間には写真では見えない変化があるのだ。
3月の時点ではココで折り返して平坦な道のみを歩いて我が家へ戻り、その際 M・PT が私の背後にくっ付いて歩いてくれたのだった。
ところが 5月の時点ては、 M・PT は私の横を歩き、 3月の時点では歩かなかった更に遠くまで歩いているのだ。 しかも緩やかな勾配ではあるが上り下りの変化のある道を、である。
もっとも上り勾配は先ず支障なく歩けるが、下り勾配は膝が抜けると言うか崩れる心配があり、決して安定しているとは言い難いが確実に回復に向かっていることは実感している。
さて、写真に写っているのは平戸ツツジであり、赤紫色の花はオオムラサキ、薄桃色系で花の中央が薄紅~赤色に染まったアケボノ、白色花のシロタエなどが代表的なヒラドだが、平戸だけでも交配種は随分あり私には分別出来ない。
分からないという点では今年の 5月 2日、我が家へ嫁に来てから初めて花を咲かせたのが写真の風蘭である。
義兄がイワヒバと寄せ植えにしていたのを
1 鉢頂いたのが一昨年のこと。 その冬に私が入院することになり、何の世話もしないままだったが、家内が咲いたよと鉢を持ってきて見せてくれたのだ。
風蘭だったか長生蘭だったか分別できなかったので義兄に尋ねたところ・・・・・
兄の答えは 『 風蘭 』。
40年前に他界されたお父さんが隠岐の島に自生する風蘭だと学友から貰って来たのをずっと兄が株分けしつつ育ててきたものなんだと。
隠岐から義兄の家へ、そして分けられた株の 1 鉢が我が家へ来てくれたのである。
そして写真の如く純白の小さいが綺麗な花を咲かせてくれたのだ。
『 清楚 』 という言葉が将にピッタリの花である。
May 11, 2014
G W ・ こどもの日
5 月 5 日は端午の節句、子どもの日である。
我が息子たちの健やかな成長を願い、狭い庭ながら長い金属ポールを立ち上げて吹き流しに真鯉、緋鯉に子鯉を上げたのは、もう40年近く前。
子どもたちが小学校 3 、4年になる頃まで毎年この時期には鯉のぼりを泳がせていたものだ。
何だか古い昔のことを盛んに思い出す此の頃だ。
♪ 屋根より高い鯉のぼり
大きい真鯉はお父さん
小さい緋鯉は子どもたち
面白そうに泳いでる
だったか、緋鯉がお母さんだったか少々記憶が曖昧だが、この時期に思い出す歌のひとつだ。
同じ鯉のぼりの歌でも、
♪ いらか(甍)の波と雲の波
重なる波の中空を
たちばな香る朝風に
高く泳ぐや鯉のぼり
という歌もあった。
1番の歌詞は何とか記憶しているが2番は思い出せない。
私にとって最も思い出深い歌は母親に教えてもらった
♪ 柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
ちまき食べ食べ 兄さんが
測ってくれた 背のたけ
昨日比べりゃ 何のこと
やっと羽織の 紐のたけ
端午の節句を迎え、先ず口ずさむのは母親に教えてもらったこの歌である。
今はもう無くなってしまったが、私が生まれ育った家の柱には歌の歌詞を真似て私の背丈が記されていた。
柱のことだから流石に傷をつけるわけにはいかず、鉛筆で線引きされただけのものであったが・・・・・
端午の節句の頃、私が育った家の床の間には写真の鎧兜装束の武者、太刀、真鯉の軸が掛けられ、菖蒲の花が活けられたものだ。
掛け軸は祖父から譲り伝えられてきたものだから、祖父の思い、父の思いが私には分かる。
息子たちが小さかった頃には真鯉の軸を掛けていたが、私の思いは通じていたろうか。
やがて我が愚息夫婦にも新しい生命を授かるかもしれない。
それが男児であれ女児であれ願う気持ちに変わりはなく、その折には思いを込めて愚息に軸を託すことになるだろう。
世の中には古いからダメなどと言うヤカラがいるが、古くても良いもの ( こと ) は良いのだ。
物事の内容で価値判断をしなければならないのだが・・・・・
さて、旧き慣習に端午の節句の 『 菖蒲湯 』 がある。
お風呂屋さんでは、子どもの日には大きい湯船に菖蒲の葉を太い束にして浮かべてくれていた。
確か束は二つあったと思うが結構太い束で浮き輪のように浮くものだから湯船をプール代わりに遊んだものだった。
ただ当時は菖蒲の香りが、どうにもこうにも好きになれなかったことを覚えている。
今年の 5 月 5 日は馴染みの花屋さんから頂いた菖蒲で菖蒲湯を楽しませてもらった。
いつもいろんな花を頂いて有難う。
それと、忘れてたが 5 日は立夏でもあった。
別れ霜も過ぎ、いよいよ夏に向かってまっしぐらになる。
我が息子たちの健やかな成長を願い、狭い庭ながら長い金属ポールを立ち上げて吹き流しに真鯉、緋鯉に子鯉を上げたのは、もう40年近く前。
子どもたちが小学校 3 、4年になる頃まで毎年この時期には鯉のぼりを泳がせていたものだ。
何だか古い昔のことを盛んに思い出す此の頃だ。
♪ 屋根より高い鯉のぼり
大きい真鯉はお父さん
小さい緋鯉は子どもたち
面白そうに泳いでる
だったか、緋鯉がお母さんだったか少々記憶が曖昧だが、この時期に思い出す歌のひとつだ。
同じ鯉のぼりの歌でも、
♪ いらか(甍)の波と雲の波
重なる波の中空を
たちばな香る朝風に
高く泳ぐや鯉のぼり
という歌もあった。
1番の歌詞は何とか記憶しているが2番は思い出せない。
私にとって最も思い出深い歌は母親に教えてもらった
♪ 柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
ちまき食べ食べ 兄さんが
測ってくれた 背のたけ
昨日比べりゃ 何のこと
やっと羽織の 紐のたけ
端午の節句を迎え、先ず口ずさむのは母親に教えてもらったこの歌である。
今はもう無くなってしまったが、私が生まれ育った家の柱には歌の歌詞を真似て私の背丈が記されていた。
柱のことだから流石に傷をつけるわけにはいかず、鉛筆で線引きされただけのものであったが・・・・・
端午の節句の頃、私が育った家の床の間には写真の鎧兜装束の武者、太刀、真鯉の軸が掛けられ、菖蒲の花が活けられたものだ。
掛け軸は祖父から譲り伝えられてきたものだから、祖父の思い、父の思いが私には分かる。
息子たちが小さかった頃には真鯉の軸を掛けていたが、私の思いは通じていたろうか。
やがて我が愚息夫婦にも新しい生命を授かるかもしれない。
それが男児であれ女児であれ願う気持ちに変わりはなく、その折には思いを込めて愚息に軸を託すことになるだろう。
世の中には古いからダメなどと言うヤカラがいるが、古くても良いもの ( こと ) は良いのだ。
物事の内容で価値判断をしなければならないのだが・・・・・
さて、旧き慣習に端午の節句の 『 菖蒲湯 』 がある。
お風呂屋さんでは、子どもの日には大きい湯船に菖蒲の葉を太い束にして浮かべてくれていた。
確か束は二つあったと思うが結構太い束で浮き輪のように浮くものだから湯船をプール代わりに遊んだものだった。
ただ当時は菖蒲の香りが、どうにもこうにも好きになれなかったことを覚えている。
今年の 5 月 5 日は馴染みの花屋さんから頂いた菖蒲で菖蒲湯を楽しませてもらった。
いつもいろんな花を頂いて有難う。
それと、忘れてたが 5 日は立夏でもあった。
別れ霜も過ぎ、いよいよ夏に向かってまっしぐらになる。