March 03, 2013
私のリハビリの現況
急性期治療を主とする大学病院でのリハビリ治療は1日に1単位(20分)程度であり、近大医学部の中西 Dr からは脊髄専門のリハビリを行える病院への早期の転院を再三勧められていた。
中西 Dr が早期の転院と専門のリハビリを勧めたのは、そうすることで機能回復する度合いが幾段も早まり高まるからであった。 当然私に異存は無く、できるだけ家内に来てもらいやすい病院をと願う私どもの意向も踏まえ、近大奈良病院のソーシャルワーカー N さんが連絡調整をして私の阪奈中央病院への転院を決めてくれたのである。
転院して1週間ほどは脳外科病棟の病室に入り、検査などが続いたこともあってリハビリ訓練の時間は近大病院と変わらなかった。 この間わずか数日であったが加治屋先生(理学療法士、30歳半ばくらい?)の丁寧なリハビリテーションを受けた。
回復期のリハビリテーションは一人の患者に対して1日に9単位を限度として行えるらしい。
つまり、20分×9単位=180分。 1日に3時間の指導を行うことができるというわけだ。
写真の指導者は山口弘佑先生(理学療法士・Physical Therapist)。
リハビリ病棟の病室に移ってからは山口先生の指導を受けている。
いつのことだったか指導してくれている山口先生の左腕が随分太く立派なのに気付き、何か運動経験がありそうですねと世間話のつもりで話しかけたことがあった。
それに対して山口先生が「子どもの頃からずっと野球をやっていました。」と答えてくれたものだから、話題をリトルリーグに振ってみると、高校でも大学でもやっていたと更に話が発展した。
それなら社会人野球やプロ野球からも声が掛かったのではと言うと、
「プロに・・・日本ハムファイターズにいたことが・・・」
「ええっ?!」
世間話のつもりで軽く話したことが、何と意外な方向への発展に驚いてしまった。
あらためてネットで調べてみると、
山口弘佑(やまぐち こうすけ、1977年8月6日-)は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)。
泉州高等学校から、奈良産業大学を経て、リースキン広島へ入社。
中継ぎの即戦力としてドラフト直前に急浮上し、2001年のドラフト会議にて日本ハムファイターズから2位指名を受け入団。
身長176cm 体重75kg 左投左打、と。
この山口先生の理学療法臨床実習時の指導教官が近大医学部奈良病院の横山先生であったことも知り得た。
私にすれば師弟続けてのリハビリテーションを受けているわけだ。
毎日、土曜も日曜も関係なく、午前に1時間、午後に1時間、山口先生のリハビリテーションを受けている。
わずかな、大したことのない運動である。 健康であった時にはだ。
だが、今は違う。 連日大変な疲労で疲れが蓄積する一方のような感じだ。
そうそう、見舞いについて書いたところだが、昨日は千里山の義兄夫婦が春の便りを携えて見舞ってくれた。
庭に咲いた白梅の枝を手折ってきてくれたのである。
いい香りだった。
この病院では花を活けることが出来ないので家内に持って帰ってもらったが、外界と隔離されている私には『どんぐり』の実も『白梅の花』も嬉しいものである。
義兄も大病を経験し、
73歳。 何度も病室まで見舞ってもらって恐縮である。
義姉は家内の実姉。
兄弟なく育った私は家内と一緒になって一度に多くの兄弟を得た。
末っ子の家内ゆえ私も新しい兄弟の中の末弟となったわけだが、兄や姉たちには、これまでいつも気遣い大切にしてもらってきている。
全く嬉しく有難いことであり感謝の言葉もない。
東松島市の安倍さん(現在は大崎市に在住)からは見舞いと力づけの言葉をつづった葉書をたびたび頂戴、またポルトガル在住の画家・武本比登志氏からも見舞いのメールを頂戴している。
ここに紹介し感謝の意を表しておきたい。
それから東京・品川のEさんMさんご夫妻の心遣いにも感謝。
今日は3月3日(日)、桃の節句だ。 病院でも『ちらし寿司』の昼食が提供された。
確かに春は近付いてきている。
素敵な春が私のもとにも・・・一日でも早く訪れてくれることをひたすら願っている。
可愛い見舞客
見舞いはお断りしているのだが・・・
病状深刻で医師より面会禁止の指示が出ているならともかくも、来て頂いたのを拒むことは出来ない。
などとカッコ付けるつもりは無いが、病院生活に退屈している身にとっては嬉しいという気持ちもあるのだ。
正直に言えば、そうした嬉しさと、わざわざ来てもらって申し訳ない、有難いといった気持ちがない交ぜになっているのが現在の私の偽らざる心境である。
午後の面会時間に部屋を訪れてくれたのは林君と奥さん、それに彼らの愛娘・J ちゃん。
この前はいつ会ったのだったか、3歳になったのだと指を立てて示してくれた J ちゃんがお見舞いに持ってきてくれたのが写真の
『どんぐり』。
ちっちゃなものなので病室でのお守りとして大切に筆箱に収めている。
J ちゃんの父親・林君は中国・福建省の呂氏を師父とする中国武術(拳法)の実践家で、ニューヨークに於いて10年近く武術指導を行ってきており、現在は奈良や京都、大阪でも武術教室 ( 講座名・ニューヨークカンフー ) を開いている。 彼は今回の私の入院に際して何かと世話をかけてきた
Y 君と同い年だから今年は前厄。 厄年というものを信ずるかどうかは別にして、体調の変化を示す出来事が多いと私は感じているので、私を見舞う心づもりで自愛してほしいものと願う。
林君は2004年、2005年の全米素手部門上級大会優勝のほか、他の部門でも優秀な成績を残してきた武術者である。
武術と言えば、ともすれば結果重視になりがちである。 ニューヨークの生徒たちも技量至上、いかにして相手を倒せるか、相手に勝つための技術とは、このことを目的とする生徒が多かったそうだ。
こうした思いが間違っているとは言わない。 もともと武術(武芸)というのは相手(敵対するもの)を倒すために考え出されたものであり、それは武具の開発をも促してきた歴史をたどり、生きるための食糧確保の手段として工夫発展した結果が現代の戦争という事態にまで繋がっているのだから。
しかし、林君も私も結果至上の考えは持たない。 結果は大切なことだが、それを最高の目標として、目標達成のために何をしても良いという考えには賛同できないという意味である。
彼の生活姿勢や言葉には『道』が感じ取れる。
言葉で遊ぶつもりはないが、『武芸』と『武道』は違う。
『武』と『道』の普及に、今後も一層活躍されんことを期待している。
林君のインターネット・ページを紹介しておこう。
New York Wushu、それにNYC Kung Fu Centerについては現在は開けない。
Googleの検索で『ニューヨークカンフーセンタ - About | Facebook』
或いは『生徒と武術兄弟 | New York Wushu』で開いていただきたい。
February 28, 2013
老齢・・・一考
が、翌日頂いたメールに「私はそれほど年寄りだとは思っていない」旨が書かれていた。
確かに。
義兄の体躯は立派で姿勢良く、見かけ上は白髪頭のみが『老い』を感じさせるだけである。
義兄は 3 月に喜寿を迎える。
日本の医療保険制度上、この制度が良いか悪いかの評価は別にして年齢を基準とする分類では75歳以上を後期高齢者としているからマスクをしようが逆立ちをしようが義兄は年寄りに違いないのである。
かく言う私自身も『前期』という言葉が冠されているものの前期高齢者・・・制度上は年齢において立派な年寄りなのである。
もっとも、私も「それほど年寄りだと思ってはいない」のだが。
『年寄り』『老人』『老齢者』『高齢者』等々、年老いた人と同義の言葉は沢山あるが、『年寄り』や『老人』などの定義は科学各分野に於いても無い(はず)。 国連の世界保健機関(WHO)の定義も65歳以上の者を高齢者と年齢で区分しているだけ(らしい)。
仏教に言う四苦、『生老病死』については以前にも触れているが、人間にとって避けて通ることの出来ない事柄であり、『老』についても人文・社会・自然の各科学分野からの研究が深められ、年老いた者は身体的機能や生理的機能、そのほか認知、感覚などの機能面での低下が一般的に多いことが明らかにされてきた。
だからと言って、身体的運動機能が低下しているから年寄りであるとは言えないし、認知力に障害があるからイコール老人という式も成り立たない。
つまり義兄を評して「年老いた」と表現した私は老齢と判じる私自身の感覚的尺度を持っており、『77歳という年齢は老齢』、『白髪を有する者は老齢』、『年長者である兄は私以上に老齢』などと様々なスケールを総合して書き記したものの、年寄りと思うか思わないか、所詮これは感覚的なものなのである。
上の写真は2月25日に病室を見舞ってくれた長兄。 となりは家内である。
長兄は1928年(昭和3年)生まれ。 昭和元年(大正15年)は実質6日間だから、実に激動の昭和と共に歩んできた人であり、家内にとっては父親代わりの85歳。
10数年前に私がプレゼントしたワープロをとことん使いつぶし、昨年末には富士通のパソコンを仕入れて古典文学(日本)のリファレンスを作成しているという。
長兄は大阪・寝屋川からバスに鉄道を5回も乗り継いで来てくれた。
耳は遠くなったし、視力の衰えも進んでいる。 それに歩行も前かがみで・・・うーーむ。
明らかに老化現象を呈しているが、『年老いた義兄(長兄)』とは書くまい。
遠路病室にまで見舞いに訪ねてくれたことを謝し、心配をかけて申し訳ないと私の気持ちだけ書いておこう。