November 06, 2012
秋の一日 エル・グレコ展鑑賞に (1)
文化の日の前日、家内と朝の8時過ぎに我が家を出発して大阪・中之島にある国立国際美術館へ向かった。
以前、 『今秋の行動予定』(October 08, 2012)の一番にエル・グレコ展の鑑賞を挙げておいたが、彼のどのような作品がどれくらい集まってきているのか楽しみにしていたのだ。 だから近頃には珍しい8時過ぎの出発にしたのだが、これには理由がある。 美術(博物)館は通常午前10時に開館するのだが、企画展の初日を除いて開館時刻に混雑することは少ないため静かな環境で比較的ゆっくりと鑑賞できるのである。 勿論ハズレの場合もあるのだが、今回も予想通り凡そ 1 時間ばかりノンビリゆったりと鑑賞し、見直しておきたい作品のもとへもスムースに戻ることが出来て満足満足大満足であった。
上の写真はグレコ1595年頃の作品で『芸術家の自画像』。 ニューヨークのメトロポリタン美術館から飛んで来たもの。
今回の展覧会のために集められた作品は 51 点。 スペインは勿論のこと、アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリア、ギリシャなどのほか個人のコレクションも含まれており、エル・グレコ(1541年~1614年)を研究する者でなくとも嬉しい内容であった。
エル・グレコ展の展示内容は『肖像画家エル・グレコ』『肖像画としての聖人像』『見えるものと見えないもの』『クレタからイタリア、そしてスペインへ』『トレドでの宗教画 : 説話と祈り』『近代芸術家エル・グレコの祭壇画 : 画家、建築家として』と6つに分類されていて見やすい構成であったと思う。
写真は1577年から1590年頃に描かれた『白貂の毛皮をまとう貴婦人』(グラスゴー美術館 蔵)
この絵はエル・グレコの作品ではないとする説があったり、像の女性は誰なのかといった話題性を持つ作品である。 トレド時代のグレコの愛人・ヘロニマ・デ・ラス・クエバスではないかという説もあるが、私にとってはどうでも良いことである。
しかし、自画像にしても女性の絵にしてもグレコの肖像画は緻密で描写力に優れ、肖像画の人物と言葉を交わしているかのような錯覚に陥るほど描かれた人物に生き生きしたものを私は感じるのだ。
仄かな明かりが少年の顔を照らしているこの作品は1571年から1572年頃の作品『燃え木で蝋燭を灯す少年』である。 これはイタリア・ナポリのカポディモンテ美術館(Napoli : Capodimonte National Gallery)からやってきたものだ。
写真はエル・グレコ展のカタログを撮影したものだが背景色との対比が若干異なるので、より良い写真にリンク(青色の文字部分をクリック)させている。
ナポリは巡る所が多くてカポディモンテ美術館は訪れることができなかったが、今回この作品が日本へ飛んできてくれたことは嬉しい限りだ。
この絵によく似た絵をプラド美術館で見たことがある。1580年に制作された『寓話』であるが、2006年に大阪市立美術館で開催された『プラド美術館展』にも出品されていた。
燃え木で蝋燭に明かりを点けるため、口を細めて
"ふうーっ"と息を吹きかけている少年の仕草や表情は同じように見えるが、10年近い年月を空けて描かれた『寓話』には、にこやかな表情の男と猿が少年の手元に見入っている姿が描き加えられている。 『寓話』(Fable)と題された作品ゆえ何かを諷刺しているのか、或いは何かの教訓めいたことを語ろうとしているのか、『燃え木で蝋燭を灯す少年』を描いて以降、グレコの思想や考え方にどのような変化があったものか、♪ 気になる気になる その~木、何の木、気になる気になる・・・ははははは
さて、気になっていたのはグレコの宗教画についてであったが、この面でも沢山の作品が集められていた。
中でも『受胎告知』については初めて鑑賞する作品が出展されていたので大満足であった。
グレコの『受胎告知』と題された作品を初めて見たのは確か昭和39年(1964年)に岡山県・倉敷市にある大原美術館を訪れた時であった。
上の写真が大原美術館のカタログに掲載されているグレコの『受胎告知』の部分。下のモノクロと両方が掲載されている。
この時に何か言い様の無い惹き付けられる感動をもって、じぃーっと、ただ眺め続けていたという記憶がある。
その時に感じ入った気持ちが大原美術館のカタログを買う行動に走らせたのだが・・・
今なら2000円や3000円の図録でも買うのに支障が無い程度のお小遣いは持っているが、学生時代というのはホンマに厳しい状況であった。 そんななけなしの小遣いから奮発して買った図録だから今でも大切に持っているのだ。
ちなみに2010年に発行された『大原美術館名作選』には質の良いカラー写真で掲載されている。
この大原美術館のカタログに掲載されている『受胎告知』と同じ構図の作品がハンガリーのブダペスト美術館にある。
どちらもグレコの作品とのことだが、画家にしろ彫刻家にしろ練習のために作る習作というものがある。
日本では器楽練習用の楽曲の場合エチュードというフランス語の言葉が定着しているが、美術では習作と呼ばれることが多い。
果たして習作は大原かブダペストか。
そんなことは私にとってどうでもいいことである。
参考にブダペスト美術館所蔵の『受胎告知』を貼り付けておこう。
この作品については実物を見ていないので大原美術館の『受胎告知』との構図における比較は出来るが、色調については分からない。
比べ見たところ随分色彩が異なるが果たしてどんなものか。
この絵の出典は『The Web Gallery of Art』であり、URLは以下の通りである。
http://www.wga.hu/index1.html
今回のエル・グレコ展で展示されている『受胎告知』は3点であり、それらも紹介してみよう。
左はティッセン=ボルネミッサ美術館所蔵の『受胎告知』で1576年頃の制作である。
ティツィアーノらヴェネツィア派絵画の影響を受けていると評されている作品である。
参考までにティツィアーノの『受胎告知』も挙げておこう。
このティツィアーノの作品は
1559年から1564年頃、彼が
70歳を過ぎて描いた大作
(403×235cm )でイタリア・ヴェネツィアの有名なリアルト橋の近くにあるサン・サルバドル教会(Chiesa di San Salvatore)にある。
天空への奥行や色彩配置、また視覚効果を考慮してか少しばかり人物に誇張が見られるように思うが、そうしたところがヴェネツィア派絵画の影響を受けていると評されているのかもしれない。
美術史専攻でも絵描きでもないド素人が大口を叩くのは良くないのでコレくらいで。
ひとつのページの写真や文字が多くなると受け付け反応してくれなくなるので次ページに続きを書くことにする。
以前、 『今秋の行動予定』(October 08, 2012)の一番にエル・グレコ展の鑑賞を挙げておいたが、彼のどのような作品がどれくらい集まってきているのか楽しみにしていたのだ。 だから近頃には珍しい8時過ぎの出発にしたのだが、これには理由がある。 美術(博物)館は通常午前10時に開館するのだが、企画展の初日を除いて開館時刻に混雑することは少ないため静かな環境で比較的ゆっくりと鑑賞できるのである。 勿論ハズレの場合もあるのだが、今回も予想通り凡そ 1 時間ばかりノンビリゆったりと鑑賞し、見直しておきたい作品のもとへもスムースに戻ることが出来て満足満足大満足であった。
上の写真はグレコ1595年頃の作品で『芸術家の自画像』。 ニューヨークのメトロポリタン美術館から飛んで来たもの。
今回の展覧会のために集められた作品は 51 点。 スペインは勿論のこと、アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリア、ギリシャなどのほか個人のコレクションも含まれており、エル・グレコ(1541年~1614年)を研究する者でなくとも嬉しい内容であった。
エル・グレコ展の展示内容は『肖像画家エル・グレコ』『肖像画としての聖人像』『見えるものと見えないもの』『クレタからイタリア、そしてスペインへ』『トレドでの宗教画 : 説話と祈り』『近代芸術家エル・グレコの祭壇画 : 画家、建築家として』と6つに分類されていて見やすい構成であったと思う。
写真は1577年から1590年頃に描かれた『白貂の毛皮をまとう貴婦人』(グラスゴー美術館 蔵)
この絵はエル・グレコの作品ではないとする説があったり、像の女性は誰なのかといった話題性を持つ作品である。 トレド時代のグレコの愛人・ヘロニマ・デ・ラス・クエバスではないかという説もあるが、私にとってはどうでも良いことである。
しかし、自画像にしても女性の絵にしてもグレコの肖像画は緻密で描写力に優れ、肖像画の人物と言葉を交わしているかのような錯覚に陥るほど描かれた人物に生き生きしたものを私は感じるのだ。
仄かな明かりが少年の顔を照らしているこの作品は1571年から1572年頃の作品『燃え木で蝋燭を灯す少年』である。 これはイタリア・ナポリのカポディモンテ美術館(Napoli : Capodimonte National Gallery)からやってきたものだ。
写真はエル・グレコ展のカタログを撮影したものだが背景色との対比が若干異なるので、より良い写真にリンク(青色の文字部分をクリック)させている。
ナポリは巡る所が多くてカポディモンテ美術館は訪れることができなかったが、今回この作品が日本へ飛んできてくれたことは嬉しい限りだ。
この絵によく似た絵をプラド美術館で見たことがある。1580年に制作された『寓話』であるが、2006年に大阪市立美術館で開催された『プラド美術館展』にも出品されていた。
燃え木で蝋燭に明かりを点けるため、口を細めて
"ふうーっ"と息を吹きかけている少年の仕草や表情は同じように見えるが、10年近い年月を空けて描かれた『寓話』には、にこやかな表情の男と猿が少年の手元に見入っている姿が描き加えられている。 『寓話』(Fable)と題された作品ゆえ何かを諷刺しているのか、或いは何かの教訓めいたことを語ろうとしているのか、『燃え木で蝋燭を灯す少年』を描いて以降、グレコの思想や考え方にどのような変化があったものか、♪ 気になる気になる その~木、何の木、気になる気になる・・・ははははは
さて、気になっていたのはグレコの宗教画についてであったが、この面でも沢山の作品が集められていた。
中でも『受胎告知』については初めて鑑賞する作品が出展されていたので大満足であった。
グレコの『受胎告知』と題された作品を初めて見たのは確か昭和39年(1964年)に岡山県・倉敷市にある大原美術館を訪れた時であった。
上の写真が大原美術館のカタログに掲載されているグレコの『受胎告知』の部分。下のモノクロと両方が掲載されている。
この時に何か言い様の無い惹き付けられる感動をもって、じぃーっと、ただ眺め続けていたという記憶がある。
その時に感じ入った気持ちが大原美術館のカタログを買う行動に走らせたのだが・・・
今なら2000円や3000円の図録でも買うのに支障が無い程度のお小遣いは持っているが、学生時代というのはホンマに厳しい状況であった。 そんななけなしの小遣いから奮発して買った図録だから今でも大切に持っているのだ。
ちなみに2010年に発行された『大原美術館名作選』には質の良いカラー写真で掲載されている。
この大原美術館のカタログに掲載されている『受胎告知』と同じ構図の作品がハンガリーのブダペスト美術館にある。
どちらもグレコの作品とのことだが、画家にしろ彫刻家にしろ練習のために作る習作というものがある。
日本では器楽練習用の楽曲の場合エチュードというフランス語の言葉が定着しているが、美術では習作と呼ばれることが多い。
果たして習作は大原かブダペストか。
そんなことは私にとってどうでもいいことである。
参考にブダペスト美術館所蔵の『受胎告知』を貼り付けておこう。
この作品については実物を見ていないので大原美術館の『受胎告知』との構図における比較は出来るが、色調については分からない。
比べ見たところ随分色彩が異なるが果たしてどんなものか。
この絵の出典は『The Web Gallery of Art』であり、URLは以下の通りである。
http://www.wga.hu/index1.html
今回のエル・グレコ展で展示されている『受胎告知』は3点であり、それらも紹介してみよう。
左はティッセン=ボルネミッサ美術館所蔵の『受胎告知』で1576年頃の制作である。
ティツィアーノらヴェネツィア派絵画の影響を受けていると評されている作品である。
参考までにティツィアーノの『受胎告知』も挙げておこう。
このティツィアーノの作品は
1559年から1564年頃、彼が
70歳を過ぎて描いた大作
(403×235cm )でイタリア・ヴェネツィアの有名なリアルト橋の近くにあるサン・サルバドル教会(Chiesa di San Salvatore)にある。
天空への奥行や色彩配置、また視覚効果を考慮してか少しばかり人物に誇張が見られるように思うが、そうしたところがヴェネツィア派絵画の影響を受けていると評されているのかもしれない。
美術史専攻でも絵描きでもないド素人が大口を叩くのは良くないのでコレくらいで。
ひとつのページの写真や文字が多くなると受け付け反応してくれなくなるので次ページに続きを書くことにする。
November 03, 2012
藤本義一氏のご逝去を悼む
作家・藤本義一氏が10月30日79歳で他界された。
衷心よりご冥福をお祈り申し上げる。
先輩には 5 年前の同窓会で久し振りにお会いしたが、それが最後となってしまった。
ひと回り違うが、年上だからと偉そうに振る舞うこともなく気さくに話し相手をして頂いた。
少し足腰が弱られたように見えたので、私もオジンの仲間入りをしたと話を振ったところ、
「君はまだまだ若い、私はもう 74 歳やでえ、まだまだ頑張れるがな。」と言ってもらった時の声が今も耳に残っている。
その先輩が 79 歳で逝かれた。
我が齢を振り返り、
『散る桜 残る桜も 散る桜』
良寛の歌が思い浮かぶ。
合掌
衷心よりご冥福をお祈り申し上げる。
先輩には 5 年前の同窓会で久し振りにお会いしたが、それが最後となってしまった。
ひと回り違うが、年上だからと偉そうに振る舞うこともなく気さくに話し相手をして頂いた。
少し足腰が弱られたように見えたので、私もオジンの仲間入りをしたと話を振ったところ、
「君はまだまだ若い、私はもう 74 歳やでえ、まだまだ頑張れるがな。」と言ってもらった時の声が今も耳に残っている。
その先輩が 79 歳で逝かれた。
我が齢を振り返り、
『散る桜 残る桜も 散る桜』
良寛の歌が思い浮かぶ。
合掌
October 31, 2012
みちのく行 (2) 会津若松(飯盛山-1)
早朝の会津若松市内は車の走行はほとんど無く、道行く人の姿も見ぬまま飯盛山麓にある土産物店の駐車場に入った。 下の写真は『白虎隊伝承史学館』。
会津若松は戦国時代には黒川と呼ばれ蘆名氏の領地であったが仙台の伊達政宗が戦で勝ち取った後、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が東北地方の領地分け(奥州仕置)を行い、会津若松には蒲生氏郷が封じられた。 この氏郷が黒川を若松と改め若松城を築き、町割を行って城下町の体裁を整えたと伝えられている。
その後、上杉景勝(家老・直江兼続)、蒲生秀行、加藤嘉明らが所領するが、1643年に保科正之が会津藩主に封じられ、以後幕末まで会津松平家が藩主を承継していくことになる。 この保科正之は庶子ではあるが徳川2代将軍・秀忠の四男、つまり3代将軍・家光の異母弟になる。
秀吉や伊達政宗など、いずれの武将・大名も名前はよく知られている人たちである。 秀吉の死後、徳川家康が台頭してくるが、そうした動きに反発していたのが五大老の一人・上杉景勝とその家老・直江兼続、この直江と密に繋がっていたのが五奉行の一人・石田三成であった。 景勝は直江に新城建築と兵力増強を命じて戦に備えるが、これに対して家康は会津征伐を開始した。 この会津の動きに呼応して三成が大坂で挙兵。 つまり会津での開戦が関ヶ原の戦いの緒戦であったとも言えるのである。
写真は飯盛山入口から少し登りかけた所。 左手に白虎隊記念館、真ん中の石段が白虎隊墓地まで続き、右手に『飯盛山動く坂道』がある。
僅かな時間を仮眠しただけの体は動く坂道の文字に強烈な魅力を感じたのだが、早朝の静けさの代償と言うか、動く坂道は物音ひとつせず、金属製の入口の門は閉じられ南京錠まで掛けられていた。
しかし何と言っても会津若松を印象深くさせるのは幕末の出来事によると私は思う。
1860年前後、日本は将に鎖国と言う太平の眠りから目覚めさせられ、国の興亡を賭ける大転換期にあったと言って良い。 武士階級に限らず世論は尊王攘夷、討幕・佐幕に揺れ動く社会不安の状況下にあり、京都にはそうした思想を持つ者たちが全国から集まり不穏な空気が漂っていた。 思想弾圧である安政の大獄が行われたのも、この弾圧を指示した井伊直弼が暗殺された桜田門外の変も同じ時期に起きている。 こうした状況のため京都の治安維持も京都所司代と奉行所だけでは難しく、幕府は都の治安を総括する京都守護職を新設し、会津藩 9 代藩主・松平容保(かたもり)を任じた。
写真は白虎隊隊士たちの墓が並ぶ墓地。(A)
容保は内裏(孝明天皇)守護や上洛してきた徳川 14 代将軍・家茂の警護(家茂は薩摩藩や会津藩などの公武合体策を具現化するとして皇女・和宮と結婚、正室として迎え入れたことは良く知られている)の任にあたり、また薩摩藩や一部の公家たちと結んで京都より長州藩を追放する役割を果たしているが、この会津藩預かりとして反幕・討幕の勤王の志士や京都の町人を恐怖のどん底に落とし入れていた佐幕・武闘派の軍事集団が浪士だけではなく町人や農民も混じっていた新選組であった。
将軍・家茂は禁門の変を起こして朝敵となった長州征伐を命じられるが、第二次長州征伐の折りに大坂城で亡くなってしまう。 この頃には土佐藩の坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれ、薩摩は幕府の長州討伐に加担せず『一会桑』が主導する幕政に薩長両藩ともに反対することが示されている。 『一会桑』というのは一橋慶喜、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬のことである。 結果、長州征伐を中止した一橋慶喜は徳川 15 代将軍職に就き、1867年11月に大政奉還を行った。 翌68年1月には王政復古の大号令が発せられ、それは将軍職辞職を認め、江戸幕府及び京都守護職・京都所司代を廃すといった内容で、一橋慶喜と会津の松平容保などの旧幕府勢力の影響力を無くして新政府を発足させるものであった。
写真は白虎隊隊士たちの墓が並ぶ墓地。(B)
1868年1月、兵庫沖に停泊していた幕府軍艦が薩摩軍艦を砲撃したことによって『戊辰戦争』の幕が切って下ろされ、会津藩や桑名藩を中心とする旧幕府軍と薩摩・長州両藩を中心とする新政府軍による鳥羽・伏見の戦いに展開することとなった。 この鳥羽・伏見の戦いで錦の御旗を拝した官軍の勢いはすさまじく、兵数では勝っていた会津や桑名などの旧幕府軍だが朝敵の汚名を消すことができずに敗戦を重ね、司令官たる一橋慶喜や会津の松平容保、桑名の松平定敬らが幕府軍艦で江戸へ落ち延びたことにより大坂城は長州藩が接収してしまった。
この後、官軍が旧幕府勢力の掃討作戦に着手して中国・四国・九州・東海を完全に掌握して関東へ。
官軍は更に江戸へ侵攻し、江戸城の無血開城を経て上野・彰義隊を壊滅させた。
写真は白虎隊の精神と行動に感動したイタリアのムッソリーニがポンペイの遺跡から発掘された石柱で制作した記念碑を元老院とローマ市民の名で1928年に寄贈したものらしい。
新政府軍が江戸を制圧していた頃、奥羽各藩は会津藩・庄内藩の朝敵赦免を要請していたが新政府は拒否。 そのため奥羽越列藩同盟が結ばれるも順次降伏したり征討されたりして、やがて北海道・箱館(五稜郭)での戦で戊辰戦争は終焉を迎えることになる。 この奥羽越での戦線のうち会津藩と新政府軍の戦を会津戦争と言い、新政府軍が会津城へ攻めてきた時に動員されたのが16~17歳の武家の男児たちで構成された予備兵力の白虎隊であった。
白虎隊について知るには幕末の混乱期の様子や日本の歴史が進みつつある方向といった時代背景を参考にして見なければ彼らの行動を理解し評することはできないと思い、私の記憶を整理する意味も兼ねて幕末社会の大まかな様子を書き綴ってみた。
上の写真は白虎隊隊士の墓が並ぶ場所より少し南側に下りた所から若松城(鶴ヶ城)方向を眺めたものだが肉眼で微かに天守閣を望むことができた。 沢山ある墓石は白虎隊士のものではない。
圧倒的戦力を持って奥羽越に侵攻した新政府軍は次々と拠点を制圧し、現在の福島県では二本松城を落とし、続いて若松城(鶴ヶ城)へ進軍した。 新政府軍の侵攻に対し若松側も領地につながる各街道口に主力部隊を配置していたが敗戦を続け、城下を警護する予備隊であった白虎隊をも戦場へ投入したが撃破されてしまった。 白虎隊は、士中一番隊 49名、二番隊 42名、寄合一番隊 106名、二番隊 67名、足軽隊 79名で合計343名で構成されていたようだが、それらのうち二番隊の 42名が戸ノ口原で戦ったものの壊滅的打撃を受け、重症の者を抱えながら飯盛山へ撤退した。
この時、市中戦闘によって起きた火災を鶴ヶ城の落城と思った白虎隊隊士らが自刃した場所が上の写真を撮影した場所であり、そこには彼らが自刃した地であることを示す石標(上の写真)が建てられている。
私が白虎隊について初めて知ったのは藤山一郎が歌う『白虎隊』であった。
これは我が家にあったレコードを蓄音機で聴いたのだから小学校の低学年かそれ以前のことであったろうと思う。 当時のものなど今は残ってはいないが、藤山一郎が歌っていたという記憶は確かだったので調べてみると、島田磬也作詩、古賀政男作曲で詩吟が鈴木吟亮、テイチクレコードから1937年(昭和12年)に出されたものだった。 『白虎隊』のレコードを聴いていた頃には特段何も思わなかったのだが、戦後『青い山脈』や『長崎の鐘』を歌った藤山一郎が何故『白虎隊』を歌っていたのか、その時代を思わざるを得なかった。 まあ参考までにYouTubeの『白虎隊』のレコードにリンクしておく(青字部分をクリック)。
詩吟冒頭に「南鶴ヶ城を望めば 砲煙上がる」と吟じられる鶴ヶ城であるが、自刃の地から見れば、より正確には南西方向となる。 まあ「南西鶴ヶ城を望めば~」よりも「南鶴ヶ城を望めば~」の方がしっくり来るかも。 赤い囲いが天守閣。
ともあれ16~17歳の少年たち20名が鶴ヶ城を望みつつ腹を切ったというのが白虎隊の話の結びになるのだが、やはり悲劇というほか無い。
写真は松平容保が自刃して果てた白虎隊士を思って詠んだ『幾人の 涙は石に そそぐとも その名は世々に 朽じとぞ思う』という弔歌であり、源 容保の名が刻まれている。
忠義仁孝礼智信悌は南総里見八犬伝に出てくる八犬士が持つそれぞれの数珠玉に記された文字であるが、儒教精神の支柱を表していると言え、江戸期の武士が心得るべきことでもあった。
1643年、会津藩主に封じられた保科正之は儒教に心酔し、徳川4代将軍・家綱の補佐役として講義もしていた人物であり、会津藩5代藩主・松平容頌(かたのぶ)は1804年に藩校・日新館を建てて藩内子弟の教育に力を注いできたというように会津藩は教育熱心な藩であり、その藩校で学んだ白虎隊の面々は忠義仁孝礼智信悌の徳目をしっかり身に付けていたに違いない。
会津では10歳で藩校・日新館に入るが、それ以前の6歳から9歳の間は地区ごとに武家の子息10人を単位に什(じゅう)という集団をつくって『什の掟』というものに従わせていた。 『年長者の言ふことに背いてはなりませぬ』など7項からなる掟であるが、項の最後に『ならぬことはならぬものです。』との一説が付加されているもの。
年長者の言うことには無条件で従わなければならないことを幼少時より叩き込まれ、武家社会における忠孝の精神を美と学んできた白虎隊隊士にとって、落ち延びてきた飯盛山から煙や炎を上げる鶴ヶ城や城下の町を遠望した時に彼らの行動上の選択肢は無かったのかもしれない。
白虎隊の墓地には写真のような『少年武士慰霊碑・白虎隊外戦死者14歳から17歳』というのもあった。
先に20名の白虎隊隊士が腹を切ったと書いたが、その中で飯沼貞吉という少年のみ息を吹き返し、彼が伝えたところでは、隊士らは城に戻って戦うことを望む者と敵陣への斬り込みを望む者とに意見が分かれたそうだ。 しかし、いずれにせよ敗戦が決まったような戦で敵に捕まって生き恥をさらすぐらいなら腹を切ろうと、鶴ヶ城は焼け落ちていないことを知ってはいたが飯盛山での自刃を決行したと言うのだ。
彼等の行動について、集団心理面、或いは鶴ヶ城落城について誤認があったかどうかなど別にして、社会背景や価値観の異なる現代と比較することなど出来ないが、こうした彼らの行為を美談と考えるかどうか、ムッソリーニは果たして何に感銘を受けたのか、私には単に幕末の一地方の悲劇としてしか見られないのだが・・・
碑には左の写真、『会津藩殉難烈婦碑』というものもあった。 言葉をそのまま解釈すれば、会津藩の危機に際し身を犠牲にした節操固き貞女という意味だから、老壮青年の武士たちだけではなく、白虎隊の少年たち、それに白虎隊以外の少年たちや本来戦には関わりの無い婦女子も新政府軍との戦に臨んだことが分かる。
会津戦争時、藩の家老であった西郷頼母の母・妻・妹に娘など一族21人が自刃している。 このことで思い出したが、新羅と唐(中国)の連合軍によって滅ぼされた百済のことを以前に書いた。 百済兵をたった5千人だけで新羅軍勢5万人を黄山平野で迎え撃った階伯将軍も同じようなことをしていたのだ。 自分の家族が敵の奴隷となって辱めを受けるより自分の手にかける方が良いと家族みんなを殺して戦場に赴いたことだった。
当然この行為は彼なりに家族のことを思ってのことであろうし、彼自身が後顧の憂いを断つという思いもあったであろう。 それに少々うがった見方をすれば、彼の行為を彼の固い決意と兵士たちが受け止め、数少ない兵士たちが一粒万倍の働きをしてくれるとの期待も持っていたかもしれない。
戊辰戦争では会津戦争における白虎隊などの犠牲の他、福島・二本松藩でも12歳から17歳の少年兵たちの多くが戦死している。
写真は旧・滝沢本陣 横山家住宅(国史跡・重文)。 もともとは藩主の休息所であったが、戊辰戦争時に松平容保の出陣によって陣屋となった。
戊辰戦争における北越戦争については長岡藩の河井継之助を主人公として司馬遼太郎が『峠』(上中下巻)という題で新潮文庫から出版している。 司馬遼太郎の取材は徹底しており、北越戦争に至る歴史背景について参考となる読み物なので紹介しておこう。
まあ、いずれにしても戦というものは何時の時代であれ、いずれの地域であれ多くの人たちを不幸にする行為であることは間違いないことだ。
戦後日本では様々な主張が為されてきたが、日本国憲法を守ってきたことによって平和が維持されてきたことは歴然としている。 それが今また安倍や石原といった恐ろしく危なっかしい連中が声高に日本国憲法の破棄・改正を唱えている。 日本維新の会の代表・橋下は憲法破棄までは公言していないが改正論者であり、彼らは互いに互いを補完する立場にある。
奴らなら何かをしてくれるなどと曖昧な期待感だけで彼等を支持するような馬鹿げたことだけは止めてほしいものだが・・・・・
会津若松は戦国時代には黒川と呼ばれ蘆名氏の領地であったが仙台の伊達政宗が戦で勝ち取った後、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が東北地方の領地分け(奥州仕置)を行い、会津若松には蒲生氏郷が封じられた。 この氏郷が黒川を若松と改め若松城を築き、町割を行って城下町の体裁を整えたと伝えられている。
その後、上杉景勝(家老・直江兼続)、蒲生秀行、加藤嘉明らが所領するが、1643年に保科正之が会津藩主に封じられ、以後幕末まで会津松平家が藩主を承継していくことになる。 この保科正之は庶子ではあるが徳川2代将軍・秀忠の四男、つまり3代将軍・家光の異母弟になる。
秀吉や伊達政宗など、いずれの武将・大名も名前はよく知られている人たちである。 秀吉の死後、徳川家康が台頭してくるが、そうした動きに反発していたのが五大老の一人・上杉景勝とその家老・直江兼続、この直江と密に繋がっていたのが五奉行の一人・石田三成であった。 景勝は直江に新城建築と兵力増強を命じて戦に備えるが、これに対して家康は会津征伐を開始した。 この会津の動きに呼応して三成が大坂で挙兵。 つまり会津での開戦が関ヶ原の戦いの緒戦であったとも言えるのである。
写真は飯盛山入口から少し登りかけた所。 左手に白虎隊記念館、真ん中の石段が白虎隊墓地まで続き、右手に『飯盛山動く坂道』がある。
僅かな時間を仮眠しただけの体は動く坂道の文字に強烈な魅力を感じたのだが、早朝の静けさの代償と言うか、動く坂道は物音ひとつせず、金属製の入口の門は閉じられ南京錠まで掛けられていた。
しかし何と言っても会津若松を印象深くさせるのは幕末の出来事によると私は思う。
1860年前後、日本は将に鎖国と言う太平の眠りから目覚めさせられ、国の興亡を賭ける大転換期にあったと言って良い。 武士階級に限らず世論は尊王攘夷、討幕・佐幕に揺れ動く社会不安の状況下にあり、京都にはそうした思想を持つ者たちが全国から集まり不穏な空気が漂っていた。 思想弾圧である安政の大獄が行われたのも、この弾圧を指示した井伊直弼が暗殺された桜田門外の変も同じ時期に起きている。 こうした状況のため京都の治安維持も京都所司代と奉行所だけでは難しく、幕府は都の治安を総括する京都守護職を新設し、会津藩 9 代藩主・松平容保(かたもり)を任じた。
写真は白虎隊隊士たちの墓が並ぶ墓地。(A)
容保は内裏(孝明天皇)守護や上洛してきた徳川 14 代将軍・家茂の警護(家茂は薩摩藩や会津藩などの公武合体策を具現化するとして皇女・和宮と結婚、正室として迎え入れたことは良く知られている)の任にあたり、また薩摩藩や一部の公家たちと結んで京都より長州藩を追放する役割を果たしているが、この会津藩預かりとして反幕・討幕の勤王の志士や京都の町人を恐怖のどん底に落とし入れていた佐幕・武闘派の軍事集団が浪士だけではなく町人や農民も混じっていた新選組であった。
将軍・家茂は禁門の変を起こして朝敵となった長州征伐を命じられるが、第二次長州征伐の折りに大坂城で亡くなってしまう。 この頃には土佐藩の坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれ、薩摩は幕府の長州討伐に加担せず『一会桑』が主導する幕政に薩長両藩ともに反対することが示されている。 『一会桑』というのは一橋慶喜、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬のことである。 結果、長州征伐を中止した一橋慶喜は徳川 15 代将軍職に就き、1867年11月に大政奉還を行った。 翌68年1月には王政復古の大号令が発せられ、それは将軍職辞職を認め、江戸幕府及び京都守護職・京都所司代を廃すといった内容で、一橋慶喜と会津の松平容保などの旧幕府勢力の影響力を無くして新政府を発足させるものであった。
写真は白虎隊隊士たちの墓が並ぶ墓地。(B)
1868年1月、兵庫沖に停泊していた幕府軍艦が薩摩軍艦を砲撃したことによって『戊辰戦争』の幕が切って下ろされ、会津藩や桑名藩を中心とする旧幕府軍と薩摩・長州両藩を中心とする新政府軍による鳥羽・伏見の戦いに展開することとなった。 この鳥羽・伏見の戦いで錦の御旗を拝した官軍の勢いはすさまじく、兵数では勝っていた会津や桑名などの旧幕府軍だが朝敵の汚名を消すことができずに敗戦を重ね、司令官たる一橋慶喜や会津の松平容保、桑名の松平定敬らが幕府軍艦で江戸へ落ち延びたことにより大坂城は長州藩が接収してしまった。
この後、官軍が旧幕府勢力の掃討作戦に着手して中国・四国・九州・東海を完全に掌握して関東へ。
官軍は更に江戸へ侵攻し、江戸城の無血開城を経て上野・彰義隊を壊滅させた。
写真は白虎隊の精神と行動に感動したイタリアのムッソリーニがポンペイの遺跡から発掘された石柱で制作した記念碑を元老院とローマ市民の名で1928年に寄贈したものらしい。
新政府軍が江戸を制圧していた頃、奥羽各藩は会津藩・庄内藩の朝敵赦免を要請していたが新政府は拒否。 そのため奥羽越列藩同盟が結ばれるも順次降伏したり征討されたりして、やがて北海道・箱館(五稜郭)での戦で戊辰戦争は終焉を迎えることになる。 この奥羽越での戦線のうち会津藩と新政府軍の戦を会津戦争と言い、新政府軍が会津城へ攻めてきた時に動員されたのが16~17歳の武家の男児たちで構成された予備兵力の白虎隊であった。
白虎隊について知るには幕末の混乱期の様子や日本の歴史が進みつつある方向といった時代背景を参考にして見なければ彼らの行動を理解し評することはできないと思い、私の記憶を整理する意味も兼ねて幕末社会の大まかな様子を書き綴ってみた。
上の写真は白虎隊隊士の墓が並ぶ場所より少し南側に下りた所から若松城(鶴ヶ城)方向を眺めたものだが肉眼で微かに天守閣を望むことができた。 沢山ある墓石は白虎隊士のものではない。
圧倒的戦力を持って奥羽越に侵攻した新政府軍は次々と拠点を制圧し、現在の福島県では二本松城を落とし、続いて若松城(鶴ヶ城)へ進軍した。 新政府軍の侵攻に対し若松側も領地につながる各街道口に主力部隊を配置していたが敗戦を続け、城下を警護する予備隊であった白虎隊をも戦場へ投入したが撃破されてしまった。 白虎隊は、士中一番隊 49名、二番隊 42名、寄合一番隊 106名、二番隊 67名、足軽隊 79名で合計343名で構成されていたようだが、それらのうち二番隊の 42名が戸ノ口原で戦ったものの壊滅的打撃を受け、重症の者を抱えながら飯盛山へ撤退した。
この時、市中戦闘によって起きた火災を鶴ヶ城の落城と思った白虎隊隊士らが自刃した場所が上の写真を撮影した場所であり、そこには彼らが自刃した地であることを示す石標(上の写真)が建てられている。
私が白虎隊について初めて知ったのは藤山一郎が歌う『白虎隊』であった。
これは我が家にあったレコードを蓄音機で聴いたのだから小学校の低学年かそれ以前のことであったろうと思う。 当時のものなど今は残ってはいないが、藤山一郎が歌っていたという記憶は確かだったので調べてみると、島田磬也作詩、古賀政男作曲で詩吟が鈴木吟亮、テイチクレコードから1937年(昭和12年)に出されたものだった。 『白虎隊』のレコードを聴いていた頃には特段何も思わなかったのだが、戦後『青い山脈』や『長崎の鐘』を歌った藤山一郎が何故『白虎隊』を歌っていたのか、その時代を思わざるを得なかった。 まあ参考までにYouTubeの『白虎隊』のレコードにリンクしておく(青字部分をクリック)。
詩吟冒頭に「南鶴ヶ城を望めば 砲煙上がる」と吟じられる鶴ヶ城であるが、自刃の地から見れば、より正確には南西方向となる。 まあ「南西鶴ヶ城を望めば~」よりも「南鶴ヶ城を望めば~」の方がしっくり来るかも。 赤い囲いが天守閣。
ともあれ16~17歳の少年たち20名が鶴ヶ城を望みつつ腹を切ったというのが白虎隊の話の結びになるのだが、やはり悲劇というほか無い。
写真は松平容保が自刃して果てた白虎隊士を思って詠んだ『幾人の 涙は石に そそぐとも その名は世々に 朽じとぞ思う』という弔歌であり、源 容保の名が刻まれている。
忠義仁孝礼智信悌は南総里見八犬伝に出てくる八犬士が持つそれぞれの数珠玉に記された文字であるが、儒教精神の支柱を表していると言え、江戸期の武士が心得るべきことでもあった。
1643年、会津藩主に封じられた保科正之は儒教に心酔し、徳川4代将軍・家綱の補佐役として講義もしていた人物であり、会津藩5代藩主・松平容頌(かたのぶ)は1804年に藩校・日新館を建てて藩内子弟の教育に力を注いできたというように会津藩は教育熱心な藩であり、その藩校で学んだ白虎隊の面々は忠義仁孝礼智信悌の徳目をしっかり身に付けていたに違いない。
会津では10歳で藩校・日新館に入るが、それ以前の6歳から9歳の間は地区ごとに武家の子息10人を単位に什(じゅう)という集団をつくって『什の掟』というものに従わせていた。 『年長者の言ふことに背いてはなりませぬ』など7項からなる掟であるが、項の最後に『ならぬことはならぬものです。』との一説が付加されているもの。
年長者の言うことには無条件で従わなければならないことを幼少時より叩き込まれ、武家社会における忠孝の精神を美と学んできた白虎隊隊士にとって、落ち延びてきた飯盛山から煙や炎を上げる鶴ヶ城や城下の町を遠望した時に彼らの行動上の選択肢は無かったのかもしれない。
白虎隊の墓地には写真のような『少年武士慰霊碑・白虎隊外戦死者14歳から17歳』というのもあった。
先に20名の白虎隊隊士が腹を切ったと書いたが、その中で飯沼貞吉という少年のみ息を吹き返し、彼が伝えたところでは、隊士らは城に戻って戦うことを望む者と敵陣への斬り込みを望む者とに意見が分かれたそうだ。 しかし、いずれにせよ敗戦が決まったような戦で敵に捕まって生き恥をさらすぐらいなら腹を切ろうと、鶴ヶ城は焼け落ちていないことを知ってはいたが飯盛山での自刃を決行したと言うのだ。
彼等の行動について、集団心理面、或いは鶴ヶ城落城について誤認があったかどうかなど別にして、社会背景や価値観の異なる現代と比較することなど出来ないが、こうした彼らの行為を美談と考えるかどうか、ムッソリーニは果たして何に感銘を受けたのか、私には単に幕末の一地方の悲劇としてしか見られないのだが・・・
碑には左の写真、『会津藩殉難烈婦碑』というものもあった。 言葉をそのまま解釈すれば、会津藩の危機に際し身を犠牲にした節操固き貞女という意味だから、老壮青年の武士たちだけではなく、白虎隊の少年たち、それに白虎隊以外の少年たちや本来戦には関わりの無い婦女子も新政府軍との戦に臨んだことが分かる。
会津戦争時、藩の家老であった西郷頼母の母・妻・妹に娘など一族21人が自刃している。 このことで思い出したが、新羅と唐(中国)の連合軍によって滅ぼされた百済のことを以前に書いた。 百済兵をたった5千人だけで新羅軍勢5万人を黄山平野で迎え撃った階伯将軍も同じようなことをしていたのだ。 自分の家族が敵の奴隷となって辱めを受けるより自分の手にかける方が良いと家族みんなを殺して戦場に赴いたことだった。
当然この行為は彼なりに家族のことを思ってのことであろうし、彼自身が後顧の憂いを断つという思いもあったであろう。 それに少々うがった見方をすれば、彼の行為を彼の固い決意と兵士たちが受け止め、数少ない兵士たちが一粒万倍の働きをしてくれるとの期待も持っていたかもしれない。
戊辰戦争では会津戦争における白虎隊などの犠牲の他、福島・二本松藩でも12歳から17歳の少年兵たちの多くが戦死している。
写真は旧・滝沢本陣 横山家住宅(国史跡・重文)。 もともとは藩主の休息所であったが、戊辰戦争時に松平容保の出陣によって陣屋となった。
戊辰戦争における北越戦争については長岡藩の河井継之助を主人公として司馬遼太郎が『峠』(上中下巻)という題で新潮文庫から出版している。 司馬遼太郎の取材は徹底しており、北越戦争に至る歴史背景について参考となる読み物なので紹介しておこう。
まあ、いずれにしても戦というものは何時の時代であれ、いずれの地域であれ多くの人たちを不幸にする行為であることは間違いないことだ。
戦後日本では様々な主張が為されてきたが、日本国憲法を守ってきたことによって平和が維持されてきたことは歴然としている。 それが今また安倍や石原といった恐ろしく危なっかしい連中が声高に日本国憲法の破棄・改正を唱えている。 日本維新の会の代表・橋下は憲法破棄までは公言していないが改正論者であり、彼らは互いに互いを補完する立場にある。
奴らなら何かをしてくれるなどと曖昧な期待感だけで彼等を支持するような馬鹿げたことだけは止めてほしいものだが・・・・・