February 12, 2013

青天の霹靂

青く晴れ渡る空に突然の雷鳴。
通常予想し得ない状況下で起こることから、突然に起きる避け難い事変を『青天の霹靂』と表現する。

今回、私に起きた出来事も将に『青天の霹靂』と言って良いものであった。

霹靂が鳴り響いたのは昨年12月16日の朝のことであった。
強烈な痛みが私の腹部を襲ったのである。

以後二つの病院で内科と泌尿器科合わせて4回のCT撮影を含む検査と診察を受けたが病因は判明せず、腹部の痛みは一層強く、痛む範囲も胴回り全体に広がり、食べることも飲むことも横になって眠ることも出来ないまま発症6日目(21日・金曜)の早朝を迎えた。

前日より胴回りの激痛に加え、右足の歩行が困難になり始めていたが、この日の早朝には左足にも痺れが出て歩行どころか立つことすら出来ない状態になっていた。

細かな周囲の状況や心の変化についてはいずれ書くことになるが、救急車により近畿大学医学部奈良病院に搬送され、その後MRIなどの検査によって病因が膿瘍による脊髄神経への圧迫と診断。 そのため直ぐに切開、膿除去手術を受けた。
pict-近畿大学医学部奈良病院この手術前後の状況について私は知らないが、これらのことについてもいずれ書くことになるだろう。

術後、下半身完全麻痺と言われていたが、リハビリの効果も少しばかり出てきたようで近々には回復期病院に転院して機能回復を中心とした治療を受けることになっている。

命を助けて頂き、激痛も取り除いて頂いた。
更にその後の看護もろもろ、お世話になった方たちには心より感謝申し上げたい。
救急車の方たち、近大・奈良病院の救命救急室や脳神経外科の医師、看護師をはじめとする全てのスタッフ、それに何かと手助けしてもらっているY君・Hさん夫妻、その他励ましの言葉を頂いている沢山の人たちにお礼を申し上げる。

長いことブログを更新できなかったのは上に書いた通り入院治療中の身であり、前回の『申し訳ありませんが』の記事は、私の事情を知っているY君が代わって送信してくれたものである。

病院内での電子機器の使用は原則的に禁止されているので今回は外部から送信してもらうことにした。
次回のブログ更新時期について今は不明である。







masatukamoto at 12:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

December 29, 2012

申し訳ありませんが

諸事情により暫くブログの更新をお休みさせて頂きます。
春先には再開の予定をしておりますので、また立ち寄って下さい。


masatukamoto at 10:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

December 14, 2012

みちのく行 (10) 安倍さんを訪問・・・③

「助かった命で多くの人を助けたい」「生き残れたからにはすべきことがある
九死に一生を得た安倍夫妻は、『3月11日に何があったのか忘れずに伝えていく、それが生かされた者の使命』だと、地震と津波の体験から得られた教訓を語り継ぐべく既に活動を開始していた。

事業の再開、事務所・自宅の再建など津波被災後に取り組まねばならないことが山積していたであろうpict-表紙-1に、マスメディアの取材対応や、依頼を受けた講演・講習会などで自らの体験を語り伝えていた。

被災後ひと月ばかり経った頃に河北新報が取材記事(藤田杏奴・記)を掲載していたが、それは後に刊行された前ページ記載の『鎮魂と再生(東日本大震災・東北からの声100)』(赤坂憲雄 編 2012.3.30 藤原書店 刊)に『後悔を胸に体験を語り継ぎたい』とのテーマで安倍夫妻の語りを聞き手・古関良行(河北新報社震災取材班キャップ)が書いている。
河北新報の記事は現在河北新報社WEB新書『津波で漂流の夫婦生還 がれきの上のサバイバル』として発売されているために全文を紹介出来ないが、jesuslovemeさんが公開するブログで『あの大震災に奇跡の生還した御夫婦!②』との表題で河北新報・藤田杏奴氏の記事を紹介しているので参考までに。(青色部分をクリックすることでリンク)

追加・・・『板1枚の上で川を逆流 奇跡の生還・安倍夫妻〔東松島〕』の表題で河北新報が『東松島市を襲った大津波の証言』のひとつとして資料を交えてまとめているので紹介しておく。

NHK総合テレビ『あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~〔宮城県東松島市 安倍 淳、志摩子さん〕』に出演。

中日新聞の『地震特集〔備える〕』での記事〔2012.9.17〕。

pict-中日 記事-1わが身一つで大津波に投げ出される極限状況で、何ができるのか。小学校を巡回して着衣泳を指導し、東日本大震災では自らも津波に流された潜水士の安倍淳さん(53)=宮城県大崎市=に聞いた。

 -避難が間に合わず津波にのまれたら、何が一番大事か。

「津波は場所によって高さや流れの強さも違う。がれきなどの危険物が交じる場合もある。こうすれば確実に助かるという答えはない。ただ、生き残るには鼻と口を水面から出して呼吸を確保することが大前提。かばんや発泡スチロール、木材など、周囲につかまるものがないか探してほしい」

 -つかまるものがない場合は。

pict-着衣泳-1「流れに逆らって泳いだりもがいたりするより、ただ浮いていることの方が重要な場合が多い。パニックになる前に、人間の体は水に浮くという事実を思い出して冷静になってほしい。あおむけになって肩の力を抜き、あごを上げれば口は水面上に出る。これが着衣泳だ」

「着衣泳は手足を広げるのが基本だが、流れてくるがれきに衝突する危険もあるので、柔軟に対応したい。靴やダウンジャケットを身につけていれば、それも浮力になる。助けを求めて腕を振り上げると、代わりに体が沈むので逆効果だ」

 -車ごと津波にのまれたら。

「車内に水が入らず助かったケースもあるので、ひと言で内外どちらが危険かは言えない。水が入ってきたときに備え、窓を割る器具を常備してほしい」

 -大震災では、高台に避難した人々の前で津波に流される人の姿もあった。

「避難に成功した人は、助けたいと思っても水に飛び込んではいけない。自分が命を落としかねない。浮く物を探して投げ込んだり、消防に知らせるなどの支援ができる。浮いている人に、大声で励ましの言葉をかけ続けるのも精神的な支えになる」


上のようにマスメディアを通しての啓発活動だけでなく、安倍さん夫妻は学校に出向いて着衣泳の実技pict-東京海洋大学-1講習を行うほか、群馬県前橋市のお寺での講演や東京商船大と東京水産大が合併してできた東京海洋大学で将来の航海士を目指す若者たちへ、経験則からの過信によって絶体絶命の危地に陥ったことと、そこで得た教訓を講演するなど活動は多方面にわたっている。
pict-a2c77067141bf48633df6debc9647ab5[1]今年6月にはアジア地域の海事関係者が集まった国際水難学会で『被災地で着衣泳が果たした役割と津波による漂流体験』と題して安倍さんが特別講演を行い、奥さんは『津波渦巻く体育館 命を守る着衣泳〔東日本大震災における野蒜小学校体育館における出来事〕』と題しpict-eccb526248edd78eeeb0c0c70c7ada18[1]て発表している。

安倍さんの奥さんが帰ってくるまでの間、事務所でエスプレッソを飲みながら震災以降
1年半ばかりのご家族や会社のことなどを聞かせてもらったり、次回九州へ出向いて教育関係者を対象に行う講演の要旨を聞かせてもらったりした。 しかし、日暮れが早くなってきた季節だし、空模様も怪しいので野蒜の被災地を案内してもらうことにした。

安倍さんの会社、(株)朝日海洋開発の社屋だが現在は宮城県大崎市鹿島台にある。 前のページに概略図を載せているので見てもらえばイメージしやすいと思うが、石巻湾に面して東松島市と石巻市が位置し、大崎市はその内陸側になる。 概略図では三陸自動車道よりも更に北側、鳴瀬川と表記した文字位置より更に少し上のあたりに鹿島台は位置し、鳴瀬川の河口より 9km も内陸にあるのだが、その鹿島台でも水位上昇は 151cm を記録している。
pict-5-新町公民館-パノラマイメージ-修
上は鳴瀬川の河口付近のイメージ(2枚の写真を合成しているので、写真左下は実際には川の部分)
pict-7-新町公民館左の写真は新町公民館で鳴瀬川の河口、堤防上の建物だが2階も破壊されていることから津波の高さが想像できよう。 前ページの写真にあったように、この場所で
 787cm の水位上昇があったのだ。

私たちが訪れたのは被災後1年半なので被災直後の様子とは全く異なるが、それでも野蒜地区へ入ると被害のひどさが如何ほどであpict-2-鳴瀬2中ったか、その惨状を十分に理解出来た。 

鳴瀬第二中学校の校舎は運動場を挟んで松の木が並ぶ野蒜の浜と向き合っていた。 そのため校舎の窓ガラスは割れ窓枠は外れ、辛うじて残った窓枠も無残にひん曲がっていた。 校舎は写真のものと並行して裏側にもあるpict-4-鳴瀬2中-修が、襲来する津波のエネルギーを写真の校舎で受け止めたためか裏側にある校舎は被害が少なく、生徒たちに犠牲者は出なかったとか。 
1年半の間に校舎内の清掃も行われたのだろう。 がらんとした校舎内部はコンクリートむき出しで建設途中かpict-11-校舎内落書きと思えたが、野蒜の下沼あたり一帯を無住地区にするようなことも聞いたので鳴瀬第二中学校が再び生徒を集めることにはならないかもしれない。 何とも寂しいことだし、悲惨なことばかりを聞き知っていたようだが、汚れたコンクリート壁に書かれた落書きにほんの少しほっとするものを感じた。 普通にある建物ならどんな落書きも許さないが、壊れて消えゆくかpict-1-野蒜駅もしれないものに対する憐れみの気持ちには共感できる。

仙石線の野蒜駅も津波被災直後の写真と比べれば随分片付けられていたが、架線を吊る鉄骨は曲がり落ちたままだし、線路上の土砂も片付いてはいず、駅周辺で流されずに残った家々も無人で鉄道も復旧しそうには見えなかpict-P1060252修整った。

そんな野蒜の駅前で仙台から帰って来た奥さんと・・・
何から話していいのか、元気にしていることは何度もの通信で分かってはいたのだが、やはり目の前で直に元気な姿を、そして生の声を直接耳にすることで確かさを一層確かなものと・・・安堵、安堵。

冷たい雨とヤブ蚊にやられながら、僅かな僅かな立ち話だったけれど、それだけで十分。
よかった、よかった。 





masatukamoto at 22:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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