August 26, 2012

愚息を偲ぶ会(10年祭) お礼

故人を偲ぶ集いは仏教だと七回忌、十三回忌などと行われるが、愚息自身はいずれの宗教にも帰依していなかったこともあり、10年目の命日を前に当人に近しい親族のみで愚息を偲ぶ会(10年祭)を執り行った。

親族だけだから我が家で行っても良かったのだが、高齢の叔父や叔母の体のことなどを考え合わせ、今回はpict-P1050823-10年祭大阪市内の某ホテルの部屋を借りて偲ぶ会を催した。

遺影に対して、いささか宗教的儀礼ではあるが献花・献杯という儀式を執り行い、その後出席頂いた者たちによって個人を偲びつつ互いに懇親のひと時を過ごしてもらった。

自分も含め周りの者たちが楽しく賑やかにしてくれることを好んでいた愚息ゆえ、きっと喜んでくれたことと思う。

残暑厳しい中、遠路はるばる参集して頂いた皆さんには心より厚くあつく御礼を申し上げる。

来週は愚息の大学時代の同輩や後輩たち、それに会社に勤めていた頃の同僚たちが集うてくれる偲ぶ会を某ホテルの広い部屋を借りて執り行うことになっている。

10年経てば独身であった者も新しく家庭を持ち、子どもも出来ている。 ひと口で10年と言うが変遷の度合いは大きい。 偲ぶ会を開催するも、人数的に最早我が家では収容しきれない。 愚息を偲び、私たちのことを思って寄り集うてくれる彼らには感謝、感謝である。

みんなが等しく楽しんでくれる場になればと願っている。 


masatukamoto at 18:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

August 25, 2012

嬉しゅうて嬉しゅうて

博多で息子扱いにしてる 朗と、嫁の I 子。 (写真は住吉神社境内で)
pict-img176修整 S 朗はオトコマエやし、 Iはベッピンやさかいに目隠しなんかしとうない。 むしろ沢山の人に見てほしいぐらいなんやが、彼らの仕事の上で支障を来すようになってはいかんので止む無く・・・

S 朗の紋付羽織に袴、それに Iの白無垢に綿帽子。 彼らのこの装いを見るのにどれだけの年月を待ったことか。

2人が知り合って、もう10年過ぎたかなあ。 あの頃は二人とも20代。 相思相愛の間で実態は夫婦やが入籍してなかったさかい民法上は赤の他人やった。  

素封家の坊ちゃまに有りがちな優柔不断、優しいのは優しい、これは彼を知る者すべてが感じる S 朗の人となりである。 それが災いしたというか、父親らの反対に屈し、 Iと同棲生活を送りながら Iの法律上での立場を確立してやることなく長い年月を過ごしてきた。  Iが年上なので姉さん女房というわけだが、不足を言うでもなく、これまでよう辛抱してきた。 このことをもってしてもええ嫁やと言える。

これまで船長(第三共進丸)と私が何度となく条理に適う道を説き、その都度約束までしたこともあったが悉く裏切られてきた。 近い話では一昨年の12月に「クリスマスに入籍だけします」と私と約束しておきながら反故にしている。 そして昨年の12月、突然「結婚式を挙げることにしました」と。

そして今年1月29日の写真に至ったのであるが、幸せな二人の写真が私の手許に送られてきたのは8月に入ってからのことである。  S 朗と約束しても直ぐには果たしてくれない。 長いのは10年にもなるのだから。

が、もういい。  S I 子の幸せそうな写真を見て、オジンは嬉しゅうて嬉しゅうて。

 S 朗はアカンタレやのうて、きっと、父親や親戚など全ての人たちから祝福されるように10年もの歳月をかけて彼等を説得し続けてきとったんやって理解することにした。 更に幸せになりや。

 


masatukamoto at 12:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

August 23, 2012

懐旧の集い三連 その3 の A

三つ目の懐旧の集い。 (先輩も後輩も男も女も一律にローマ字イニシャルのみにしている。敬称を略した失礼の段、冒頭にて陳謝申し上げる)

ここに結集した面々は同窓という大きい括弧で結ぶことはできるが、個々の繋がりとなるとソシオグラム風に相関関係を図式化するのも複雑で難しい。

今回は N (私は T とも呼ぶが)と K が会合を思いつき企画してくれたが、この集いに参加した者は同期ばかりではpict-P1050725京都タワー-1ない。 年齢の上下差4年。 専攻分野も国文学・英文学・社会学・教育学・経済学・経営学とバラバラ。 所属していたクラブやサークルも異なる。 自宅から通っていた者、下宿住まいだった者、学生寮に寄宿していた者と住まいも違っていた。 出身地も福井、滋賀、京都、大阪、兵庫、宮崎と飛んでおり、そもそもの繋がりの起因となったことを特定・一定することが出来ない何とも妙な集団なのである。

ともあれ写真の京都タワーが建築・完成・営業開始した頃、共に京都で学んでいたことがこの不思議な集団の共通項と言える。

京都の町にそぐわないと反対した京都タワーだが、竣工して既に 48年、いつの間にか京pict-P1050723京都駅-1都(駅前)の顔となってしまった。

顔と言えば京都駅も変わってしまった。 写真右下が中央郵便局。 隣が京都伊勢丹、続いて京都駅中央口、手前がホテル・グランヴィア京都と京都劇場。

京都へ暫く来ていない人のため、8月4日の朝8時50分頃の京都駅前を写真で紹介しておく。 既に太陽は高く昇って陽射しが厳しく、日陰を選んで動かないと朝から全身汗みどろになってしまう。 京都の夏は取分け暑い。
pict-img177この日40数年ぶりに会う者もおり、遠足前夜の子どものようになかなか寝付けなかった。 早朝より気もそぞろな私の様子を察知したのか、息子が最寄駅まで車で送ってくれた。 そのため電車の接続が良く、約束していた時刻より1時間も早く京都駅へ到着していたのだ。

今回 N と K が集いの呼びかけをしてくれたのだが、呼びかけに賛同した者たちが愛知・福井・滋賀・京都・奈良・兵庫の各県に住まうため、皆がほぼ均等に寄り集える地理的条件を考慮して『近江・長浜と琵琶湖・竹生島巡り』を企画してくれたのである。
pict-P1050726新快速
最も距離が遠かったのは姫路の T だったが、昔と違い今は大阪を中心に姫路・米原間は新快速や快速の本数が多く、北陸圏や東海圏からの移動よりも近いと感じたはずである。 それでも姫路・京都間を新幹線を利用したと言うのだから T は財閥?

F (私は S と呼んでいた)は父親の跡を継いで湖東の浄土宗(知恩院)寺院の住職をしているが、彼の剃髪した頭を見るのはこの日が初めてであった。 小柄でスマートな奴だったが、40年も経てば私と同様しっかり腹が出とる。
まあ兎に角こうして名古屋・福井以外の者全員が京都駅から近江・長浜まで共に行動することとなった。

年相応の変化、これはどうしようもないが、久し振りに交わす口調は40数年昔のまんま。 しかし、40数年の間にはそれぞれ苦楽交え様々な経験をしてきており、話の内容には深みを感じさせられた。 
pict-P1050727車中-1S は東京の某有名劇団に所属して演劇やテレビで活躍していたが神戸に戻り会社員生活を送ってきたとか。 S は今もダンディーでハンサム、それに礼儀正しい常識人であり、訳の分からんミーちゃんハーちゃんがテレビで幅を利かす姿を見るにつけ彼の芸能界引退を残念に思うのである。

O は住職と結婚。 その後阪神淡路大震災で寺が被災、ご主人が他界したため自ら第十八代住職を継ぎ、その住持職をしばらく前に長男に承継させたのだと。 現在は十九代住職となったご長男の嫁探し。 今様に言えば息子の『婚活』をしてるのだとpict-住持職報告法要-1語っていたが、そう言えば愚息も不惑を目前にしているのだ。 住職継承法要の時の写真(左)を持ち歩く O の気持ちが良く分かる。

ちなみに彼女が住職を務めていた香雪山無量寺は天文八年  (1539年)西本願寺末寺として僧玄智が開基したという古い歴史を有する寺である。 

さて、長浜であるが近江と北陸を結ぶ北国街道の宿場として発展してきたが、やはり豊臣秀吉との結びつきをpict-P1050730案内板-1思い浮かべてしまう。

秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃、小谷城の浅井長政を織田信長が攻めた。 この時に攻め手の藤吉郎は信長の妹で長政の妻であった"お市の方"と3人の娘たちを落城寸前に救い出しているが、こうした戦功によって浅井の領地をもらい受け羽柴秀吉と名乗るpict-P1050747長浜城-2ようになった。 そして秀吉は長浜を湖上海運と陸上交通の要の地であると考えて自らの城・長浜城を築いたのである。

長浜を初めて訪れる私は、懐かしい友人たちと出会い語ることを期待しながら長浜の町の歴史をも感じ取りたいと願っていたのだった。 しかし、近世初頭の町並みがそのまま残っているなど有り得ないことで、アスファルト舗装の道、数少ない旧い建物が街道に沿って歯抜けpict-P1050729北国街道・長浜-2のように建っているだけ。 カンカン照りで吸い込む空気すら熱い上、町の歴史性について私の期待が大きすぎたために長浜観光と言う点では残念ながらイマイチであった。

それでも折角来たのだからと炎天下の町を歩いて巡り、懐かしい立ち話も僅かな日陰を選んで・・・
pict-P1050732長浜-1黒壁ガラス館や曳山博物館など、冷房の効いた施設では殊更ゆっくりと見学。

曳山博物館では豪華な唐織の半裃と打掛が飾ってあり、着用して良いと。 しかも着付けを手伝ってくれるとのことだったし館内の客も私たちだけだったので女性スタッフに着付けをお願いしてみた。
pict-P1050745曳山博物館紋付羽織・袴は自分で着ることがあるものの肩衣を着るのは初めて。 それに袴をはくと言っても絹か木綿の布地のもので、今回のような唐織、一般に西陣織と言われるような分厚くゴワゴワした感じの織物の袴をはくのも全く初めての体験であった。 

女性スタッフふたり・・・私と歳差の変わらない方たちであったが、前袴の紐を結ぼうとするも紐が短いのか私のお腹周りが太すぎるのか結べない。 友人に紐を引っ張ってもらい、pict-P1050743傾城宮城野私自身もググッとお腹を引っ込め何とか結び終え、ズボンのベルトにヘラを差して臍下で紐を十文字にと思っていたがオバサン一文字結びにしてくれていた。 

この格好で館内見学。 良い経験をさせて下さった女性スタッフ お二人にはこの場で感謝申し上げる。

上の写真は『碁太平記白石噺』の新吉原揚屋の段のセット。 傾城宮城野の顔部分だけ切り抜かれたものだが、私の相手役に H が。

 H は滋賀県信楽にある社会福祉施設の理事長兼黄檗山万福寺(京都・宇治)の塔頭寺院の住職である。 もう随分になるが兄上が亡くなられたので住職を継がれ、先年黄檗宗大本山万福寺の宗務総長に選出された。最近は施設の人たちが作る信楽焼を通して中国(台湾)との福祉交流を推進している。 

 H とは共に恩師が主宰する研究会のメンバーなので年に一度は会っている。 そのため懐かしいという思いとは少し異なるのだが、感情を説明するのは難しいものだ。 40数年会わなかった者に対しても、「やあ、久し振り。元気だった?」と言うように、懐かしいといった感情の含まれる割合が大きいか小さいかの違いと言えるだろうか。
pict-長浜曳山 神戸町組 孔雀山
上は曳山博物館のパンフレットより引用した絵だが、神戸町組の『孔雀山』を曳いている図である。 この曳山まつりは秀吉が男子誕生祝いに町人へ若干の砂金を贈り、これを原資に町人たちが曳山を造営して長浜八幡宮の祭礼で曳き始めたのが始まりであるらしい。

現在13の曳山があるそうだが、いずれも上図のような立派な舞台が設えられており、毎年4月15日に曳山の舞台で子どもたちにより狂言が演じられるのだと。

懐旧の集い三連 その3 の B に続く


masatukamoto at 05:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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