November 28, 2010
ポルトガル・スペインを巡る 【3】 マドリッド(Ⅰ)
スペインの首都マドリッドを訪問する私の目的は、プラド美術館を訪れたことで6割がた達成できた。
マドリッドは都会であり私の興味を掻き立てるほどのものはさほどない。
しかし、歴史の古い町であるし、初めて訪れる町でもあるので多少の興味はあった。 あとは地学的な興味が加わるくらいだろうか。
下はマドリード王宮 (Palacio Real de Madrid)を訪れた時に宮殿東側のオリエンテ広場(Plaza de Oriente)で撮ったもの。
写真の王宮の建物の向こう側にはカンポ・デル・モーロ(Campo del Moro)という広大な庭があり、写真右手(北側)にはサバティーニ庭園(Jardines de Sabatini)、左手(南側)にはアルムデナ大聖堂(Catedral de la Almudena)が建つというように緑多く、バロック風の王宮との調和が気に入った。
この王宮の建設を命じたのはフェリペ5世であり、1738年に着工して1755年に完成したのだとか。
フェリペ5世は1746年に亡くなっているので実際に宮殿を使用したのはカルロス3世であったという。
『ポルトガル・スペインを巡る【1】プラド美術館Ⅰ』において、“スペイン・ハプスブルク家最後の王であるカルロス2世”に触れたが、彼には世継ぎがいなかったためスペイン王位の継承をめぐってフランスのルイ14世が画策を始めたことが他のヨーロッパ諸国を巻き込んだスペイン王位継承戦争への糸口となった。
左の写真はオリエンテ広場を挟んで向かい合うように建つ王立劇場(テアトロ・レアルTeatro Real)である。
1850年に完成しているので王位継承問題に関わるものではない。
レアルと言えばスペインのサッカーチームのひとつ、レアル・マドリードを思い浮かべるが、スペイン語のレアルとは王立のとか王様のといった意味の他、英語と同様に現実のとか実在するといった意味を含んでいる。
スペインのサッカー界ではFCバルセロナと二分する人気を誇るレアル・マドリードであるが、サッカーだけでなく政治や文化面などいろいろな面において対立しているかの感があるのがマドリッドとバルセロナの関係でもある。
"王様のマドリード"というチーム名が妥当かな?
【閑話休題】
さて、カルロス2世の王位継承問題をひも解くには、その血縁関係や当時のヨーロッパの勢力関係を明らかにしておかねばならないのだが、以前にも触れているがヨーロッパの王侯貴族の姻戚関係は大変ややこしい。
しかし、あえて簡便に極力端折って書いてみることにする。
カルロス2世の父親はフェリペ4世で、フェリペ4世の最初の妃はフランス王のアンリ4世の王女イサベル・デ・ボルボンで、二人の間に王女マリア・テレサができた。
マリア・テレサはフランス王ルイ14世の妃として嫁ぐ。
フェリペ4世の2番目の妃は、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世とスペイン王フェリペ3世の王女マリアナ・デ・エスパーニャの間にできた王女マリアナ・デ・アウストリアである。
神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世の妃マリアナ・デ・エスパーニャには姉であるルイ13世の妃となったアンヌ・ドートリッシュ、兄にスペイン王フェリペ4世らがいた。
つまり、フェリペ4世の2番目の妃マリアナ・デ・アウストリアとは叔父・姪の関係になる。
そして、この2人の間に神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇后となったマルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャやカルロス2世らができた。
マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャはベラスケスが描いた『ラス・メニーナス』の肖像画の人物である。
これらは極々一部であり、神聖ローマ帝国の皇帝を事実上独占してきたオーストリア・ハプスブルク家は領土と権力を守るために親族間の結婚を繰り返してきたし、スペイン・ハプスブルク家は政治政略上フランス王との結婚を繰り返してきた。
神聖ローマ帝国は現在の東欧・ドイツ・オーストリア・イタリアなどを領土としていたし、それに、フランス、スペインを加えればヨーロッパの面積の大部分がこの3国で支配されていたわけで、これにイギリスやネーデルランドが加わるのでヨーロッパの王侯貴族の姻戚関係はひと言で言えば『ぐちゃぐちゃ』なのである。
《少し休憩をはさんで次ページへ続く》
マドリッドは都会であり私の興味を掻き立てるほどのものはさほどない。
しかし、歴史の古い町であるし、初めて訪れる町でもあるので多少の興味はあった。 あとは地学的な興味が加わるくらいだろうか。
下はマドリード王宮 (Palacio Real de Madrid)を訪れた時に宮殿東側のオリエンテ広場(Plaza de Oriente)で撮ったもの。
写真の王宮の建物の向こう側にはカンポ・デル・モーロ(Campo del Moro)という広大な庭があり、写真右手(北側)にはサバティーニ庭園(Jardines de Sabatini)、左手(南側)にはアルムデナ大聖堂(Catedral de la Almudena)が建つというように緑多く、バロック風の王宮との調和が気に入った。
この王宮の建設を命じたのはフェリペ5世であり、1738年に着工して1755年に完成したのだとか。
フェリペ5世は1746年に亡くなっているので実際に宮殿を使用したのはカルロス3世であったという。
『ポルトガル・スペインを巡る【1】プラド美術館Ⅰ』において、“スペイン・ハプスブルク家最後の王であるカルロス2世”に触れたが、彼には世継ぎがいなかったためスペイン王位の継承をめぐってフランスのルイ14世が画策を始めたことが他のヨーロッパ諸国を巻き込んだスペイン王位継承戦争への糸口となった。
左の写真はオリエンテ広場を挟んで向かい合うように建つ王立劇場(テアトロ・レアルTeatro Real)である。
1850年に完成しているので王位継承問題に関わるものではない。
レアルと言えばスペインのサッカーチームのひとつ、レアル・マドリードを思い浮かべるが、スペイン語のレアルとは王立のとか王様のといった意味の他、英語と同様に現実のとか実在するといった意味を含んでいる。
スペインのサッカー界ではFCバルセロナと二分する人気を誇るレアル・マドリードであるが、サッカーだけでなく政治や文化面などいろいろな面において対立しているかの感があるのがマドリッドとバルセロナの関係でもある。
"王様のマドリード"というチーム名が妥当かな?
【閑話休題】
さて、カルロス2世の王位継承問題をひも解くには、その血縁関係や当時のヨーロッパの勢力関係を明らかにしておかねばならないのだが、以前にも触れているがヨーロッパの王侯貴族の姻戚関係は大変ややこしい。
しかし、あえて簡便に極力端折って書いてみることにする。
カルロス2世の父親はフェリペ4世で、フェリペ4世の最初の妃はフランス王のアンリ4世の王女イサベル・デ・ボルボンで、二人の間に王女マリア・テレサができた。
マリア・テレサはフランス王ルイ14世の妃として嫁ぐ。
フェリペ4世の2番目の妃は、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世とスペイン王フェリペ3世の王女マリアナ・デ・エスパーニャの間にできた王女マリアナ・デ・アウストリアである。
神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世の妃マリアナ・デ・エスパーニャには姉であるルイ13世の妃となったアンヌ・ドートリッシュ、兄にスペイン王フェリペ4世らがいた。
つまり、フェリペ4世の2番目の妃マリアナ・デ・アウストリアとは叔父・姪の関係になる。
そして、この2人の間に神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇后となったマルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャやカルロス2世らができた。
マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャはベラスケスが描いた『ラス・メニーナス』の肖像画の人物である。
これらは極々一部であり、神聖ローマ帝国の皇帝を事実上独占してきたオーストリア・ハプスブルク家は領土と権力を守るために親族間の結婚を繰り返してきたし、スペイン・ハプスブルク家は政治政略上フランス王との結婚を繰り返してきた。
神聖ローマ帝国は現在の東欧・ドイツ・オーストリア・イタリアなどを領土としていたし、それに、フランス、スペインを加えればヨーロッパの面積の大部分がこの3国で支配されていたわけで、これにイギリスやネーデルランドが加わるのでヨーロッパの王侯貴族の姻戚関係はひと言で言えば『ぐちゃぐちゃ』なのである。
《少し休憩をはさんで次ページへ続く》
November 19, 2010
ポルトガル・スペインを巡る 【2】プラド美術館Ⅱ
世界で最も古く創設、公開された美術館がフランスのルーヴル美術館で1793年、プラド美術館の設立・公開が1819年であるからルーヴルもプラドも古い伝統を誇る。
プラド美術館ができた頃、日本は江戸・文政年間で徳川家斉が将軍の時代だから、"遠山の金さん"こと遠山左衛門尉景元が北町奉行に就任するはるか以前のことである。
プラド美術館も多くの美術品を所蔵しているが、何と言ってもスペインの画家たちの作品に関しては群を抜いていると言えるだろう。
エル・グレコ(El Greco 1541~1614)
ディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez 1599~1660)
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(Bartolomé Esteban Perez Murillo 1617~1682)
フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes 1746~1828)
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso 1881~1973)
など、世界的に評価の高い画家たちの作品が所蔵・展示されている。
左はグレコの『羊飼いの礼拝』。
宗教画を多く残したグレコはギリシャのクレタ島の出身なのでスペイン人とは言えないが、イタリアで修行の後、スペインのフェリペ2世(Felipe II)のもとで制作活動を行ったので、彼の作品の多くがプラド美術館に所蔵されている。
そのため、スペインを代表する画家として、ベラスケスやゴヤと共に名前が挙げられている。
ところで、フェリペ2世は1556年にスペイン王を継承したが、この折にハプスブルク家はスペインとオーストリアに分かれ、この後、彼は1580年にポルトガルを併合し、現在のメキシコからチリに至る中南米、オランダやベルギー、イタリアの一部(ミラノ、ナポリ、シチリア島)の他、インド、ブラジルやアフリカの一部、それにボルネオ島やフィリピンなどの領土を得ることになった。
大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らキリシタン大名が派遣した天正遣欧少年使節は1584年8月に現在のポルトガルのリスボンに到着後、11月にスペインのマドリッドでフェリペ2世に謁見している。
下はムリーリョの作品『無原罪のお宿り』。
ムリーリョも宗教画を多く書いたが、いずれの作品も明るい色調で優しく穏やかな感じに仕上げられていることが特徴と言えるように思う。
原罪とは、キリスト教においてアダムが神との約束を破ったことを人類最初の罪であるとし、アダムの子孫である人間は全て生まれながらにして背負っているという罪のこと。
しかし、聖母マリアは母の胎内にある時、既にその原罪を免れていたという説を無原罪と呼んでいる。
ゴヤもスペインに限らず世界美術史上よく知られた画家であるが、その作品の中でも『裸のマハ』『着衣のマハ』として知られているのが下の作品である。
この絵は1797~1800年の制作で、当時ゴヤの庇護者であった宰相ゴドイからの依頼で描かれたことが確かになってきたことから、ゴドイの愛妾であったペピータ・トゥドーがモデルであると長年言われてきた。
しかし、現在ではこの絵に何の寓意的意図もないというのが大勢であるとプラド美術館のカタログには書かれており、こうした見解が大勢を占めるようになっていることを私は知らなかった。
下は『着衣のマハ』で上の作品よりは後、1800年~1805年の制作だとされている。
『裸のマヤ』についてはモデルが誰かという関心の他、当時は裸婦を描くこと自体が異端であるとされていた時代であり、事実、ゴドイが暴動により失脚した際、これらの作品は宰相ゴドイ邸より没収され、1815年にゴヤは異端審問裁判所に召喚され、誰のため何の目的で描いたのか審問を受けている。
1819年、ゴヤはマドリッドの郊外に家を購入した。「聾者の家」として知られている建物である。
この家の1階の食堂や2階のサロンの壁に描かれた14枚の絵が「黒い絵」と呼ばれているものだが、彼は1823年まで、これらの絵を描き上げた。
それらの壁画をカンバスに移し替えたものがプラド美術館に展示されているが、その際に修復・加筆された部分もあり、これらがどのように配置されていたかの記録がないので、ゴヤの意図が奈辺にあったのかは分からないとカタログには記載されていた。
左は『わが子を食らうサトゥルヌス』という作品であるが、カルロス4世の宮廷画家として精細な肖像画を多く描いてきたゴヤの作品としては実に奇怪なものである。
このほか、『魔女の夜宴』や『棍棒での決闘』、『食事をする二老人』などを描いているが、いずれも暗く陰湿な作品であり、ゴヤの精神状態が尋常ではなかったのではないかと思われる。
当時、ゴヤは梅毒に罹っており、そのため我が子にまで害を与えるという精神的呵責を感じ、それを表現したのではないだろうかという説明を聞いたように記憶するが、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
時代的にはフェルナンド7世が復位して以後、スペイン国内での自由主義者への弾圧が強まり、ゴヤが自らも危険であることを察したのか、狂気からなのか、或いは、そうした政治体制に反対の意思表明として絵画に表現したのか、今となっては何も分からない。
ただ、1824年、78歳のゴヤは「聾者の家」を出てフランスに亡命し、1828年に亡くなったという事実のみが記録されている。
以上、スペインの画家と作品の一部について記してみたが、プラド美術館は、ラファエロ、ルーベンス、ティツィアーノなど名だたる画家の作品も多数所蔵・展示しており、絵画に興味がなくとも十分に楽しませてくれる施設である。
ついでだが、ピカソが美術館の館長をしていた時期もある。
プラド美術館ができた頃、日本は江戸・文政年間で徳川家斉が将軍の時代だから、"遠山の金さん"こと遠山左衛門尉景元が北町奉行に就任するはるか以前のことである。
プラド美術館も多くの美術品を所蔵しているが、何と言ってもスペインの画家たちの作品に関しては群を抜いていると言えるだろう。
エル・グレコ(El Greco 1541~1614)
ディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez 1599~1660)
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(Bartolomé Esteban Perez Murillo 1617~1682)
フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes 1746~1828)
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso 1881~1973)
など、世界的に評価の高い画家たちの作品が所蔵・展示されている。
左はグレコの『羊飼いの礼拝』。
宗教画を多く残したグレコはギリシャのクレタ島の出身なのでスペイン人とは言えないが、イタリアで修行の後、スペインのフェリペ2世(Felipe II)のもとで制作活動を行ったので、彼の作品の多くがプラド美術館に所蔵されている。
そのため、スペインを代表する画家として、ベラスケスやゴヤと共に名前が挙げられている。
ところで、フェリペ2世は1556年にスペイン王を継承したが、この折にハプスブルク家はスペインとオーストリアに分かれ、この後、彼は1580年にポルトガルを併合し、現在のメキシコからチリに至る中南米、オランダやベルギー、イタリアの一部(ミラノ、ナポリ、シチリア島)の他、インド、ブラジルやアフリカの一部、それにボルネオ島やフィリピンなどの領土を得ることになった。
大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らキリシタン大名が派遣した天正遣欧少年使節は1584年8月に現在のポルトガルのリスボンに到着後、11月にスペインのマドリッドでフェリペ2世に謁見している。
下はムリーリョの作品『無原罪のお宿り』。
ムリーリョも宗教画を多く書いたが、いずれの作品も明るい色調で優しく穏やかな感じに仕上げられていることが特徴と言えるように思う。
原罪とは、キリスト教においてアダムが神との約束を破ったことを人類最初の罪であるとし、アダムの子孫である人間は全て生まれながらにして背負っているという罪のこと。
しかし、聖母マリアは母の胎内にある時、既にその原罪を免れていたという説を無原罪と呼んでいる。
ゴヤもスペインに限らず世界美術史上よく知られた画家であるが、その作品の中でも『裸のマハ』『着衣のマハ』として知られているのが下の作品である。
この絵は1797~1800年の制作で、当時ゴヤの庇護者であった宰相ゴドイからの依頼で描かれたことが確かになってきたことから、ゴドイの愛妾であったペピータ・トゥドーがモデルであると長年言われてきた。
しかし、現在ではこの絵に何の寓意的意図もないというのが大勢であるとプラド美術館のカタログには書かれており、こうした見解が大勢を占めるようになっていることを私は知らなかった。
下は『着衣のマハ』で上の作品よりは後、1800年~1805年の制作だとされている。
『裸のマヤ』についてはモデルが誰かという関心の他、当時は裸婦を描くこと自体が異端であるとされていた時代であり、事実、ゴドイが暴動により失脚した際、これらの作品は宰相ゴドイ邸より没収され、1815年にゴヤは異端審問裁判所に召喚され、誰のため何の目的で描いたのか審問を受けている。
1819年、ゴヤはマドリッドの郊外に家を購入した。「聾者の家」として知られている建物である。
この家の1階の食堂や2階のサロンの壁に描かれた14枚の絵が「黒い絵」と呼ばれているものだが、彼は1823年まで、これらの絵を描き上げた。
それらの壁画をカンバスに移し替えたものがプラド美術館に展示されているが、その際に修復・加筆された部分もあり、これらがどのように配置されていたかの記録がないので、ゴヤの意図が奈辺にあったのかは分からないとカタログには記載されていた。
左は『わが子を食らうサトゥルヌス』という作品であるが、カルロス4世の宮廷画家として精細な肖像画を多く描いてきたゴヤの作品としては実に奇怪なものである。
このほか、『魔女の夜宴』や『棍棒での決闘』、『食事をする二老人』などを描いているが、いずれも暗く陰湿な作品であり、ゴヤの精神状態が尋常ではなかったのではないかと思われる。
当時、ゴヤは梅毒に罹っており、そのため我が子にまで害を与えるという精神的呵責を感じ、それを表現したのではないだろうかという説明を聞いたように記憶するが、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
時代的にはフェルナンド7世が復位して以後、スペイン国内での自由主義者への弾圧が強まり、ゴヤが自らも危険であることを察したのか、狂気からなのか、或いは、そうした政治体制に反対の意思表明として絵画に表現したのか、今となっては何も分からない。
ただ、1824年、78歳のゴヤは「聾者の家」を出てフランスに亡命し、1828年に亡くなったという事実のみが記録されている。
以上、スペインの画家と作品の一部について記してみたが、プラド美術館は、ラファエロ、ルーベンス、ティツィアーノなど名だたる画家の作品も多数所蔵・展示しており、絵画に興味がなくとも十分に楽しませてくれる施設である。
ついでだが、ピカソが美術館の館長をしていた時期もある。
November 15, 2010
ポルトガル・スペインを巡る 【1】プラド美術館Ⅰ
ポルトガルで友人の武本氏を訪ねたことは既に書いた。
今回の旅行先をこの二つの国に決めたのには幾つかの理由がある。 その一つがポルトガル・セトゥーバルにアトリエを構える武本氏を訪問することであった。
二つ目にはスペイン・マドリッドにあるプラド美術館を訪ねること。
三つ目にはバルセロナのピカソ美術館とガウディの作品を見ること。
四つ目にはイスラム教勢力とキリスト教勢力のせめぎ合いの過程で、それぞれの異なる歴史文化遺産や、それらが融合したものを見ること。
勿論、目的は4つだけではないが、まずはマドリッドを旅のスタート地点として拙文を綴ることにしよう。
マドリッドの朝7時少し前。
まだ暗いが既に市内中心部へ向かう道路は渋滞が始まりだしている。
マドリッドでの目的は何と言ってもプラド美術館である。
スペイン国鉄のターミナル、アトーチャ駅前にはソフィア王妃芸術センターがあり、向かい合う位置に王立植物園やレティーロ公園が広がる。
その一角を占めるようにプラド美術館がある。
写真は美術館の北側、ゴヤ・ゲートであるが、9時の開館前から早くも入場者が列をなしていた。
ゲート前にはゴヤの像が美術館に向かって建っており、ゴヤの背後、つまり、写真を撮影している側に高級ホテル・リッツがある。
プラド美術館展或いはゴヤ展として、これまでも日本で多くの作品が展示されてきたが、出張展示では鑑賞数に限りがあるし、美術館を訪れても館所蔵の絵が常時全て展示されているわけではなく、時に貸し出し中の作品があったりして落胆することもある。
写真は『プラド美術館ガイドブック』 (日本語版)より
しかし、もっとも見たかった『宮廷の女官たち』という上の作品の実物を見ることができ、まずまず満足した。
標題は『Las Meninas』(女官たち)というディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez)の作品である。
ベラスケスは17世紀のスペインを代表する画家であり、彼はスペイン王フェリペ4世をパトロンとして宮廷の人々の絵を多く描いたことでも知られているが、『ラス・メニーナス』の中央に描かれているのがフェリペ4世の娘・マルガリータ王女(Margarita Teresa de España)。
マルガリータ王女の肖像画はウィーン美術史美術館でも見ており、他の作品も機会があれば見てみたいと思っていたのである。
とりわけ、この作品は画中の人物の配置構成や光の当たり具合から鑑賞者をも画中空間に引きずり込むという何ともオモシロイ技法を用いているのである。
また後に紹介するが、スペインの画家パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)が下の『宮廷の女官達』を描いているので、それと見比べるという点でも実物に会えたことを嬉しく思った。
写真は『ピカソ美術館』のガイド(日本語版)より
マルガリータ王女がスペイン王フェリペ4世の娘であることは既に書いたが、ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝・レオポルト1世と幼い頃に婚約していた。
していたと言うりも“させられていた”が正確かも。
そのため彼女の肖像画が神聖ローマ帝国へ多く送られていたようで、ウィーン美術史美術館には多く所蔵されている。
彼女は1651年生まれで、1666年にレオポルト1世のもとに妃として嫁いでいる。
この頃のヨーロッパはフランスにルイ14世が君臨しヴェルサイユ宮殿が建てられた頃だが、ルイ14世の王妃マリー・テレーズはスペイン王フェリペ4世の娘であるからマルガリータ王女は彼女の異母妹。 スペイン・ハプスブルク家最後の王であるカルロス2世はマリー・テレーズの異母弟。
ヨーロッパの国々の王族・貴族は直系・傍系に関わらず近親婚の例が多く非常にややこしく、これの弊害も多かったようだが、これについては機会があれば書くことにしよう。
今回の旅行先をこの二つの国に決めたのには幾つかの理由がある。 その一つがポルトガル・セトゥーバルにアトリエを構える武本氏を訪問することであった。
二つ目にはスペイン・マドリッドにあるプラド美術館を訪ねること。
三つ目にはバルセロナのピカソ美術館とガウディの作品を見ること。
四つ目にはイスラム教勢力とキリスト教勢力のせめぎ合いの過程で、それぞれの異なる歴史文化遺産や、それらが融合したものを見ること。
勿論、目的は4つだけではないが、まずはマドリッドを旅のスタート地点として拙文を綴ることにしよう。
マドリッドの朝7時少し前。
まだ暗いが既に市内中心部へ向かう道路は渋滞が始まりだしている。
マドリッドでの目的は何と言ってもプラド美術館である。
スペイン国鉄のターミナル、アトーチャ駅前にはソフィア王妃芸術センターがあり、向かい合う位置に王立植物園やレティーロ公園が広がる。
その一角を占めるようにプラド美術館がある。
写真は美術館の北側、ゴヤ・ゲートであるが、9時の開館前から早くも入場者が列をなしていた。
ゲート前にはゴヤの像が美術館に向かって建っており、ゴヤの背後、つまり、写真を撮影している側に高級ホテル・リッツがある。
プラド美術館展或いはゴヤ展として、これまでも日本で多くの作品が展示されてきたが、出張展示では鑑賞数に限りがあるし、美術館を訪れても館所蔵の絵が常時全て展示されているわけではなく、時に貸し出し中の作品があったりして落胆することもある。
写真は『プラド美術館ガイドブック』 (日本語版)より
しかし、もっとも見たかった『宮廷の女官たち』という上の作品の実物を見ることができ、まずまず満足した。
標題は『Las Meninas』(女官たち)というディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez)の作品である。
ベラスケスは17世紀のスペインを代表する画家であり、彼はスペイン王フェリペ4世をパトロンとして宮廷の人々の絵を多く描いたことでも知られているが、『ラス・メニーナス』の中央に描かれているのがフェリペ4世の娘・マルガリータ王女(Margarita Teresa de España)。
マルガリータ王女の肖像画はウィーン美術史美術館でも見ており、他の作品も機会があれば見てみたいと思っていたのである。
とりわけ、この作品は画中の人物の配置構成や光の当たり具合から鑑賞者をも画中空間に引きずり込むという何ともオモシロイ技法を用いているのである。
また後に紹介するが、スペインの画家パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)が下の『宮廷の女官達』を描いているので、それと見比べるという点でも実物に会えたことを嬉しく思った。
写真は『ピカソ美術館』のガイド(日本語版)より
マルガリータ王女がスペイン王フェリペ4世の娘であることは既に書いたが、ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝・レオポルト1世と幼い頃に婚約していた。
していたと言うりも“させられていた”が正確かも。
そのため彼女の肖像画が神聖ローマ帝国へ多く送られていたようで、ウィーン美術史美術館には多く所蔵されている。
彼女は1651年生まれで、1666年にレオポルト1世のもとに妃として嫁いでいる。
この頃のヨーロッパはフランスにルイ14世が君臨しヴェルサイユ宮殿が建てられた頃だが、ルイ14世の王妃マリー・テレーズはスペイン王フェリペ4世の娘であるからマルガリータ王女は彼女の異母妹。 スペイン・ハプスブルク家最後の王であるカルロス2世はマリー・テレーズの異母弟。
ヨーロッパの国々の王族・貴族は直系・傍系に関わらず近親婚の例が多く非常にややこしく、これの弊害も多かったようだが、これについては機会があれば書くことにしよう。