January 30, 2010
タイの遺跡を訪ねる (11) ピマーイ国立博物館
ムアン・タム遺跡公園を出ると直ぐのところに広い貯水池がある。
このような貯水池のことをタイではバライ(Baray)と呼ぶらしいが、貯水容量は相当なものであると思えた。
灌漑のために作られたというこのバライはムアン・タム湖と呼ばれるくらいに広いもので、当時の支配者の権力が如何様なものであったかということと共に支配者たる者が具えるべき必須条件に灌漑用水の確保が重要なことであったということが充分に想像できる。
下はムアン・タム遺跡からそう遠くない所にあるピマーイ国立博物館の建物と池である。
この池も灌漑用に作られたものだと聞いた。
博物館にはピマーイ遺跡、パノム・ルン遺跡、ムアン・タム遺跡よりの発掘品のほか、近隣の遺跡より発掘・発見された歴史的文化財が多く収蔵・展示されていたが、館内は写真撮影が禁じられていたためカメラによる記録物は無い。
ただ収蔵庫の容量にも限界があるのか、破風やリンテルなどの大きい物の一部が館外で保管されており、それらの一部を撮影してきたので紹介してみることにする。
下の破風が原物であり、ムアン・タム遺跡公園入口付近にあったものがレプリカである。
元々は中央祠堂の破風としてあったもので、彫刻は象に乗っているところから多分インドラ神、象はアイラーヴァタであろうと思う。
ちなみにナーガは5匹である。
下のリンテルはよく分からない。
瞑想する人々と水鳥であろうか。
どことなく仏教的な彫り物に見えるのだが・・・
下のリンテルは下部に獅子らしいものが2頭いて、その上にいる者には羽のようなものが付いているのでガルーダかもしれない。
ガルーダであるとすれば、それに乗っている上のものはヴィシュヌ神になる。
ヴィシュヌ神は4本の腕を持ち、武器である棍棒と輪宝、法螺貝に蓮華をそれぞれの手に持っているので彫像は不完全ではあるがヴィシュヌ神に間違いないように思える。
下の写真は説明版からムアン・タム遺跡で発見された10世紀に制作されたリンテルである。
シヴァ神と妃・パールヴァティで、下のケッタイな顔はカーラである。
下の写真のリンテルは多分ガルーダに乗るヴィシュヌ神であると思う。
ガルーダに羽は見えないけれど両手に蛇を捕まえているし、乗っているのは明瞭ではないが4本の腕と、それぞれに何か持っているように見えるので武器である棍棒と輪宝、法螺貝に蓮華なのであろうと思う。
下のリンテルは説明版もはっきりしているのでよく分かる。
これはヴィシュヌ神が化身してクリシュナに具現化したものである。
ヴィシュヌ神はヒンドゥー神話の中で様々に変身するが、最初の人間マヌを大洪水から救った巨大魚のマツヤ、不死薬をもたらした亀のクールマ、その他に猪になったり獅子になったりと10の化身として有名であるが、その中にはインドの大叙事詩ラーマーヤナの主人公・ラーマであったり、英雄のクリシュナもその化身のひとつなのである。
ヴィシュヌ神はヒンドゥー教3主要神のひとつで、「道徳が衰微し、不道徳が栄えるたびに私は化身する」と言い、常に善が悪に勝る世界を守護する働きをするという神であり、誠にご立派なお方である。
が、サラスヴァティーとラクシュミーという二人の絶世の美女を奥さんにしている。
サラスヴァティーというのは日本では弁天さん、弁財天のことで、ラクシュミーというのは吉祥天女のことである。
更に、ヴィシュヌ神は化身した姿ごとに奥さんがおり、クリシュナにはルクミニーという奥さんがいる。
『これはいったいどういうこっちゃねん。』
ヒンドゥー教3主要神はブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3つであるが、いずれも男性神であり女性神の位置付けと、その発展は・・・。
インドの宗教史、精神史を辿るとなかなかオモロイものがある。
このような貯水池のことをタイではバライ(Baray)と呼ぶらしいが、貯水容量は相当なものであると思えた。
灌漑のために作られたというこのバライはムアン・タム湖と呼ばれるくらいに広いもので、当時の支配者の権力が如何様なものであったかということと共に支配者たる者が具えるべき必須条件に灌漑用水の確保が重要なことであったということが充分に想像できる。
下はムアン・タム遺跡からそう遠くない所にあるピマーイ国立博物館の建物と池である。
この池も灌漑用に作られたものだと聞いた。
博物館にはピマーイ遺跡、パノム・ルン遺跡、ムアン・タム遺跡よりの発掘品のほか、近隣の遺跡より発掘・発見された歴史的文化財が多く収蔵・展示されていたが、館内は写真撮影が禁じられていたためカメラによる記録物は無い。
ただ収蔵庫の容量にも限界があるのか、破風やリンテルなどの大きい物の一部が館外で保管されており、それらの一部を撮影してきたので紹介してみることにする。
下の破風が原物であり、ムアン・タム遺跡公園入口付近にあったものがレプリカである。
元々は中央祠堂の破風としてあったもので、彫刻は象に乗っているところから多分インドラ神、象はアイラーヴァタであろうと思う。
ちなみにナーガは5匹である。
下のリンテルはよく分からない。
瞑想する人々と水鳥であろうか。
どことなく仏教的な彫り物に見えるのだが・・・
下のリンテルは下部に獅子らしいものが2頭いて、その上にいる者には羽のようなものが付いているのでガルーダかもしれない。
ガルーダであるとすれば、それに乗っている上のものはヴィシュヌ神になる。
ヴィシュヌ神は4本の腕を持ち、武器である棍棒と輪宝、法螺貝に蓮華をそれぞれの手に持っているので彫像は不完全ではあるがヴィシュヌ神に間違いないように思える。
下の写真は説明版からムアン・タム遺跡で発見された10世紀に制作されたリンテルである。
シヴァ神と妃・パールヴァティで、下のケッタイな顔はカーラである。
下の写真のリンテルは多分ガルーダに乗るヴィシュヌ神であると思う。
ガルーダに羽は見えないけれど両手に蛇を捕まえているし、乗っているのは明瞭ではないが4本の腕と、それぞれに何か持っているように見えるので武器である棍棒と輪宝、法螺貝に蓮華なのであろうと思う。
下のリンテルは説明版もはっきりしているのでよく分かる。
これはヴィシュヌ神が化身してクリシュナに具現化したものである。
ヴィシュヌ神はヒンドゥー神話の中で様々に変身するが、最初の人間マヌを大洪水から救った巨大魚のマツヤ、不死薬をもたらした亀のクールマ、その他に猪になったり獅子になったりと10の化身として有名であるが、その中にはインドの大叙事詩ラーマーヤナの主人公・ラーマであったり、英雄のクリシュナもその化身のひとつなのである。
ヴィシュヌ神はヒンドゥー教3主要神のひとつで、「道徳が衰微し、不道徳が栄えるたびに私は化身する」と言い、常に善が悪に勝る世界を守護する働きをするという神であり、誠にご立派なお方である。
が、サラスヴァティーとラクシュミーという二人の絶世の美女を奥さんにしている。
サラスヴァティーというのは日本では弁天さん、弁財天のことで、ラクシュミーというのは吉祥天女のことである。
更に、ヴィシュヌ神は化身した姿ごとに奥さんがおり、クリシュナにはルクミニーという奥さんがいる。
『これはいったいどういうこっちゃねん。』
ヒンドゥー教3主要神はブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3つであるが、いずれも男性神であり女性神の位置付けと、その発展は・・・。
インドの宗教史、精神史を辿るとなかなかオモロイものがある。
at 13:40|Permalink│
タイの遺跡を訪ねる (10) ムアン・タム遺跡 【?】
聖域である中央塔が建ち並ぶ中へ入ってみると、それぞれの塔が宗教儀式の祠堂としての役割を果たしていたようである。
出入り口はあるのだが、内部でどのような儀式が行われていたのか推測できるような遺物は無かった。
下は前ページ、神殿平面図の中西門(内陣側から見た)であるが、屋根を構成する石組みは残っているが屋根そのものは既に無い。
大きい石枠の窓が並んでいることで内陣を回廊(ギャラリー)が囲んでいることが分かる。
以前にも書いたが、回廊の内部は通路になっており、その幅は目測であるが1m程度、もう少しあっても2mはない程度の幅の廊下が続いている。
建物の破風やリンテルには細かな彫刻が遺されている。
風雨にさらされてはいるが保存が極端に悪いわけではなく、建物などの所々に周囲の石材とは明らかに色の異なるものが据えられており、保存のための修理が行われたことが分かる。
下の祠堂の場合はリンテルを支えるための左右の柱のうち、左側は欠落し、右の柱の上部の白い部分は補足したものであろう。
上のリンテルはカーラに乗った神かと思っていたのだが、カタログには『Human seated Kola』と書かれていた。
多分、『Kola』は『Kala』の間違いだと思うのだが私には分からない。
下の写真は『Varuna on Hamsa』とカタログの註。
ハンサに乗るヴァルナ神ということだが、ハンサはヴァルナ神の乗り物で白鳥やガンのような水鳥のこと。
ヴァルナ神は天空の司法神と言われているが、仏教に混じってからは西の方角を守護する水の神とされている。
下のリンテルは『Shiva and Uma on Nandin』。
聖牛ナンディンに乗るシヴァ神と妃・ウマである。
いずれのリンテルも妙な顔をしたカーラ(Kala)の上部に彫られているが、カーラというのは大変に貪欲、食欲旺盛であり、とうとう自分の手足や体まで食い尽くして顔だけになったと言われる怪物で祠堂を守る鬼神とされているケッタイな奴である。
カーラには時間という意味もあり、後に死神とも言われ地獄の主神・閻魔であるとされている。
と言うことなので「ケッタイな奴」という表現は取り消しにしておく。
下の写真は聖域の中心である内陣の四方に掘られたL字形の池から内陣を眺めたものである。
池の欄干はナーガの体で構成されている。
このナーガは3匹で頭が3つ見えているが、5匹のところもあったし、7匹の場合もあった。いずれも奇数であり1匹の頭が開いた扇のテッペンになるように組まれているが、なぜ奇数になっているのか疑問に思ったが尋ねずに帰ってきてしまった。
これはちょっと残念なこと。
池の周辺を撮影してみたが、もっとゆっくり時間を取っても良いと思ったムアン・タム遺跡であった。
池を四方に掘って水を貯めているのは美的な意味を持たせていたこともあっただろうし、何らかの宗教的儀式に水が必要であったということもあるだろうが、やはり1年のうち半分までが乾季であるという乾燥気候の土地にあって農耕に必要な水を確保することは、その土地を支配する上での第一番の必須条件であったことによるのであろう。
出入り口はあるのだが、内部でどのような儀式が行われていたのか推測できるような遺物は無かった。
下は前ページ、神殿平面図の中西門(内陣側から見た)であるが、屋根を構成する石組みは残っているが屋根そのものは既に無い。
大きい石枠の窓が並んでいることで内陣を回廊(ギャラリー)が囲んでいることが分かる。
以前にも書いたが、回廊の内部は通路になっており、その幅は目測であるが1m程度、もう少しあっても2mはない程度の幅の廊下が続いている。
建物の破風やリンテルには細かな彫刻が遺されている。
風雨にさらされてはいるが保存が極端に悪いわけではなく、建物などの所々に周囲の石材とは明らかに色の異なるものが据えられており、保存のための修理が行われたことが分かる。
下の祠堂の場合はリンテルを支えるための左右の柱のうち、左側は欠落し、右の柱の上部の白い部分は補足したものであろう。
上のリンテルはカーラに乗った神かと思っていたのだが、カタログには『Human seated Kola』と書かれていた。
多分、『Kola』は『Kala』の間違いだと思うのだが私には分からない。
下の写真は『Varuna on Hamsa』とカタログの註。
ハンサに乗るヴァルナ神ということだが、ハンサはヴァルナ神の乗り物で白鳥やガンのような水鳥のこと。
ヴァルナ神は天空の司法神と言われているが、仏教に混じってからは西の方角を守護する水の神とされている。
下のリンテルは『Shiva and Uma on Nandin』。
聖牛ナンディンに乗るシヴァ神と妃・ウマである。
いずれのリンテルも妙な顔をしたカーラ(Kala)の上部に彫られているが、カーラというのは大変に貪欲、食欲旺盛であり、とうとう自分の手足や体まで食い尽くして顔だけになったと言われる怪物で祠堂を守る鬼神とされているケッタイな奴である。
カーラには時間という意味もあり、後に死神とも言われ地獄の主神・閻魔であるとされている。
と言うことなので「ケッタイな奴」という表現は取り消しにしておく。
下の写真は聖域の中心である内陣の四方に掘られたL字形の池から内陣を眺めたものである。
池の欄干はナーガの体で構成されている。
このナーガは3匹で頭が3つ見えているが、5匹のところもあったし、7匹の場合もあった。いずれも奇数であり1匹の頭が開いた扇のテッペンになるように組まれているが、なぜ奇数になっているのか疑問に思ったが尋ねずに帰ってきてしまった。
これはちょっと残念なこと。
池の周辺を撮影してみたが、もっとゆっくり時間を取っても良いと思ったムアン・タム遺跡であった。
池を四方に掘って水を貯めているのは美的な意味を持たせていたこともあっただろうし、何らかの宗教的儀式に水が必要であったということもあるだろうが、やはり1年のうち半分までが乾季であるという乾燥気候の土地にあって農耕に必要な水を確保することは、その土地を支配する上での第一番の必須条件であったことによるのであろう。
at 11:23|Permalink│
January 29, 2010
タイの遺跡を訪ねる (9) ムアン・タム遺跡 【?】
山上にあるパノム・ルン遺跡から10数分ばかり下った所にある駐車場にバスを入れて、私たちはムアン・タム遺跡公園の見学に向かった。
パノム・ルンというのは、『大きい山』という意味であると先に書いたが、ムアン・タムというのは『下町』という意味であり元々の名前ではないらしい。先に書いたガイドブックによれば山の上のパノム・ルンと対称的に平地に建てられたことから現地の人々によって、そう呼ばれてきたのであろうとしている。
また、現地ガイドによれば、パノム・ルンは王族や貴族が参詣する場所であり、ムアン・タムは中央祠堂(Central Tower)のある内陣を除いて階級の低い者たちが参詣していた所ではないかと語っていた。
ともあれ、この遺跡公園の名称は下の写真の通りPRASAT NUANG TAM(ムアン・タム神殿)となっているようにパノム・ルン遺跡公園全体の一部分を担っているということになるのだが、広い地域を大変よく整備していると感心させられた。
公園の入口近くには案内所が設けられ、公園に入ると直ぐに破風(切り妻)とリンテルのレプリカが置かれている。
下は破風(切り妻)のレプリカであるが原物は国立ピマーイ博物館に展示してある。(後に紹介)
木々の葉が茂る公園の道をしばらく進んで行くと、やがて右手にムアン・タム神殿の遺跡が見えてくる。
タイ人男性が1人歩いているのが写真に見えているが、この人物をスケールとして見れば石造建築物がいかに大きいものであるか想像できることと思う。
下の写真はムアン・タム神殿遺跡の正面玄関、つまり外壁の東山門になる。
上の写真でも想像できるが、建物の基壇や壁は石造物で構造が残っているが、屋根の部分が無い。
ガイドブックによれば、遺跡調査の段階で木材を組むために削った石は発見しているが、瓦や砂岩、レンガなどの屋根を作るための他の材料が発見されていないので、屋根は木材によって作られていたのであろうとしている。
下の図(ガイドブックより転写)がムアン・タム神殿の平面図であり、上の写真は右手のOuter eastern gopuraの右側(壁の外側)から撮影したものである。
ムアン・タム神殿の外壁は幅120m、長さ127mであり、かなり広いものである。
砂岩に細かな彫刻が施された破風とリンテルで飾られた山門(gopura)を入ろうとするところで撮影した写真が下のものだが、現在は屋根が無いために明るい。
多分、当時は窓枠から陽が差し込んでいたのであろうと思いを巡らせながら神殿遺跡へ入って行った。
上の写真で中央の床に柵をしてあるのは、8弁の蓮の花を彫ってある部分を保護しているのである。
パノム・ルン遺跡にも同様のものがあったが、ヒンドゥーによる宇宙観での8つの方位を表わしているとか善事を表わしているとか、意味合いははっきりしていないようだ。
しかし、ここでは通路の真ん中にあり、パノム・ルン遺跡でも第一段階のプラットフォームの真ん中に彫ってあった。それにパノム・ルン遺跡の中心祠堂の出入り口には象に乗るインドゥラやナーガに乗るヴァルーナ、シンハに乗るクベラなどを彫った立方体の石の上部に8弁の蓮の花が彫ってあったことから、私は方位を表わすというよりも、足や手で蓮の花に触れることで潔斎というか禊(みそぎ)といったことを行っていたのではないかと想像した。
ともかく先へ進んでみよう。
回廊(ギャラリー)を有する内陣壁の玄関が見えてきた。
この山門と前に見える玄関の間の左右にL字型の池がある。
下の写真の池は正面玄関に向って右側のものだが、その周囲は石造のナーガの長い体が欄干になって囲っている。
ナーガは砂岩であるが、ここでも参道はラテライトが敷き詰められている。
聖域である内陣へ入ると4つの塔のある遺跡を望める。
写真のように4つの塔が塔上部を破損しながらも残っているのだが、手前は基壇の一部を残して上部(同様の塔が建っていた)は完全に壊れている。
これらの建物は11世紀に建てられたものであると、11th century A.D.と英語で紹介されていたが、同時に仏暦16世紀という表記もあった。
タイでは西暦だけでなく仏暦をもよく使う。
西暦というのは良く知られている通りキリストが生まれたとされる年を紀元元年としているが、仏暦というのは釈尊が入滅した年を基にして数えるもので当然双方の数字にはズレがある。
このズレを補正するには、西暦に換算する場合は仏暦から543を引けば良いし、逆に西暦から仏暦を求める場合には西暦に543を加えれば良いと簡単なようだがなれるまではヤヤコシイ。
ケチをつけるつもりはないが、釈尊入滅を紀元前543年とした場合の仏暦であって、釈尊入滅の年は定かではなく前483年頃とか前383年頃などの説もある。キリスト生誕年を基にした西暦も、キリストの誕生年は曖昧であり、年号の紀元元年を釈尊やキリストの没年・誕生年と歴史的事実と受け止めてはいけない。
日本でも『♪皇紀2600年』という歌詞を含む歌が戦前に歌われていたそうだが、神話というフィクションの世界における神武紀元があたかも歴史的事実であるかのような誤解を生じさせる紀年法は頂けない。
パノム・ルンというのは、『大きい山』という意味であると先に書いたが、ムアン・タムというのは『下町』という意味であり元々の名前ではないらしい。先に書いたガイドブックによれば山の上のパノム・ルンと対称的に平地に建てられたことから現地の人々によって、そう呼ばれてきたのであろうとしている。
また、現地ガイドによれば、パノム・ルンは王族や貴族が参詣する場所であり、ムアン・タムは中央祠堂(Central Tower)のある内陣を除いて階級の低い者たちが参詣していた所ではないかと語っていた。
ともあれ、この遺跡公園の名称は下の写真の通りPRASAT NUANG TAM(ムアン・タム神殿)となっているようにパノム・ルン遺跡公園全体の一部分を担っているということになるのだが、広い地域を大変よく整備していると感心させられた。
公園の入口近くには案内所が設けられ、公園に入ると直ぐに破風(切り妻)とリンテルのレプリカが置かれている。
下は破風(切り妻)のレプリカであるが原物は国立ピマーイ博物館に展示してある。(後に紹介)
木々の葉が茂る公園の道をしばらく進んで行くと、やがて右手にムアン・タム神殿の遺跡が見えてくる。
タイ人男性が1人歩いているのが写真に見えているが、この人物をスケールとして見れば石造建築物がいかに大きいものであるか想像できることと思う。
下の写真はムアン・タム神殿遺跡の正面玄関、つまり外壁の東山門になる。
上の写真でも想像できるが、建物の基壇や壁は石造物で構造が残っているが、屋根の部分が無い。
ガイドブックによれば、遺跡調査の段階で木材を組むために削った石は発見しているが、瓦や砂岩、レンガなどの屋根を作るための他の材料が発見されていないので、屋根は木材によって作られていたのであろうとしている。
下の図(ガイドブックより転写)がムアン・タム神殿の平面図であり、上の写真は右手のOuter eastern gopuraの右側(壁の外側)から撮影したものである。
ムアン・タム神殿の外壁は幅120m、長さ127mであり、かなり広いものである。
砂岩に細かな彫刻が施された破風とリンテルで飾られた山門(gopura)を入ろうとするところで撮影した写真が下のものだが、現在は屋根が無いために明るい。
多分、当時は窓枠から陽が差し込んでいたのであろうと思いを巡らせながら神殿遺跡へ入って行った。
上の写真で中央の床に柵をしてあるのは、8弁の蓮の花を彫ってある部分を保護しているのである。
パノム・ルン遺跡にも同様のものがあったが、ヒンドゥーによる宇宙観での8つの方位を表わしているとか善事を表わしているとか、意味合いははっきりしていないようだ。
しかし、ここでは通路の真ん中にあり、パノム・ルン遺跡でも第一段階のプラットフォームの真ん中に彫ってあった。それにパノム・ルン遺跡の中心祠堂の出入り口には象に乗るインドゥラやナーガに乗るヴァルーナ、シンハに乗るクベラなどを彫った立方体の石の上部に8弁の蓮の花が彫ってあったことから、私は方位を表わすというよりも、足や手で蓮の花に触れることで潔斎というか禊(みそぎ)といったことを行っていたのではないかと想像した。
ともかく先へ進んでみよう。
回廊(ギャラリー)を有する内陣壁の玄関が見えてきた。
この山門と前に見える玄関の間の左右にL字型の池がある。
下の写真の池は正面玄関に向って右側のものだが、その周囲は石造のナーガの長い体が欄干になって囲っている。
ナーガは砂岩であるが、ここでも参道はラテライトが敷き詰められている。
聖域である内陣へ入ると4つの塔のある遺跡を望める。
写真のように4つの塔が塔上部を破損しながらも残っているのだが、手前は基壇の一部を残して上部(同様の塔が建っていた)は完全に壊れている。
これらの建物は11世紀に建てられたものであると、11th century A.D.と英語で紹介されていたが、同時に仏暦16世紀という表記もあった。
タイでは西暦だけでなく仏暦をもよく使う。
西暦というのは良く知られている通りキリストが生まれたとされる年を紀元元年としているが、仏暦というのは釈尊が入滅した年を基にして数えるもので当然双方の数字にはズレがある。
このズレを補正するには、西暦に換算する場合は仏暦から543を引けば良いし、逆に西暦から仏暦を求める場合には西暦に543を加えれば良いと簡単なようだがなれるまではヤヤコシイ。
ケチをつけるつもりはないが、釈尊入滅を紀元前543年とした場合の仏暦であって、釈尊入滅の年は定かではなく前483年頃とか前383年頃などの説もある。キリスト生誕年を基にした西暦も、キリストの誕生年は曖昧であり、年号の紀元元年を釈尊やキリストの没年・誕生年と歴史的事実と受け止めてはいけない。
日本でも『♪皇紀2600年』という歌詞を含む歌が戦前に歌われていたそうだが、神話というフィクションの世界における神武紀元があたかも歴史的事実であるかのような誤解を生じさせる紀年法は頂けない。
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