October 2005
October 25, 2005
しばらく飛んでしまいました
信州旅行より帰りましてから、高松、博多、広島と巡っておりましたので、旅行記の続きを書くのがズレてしまいました。
安曇野には山岳美術館やジャンセン美術館など、まだまだ沢山の美術館があります。
またガラス工芸のお店もあり、高温で熔けたガラス玉を吹いたり、ガラス製品を削ったりといった作業を体験させてくれる所もあります。
安曇野は芸術村とも呼べる地域です。
9月入って収穫された新物の蕎麦も食べてきました。
香りが一段と高い蕎麦で、
美味しいの一言。
ゴチャゴチャした感想は、かえって味わいを歪めます。
この安曇野の地域の一つに穂高町があります。
私は、すっかり忘れていたのですが、『きけわだつみのこえ』に遺書が収録されている上原良司少尉の出身地でありました。
慶応大学経済学部の学生でしたが、学徒動員で昭和18年12月に入営。昭和20年5月に陸軍特別攻撃隊員として鹿児島県・知覧の飛行場より飛び立ち、沖縄・嘉手納湾の米国機動部隊艦船に突っ込み、22歳で世を去った人です。
彼は実証的に全体主義国家の敗北を確信し、天皇制国家のもとで自由主義こそ合理的と、悠久の大義に生きるなんてことはどうでもよく、自分は天国に行くのだとも言っています。
大政翼賛の世にあって、人間の本性は自由であり、靖国神社へとは言わずに天国へと堂々と書いているところに、彼の強い思想性を見ることができます。
「人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は、火を見るよりあきらかであると思います。」
「私の理想はむなしく敗れました。人間にとって一国の興亡はじつに重大なことでありますが、宇宙全体から考えた時はじつに些細なことです。」
と遺書に記し、
「明日ハ自由主義者が一人この世から去って行きます。」と、彼の所感においても体制に組しないことを明記しています。
この彼の所感の中段において、
「(前略)空の特攻隊のパイロットは1器械に過ぎぬと1友人が云ったことは確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなく、勿論理性もなく、只敵の空母艦に向かって吸ひつく磁石の中の鉄の1分子に過ぎぬのです。理性を以て考へたなら実に考へられぬ事で(中略)1器械である吾人ハ何も云ふ権利もありませんが唯願はくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願ひするのみです。(後略)」
天皇絶対の全体主義国家の中で、自分などは一つの器械に過ぎず、使われ壊されるだけのもので権利を主張することもできないけれど、一人の人間として死に臨み、国民全てに自由な日本をつくり上げてほしいと書かれたのであろうと推測するのです。
望みもしない戦争に駆り立てられ、将棋の捨て駒のごとく、いとも簡単に命を捨てさせられる。
こんなことが二度と許されて良いはずがありません。
戦争を主導した者達の責任は当然重いものです。
それに積極的か消極的かに関わらず戦争遂行に協力した学校関係者、宗教家、医療関係者などの責任は同様に重いと断じざるを得ません。
上原良司氏は死を前にして、美しい安曇野の風景を思い、亡くなった恋人、産み育ててくれた両親、兄、妹たちのことを脳裏に描いていたでしょう。
『きけわだつみのこえ』は、何度読み返しても涙が止まりません。
安曇野を巡っていて、『有明』の文字を見つけて思い出してしまいました。
『かにかくに 有明村は恋しかりけり
思い出の山 思い出の川』
安曇野には山岳美術館やジャンセン美術館など、まだまだ沢山の美術館があります。
またガラス工芸のお店もあり、高温で熔けたガラス玉を吹いたり、ガラス製品を削ったりといった作業を体験させてくれる所もあります。
安曇野は芸術村とも呼べる地域です。
9月入って収穫された新物の蕎麦も食べてきました。
香りが一段と高い蕎麦で、
美味しいの一言。
ゴチャゴチャした感想は、かえって味わいを歪めます。
この安曇野の地域の一つに穂高町があります。
私は、すっかり忘れていたのですが、『きけわだつみのこえ』に遺書が収録されている上原良司少尉の出身地でありました。
慶応大学経済学部の学生でしたが、学徒動員で昭和18年12月に入営。昭和20年5月に陸軍特別攻撃隊員として鹿児島県・知覧の飛行場より飛び立ち、沖縄・嘉手納湾の米国機動部隊艦船に突っ込み、22歳で世を去った人です。
彼は実証的に全体主義国家の敗北を確信し、天皇制国家のもとで自由主義こそ合理的と、悠久の大義に生きるなんてことはどうでもよく、自分は天国に行くのだとも言っています。
大政翼賛の世にあって、人間の本性は自由であり、靖国神社へとは言わずに天国へと堂々と書いているところに、彼の強い思想性を見ることができます。
「人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は、火を見るよりあきらかであると思います。」
「私の理想はむなしく敗れました。人間にとって一国の興亡はじつに重大なことでありますが、宇宙全体から考えた時はじつに些細なことです。」
と遺書に記し、
「明日ハ自由主義者が一人この世から去って行きます。」と、彼の所感においても体制に組しないことを明記しています。
この彼の所感の中段において、
「(前略)空の特攻隊のパイロットは1器械に過ぎぬと1友人が云ったことは確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなく、勿論理性もなく、只敵の空母艦に向かって吸ひつく磁石の中の鉄の1分子に過ぎぬのです。理性を以て考へたなら実に考へられぬ事で(中略)1器械である吾人ハ何も云ふ権利もありませんが唯願はくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願ひするのみです。(後略)」
天皇絶対の全体主義国家の中で、自分などは一つの器械に過ぎず、使われ壊されるだけのもので権利を主張することもできないけれど、一人の人間として死に臨み、国民全てに自由な日本をつくり上げてほしいと書かれたのであろうと推測するのです。
望みもしない戦争に駆り立てられ、将棋の捨て駒のごとく、いとも簡単に命を捨てさせられる。
こんなことが二度と許されて良いはずがありません。
戦争を主導した者達の責任は当然重いものです。
それに積極的か消極的かに関わらず戦争遂行に協力した学校関係者、宗教家、医療関係者などの責任は同様に重いと断じざるを得ません。
上原良司氏は死を前にして、美しい安曇野の風景を思い、亡くなった恋人、産み育ててくれた両親、兄、妹たちのことを脳裏に描いていたでしょう。
『きけわだつみのこえ』は、何度読み返しても涙が止まりません。
安曇野を巡っていて、『有明』の文字を見つけて思い出してしまいました。
『かにかくに 有明村は恋しかりけり
思い出の山 思い出の川』
at 12:46|Permalink│
October 16, 2005
信州への旅 第五
安曇野ちひろ美術館
ここも二人で訪れたかったところ。
安曇野の北の端、松川村にあり、アルプスを望む乳川のほとりに整備された広々とした『ちひろ公園』の一角に建っている。
東京にも『ちひろ美術館』があり、確か館長を黒柳徹子女史が務めていたように記憶しているが、こちらの館長は息子である猛氏。
『岩崎ちひろ』本名は『知弘』
敗戦を機に戦争反対の立場から日本共産党に入党。
1974年、55歳で亡くなるまで、希望を持って生きていく大切さを伝えたいと描き続けた女性であり、日本共産党の衆議院議員・松本善明氏の奥さんである。
彼女は絵本の挿絵を沢山描いてこられたが、その水彩技法や色調には素晴らしいものがあり、パステルを線描に使われるなど、技法にも独自性がある。
また、作品には子どもや女性が多く描かれ、とくに子どもの描写は母親としての愛情から見つめる優しさが線描や色調によく表されている。
芸術は「論より証拠」「百聞は一見にしかず」。
一部を紹介することにする。
テーマ
『焔の中の母と子』
我が子をしっかりと抱き、戦火に逃げ惑い、それでいて子を守ろうと恐怖に打ち勝つ気丈な母親の表情と無心な子の表情が対比的によく表されていると思いませんか。
テーマ
『紫色の馬と少女』
テーマ
『バラ飾りの帽子の少女』
テーマ
『赤い毛糸帽の女の子』
いかがでしょうか。
素敵な作品を見て、私達の心は広く広くなったけど、あなたのご感想は
ここも二人で訪れたかったところ。
安曇野の北の端、松川村にあり、アルプスを望む乳川のほとりに整備された広々とした『ちひろ公園』の一角に建っている。
東京にも『ちひろ美術館』があり、確か館長を黒柳徹子女史が務めていたように記憶しているが、こちらの館長は息子である猛氏。
『岩崎ちひろ』本名は『知弘』
敗戦を機に戦争反対の立場から日本共産党に入党。
1974年、55歳で亡くなるまで、希望を持って生きていく大切さを伝えたいと描き続けた女性であり、日本共産党の衆議院議員・松本善明氏の奥さんである。
彼女は絵本の挿絵を沢山描いてこられたが、その水彩技法や色調には素晴らしいものがあり、パステルを線描に使われるなど、技法にも独自性がある。
また、作品には子どもや女性が多く描かれ、とくに子どもの描写は母親としての愛情から見つめる優しさが線描や色調によく表されている。
芸術は「論より証拠」「百聞は一見にしかず」。
一部を紹介することにする。
テーマ
『焔の中の母と子』
我が子をしっかりと抱き、戦火に逃げ惑い、それでいて子を守ろうと恐怖に打ち勝つ気丈な母親の表情と無心な子の表情が対比的によく表されていると思いませんか。
テーマ
『紫色の馬と少女』
テーマ
『バラ飾りの帽子の少女』
テーマ
『赤い毛糸帽の女の子』
いかがでしょうか。
素敵な作品を見て、私達の心は広く広くなったけど、あなたのご感想は
at 08:42|Permalink│
信州への旅 第四
碌山美術館
碌山とは近代彫刻家 ・ 荻 原 守 衛 氏の号である。
私も家内も、ここを訪れることを楽しみの一つとしていた。
尖がり屋根の赤レンガ教会の建築物には蔦が絡まり、内部は落ち着いた風情の木造の展示場。
木々の緑に囲まれた敷地に4つの建物で美術館は構成されている。
私は力強い彼の作風が好きなのであるが、
上の作品のテーマは
『 文 覚 』。
上の作品のテーマは、
『 鉱 夫 』。
私が碌山美術館を訪れて満足したことは言うまでもない。
しかし、私は更なる嬉しさを覚えたのである。
何と、私が好む高村光太郎氏の作品、それも『腕』が展示されていたのであるから嬉しさも一層のものとなったのである。
高村光太郎氏と荻原守衛氏は友人ではあるものの、碌山美術館に光太郎氏の作品まで展示されていようとは夢だにしなかったので、嬉しさと驚きが綯い交ぜになって、高揚した気分のままに、しばし作品の前を離れることができなかったのである。
写真は一面的であるが、彫刻は三次元的作品であるので、実物を鑑賞する以外、その作品を伝達することは不可能である。
でも、是非紹介したくて掲載。
上の作品、テーマは『 腕 』。
もう1つ美術館を次のページで・・・・・
碌山とは近代彫刻家 ・ 荻 原 守 衛 氏の号である。
私も家内も、ここを訪れることを楽しみの一つとしていた。
尖がり屋根の赤レンガ教会の建築物には蔦が絡まり、内部は落ち着いた風情の木造の展示場。
木々の緑に囲まれた敷地に4つの建物で美術館は構成されている。
私は力強い彼の作風が好きなのであるが、
上の作品のテーマは
『 文 覚 』。
上の作品のテーマは、
『 鉱 夫 』。
私が碌山美術館を訪れて満足したことは言うまでもない。
しかし、私は更なる嬉しさを覚えたのである。
何と、私が好む高村光太郎氏の作品、それも『腕』が展示されていたのであるから嬉しさも一層のものとなったのである。
高村光太郎氏と荻原守衛氏は友人ではあるものの、碌山美術館に光太郎氏の作品まで展示されていようとは夢だにしなかったので、嬉しさと驚きが綯い交ぜになって、高揚した気分のままに、しばし作品の前を離れることができなかったのである。
写真は一面的であるが、彫刻は三次元的作品であるので、実物を鑑賞する以外、その作品を伝達することは不可能である。
でも、是非紹介したくて掲載。
上の作品、テーマは『 腕 』。
もう1つ美術館を次のページで・・・・・
at 07:44|Permalink│
信州への旅 第三
前回、安曇野に多くの美術館、博物館などがあることについて書いた。
それらは、とても短時間では見てまわることができないことも書いた。
今回は、二つの美術館をピックアップしてみたい。
その前に、前回述べた『道祖神』を写真で紹介しよう。
写真では表情や仕草が充分理解できないであろうが、男女二人一組になった石彫は、ただ二人並んで立っているものもあれば、男が女の肩に手をかけて抱き寄せているようなものなど、いろいろある。
そうした二人のセッティングから、『縁結び』や『夫婦和合』の神と考えられ、更に『五穀豊穣』『子孫繁栄』の神と発展的に解されてきたのかも・・・・・。
長くなるので、美術館紹介は次に。
それらは、とても短時間では見てまわることができないことも書いた。
今回は、二つの美術館をピックアップしてみたい。
その前に、前回述べた『道祖神』を写真で紹介しよう。
そうした二人のセッティングから、『縁結び』や『夫婦和合』の神と考えられ、更に『五穀豊穣』『子孫繁栄』の神と発展的に解されてきたのかも・・・・・。
長くなるので、美術館紹介は次に。
at 07:17|Permalink│
信州への旅 第二
安 曇 野
『 あ ず み の 』
安曇野の道ばたには、御影石に削り込まれた可愛い道祖神があった。
その表情や仕草は似てはいても同じものは無かった。
以前この地を訪れた時、緑の稲穂の畦道に、ひっそりと二人たたずむ道の神に愛らしさを感じたものだった。
道祖神は一般的には『道路の神様』であり、道路の悪霊を払い旅人らの安全を守る神であるが、案内書では『縁結びの』『五穀豊穣』『子孫繁栄の神』『夫婦和合』などの神であるとも書かれている。
道祖神信仰について、宗教学的研究報告は沢山あるので、ここでは省くことにする。
北アルプスから流れ来る幾筋かの川が合流し、安曇野で犀川となるが、扇状地であるため雪解け水の湧水は清らかな流れを作り出している。
アルプスを眺め、松本盆地の北に広がり、穂高温泉郷を抱えるのどかな高原田園地帯が安曇野である。
以前に比べれば道路が広がり建物が増えたものの、牧歌的風情を多分に残しており、素晴らしい土地柄であることに変わりはない。
変わってきたと感じたものは美術館に博物館、ガラス工房など、アート・ワークショップが増えたことだろうか。
この安曇野一帯で芸術に関係する施設の数は相当なもの。
全て見てまわるには、2日は費やさねばならないのではないかと思えた。
私が頻繁に旅行をしていた学生時代に『安曇野』という地名はなかった。
一体いつの頃から安曇野と呼ばれ始めたのか不明であるが、どうやら臼井吉見氏が書かれた作品、『安曇野』が世に出てからのことらしい。
穂高や豊科という地名も歴史と伝統を持つ名前ではあるが、そうした地域を含む一帯を称して呼ぶ安曇野という地名には何かロマンを感じさせる響きがあるように思う。
それが2005年10月1日、町村合併で『安曇野市』と市の名前に冠せられたのだが、行政区分の市名となると、私のロマンの感覚とは若干ズレるものを感じた次第である。
『 あ ず み の 』
安曇野の道ばたには、御影石に削り込まれた可愛い道祖神があった。
その表情や仕草は似てはいても同じものは無かった。
以前この地を訪れた時、緑の稲穂の畦道に、ひっそりと二人たたずむ道の神に愛らしさを感じたものだった。
道祖神は一般的には『道路の神様』であり、道路の悪霊を払い旅人らの安全を守る神であるが、案内書では『縁結びの』『五穀豊穣』『子孫繁栄の神』『夫婦和合』などの神であるとも書かれている。
道祖神信仰について、宗教学的研究報告は沢山あるので、ここでは省くことにする。
北アルプスから流れ来る幾筋かの川が合流し、安曇野で犀川となるが、扇状地であるため雪解け水の湧水は清らかな流れを作り出している。
アルプスを眺め、松本盆地の北に広がり、穂高温泉郷を抱えるのどかな高原田園地帯が安曇野である。
以前に比べれば道路が広がり建物が増えたものの、牧歌的風情を多分に残しており、素晴らしい土地柄であることに変わりはない。
変わってきたと感じたものは美術館に博物館、ガラス工房など、アート・ワークショップが増えたことだろうか。
この安曇野一帯で芸術に関係する施設の数は相当なもの。
全て見てまわるには、2日は費やさねばならないのではないかと思えた。
私が頻繁に旅行をしていた学生時代に『安曇野』という地名はなかった。
一体いつの頃から安曇野と呼ばれ始めたのか不明であるが、どうやら臼井吉見氏が書かれた作品、『安曇野』が世に出てからのことらしい。
穂高や豊科という地名も歴史と伝統を持つ名前ではあるが、そうした地域を含む一帯を称して呼ぶ安曇野という地名には何かロマンを感じさせる響きがあるように思う。
それが2005年10月1日、町村合併で『安曇野市』と市の名前に冠せられたのだが、行政区分の市名となると、私のロマンの感覚とは若干ズレるものを感じた次第である。
at 04:48|Permalink│