August 2006

August 26, 2006

近況について

なかなかブログの更新が出来ないでいるのです。

ヨーロッパ行についての更新を手掛けたいのですが、時間的にも気持ちの余裕といった点においても気が乗らないのです。

武勇がたたったのか、帰国してから直ぐに主治医である女医に呼び出されたのが7月末でした。

6月初めに受けた検査結果について話があるとのこと。

胃と大腸についてのガン検診を受けていたので、不安が不安を呼びました。

しかし、これについては『シロ』。

内心の安堵感は表現しようも無いほどでした。

ところが肝機能腎機能糖代謝、それに中性脂肪に至っては1000を遥かに超える数値

「えっ!何かの間違い?」

女医曰く、

「死ぬつもりですか?」



「医者として看過できません。」


「大学病院を紹介しますから入院しなさい。」

参りました。この言葉には。

いくらカワユイ、若いベッピンの看護婦がいても、入院生活はゴメンです。

日航機が御巣鷹山に墜落した時、私は病室でテレビに見入っていました。

その際に、入院生活における管理・監視される状況について学習しておりますから、二度と同じ行動は取らないと願っているのです。

以来、女医と約束した以上の摂生生活

アルコール類を断ち、デンプン質、脂質を極端に抑えて間も無く1ヶ月

豆腐、コンニャク、1日1個の玉子、野菜に海草と若干の果物、それに中国茶。

女医は、運動もと言っておりましたが、この食事で、この暑さ。

それこそブッ倒れて死んでしまいそうなので、これは勘弁。

予定では一昨日の飛行機で仙台へ。

今年は東北大学が学会会場なので久し振りに友人達と一献。

そんなつもりが・・・・・。

憂さ晴らしの意もあって、20年近く乗っていた単車を廃棄し、ヤマハのスクーターを買いました。

精検が今月末、9月末には人間ドック。

当座の関門をすり抜ける・・・
  『努力』と言うもの、
       何についても しんどい ものです。


at 07:43|Permalink

August 13, 2006

ウィーン 3

ウィーンの町は結構広い。

それに見学してまわるべき所も多い。


このウィーンの町を巡るには1273年神聖ローマ帝国の君主に選出されたハプスブルク伯ルドルフ・ドイツ王以来、ドイツの東南地方に勢力を維持してきたハプスブルグ家の歴史を頭に置いておくのが良いと思う。

カール5世の時代にオーストリア系ハプスブルグ家とスペイン系ハプスブルグ家に分かれるが、オーストリアをはじめ、東欧のボヘミア(チェコ)、ハンガリー、イタリア、スペイン、オランダ、ベルギーを支配下に置くヨーロッパ最大の力を保持した。

カール5世は、私達が後に訪れるチェコ・プラハの街との関係も深く、当時の宗教改革(マルティン・ルターなど)とも関わりを持つ有能な君主であった。

1740年にカール6世が亡くなった後、長女のマリア・テレジアが相続したためにプロイセンとの戦争が起こるが、夫のフランツ・シュテファンが1745年に神聖ローマ皇帝となって諸外国との交流の中で確固たる地位を堅持した。

娘、マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)がフランスのルイ16世と結婚したことはよく知られている。

やがてフランス革命などを経てハプスブルグ家は盛衰を繰り返し今日に至るが、双頭の鷲を紋章とするハプスブルグ家の権力と財力はウィーンの町の至る所で見ることが出来る。

ウィーンの町は以前は城壁で囲まれていたらしいが、現在は、その城壁跡をリングと呼ばれる環状道路が通り、地下鉄もリングに沿って通っている。

このリングを作ったり地下鉄を敷設させるなど、ウィーンの都市計画を推進してきたのが1848年にオーストリア皇帝に即位したフランツ・ヨーゼフ1世である。

詳しい歴史は他に譲るとしてリング内にはホーフブルグ宮殿を始め、シュテファン寺院など有名観光スポットが多い。

下はウィーンの地下鉄電車(撮影はU4のシェーンブルン駅で)。

リング内は地下を走行。
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at 14:06|Permalink

ウィーン 2

ホテルはウィーン南駅の前にあるPrinz Eugen。

ウィーン南駅はイタリア、東部ドイツ、チェコ、スロヴェニアなどへの国際列車が発着する結構大きい駅である。

ホテルの前からの南駅。
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ウィーンは尖塔何百だったか、とにかく教会の塔が多いことで有名であるが、私達の泊まったホテル・プリンツ・オイゲンの部屋からも沢山の尖塔を眺めることが出来た。

下の写真は夕焼けに染まるホテルの窓からの眺めであるが、時刻は午後8時をまわっているのである。
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Hotel Prinz Eugenは日本のシティーホテル並みで、先ずまずのレベル。

オーストリアのオイゲン元帥の名前に由来し、オイゲン通りという道路の名称にも用いられ、歩いて3分程度のところにはベルヴェデーレ宮殿がある。

at 12:07|Permalink

ウィーン 1

ザルツブルクからウィーンへの列車の旅は快適なものであった。

オーストリア連邦鉄道(国鉄)の1等車は日本のグリーン車よりも座席のゆとりなどにおいて格段の差があり、乗り心地も良かった。

車窓からは丘陵状に広がる畑や、ところどころに点在する小さな集落、遠くに雪を被った山を眺めることが出来たりと、全くのんびりしたものであった。

と言って、決して列車がのんびりと低速で走っていたわけではない。

運転席の速度計で確かめたわけではないが、時速200km程度のスピードではないかと思えた。

オーストリアはバチカンからも遠くはなく、キリスト教絶対の歴史を歩んできた土地柄である。

そのため、どれほど小さな集落にもゴシック風かバロック風の教会の尖塔を見ることができた。

やがて『ウィーンの森』を通過した列車はウィーン・ウェスト・バーンホフ(ウィーン西駅)のプラットホームに到着。

この駅はウィーンで最も大きい駅であり、列車は駅の2階部分に停車する。
【ウィーンには西駅、南駅、北駅、ミッテ駅、フランツ・ヨーゼフ駅がある】

車内での検札があるためか、日本のような改札が無く素通りでコンコースに出ることができた。

駅舎内には案内所、旅行代理店、レストラン、銀行、立ち食いの店などがあり、大阪駅や京都駅などに比べると規模は格段に小さいが、この駅からはドイツ、フランス、ハンガリーなどへの国際列車が発着するので結構賑わっていた。

1階部分にタクシー、トラム、バスなどの乗り場、それに地下鉄(Uバーン3.6)の駅もある。
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駅前にはゴシック風の教会の尖塔が見えた。
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お昼を食べていなかったので、少々遅い昼食をとった。

私はレストランでと思ったのだが、家内が軽いのが良いと言ったので仕方なく立ち食いのスタンドへ。

簡単に言えばマクドナルドのような店(屋台のようにもの)がコンコースにあって、ショーケースに並んだパンやサラダ、果物、飲み物を買い、店の前のスタンド・テーブルで食べるという仕組み。

サンドウィッチ状でチーズ、ハム、トマトなどの野菜を挟んだものが多かった。

パンの種類は豊富であったが、パサパサした食感で私には美味しいと思えるものではなかった。

はっきり言えばマズイ。

その後ユーロへの両替をして、フリーパスチケットと雑貨類を買ってタクシーでホテルのあるウィーン・ストゥッド・バーンホフ(ウィーン南駅)に向かった。

およそ15分程度。


at 08:25|Permalink

August 07, 2006

ウィーンへ

ザルツブルクでの滞在を終えた私達はウィーンへ向かうことに。

飛行機なら1時間の移動であるが、のんびりと旅をしたい私達は3時間の列車の旅を選んだ。

何と言っても今回は旅程が長いので、私と家内がそれぞれに大きいラッケージを持っての移動となるためにタクシーを利用する機会が多かった。

ホテルからザルツブルク駅までタクシーで20分程度。

運転手は50歳程度の婦人であるが、大きくて重い二人のラッゲージを軽々と積み下ろししてくれた。

日本のタクシー運転手の多くが嫌がる仕事である。

ザルツブルク中央駅は決して大きい駅ではない。

日本の民衆駅のように多くのテナントが入っているわけでもなく、閑散とした田舎の駅と表現するのが良いような駅である。


それでも、この駅からはウィーン或いはインスブルック経由でドイツ、ハンガリー、スロバキア、イタリア、スイス等へも国際列車で移動が出来るのである。
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上はザルツブルク駅とオーストリア国鉄の列車。
   (私達が乗った列車ではない)

私達が乗った列車はエー・ユーロシティー(オーストリア国鉄の特急列車)で、真っ赤な電気機関車が牽引するECの1等車。

通路を挟んで1人掛け席と2人掛け席が並ぶ車両であるが、1人分の座席は大きくて広く、前後の座席間隔もゆったりと取ってある。

車両中ほどに1人掛け席の4席分ほどはラッゲージ置き場として確保されており快適な乗り心地であった。

車中ではビールの販売があったが、左がチェコのBUDWEISERである。
     (右は水・・・ガス入り)
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オーストリアに入って、私は既にSTIEGLという美味しいビールを味わっているので、オーストリア国鉄の車内販売でチェコ・ビールが売られるとは思いもしなかったのである。

しかもBUDVARとは・・・。

このビールの名前BUDWEISERを知らない人はいないであろう。

通常アメリカのバドワイザーを想像するはずである。

世界的に有名なビールなのだから。

ところがチェコのブドヴァイゼル・ブドヴァーという会社とアメリカのアンハイザー・ブッシュという会社はBUDWEISERという名前の使用に関して訴訟騒ぎを起こしていたのである。

そもそもビールの発祥はインカ帝国でのトウモロコシで造った「チャッチャ」というものに起源を求められるらしいが、インカ帝国がスペインによって滅ぼされたのが1532年か1533年だったはず。

インカ帝国の成立は13世紀頃とされている。

ところが1265年にはチェコのブトヴァイゼル(チェスケー・ブジェヨヴィツェ)に醸造所が建設されているし、それよりも以前に修道院においてビール製造が行われてきているので、ビールの発祥起源をインカ帝国に求めるのは無理があるように思うのだが・・・。

それはそれとして、現在一般的に飲まれている白いきめ細かい泡と綺麗な黄金色のビール、いわゆるピルスナーというタイプのビールは、チェコのピルセス地方で偶然発見され世界中に広まったものであり、そのためピルゼンのビールということでピルスナーと呼ばれている。

この歴史的過程を経てブドヴァイゼル・ブドヴァーという会社がアンハイザー・ブッシュという会社に対して似通った商標の使用禁止を求めたのである。

アンハイザー・ブッシュ社は商標買い取りを申し出たが、ブドヴァイゼル・ブドヴァー社は認めていないために、ヨーロッパでは『ブド』と言えばチェコ、『バド』と言えばアメリカと理解されていたように感じた。

私の好みでは水みたいな『バド』よりも、ホップの効いたコクのある『ブド』の方が好きである。

それに『ブッシュ』という名前も好かん【笑】

私がサッポロを好むのも、ドライじゃ何とかちゅうて迎合することなく、味を守り続けとるとこかなあ。      
    (僅かに変わってはおるように思うが・・・)


at 13:49|Permalink
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