November 2006

November 10, 2006

チェコ・プラハ ?

やはり写真を組み入れる方が見やすいようです。

写真で紙面構成をしたいのですが、私の顔も奥方の顔も公開できるほどのものではありませんし、未だ羞恥心というものがありますので。

ところが写真の多くは私か奥方が写っておりますもので・・・ムムム

下の写真は旧市庁舎前広場に建つゴシック様式とルネサンス風の飾り屋根を持つティーン教会
1365年に改築されたもので、フス派の拠点教会でした。
51eeac8f.jpg
1300年中頃(14世紀)にイングランドの聖職者でありオックスフォード大学の教授であった
ジョン・ウィクリフが、カトリック教義についての批判を行いましたが、当時のヨーロッパはキリスト教=カトリックであり、教皇の権力は絶大でした。


このジョン・ウィクリフの宗教思想をもとにボヘミア(現在のチェコ)で宗教改革運動を押し広めたのが
ヤン・フスという聖職者で、カレル大学の学長をも務めた人でした。


写真は聖ミクラーシュ教会とヤン・フスの銅像
71cb1260.jpg
彼らの神学理論を細かく紹介するには時間がかかりますので要点だけを簡明に記します。

カトリックが教団として階層社会となっており、権力が枢機卿と教皇に集中し、ローマ教皇が絶対的立場に立っているが、信仰の対象は、あくまでもキリストであり、神でなければならないにも拘らず、人々が教皇を対象に許しを乞う現状は誤りである。
人々の洗礼の後に犯した罪は懺悔・告白(告解)により許されるものなのに教会は十字軍遠征のための費用を捻出するため免罪符を売買するようになった。
教会の名のもとに戦争を起こす権利は教皇にはなく、敵のために祈り祝福を与えるのが信仰の姿である。

このように主張したヤン・フスの思想はポーランド、ハンガリー、クロアチア、オーストリアなど、瞬く間に東欧諸国に広がっていきました。

このためローマ教会勢力はヤン・フスを裁判にかけ、木の杭にくくりつけ、火あぶりにして処刑してしまいました。

【このヤン・フスの思想と行動を支持した人達をフス派と呼んでいます。】

余談になりますが、1514年にポーランドのコペルニクスが『地動説』を発表しましたが、ローマ教会は認めなかったどころか弾圧を加えました。

当時、ローマ教会における教皇の権力は絶対的なものであり、各地の教会の聖職者たちも権力の下での堕落が続く中、1517年にマルティン・ルター宗教改革がドイツで始まり、以後、カトリック勢力対プロテスタント勢力というキリスト教内での争いがヨーロッパ中に広がり、幾つかの戦争にまで発展していきました。

カソリック勢力の中でも、清貧で規律ある正しい信仰をと、日本に布教に来たことのあるフランシスコ・ザビエルらがイエズス会を設立したのもこの頃のことです。

イエズス会は日本では耶蘇会と呼ばれるカトリック系の男子修道会としては世界第2の会員を有している団体です。

ちなみに第1位は信徒修道会のオプス・デイ

この名前は『ダ・ヴィンチ・コード』でご存知の方も多いことでしょう。

ヨーロッパの歴史・文化はキリスト教と切っても切れない関係。

世界史を履修させていない日本。

何が国際化、何がグローバル化やと言いたいですなあ。

それで、こうした問題が起きると現場が悪いとトカゲの尻尾切り。

文部科学大臣に、それを任命した総理大臣、こんなことでええんかいな。

そして、そうした連中を選挙で選んだのが国民自身やったというお粗末。

ムムム


at 11:52|Permalink

November 08, 2006

チェコ・プラハ ?

チェコのイメージ。

私にとってはチェコと言うよりもチェコスロバキアなのであるが、浮かびあがるものとしての1番はビールである。

先にオーストリアに関してのブログでも書いたが、ビールの歴史においてチェコを離れてビールを論ずることは出来ない。

アサヒ、キリン、サッポロ(ヱビス)、サントリー。

日本での4大ビール醸造会社である。

これらの会社のいずれもが中心的に販売しているビール、これはピルスナーというビールである。

また、このピルスナーが世界のビールの筆頭なのである。

勿論、ドイツのヴァイス、イギリスのエール、その他アイルランドのギネスといった黒いビールもある。

元は修道院で造られていた発酵した黒っぽいい飲み物であったビールが、綺麗な黄金色をした現在一般的に売られているビール、ピルスナーという種類のビールを生み出したのがチェコのプルぜニュ(Plzen)という町なのである。

プルぜニュはドイツではピルゼンと呼ぶが、チェコのブドバイザーとアメリカのバドワイザーの係争について、以前書いておいた。

次にボヘミアングラス

これは、これは強さと精巧なカッティングで世界的に有名である。

我が家のワイングラスもボヘミアンカットのグラスだが、割るのが得意の奥方も流石にこれらのグラスだけは割る事が無い。

単にグラスが強いというだけではなく・・・・・

そして、スメタナチェコ・フィルである。

スメタナ、彼が作曲したものの中で世界中で親しまれているのが『交響詩・わが祖国(Ma Vlast)』であろう。

とりわけ、その中のモルダウはよく知られている作品である。

モルダウが川の名前であることは知っていた。

そして、曲のイメージから、モルダウ川は川幅広く雄大で、ゆるやかに流れる大河であると私は長年思っていた。

しかし実際には前回に掲載した写真の如く、『ゆるやかに流れる』というのでは無く、随分流れが速いことをこの目で見て驚いたのである。

将に『百聞は一見にしかず』と言ったところであった。

また、私はモルダウ川ヴルタヴァ川と同じであることを現地へ行って初めて知り得たのである。

全く恥ずかしきことであった。






at 21:01|Permalink

November 06, 2006

チェコ・プラハ ?

チェコという現在の国家も歴史を紐解いてみるとややこしい。

私達はチェコスロバキアという国家として長い間認識していた。

しかし、近年になってチェコとスロバキアが分離して、それぞれが独立国家となった。

これも800年代にまで遡れば、現在のチェコ、スロバキア、ポーランド、それにハンガリーを一つの領地とする王国であった時期もある。

現代のヨーロッパの国々は、それぞれの土地の領有権を争ってきた歴史を持つが、このチェコにおいても例外ではない。

日本は島国であったがゆえに、そうした歴史的経緯を踏むこともなく今日まで国家として維持してきたと言っても過言ではない。

勿論、他国からの侵略行為を防いだとか、誤った侵略戦争を自ら起こすことによって国家を滅ぼす危機を招いたことはあったが・・・。

今回、私達が訪れたのはプラハだけであった。

プラハをひと言で評すれば『素晴らしい』の一語に尽きる。


下の写真は、旧市街からヴルタヴァ川に架かるカレル橋と、遠景としてプラハ城を望んだものである。
8fb2abef.jpg
下の写真は、1417年完成(1357年着工)の石造りのカレル橋の橋塔である
ゴシック様式の橋塔は橋の両端にあり、橋の左右の欄干には30体の聖人の彫像が飾られている。
日本へ布教に来たフランシスコ・ザビエルの彫像もある。
949eaa07.jpg
下は、ヴルタヴァ川の支流・カレル橋橋塔の直ぐ下を流れる。
2001067b.jpg
下は、ヴルタヴァ川の本流(チェコ軍団橋より)
遠く見えている橋がカレル橋。左手にプラハ城の一部、右手にスメタナ博物館カレル橋の橋塔が望める。
0afcf906.jpg
向かって右手が旧市街。
左手がプラハ城のあるフラッチャニ地区である。


at 12:08|Permalink

チェコ・プラハ ?

規模の小さい個人経営のホテルにそぐわない立派な紳士に荷物を任せて部屋へ案内してもらった。

レセプションのカウンターを回り込んだ廊下に幾つかの事務室があり、その手前にあるエレベーターに案内された。

下の写真は、そのエレベーターで撮ったもの
e956266b.jpg
旅行に出る前、日本各地で不具合と騒がれていたシンドラー社製のエレベーターであった。

ヨーロッパでは強いと言われているシンドラー社であるが、今回の旅行でも数多く利用したエレベーターであるにも拘らず、Schindlerの名前を発見したのは今回が初めて。


家内と顔を見合わせ、『ニヤリ』。

個人経営のホテルだから大した部屋でもなかろうと思っていたのだが、何と、何と。

ビックリ、驚きであった。

4つ星のホテルでツインのベッドルームだが、ゆったりとした広さ。

別に設けられたバス・トイレ・洗面のスペースも広くて、バス・タブも大きく、アメニティも豊富。

しかも新しくて綺麗で豪華。

日本のシティホテルは料金が高い分、完全な負け。

下は石畳の道路とヴルタヴァ川に架かる橋。
遠くにプラハ城が見える。
d8d07472.jpg
べラージオ・ホテルはヴルタヴァ川に近いユダヤ人地区にあり、筋向いがインターコンチネンタル・ホテルである。



at 11:22|Permalink

チェコ・プラハ

クラクフからプラハへのフライトは、滞空40分程度、快晴のもとで地上の景色も綺麗に眺めることができた。

プラハ・ルズィニェ空港は結構広いが、田舎空港の感じを否めない。

駐機している飛行機も中型ジェット機とプロペラ機が目についた。

私達が乗ってきた双発プロペラ機は空港の建物から随分離れた場所に止まり、バスで空港建物まで移動して入国手続きを行った。

入国手続きのための行列も短く、係官も愛想が良くて短時間で済み、荷物も間違いなく受け取れて気分を良くしたものであった。

入国審査官の態度一つで、その国に対するイメージが良くなりもするし悪くなりもする。

別に、象の尻尾に触れただけで象の全体を判断、評価するつもりはないが、物事の最初のイメージというものは重要ではある。

これまで、韓国と中国の入国審査官の態度にはムカツクほどの嫌悪感を感じたことがあった。ホトケとも呼ばれてきた私をしてである。

ま、それはさておき、プラハでは荷物が重く大きいことや、空港と旧市街の距離が随分離れていることもあり、タクシーでホテルに向かうこととした。

なだらかな丘陵地帯を走る道路は往復2車線で広いのだが、所々舗装工事を行っていたために何箇所か渋滞していた。

車窓からは丘陵に広がる緑色の畑と赤いレンガ色の住宅の屋根が、とても綺麗な景色を見せていた。

タクシーがどの道を走ったのかは分からないが、市街地に入ってから坂を上ったり下ったり、日本で言えば山の手の住宅街のような所を走って、私達が滞在するべラージオ(Bellagio)ホテルへ。

やや明るいレンガ色の6層の建物で、ヨーロッパではよくある個人が経営するホテルである。

ホテルの部屋の窓から・・・向かいは歴史を感じさせる教会。
3210474d.jpg

ホテルの部屋の窓から・・・教会との間の通り。
cceae831.jpg

全く静かな所である。

ホテル玄関に出迎えてくれたポーターは、スラリとした身長180センチくらいで鼻の下に立派なマスターシェを生やしてキチンとした身なりの50歳と少しくらいの紳士。

私達の大きく重いラッゲージを軽々と持ち、レセプションへ。

【私達は出迎えてくれたポーターをこのホテルの主人だと思い込んでいた】・・・実際、主人=経営者然としていた。


ホテルのロビーは30畳程度で、奥にソファーセットとバーカウンターがしつらえられた程度で、こじんまりした個人経営のホテルと想像できた。

レセプショニストは英語の堪能な若い女性でなかなかの美人。

at 09:59|Permalink
記事検索
月別アーカイブ