February 2007

February 28, 2007

長崎街道

私の旅は一定箇所に滞在して、そこを基点に足を延ばせる範囲を楽しむという形態のものが多い。

最初っからコースが決まっているような、時間通りに決められた行動をするのはスカン。

生来の我が侭がそのようにさせるのかもしれないが、旅程表通りに動く旅行は、一人旅に関しては20歳で終わりにした。

時間が許せば、気にいった所で何泊も滞在する・・・もっとも、予約しているホテルが空泊まりになるので馬鹿らしい面も無いではないが、それ以上に素晴らしい感動を味わうことが出来るのも事実である。

私は何度も博多に滞在しているが、一度、九州の旧街道を訪ねてみたいと、かねがね思っていた。

交通機関が著しい発展を遂げた近代に入って我が国の道路整備も随分と進んだが、それ以前、つまり江戸時代には江戸・日本橋を起点とした道路、いわゆる五街道と呼ばれる東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道が道中奉行の差配下にあって、比較的良く整備されていた。

日光や箱根などの他、杉並木や1里塚などは現在でも当時の様子を想像出来るようなものが残されている。

これら五街道から延びる道は勘定奉行差配のもとで整備され、人馬・物資の通行・運搬に供せられ、江戸を守るという観点のもとで五街道同様に重要視され、厳重な管理の下に置かれていた。

それらの道を脇往還(わきおうかん)とか脇街道と呼び、仙台道やその先の北海道・函館に延びる松前道、京都・大阪間の大坂街道(京街道)、九州の長崎街道なども重要な脇街道であった。

私は高校生の頃、京街道を何度か歩いたことがあるが、淀川沿いの道はトラックが頻繁に通る部分もあったが、淀川の堤に沿って歩く道は何とも長閑けしものであり、今も懐かしく思い出す。

大坂城・京橋から寝屋川を通って淀(淀城)へ。

淀からは歴史に名高い『鳥羽街道』と『伏見街道』(竹田街道)に分かれて京都・三条大橋が京街道である。

昨年末に私が歩いてみようと思い立ったのは『長崎街道』である。

江戸から東海道京街道山陽道(ひとまとめに)、そして九州・小倉から長崎までを『長崎街道』と呼んでいるのである。

小倉(筑前)・長崎(肥前)間が57里、およそ220km、この間に25の宿場があったらしい。

内、筑前6宿と言って、黒崎(小倉)、木屋瀬(こやのせ)、飯塚内野山家(やまえ)、原田が筑前(福岡県)の宿場町であった。

今回全てを巡り歩くには距離が長いし、時間も無いので北九州市八幡西区の黒崎宿木屋瀬宿、飯塚市の飯塚宿内野宿に限った。

山家宿原田宿も現在の筑紫野市になる。

どこの街道も概ね同じであるが、殆どの部分は拡張されて国道となっており、旧街道の面影は無い。

強いて探すならば、旧街道でも難所と呼ばれていた峠越えの道などに若干見られる程度である。

長崎街道』でも最大の難所と言われる飯塚市の内野宿と筑紫野市の山家宿の間にある冷水峠には旧道が残っているらしいが、タクシーの運転手に車は3キロものトンネルで潜り抜けることが出来るけど歩くのは大変だから止めておくことを勧められた。

さもありなんと、ここでは簡単に行く先を変更することとした。

若ければ行ってたろうと思いながら、今更のように歳を自覚した次第。




at 15:30|Permalink

博多・長浜屋台

広島に関わってページを沢山割いてしまった。

それだけ思い出や思い入れが多く深いということなのだが、博多へ移動することにする。

博多の常宿はハイヤット・レジデンシャル・スゥイート

博多にハイヤットのホテルは3つあるのだが、しばらく滞在するという向きにはもってこいのホテルである。

場所が百道浜(ももちはま)のため、立地としては他のホテルに比べて条件は悪い。

レジデンス(residence)との名前通り各部屋が住居仕様となっており、電磁調理器、全自動洗濯乾燥機が据え付けられて長期滞在には便利なのである。

この百道浜は人工浜を持つ完全な埋立地で、元のフビライが大船団を擁して壱岐、対馬、博多と攻め込んできた1274年の文永の役、1281年の弘安の役の頃は博多湾の海底であつた場所である。

ハイヤットホテルの直ぐ前は西南学院中学・高校の敷地で、裏側には福岡市博物館、そして福岡タワーも近く、区画整理された百道地区には高層マンションや企業のビルが林立している。

ちなみに元寇の折に掘られ築かれた防塁の跡はホテルの南側4~500m辺りに位置する西南学院大学の構内に一部が保存されている。

ホテルから長浜までは車で10分程度と近い。

博多の台所と呼ばれているのは『柳橋市場』であるが、長浜には魚市場があり、博多の魚はココに揚がってくる。

トンコツで有名になった博多ラーメンの発祥地がココ長浜なのである。

日も明けやらぬ冷え込んだ魚市場でのセリの合間に、素早く食べる事が出来、しかも体が温まるというトンコツラーメンが、ココ長浜の仲買人たちの間で好まれ広まっていったのである。
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この長浜に元祖・長浜ラーメンの店舗もあるが、屋台も数多くある。

それらの屋台の多くは『とん吉』グループの屋台なのだが、それら『とん吉』グループを率いる重鎮『安さん』(ブルーの服を着た男)。

漫才コンビ『やすしきよし』の『横山やすし』こと『やっさん』にソックリなことから、各テレビに引っ張り出され、今や有名人である。
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が、横山やすし氏は言動が乱暴で世間を騒がせたけれど、長浜の『安さん』は穏やかで、おとなしく、ベッピンの年頃の娘を持つええ親父さんである。

以前は遊軍として各屋台を回っていた『安さん』が『長浜安さん』の屋台を構えて1周年を迎えた。

屋台は結構高いのだが、『安さん』の屋台はなかなか良心的なのである。

まずは、安さんに

1周年おめでとう
 これからも益々の発展を祈念する

このページでも祝いの言葉を贈っておく。

友人の第三共進丸の船長、焼肉・玄風館の大将、福岡アビスパのNらとは既に祝いの言葉を述べた。

写真は、コワーイ息子どもと祝った時のもの。


at 13:39|Permalink

February 20, 2007

居酒屋『どんどん』・広島

『鹿島』の人たちには呉市や広島市に居を構え、島を離れて働いている人たちが結構いる。

島での仕事には限りがあるというのが大きい理由である。

これまでに書いたように、農業と言っても急傾斜地の島の地形から水田耕作は用水の関係もあって難しく、結局温暖な気候を利用した『みかん栽培』くらいとなるが、小さな島において耕作面積は狭く、大規模なものとはなり得ない。

本土と陸続きとなったものの島で新たな産業を興すほど立地条件として恵まれた環境にはない。

結局のところ漁業を継続するか、漁業に関連する民宿経営といったところに落ち着くが、これも季節産業に近い側面を持っている。

そうした条件もあって、呉市での『焼き鳥屋』、広島市での『魚料理屋』などの事業を行っている人もいる。

呉市での鹿島出身の『焼き鳥屋』は結構多いが、私は未だいずれの店も行ったことがない。

ここで紹介するのは広島市中区新天地にある居酒屋である。

広島の夜と言えば『流川』の名前が出るくらいに有名であるが、『パルコ』や『ヤマダデンキ』などと、中央通りを挟んだ東側の一角、『新天地』『流川町』『薬研堀』という町の一部に飲食店が集中しており、通常、それらを総称して『流川』と呼んでいるようである。

この中央通りから一つ東の筋に『どんどん』という居酒屋がある。

メニューには沢山の料理の名前が出ているが、チェーン店のように冷凍食品をチンして出すのではない。

言ってみれば海鮮・居酒屋であり、魚介類は『鹿島』近海で獲れたものを中心に素材として調理するのである。

野菜にしても倉橋島のものを多く用いている。

と言うのも、ここの経営者、実は鹿島出身というか、住居も鹿島にある。

鹿島では『ロングビーチどんどん』という民宿を経営し、この新天地ではビルの1階を『どんどん』、地下を『海鮮問屋・ながはま』として鹿島近海の魚を提供しているのである。

民宿『ロングビーチどんどん』は鹿島の瀬戸地区、写真に紹介した漁港に面した所に位置しており、生簀に獲った魚を入れ、その魚を毎日生簀付きのトラックで新天地の店に運んでくるのであるからピチピチのものが常時店にあるというわけ。
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この時はサヨリの刺身をいただいた。

毎回決まって食べるのは『もずく』。これは鹿島産のもので食感が良い。

魚は、その日その日で最も良いものを頂くことにしている、と言うより店長兼板長の川口さんが調理して出してくれるのである。

タイの時があれば、カワハギの時もあるし、オゴゼの時もある。

刺身の時があれば、煮付けの時もあり、揚げ物の時もある。

広島の後輩に初めて連れてもらった時に、店の主も働いている人たちも皆、鹿島の出身であることを知ってから、懐かしさも手伝って強い親近感を抱き、以後、広島に立ち寄る際には必ず店に顔を出してきた。

2度、3度と通えば人柄も分かるし、料理の素材も調理の出来映えも自分の好みに合うかどうかも分かってくる。

勿論、それら全てを総合して醸し出される店の雰囲気も分かってくる。

その後、特に自分がコレと思うものが無い限り、川口さんにタノムと言うだけで任せっきりであるが、落胆したことは無い。



at 15:11|Permalink

広島に戻ることに・・・・・

『鹿島』に関わって随分のページを使ってしまった。

人間の記憶というのはオモシロイものだ。

沢山蓄積された記憶という過去の出来事は突然に何の前触れもなく思い起こされるものではない。

a flash of inspirationとか、a spark of geniusといったように言われることがあるが、私は残念ながら神の啓示を受けたこともなければ、エジソンでもアインシュタインでもないので、ポッと電球の明かりが燈るように何かが思い浮かんだという体験をしたことがない。

科学の分野では、物事を論理的、実証的、且つ体系的に考えることを要求されるため、因果を明らかにすることは科学的見方のイロハと言える。

『火の無い所に煙は立たぬ』という俚諺は、実に言いえて妙である。

つまり、人生の道程に於ける或る時点の記憶が甦るには、甦るための外部的、或いは内部的な刺激が必要である。

この刺激は受容器から求心性神経を経て大脳の中枢神経系の作用を呼び起こし、それが遠心性神経を経て効果器でもって反応(行動)する。

これは行動が生起する場合の生理的基礎である。

七面倒臭い書き方をしたが、躓いたという刺激が足先や体全体の神経を通じて脳に送られ、その事象に対応すべき指示が足先や体全体に伝達されることによって、体の各器官が行動を起こすのである。

しかし、この行動は生得的なものと習得的なもの、つまり生まれつきに持っているものと、後に経験したり学んだことにより得ることのできた行動がある。

つまり、躓いた時に為すがままになっているか、瞬時に躓かなかった方の足を出して直立するという状態を維持するように行動するか、或いは両手を前方に出すという行動を取るかといったようなことである。

行動科学では、行動のメカニズムとして要求needsと動因drive(動機motive)或いは誘因incentiveがあると見る。

大脳生理学や心理学の研究が進み、脳の思考回路や箇所、刺激と行動形態など、脳と脳の働き、また、それに随伴する行動パターンに関して相当解明されてきてはいるものの、記憶に関わって細部については未だ明らかにはされていない。

記憶というのは、記銘、保持、再生、再認という4つの過程で構成されるもので、知る、保つ、思い出す、そして、以前のものと同一と認める、この4つの働きを統合した言葉であるが、記憶もまた行動のメカニズムと同様の伝達過程を踏むものと考えられている。

つまり、突然に或る記憶の時点に照準が合って、その記憶の地点にある事象が想起されるのではなく、想起させる要求や誘因があって記憶が甦るのである。

今回の場合、リーガロイヤル広島という誘因項目があり、それは呉市という関連項目に広がり、それは更に『鹿島』という項目に広がると同時に時系列的な記憶の想起へと発展していったのである。

風が吹けば桶屋が儲かる式に、保持されていた記憶が連鎖的に再生されてきたことによって『鹿島』に関わる記述が増えてしまったわけであり、これは実に愉快なことである。

科学についてはこれくらいにして、広島の項に戻ることにしよう。



at 08:20|Permalink

February 16, 2007

『鹿島』 7

体長が1m、体の太さが10cmもある長くて太い黒いモノが5寸釘を呑み込んで、ヌメヌメと光る体を8の字状にワイヤーに巻き付け、それが薄暗く狭い防波堤に上がってきたなら大抵の者は度肝を抜かすに違いない。

懐中電灯を最もソレに近い位置で照らした私が1歩後退った時、後ろにいた調査グループの面々は既に元来た方向に駆け出していたぐらいだ。

とにかく『気色悪い』としか形容の出来ない生き物だったのである。

昭和41年当時、小学校を『鹿島』で過ごした少年少女は『室尾』の中学校へ毎日ポンポン船の渡しに乗って通い、或る者は家業である漁業を手伝い、或る者は本土や四国の企業に就職し、高校に進学する者は音戸高校倉橋分校に通うか、音戸に下宿して本校に通うかであった。

春は巣立ちの時期、私達が調査を終えて2、3年後だったか、『週刊朝日』が『島の巣立ち』と題して、小船に乗って島を離れて行く若者たちの写真ページを構成していたことがあった。

下の写真は、瀬戸漁港から『鹿島大橋』を撮ったもので、右手が『鹿島』、建物は瀬戸漁港に面した地区の南側である。
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この『鹿島大橋』が架けられたのは昭和50年(1975年)のことであり、この橋が架けられたことによって、『鹿島』から『鹿老渡』更に『倉橋島』を経由して『呉市』とつながることとなり、広島県最南端の『離島』では無くなった。

この年、広島県立音戸高校倉橋分校が県立倉橋高校(平成18年・2006年に閉校)となり、自動車が『鹿島』に直接出入りすることが可能となって島の生活が大きく変わっていくこととなった。

昭和41年以前は現在に比して島外との交流は少なく、閉鎖的とも思える事例が数々あった。

選挙運動においては島丸抱えの所謂『ムラ選挙』であったし、娯楽が無いに等しい離島であったため、都会では想像出来ない風習が残ってもいた。
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上は現在の瀬戸漁港の写真であり、立派なエンジンを搭載した小型漁船が多く係留され、綺麗な海水の港内に魚の生簀も設置されている。

また港に面した集落の中には民宿業を営んでいるところが何軒かあり、『鹿島』周辺の潮流の激しい海域で獲れた美味しい魚の料理を食べさせている。


私は昭和41年に調査を終えて以降、昨秋は通算5度目の『鹿島』訪問であった。


昭和41年の5月、8月と2回。


その次が昭和53年か54年であったろうか、広島県下の学校数校で教育研究会が開催された折、当時広島の防衛施設庁にいた後輩の車で案内してもらったのが3回目。


『鹿島大橋』が架けられたことを知らなかった私は便利になったものだと懐かしい思いと、その変貌ぶりに驚いたものだった。


それから何年か後、広島大学(市内にあった頃)での学会終了後、橋が架かっていることも、調査の時に世話になった家が民宿を経営していることも知っていたので、思い立って鉄道、バス、タクシーを乗り継いで突然の訪問をしたことがあった。


その時には、『おかず調達係』であった中学生が広島で働いているとのことでいなかったが、世話していただいたご夫婦が健在で歓待していただいた。


丁度『天満屋』デパートの女性グループが泊りがけで魚を食べに来ていたこともあって、美味しい新鮮な魚料理とも相まって賑やかな宴になったことを記憶している。


そして昨秋が5回目の訪島となったのであるが、この時は呉市駅でレンタカーを借りて行ったのである。


倉橋島内の道路の整備が随分進み、鹿島島内でも瀬戸地区を回り込む立派な道路が出来ていたし、島の南端・宮の口の集落までの海岸道路も綺麗に整備され、道に沿って建つ家々も新しいものになっていたことなどに大きい驚きを感じた。


しかし、時期的なこともあったのだろうが、通りかかる人の姿は無く、いずれの民宿も寂れた感じであった。


以前世話になったお宅を尋ねたが、奥さんは殆ど寝たきりの状態、例の『おかず調達係』であった息子さんも先年亡くなられたとか。


時の流れを否応無く感じさせられた今回の訪島であった。

 








at 10:17|Permalink
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