March 2007

March 25, 2007

ソウル滞在 7 板門店

先の宣誓書でも明確であるが、つまり何が起きても、例えゲストが死ぬような事件・事変が起きたところで、軍としても国家としても何ら保障は出来ないが、それで良いかどうかの意思表示をさせているのである。

私達は10人ばかりがそれぞれの希望で寄り集まった、この板門店見学の為だけに構成された集団であった。

いわゆる現地ツアーなのだが、私達は前日までにパスポートナンバーをツーリストに届け、ツーリストは旅券番号と氏名などの情報を韓国軍と国連軍に送っているのだと言う。

この『板門店』のJSAに直ぐに入れたのでは無い。

ツーリストの担当ガイドが、朝、ホテルまでピックアップのため順にマイクロバスで回ってくれるのである。

そして前日までに申し込んでいたゲストが全員乗車した段階で目的地に向かうのである。

私は、板門店の他、都羅山統一展望台、京義線の都羅山駅、南進地下トンネルなど、38度線に沿ってある施設の見学も頼んでいたので、順路として板門店が最初ではなかった。

しかし、ソウルの街からバスで、ほぼ直線距離にして50キロばかり北西に位置する板門店に向かって走るのである。

多分、国道1号線だと思うが、ほぼ京義線(鉄道)と平行して北の方に延びる広い道路である。

しかし、私達のバス以外にも車が走っていたのだが、いつからか他の車の姿が見えなくなってしまっていた。

ところどころ数日前に降ったという雪が残る小高い丘や冬枯れの田畑を眺めながら凄いスピードでバスは走る。

きっと外の気温も低いのであろう、窓ガラスに水滴が付いて外の景色が見えなくなる。

そうこうするうちにバスが減速し、大きく右に左にハンドルが切られる。

前方の路面を見るとデコボコになっているのである。

国道1号線なのに・・・と思っていると、ガイドの女性が、『自動車が高速で走れないように、あえてデコボコにしてあって、敵の侵入を防ぐ方法の一つ』だと言う。

そのような道を更に走ると、道路全体にかかる高速道の料金ゲートのようなところに到達。

迷彩色の服装の兵士たちが自動小銃を構え、通行する車の検問を実施しているようだが、私達の車以外に近付いてくる車はいない。

反対車線の路上に6人、ゲートの事務所の中には人数は分からなかったが兵士が詰めていた。

他に走っていた車が見えなくなってしまったのは、ここから先には用がないからなのだ。

このゲートから先は軍の管理下に入るので写真撮影は一切ダメであるとガイドさんから申し渡された。

道路に沿って高くフェンスが張られ、所々に道路を跨ぐようにコンクリートの橋が架かっている。

橋と言うよりも道路を跨ぐ狭い門のようなものだが、門の上には土が盛られている。

これは戦車が向かってきた時に、ボタン一つで埋め込まれたダイナマイトを爆発せ、コンクリートの門を破壊させると共に土の山を作って戦車の侵入を防ぎ遅らせるものだそうな。

道路に沿ってカムフラージュされた見張り所があったり、フェンスの張られた外側は地雷原であるとか、まったく物騒なところをバスは低速で走り続けた。

長くなるので、これくらいで・・・続く。


at 15:19|Permalink

ソウル滞在 6 板門店

前ページで朝鮮半島の歴史を若干振り返ってみたが、大陸と陸続きであることや、弱肉強食、或いは主義主張など利権の争いに巻き込まれ、強大国の狭間にあって翻弄されてきた感のある朝鮮であったように思える。

私が小さかった頃、『朝鮮動乱』という文字が新聞紙の一面のトップを飾っていることが多かった。

戦争について書いてあることは分かっていたが、その内容や背景などは歴史学習を始めるまでは理解できていなかった。

朝鮮戦争』の休戦協定が結ばれたのが『板門店』という所であることは既に書いた。

当初は『開城』(ケソン・・・現在は北朝鮮の宣伝村)で会談がおこなわれていたようであるが、南北双方の思惑から現在の場所・『板門店』に移ったらしい。

開城』の町と『板門店』は数キロの距離しか離れていず、『板門店』というのは元々は何かのお店の名前だったようだが、現在は南北の会議場の場所を示す地名となっている。

この『板門店』の見学は厳重な統制下にあり、軍事的境界線上にある会議場を含む一帯は国連軍と北朝鮮軍の共同警備区域JSA(Joint Security Area)とされ、見学者は宣誓書に署名し、下の写真にあるゲスト用のIDカードを付けなければならない。
8f2d9aa4.jpg
現地での規制は厳しく、個人行動の禁止(トイレも含む)、私語の禁止、人物に対する指差しの禁止、写真撮影の禁止、兵士への語りかけの禁止、カメラ携帯の禁止、服装の制限・・・

まだあったように思うけど忘れてしまったが、見学者宣誓書の文面に。

敵の行動によっては危害を受け、死亡する可能性がある。

また、事変、事件を予期することは不可能なので、国連軍、アメリカ合衆国及び大韓民国はゲストの安全を保障することは出来ないし、敵の行動に対し、責任を負うことはできない。

私はこれを読み、理解し、この指示に従う。

このサインは、それらの指示に従うことを承認するものである。

と言うような意味のことが書かれ、ゲストは一人ずつ署名をしてIDカードを受け取るのである。



at 14:01|Permalink

ソウル滞在 5 板門店

朝鮮半島は、古来幾つかの国に分かれたり統一されたりの歴史を歩んできた。

人類の歴史区分では、人類が類人猿と文化的に分離区分できる基準を道具使用の可否に置いている。

簡単に言ってしまうと道具、つまり石器が用いられていたかどうかが区分の目安になるということである。

最古の石器を用いた時代を旧石器時代と呼んでいるが、この旧石器時代は前期(450万年~10万年前)、中期(10万年~4万年前)、後期(4万年~1万年前)と区分している。

朝鮮半島の北緯38度線付近の臨津江(イムジンガン)やその他の地域で旧石器時代前期に使用されたと考えられるチョッパーなどの打製石器が出土していることから、朝鮮半島には相当古い時代から人類がいたと想像できる。

私達がよく知る『高句麗』『新羅』『百済』といった国が朝鮮半島を分割統治していたのが三国時代で600年代以前である。

やがて『新羅』が朝鮮統一を果たすが、そこには陸続きの中国『唐』の影がちらついていた。

10世紀から14世紀頃まで『高麗』が朝鮮の統一国家となるが、1392年に『李朝』として新しい国家体制を敷くこととなる。

朝鮮半島の政治史の上では最も安定した時代であり、凡そ500年ばかり『李王朝』が続いた。

1400年前半には世宗(セジョン)王によってハングル文字が創られもした時代であった。

しかし、1592年の文禄の役、1597年の慶長の役と、豊臣秀吉の朝鮮侵略を受け、1627年、1636年には中国(清)の侵略を受けた。

もっとも1607年から1811年まで合計12回の朝鮮通信使の来日を受けるなど中国、オランダと共に我が国の鎖国時代にあって良好な時期もあった。

しかし、1866年のシャーマン号(アメリカ船籍)を皮切りに、フランス艦隊、アメリカ艦隊の執拗な侵略を受け、1876年には日本の軍艦・雲掲丸による意図的な侵略・武力脅迫行為によって『江華条約』(大日本国大朝鮮国修好条規)という朝鮮にとってははなはだ不平等な条約を締結させられてしまった。

こうした日本の行為のバックでは米英仏の3国も暗黙裡に了解するという弱肉強食の考え方が当時の世界にあった。

ちなみに、この『江華条約』は、日本がペリー率いるアメリカ艦隊の武力脅迫とも言える状況下で結ばされた『日米修好通商条約』と同様、いや、無関税貿易条項に至っては、一層ひどい差別条約であった。

これ以後、日本は政治経済面からの侵略を進め、日清、日露の戦争を経て、朝鮮を完全に植民地化し、武断政治によって朝鮮人の日本人化(同化・皇民化)を強制していった。

1910年8月22日の日本による朝鮮の完全併合から1945年8月15日までの35年間、朝鮮人は自分の国を取られ、言葉だけではなく、朝鮮に関わるあらゆることを無くしてしまったのである。

1945年8月15日、『ポツダム宣言』の受諾で太平洋戦争が終結。

朝鮮人民は解放され、朝鮮国内では建国独立の準備が進められていた。

しかし、第二次世界大戦が終了して、アメリカとソ連の間では戦後の世界支配を巡って微妙な関係になりつつあった。

トルーマン・ドクトリンやマーシャル・プランなど、アメリカはソ連の封じ込めを狙って、1945年9月7日にアメリカ軍は朝鮮に進駐。

10月10日にはアメリカ軍政長官による朝鮮の独立は認めないというアーノルド声明が発表され、以後アメリカをバックとする大韓民国と金日成率いる朝鮮人民軍の争いという国内紛争の勃発となった。

細かな事実を列挙する必要があるのだが、1950年6月25日、38度線において韓国軍と朝鮮人民軍が戦争状態に入ったのである。

韓国軍と国連軍(実質的には殆どアメリカ軍)の連合に対して、朝鮮人民軍と中国軍連合による戦争が、1953年7月27日の『休戦協定調印』で一旦停戦(休戦)したが、この戦争を『朝鮮戦争』と呼んでいる。

この『休戦協定調印』が行われたのが『板門店』なのである。






at 10:56|Permalink

ソウル滞在 4

今回、厳冬期のソウル滞在ということで、毛糸の手袋にマフラー、綿入りのジャンパー、それに帽子と貼り付けカイロを用意した。

ホテル内では勿論そうしたものは必要ないのであるが、今回のソウル滞在中、ジャンパーは上着であったので着ていたが、手袋もマフラーも全く必要としなかったばかりか、街を歩いていると暑くて汗をかくぐらいの気候であった。

ソウルの街を離れていくと数日前に降ったという雪が山や田畑を白くしたり、池や川の水が凍っている状況を見たりもしたが、若干冷えるという程度で日中は風が強く吹くこともなく、ポカポカと小春日和の日が続いた。

今回のソウル滞在中に、どうしても行ってみたいところが4つあった。

北緯38度線の軍事境界ラインにある『板門店』の見学。

世界文化遺産の韓国伝統芸術の『パンソリ』の鑑賞。

世界文化遺産に登録されている『水原の華城』の見学。

陶磁器の里と呼ばれる『利川(イチョン)』の見学。

この4つを見学したかったのである。

これまでにソウルの文化財に関しては何度も足を運んで充分に見学しているので、これまで行けなかったソウルに比較的近い場所で興味のある所を選んだのである。

とりわけ38度線の見学については、これまで見学実施期間から外れた時期に訪問していたり、こちらの理由ではない理由によって見学できなかったため、今回の滞在中に何とか実現しようと試みたのである。

日本の若い人たちには『板門店(パンムンジョン)』と言ってもピンと来ないかもしれない。

「うん? 何屋さん? 何を売ってる店?」

なーんて尋ねられそうな気がするのだが・・・

まっ、それだけ日本が平和であるということなのかもしれないと、喜びの気持ちで受け止めたいと思う。

しかし残念だが『利川(イチョン)』へは足を延ばさなかった。

時間はタップリとあったのだが、旧正月の前後は窯の火入れをせずにお休みのところが多いのだとか・・・

正月ならずとも、寒く氷点下の気候では焼き物作業は難しい。

乾燥だけではなく、土に含まれた水分・気泡が高温の窯の中で異常に膨張して作品が割れてしまうことが多々あるからなのだろう、と想像した。

また次回の楽しみに取っておきたい。


at 09:35|Permalink

ソウル滞在 3 世宗ホテル

夜明けの遅い季節ではあるが、流石に8時近くになれば南山から強い陽射しが部屋の中まで入ってくる。

空調がきっちりしているので、日が射そうが射すまいが部屋の温度は常にほぼ一定なので居心地が良い。

私の部屋の直ぐ前に標高500m弱の南山が聳え、その頂上に高さ240mの白いソウルタワーが立っているのだが、朝のうちは逆光で眩しく、幾分黒っぽく見える。

特段の予定が無い限り、毎朝この光景を眺めてから1階のレストランへ下りて行くのである。

朝食のためのと言うより、世宗(セジョン)ホテルには和食のレストランと洋風のレストランの2つしかないのだが・・・

前ページでも書いたが、ロッテホテルなどとは規模が違うので仕方がない。

その日の気分で行くレストランを変えるのであるが、私は洋風レストランの方を好んだ。

和食レストランは朝定食として2種類用意していた。

一つは焼き魚、生玉子、味噌汁、海苔といった定番のものに煮物、キムチなど幾つかの小鉢が付いてくるものである。

あと一つは粥定食である。

前夜のお酒がすすんだ翌朝は、粥定食が胃に優しいし、味噌汁がさっぱりと美味しく感じられるので和食レストランへ向かう。

もっとも、キムチが付いていたり、粥定食となれば和食とは言い難いが。

しかし、朝の生野菜に果物、それにコーヒーは魅力的であるので、勢い洋風のレストランに足を運ぶこととなる。

それと、あまりレストランのことを悪く言いたくはないのだが、味噌汁の味はイマイチ、焼き魚も貧弱、ウェイトレスの対応も1級とは言えない。

和食レストランと看板を掲げるなら、もう少し頑張ってもらわなければと言うのが私の正直な感想である。

夜には寿司も提供しているようであるが、朝の食事を味わっては、夜行ってみようという気は起きなかった。

洋風レストランはテーブルの間隔にゆとりを持たせ、フロア全体が広すぎもせず狭すぎもせず、まずまずであった。

朝はバイキングスタイルで料理の品数もまずまず。

朝から大喰らいすることもないので私には充分の品揃えであり、フロアのスタッフも及第点をあげることができるレベルであった。

朝食を済ませて部屋に戻ると、緑の木々が茂る南山は逆光で黒っぽく見えるのだが、南山のてっぺんで朝の光を受けるソウル・タワーは白く輝くように眺めることが出来るのである。


at 07:19|Permalink
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