July 2007

July 27, 2007

函館から江差、松前 ?

『江差追分会館』の並びに奥尻島へ通うフェリー埠頭があり、丁度、島からのフェリーが到着した。

奥尻島は1993年7月13日の北海道南西沖地震で津波被害に遭い、200名だったかの遭難で青苗地区が壊滅状態になったことが記憶に残っている。

復興がどうなったのか気になったが、函館・江差間の走行で随分時間を取ってしまったので先を急ぐことにした。

江差の町の海側にカモメ島があり、その間に開陽丸青少年センターがある。

1840年代に入ると外国からの開国、貿易要求などが頻繁になり、幕府が防衛のための警護所や砲台の設置を命じたが、このカモメ島にも2基の砲台が建設され、松前藩の北方守備の重要地点であった。

やがて1854年日米和親条約締結により下田、箱館の2港を開き、1867年には朝廷が王政復古を宣言するが、翌年初めに鳥羽・伏見の戦いが起き、いわゆる戊辰戦争(鳥羽・伏見、彰義隊、長岡、会津、箱館など)が始まり、当時の幕府海軍副総裁であった榎本武揚らが幕府軍艦・開陽丸など8隻を率いて品川から脱走。

この江差沖で開陽丸を座礁・沈没させた。
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オランダで建造された開陽丸は3本マストの機帆走軍艦であり、海底に沈んでいた遺物を回収し、現在は復元されて船内を博物館として公開している。

当時、松前藩は明治新政府に属す藩であり、榎本らは徳川家の家臣達の本拠地として『蝦夷共和国』建国のために旧・新撰組の土方歳三、歩兵奉行であった大鳥圭介、桑名藩の藩主・松平定敬らと共に函館・五稜郭を攻撃し制圧した。

これが函館戦争(五稜郭の戦い)であるが、江差での開陽丸沈没の後、榎本は函館に向っている。

朝ごはんはしっかり食べたつもりだが、お昼をとっくに過ぎてしまったのでレストランを探しながら追分ソーランライン(国道228)を南へ走ったのだが、こんな時は見付からないものである。

しかし、海に面した小高い丘を回り込む右手に道の駅「上ノ国もんじゅ」の表示を見つけたので直ぐに右折して駐車場へ入れたが、何と休館日。

あきらめて発車しようとしたところ、茶色の犬がヒョコヒョコやってきた。

ところが、よく見ると尻尾が太くて犬ではなくキツネのよう。
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全く物怖じせず、タンポポの咲く原っぱをノンビリ歩く様は何とも可愛いく、近くに寄ってみると痩せて毛が抜け、何だか病気にかかっているようにも見えた。

すると、何に驚いたのか突然跳び上がったのだが、その動きは正しくキツネ。

Uの字を逆さにしたように跳び上がり、ほぼ同じ場所に体をしなやかに曲げて音も立たぬように下り立つ。

これがキタキツネかと、しばらく眺め入っていた。 カワユイ奴である

この後、海岸線をどんどん走るのだが、たまに、本当に極たまに小さな集落を通り過ぎるだけで、ずっと右手に海、左手に丘陵原野が延々と続いた。

松前町の静浦でセイコーマートという名のコンビニを見つけたので、サンドウィッチを購入したが、時刻は2時30分。車内で食べながら運転を続けることにした。

道路はガラガラなのだが、スピード検問が気になり制限速度通りに走る。途中の集落から出てくる車もトロトロ。陽射しがきつく、何度も居眠りかけた。

やっとのことで松前城(福山城)に到着。
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八重桜が満開の城で、写真の本丸ご門は重要文化財。

1849年、幕府が北方防衛の意図で松前藩に築城を命じ、5年後に完成したが、1868年の戊辰の役で土方歳三の軍によって落とされ、1875年(明治8年)に天主など殆どが壊された。

松前城を見学の後、福島町の横綱記念館へ。
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千代の山・・・私が小さかった頃の横綱であり、もう一人が千代の富士である。 

千代の山は双葉山の後やったろうか。 吉葉山、鏡里、栃錦、若乃花・・・古い時代で忘れてしもうた。

函館まではマダマダ遠い。 ハァー


at 11:12|Permalink

函館から江差、松前 ?

函館朝市で少々オモーイ朝食をとってからホテルへ戻り、マイカーで江差へ向けて出発。

我が家を出発して以来の上天気なので海岸町の『道南石油・海岸町S.S』に立ち寄り給油と洗車を依頼した。
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この店、中年男性と若い男女の3人のスタッフがいたのだが、作業はキビキビ、言葉はハキハキ、丁寧な仕事をしており誠に気分が良かった。

作業が完了するまで20分ばかり、作業の様子や他の客への対応姿勢を見ていた(評価することが目的ではない)のだが、私の車のナンバープレートを見て、遠来の客だから特別丁寧にしたというのではなく、どの客に対してでも同様に気持ちの良い応対をしていたのである。

ガソリン高騰の兆しが出始めていたからというのでも無さそうであった。

客に対する対応の姿勢というものは、取って付けるような付焼刃では役に立たず、日常的な積み重ねの過程で自然と滲み出てくるものである。

出光石油の『道南石油・海岸町S.S』、特に取り上げ紹介しておきたい店である。
(写真は北海道旅行を終えて再度函館に戻った時のもの)

海岸町S.Sを後にして国道227号線で中山トンネルを越えて江差町に入った。

江差は海岸沿いを通る国道228号線に沿って集落が続く人口10000人程度の町であるが、北海道の港町としては開けた歴史は古い。

北海道は蝦夷(えぞ・えみし)として、原住民(ネイティブ)のアイヌ民族が居住・支配する土地であった。

北海道南西部に伸びる渡島半島各地に点在する遺跡調査の結果から、本州の鉄器が入ってアイヌ文化が確立したのが12~13世紀と推定されており、15世紀当時の津軽の豪族・安東氏が南部氏の勢力に押されて渡島半島各地に“和人の館(たて)”を築いてアイヌ民族との交易、或いは日本海側各地との交易を行ったのが渡島各地(江差、松前、箱館)の発展の始まりであるとするのが通説である。

その後、1456年に始まったコシャマインの戦を契機に70年戦争(安東氏側の豪族たちとアイヌ民族との戦)が始まり、花沢館(現在の上ノ国町)の武田信広がコシャマイン父子を打ち破ったことで終戦となるが、この武田信広の子孫てある蠣崎氏が徳川家康の所領許可を得た1604年に松前藩が成立することになる。

下の写真はニシン番屋として残る横山家。
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ニシン御殿と呼ばれる建物は全景を写真に入れることができない。

画面の建物は左の方、つまり海岸に向って1番蔵、2番蔵、3番蔵と長く続き、ニシン漁が華やかであった頃の豪奢な感じを伝えている。

渡島半島一帯はヒノキアスナロの産地であり、ニシンの好漁場であった。

江戸時代、海上交通が盛んになった頃には、江差から日本海各地を経て瀬戸内海へ入り、大坂の堺を結ぶ西廻り航路での“北前船”による交易が盛んに行われた。

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この北前船が西廻り航路を盛んに行き来する
ようになって、材木やニシンが本州各地に、そして、
本州各地の人々が江差との交流を深めていったのだが、
そのような中に『江差追分』もあった。


-前 唄-
国をはなれて 蝦夷地が島へヤンサノェー 
いくよねざめの 波まくら
朝なタなに聞こゆるものはネ~
友呼ぶかもめと 波の音

-本 唄-
かもめの なく音に ふと目をさまし
あれが蝦夷地の 山かいな

-後 唄-
沖でかもめの なく声聞けばネ~
船乗り稼業は やめられぬ

哀調を帯びた『江差追分』は“江差追分会館”で聞くことが出来るし、その歴史を学ぶ事も出来る。

もともと、『信濃追分』があり、それが人々の交流の過程で『越後追分』として伝えられ、やがて江差にも伝わり、『江差追分』として発展したのだろうとの説明があった。

節回しや息継ぎの長さなど、それだけでも大変なのに、感情を込めて歌い上げることなど私には出来ないことである。



at 06:09|Permalink

July 26, 2007

函館から江差、松前

連日、早朝3時より仕事(収入の無い)を続けてきて、本日午後3時をもって完了(ひとまず)。

今日と明日は休暇。

土曜日は本番。

夕刻の懇親会が終われば自由放免、無罪放免では無い、念のため。

当然・・・むむむ、祇園、か? はたまた先斗町か迷うところ。

年中、日曜祭日の身ではあるが、全く何もせず、バロックを聴きながら本を読み、お茶を楽しむだけの日を『休暇』と言う。

なかなか書くことのできなかった北海道旅行についてだが、少々急いで進めることにする。

夏の明けは早い。

東に窓を取ってある我々の部屋は、夏至の1ヶ月前ということもあり、午前4時過ぎには明るい陽射しが差し込み始めていた。

函館の朝といえば“朝市”であるが、流石に4時や5時では歩く人もいないに等しい。

私が家内と連れ立ってホテルを出たのは6時少し過ぎた頃であったが、市場の店はほとんどが営業を始めていた。
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写真は市場のメイン通りで、撮影位置は、それの真ん中辺りで後ろにも店が並んでおり、写っている建物の中にも店舗が入っている。

昔は呼び込みが少なかったが、今回は店の前を通るごとに声を掛けられ、こういう感じを私達はあまり好まない。

私は40年ほど昔に“イカソーメン”を食べた店を探して歩いたのだが、市場そのものが変わっているし、店の名前を覚えてもいなかったので、市場の中で何人かに尋ねながら、やっとのことで探し当てた。
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聞くと、市場の建物自体が老朽化していて、既にほとんどの店が移転し、この店も2日後には移転するとのことであった。

昔のオバサンは健在らしく、たまに出て来るとのことであったが、現在は写真の若い方たちが働いている。

『きくよ食堂』本店というのが店の名前なのだが、ガラス戸を開けて店に入るとカウンター席がL字状に10席程度、カウンターの奥行き幅が40cm程度で、座席の直ぐ後ろがガラス戸だから狭いこと狭いこと・・・。

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私が注文したのは『ウニ・イクラ丼』と『イカ・ソーメン』、カニが沢山入った味噌汁は丼に付いて出てきた。

『ウニ・イクラ丼』は少し食べたところで写真を撮ったので白いご飯部分が見えているが、提供された時には勿論ご飯は見えず、ウニもイクラも厚くたっぷりと載せられていた。

朝食としては、私にはカロリーの高過ぎるものではあるが、美味しいものであった。

40年前に、こうした丼がメニューにあったかどうか覚えていないが、多分、無かったと思うし、あったとしても貧乏学生には食べることの出来なかった代物である。

懐かしく思って注文したのが『イカ・ソーメン』、ガラスの皿は20年前頃に立ち寄った時と同じもの(多分)。
表の黄色い看板や、写真入りのメニュー看板も無かったはずやが・・・

新鮮で美味しく豪華な料理で、量や質に関しての値段そのものは大阪に比べて割安とは言え、一般的な金銭の価値からすれば高い食事代と言える。

まあ、話の種にというところか。

この朝市で海水浸けの生ウニと大粒の極上イクラを見つけたので、函館へはなかなか来れない息子どもへクール宅急便で送り届けてやった。

店で試食済みの品物やさかい文句なしの極上品。ご飯だけは自分で炊いて丼を食べよと電話を入れた。

店で食べるよりウニもイクラも量は遥かに多いし、イクラは質的にも上級品やった。

土産は持ち帰る物というのが、これまでの常識。だが、流通システムの発達に伴い、土産物の質、量など、土産物の概念そのものが根本的に変わってしまった。

旅人の経験を想起し、それを想像的に体験するというのが従来の土産物に対する概念であったが、旅人と、ほぼ同時的(1日程度のズレ)に体験出来るというものへの変化は大きいものと言わねばならない。

息子どもの反応、当然“極うま”であったことは言うに及ばぬことであった。

私どもも『満足』『満足』。


at 10:08|Permalink

July 23, 2007

函館 ぶらぶら 《つづき》

前ページで書いたハリスト正教会の建つ辺りは、ほぼ一定の高さで聖ヨハネ教会、東本願寺別院、元町教会、函館西高校、旧・函館区公会堂、イギリス領事館などが並び、早朝や夕刻の散策にはもってこいのコースである。

車でも良いのだが、やはりブラブラ歩くことを薦めたい。

早朝・夕刻としたのは観光バスの団体さんが比較的少ないので良いという意味なのだが、夏場は函館山の展望台へ案内する前段で観光バスが団体客を案内してくることがあるので、雰囲気を景色とともに味わいたい場合は彼らが行き過ぎるのを待つ以外に方法を知らない。

下の写真は旧・函館区公会堂。

左右対称の木造2階建てで明治43年に建てられた重要文化財である。

青色と黄色(金色)に彩色されており、建物を見た時にロシアのエルミタージュへやってきたのかと錯覚を覚えたほどであった。
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夕暮れが迫り、家内は寒さから「風邪を引いたかも」と言い出す始末。

昨年、ドイツで寝込まれた折には薬局をまわり、スープを運んだり大変だった記憶がよぎり、場合によっては旅行の継続を断念しようと思っていたところ、某タクシーが止まり運転手が降りて私達の方へ近付いてきた。

地元のタクシーだから道を尋ねるわけでもあるまいと、半ば胡散臭い思いを抱きつつ話を聞くと、先ほど修学旅行の団体が函館山へ登るロープウェイを利用し始めたので、乗車2時間待ちの状態になっていると。今、乗っている女性客が頂上まで行くが、一緒に乗れば料金を4等分出来る。だから乗らないかという勧誘であった。

家内が寒がっていたし、展望レストランも満席であったので、函館山に登るのは明日にしようと決めていたのだが、ものはついでということもあるし、タクシーに乗れば暫くでも暖かいかと、それでアッサリ即答。

東京から来たというお嬢さん2人と共に展望台へ上ることとなった。

山へは自動車で上がることが出来るのだが、夕刻からのマイカー利用は禁止されていた。

頂上の展望台一帯は修学旅行や、その他の団体観光客で既にごった返していたが、タクシー運転手の誘導と案内説明で気持ち良くスムースに動くことができた。

下の写真は未だ明るいが、夜が更けると、もっと見事な夜景を望むことが出来る。世界三大夜景のひとつだとか。 ナポリと何とか・・・が、知らん。

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函館の夜景が素晴らしいことは認めるが、誰が、どのような基準で決めたのか、素晴らしいとか綺麗だとかは個々の感覚的なもの、なのに三大夜景だなどと、「これはオマエ、アカンでえ」と運転手に言うてやった。

私よりも1回りほど若い運転手やが、京都でOne purpose, ○○○, thy name Doth signify one lofty aim なーんて歌ってたらしい。

で、京都の話題が少し続いた後、運転手は急に優秀なる観光タクシーの運転手に様変わり、契約以上のサーヴィスをしてくれることになった。

もともと函館出身のボンボンらしいが、大阪弁で言うたら“よう言うこと聞きよる、ええやっちゃ”ということになる。

ぶっははははは

で、サッブイ334mの頂上から曲がりくねった道路を下り、写真は夜の八幡坂通り。

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下はハリスト正教会
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これは聖ヨハネ教会やったかなあ。
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下はライトアップされた旧・函館区公会堂
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写真は無いが、称名寺、実行寺、高竜寺、外国人墓地、中華会館?やったかな?アメリカのポチが靖国へお参りしてから始まった日中問題以降閉鎖しとるらしいが・・・、その他もいろいろ周り、勿論、新島 襄・大先生渡航の碑も案内してくれよった。

ぶっははははは。

これだけは忘れたらイカンと思うたんやろな。

結構、純粋でマジメな運転手やったというわけや。

そんなんで晩ご飯が遅うなってしもうたけど、ホテルのレストランで地元産の新鮮な魚貝を中心にしっかりと頂いた。

ビールは勿論サッポロ黒ラベル、酒は地酒の??豚ころり?鬼ころり?違ったなあ・・・『熊ころり』か。 ははははは。

辛口のクセのない爽やかな酒やった。

そのため、私も飲み過ぎて“コロリ”やった。



at 09:32|Permalink

函館 ぶらぶら

朝まで降っていた雨が上がって、お天気は回復。

青函フェリーでもスゴイ強風を受けての津軽海峡横断であったが、函館でも風は弱まることが無かった。

函館山の展望台には市街地一帯の夜景を楽しむことのできるレストランがあるのだが、風も強く、きっと眺めは素晴らしいと考えホテルから予約を入れさせたのだが、残念。

既に満席・・・日曜であったし、誰が考えることも似たようなもの。

そんなこともあって、ホテルから函館山の麓までブラブラと散策を楽しむために出かけたのだが、「寒い、寒い」と家内。

歩いていれば温まるかと思っていたが、海からの風は一向に弱まる気配もない。

それでも八幡坂を登ってハリスト正教会まで・・・
ふぅーふぅーはぁーはぁー
息切れが激しい。
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そりゃあそうだ。
何の苦も無く元気に登り下りしてたのは40年も昔の事。
20代の頃と同じようには行く筈もない。

しかし写真のように函館港と市街地を眺めることの出来るロケーションの良い場所にハリスト正教会などのエキゾチックな建築物が点在しているのである。
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ハリストというのはロシア語の“Khristos”、ハリストスと読むが、このスペリングを見れば何のことか想像できるだろう。
英語での“Christ”である。

このハリスト正教会についての説明は、東西ヨーロッパとイスラム圏、それとキリスト教史に関わるもので、長くなるので割愛する。

簡単に書けば、ゲルマン民族の大移動によってローマ帝国が東西に分かれ、キリスト教もローマ教皇の派と東ローマ帝国の東方教会派に分かれ、東ローマ帝国の東方教会系のキリスト教は各国ごとに正教会と名乗っている。
ギリシャはギリシャ正教(正教会)、ロシアはロシア正教(正教会)と言う具合に。

そして、ハリストとロシア語のキリストを用いているように、函館はロシアに近く、幕末に交易を求めて開国を迫ったアメリカ合衆国と同様、ロシアも求めていた。

安政5年6月(1858年7月)に江戸幕府がアメリカ、オランダ、イギリス、フランス、ロシアと仮の通商条約を締結したが、この時に開港を約束したのが箱館(函館)、神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)の5港であり、『安政の仮条約』というものである。

これによって、翌年1859年にロシア領事館の附属の建物として建てられたのが最初。

ついでの話であるが、北海道からの帰路、仙台・奥松島に住まいする友人のAさん宅を訪れたのだが、そこでの話。

これら5港の開港前の段階、宮城県桃生郡野蒜の港が開港予定港として候補に上がり、工事も進められていたのだとか。

これについては初めて知ったことで驚き、帰宅後資料を探すも未だ見付からず、少々のイライラを感じているところである。

          《つづく》


at 06:33|Permalink
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