September 2007
September 25, 2007
感 謝 ? Y君とHさんへ
これは実に素直な感情の表現です。
「ありがとうございました。」
「忙しい時間に、朝からありがとう。とても嬉しく思いました。」
Merci beaucoup tarte et raisins dericious.
今朝、届けてもらった巨峰のタルト、それに巨峰。
巨峰タルト・・・二人の合作、上出来。
巨峰は、やや甘めに仕上がっていたけれど、全体として味のバランスがよく調和していて美味しいものでした。
硬く焼いたタルトはあまり好きじゃないって、いつだったか言ったように思うけれど、覚えてくれていたのか、しっとりと食感良く出来、好みの感じに仕上げてくれていたことを嬉しく思いました。
原材料として使われたであろう私の好物の『巨砲』。
Y君の田舎のお祖母ちゃんが栽培しておられたモノ。
市場へ流れるモノではないのかもしれないけれど、とても糖度の高い美味しいモノでした。
ぼちぼち収穫のシーズンも最後になったようですね。
家内と二人で美味しく頂きました。
もう一度、ありがとう。
「ありがとうございました。」
「忙しい時間に、朝からありがとう。とても嬉しく思いました。」
Merci beaucoup tarte et raisins dericious.
今朝、届けてもらった巨峰のタルト、それに巨峰。
巨峰タルト・・・二人の合作、上出来。
巨峰は、やや甘めに仕上がっていたけれど、全体として味のバランスがよく調和していて美味しいものでした。
硬く焼いたタルトはあまり好きじゃないって、いつだったか言ったように思うけれど、覚えてくれていたのか、しっとりと食感良く出来、好みの感じに仕上げてくれていたことを嬉しく思いました。
原材料として使われたであろう私の好物の『巨砲』。
Y君の田舎のお祖母ちゃんが栽培しておられたモノ。
市場へ流れるモノではないのかもしれないけれど、とても糖度の高い美味しいモノでした。
ぼちぼち収穫のシーズンも最後になったようですね。
家内と二人で美味しく頂きました。
もう一度、ありがとう。
at 21:09|Permalink│
感 謝 ?
感謝という言葉は誰にでも書けるし言うことも出来る。
しかし、感謝というものは、それをしてもらうためにする言動に対応するものではない。
『無償の奉仕』、『無償の愛』などという言葉が使われることがあるが、返礼を求めたり、感謝を求めるために行為するものではなく、ある言動の結果として予期せず、他者から表明されることが感謝である。
勿論、自分がある言動を行い得た事に対し、自ら有り難いと思う感謝というものもある。
もう随分昔のことになるが、御堂筋の某寿司店で下働きをしていたオジイチャンが自分の店の後片付けをし、職人さんや仲居さんが帰ってしまった深夜、御堂筋の一画の50メートルくらいはあるだろうか、掃除をしているのに出くわしたことがあった。
各店の灯は落ち、シャッターが下ろされた御堂筋の歩道は人通りも少なくなり、昼間や夜の早いうちのような喧騒さも無い。
しかし、通りすがりに捨てられた諸々のゴミが多くの人通りがあったことを示していた。
飲食店と言っても、この寿司屋だけではなくラーメン店などもあり、それぞれの店は店で自分の店の前だけの掃除は最低限済ませたように見えたが、それでもゴミが散らばっていた。
私は寄らなければならない店があって、小一時間して再びその場所へ戻ってくると、オジイチャンは長い歩道の掃除を一つ先の道路の端まで終えていた。
「ご苦労さん、ありがとう。」
私の方から何の抵抗もなく口からスンナリと出た言葉である。
以後、私がミナミで飲んで遅くなれば覗きに行ったが、その都度オジイチャンは長い歩道の掃除を黙々と一人でやっていた。
公道やさかいに行政の仕事・・・四角四面に考えればその通りである。
最近の風潮で言えば、「税金を払ってるんやさかい。」と。
むむむむむ。
なるほど・・・しかし、何かタラン、何かオカシイと思うのは私だけではないだろう。
テロルを認めない、許さないということでは一致出来るが、テロ対策特措法を制定してまで自衛艦船をインド洋に派遣し、アメリカなどの艦船に給油するということに対して私は反対である。
今回、テロ対策特措法に基づき、パキスタンとアフガニスタン国境の国際テロ組織アルカイーダに対する攻撃のみに使用されている筈であった給油がイラク作戦や、さらにアフリカのソマリアでの爆撃にも目的外使用がされていたのではないかということがアメリカ第五艦隊の公開情報から疑わしい部分が出てきた。
更に期限が切れるテロ対策特措法の延長を目論む自民党・公明党連立政権は、参院で多数となった民主党を始めとする野党が反対することを予想し、米国には公開した情報の修正とともに、国連での日本の給油活動の貢献に対して感謝を求める働きかけを行ったとされている。
これまでアメリカの艦船が日本の港に入港する際、自民党の佐藤栄作首相は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という三原則を守ることを日本の姿勢として公言してきたが、その後の日本政府の対応は「事前協議が無いから、核も無いはず」との曖昧な姿勢を取り続け、実際上アメリカの言うがまま為すがままの状況で今日まできており、テロ対策特措法による給油に関しても機密事項として公けになることも無いのではないかと私は考える。
感謝を要請することもチャンチャラ可笑しいことであり、1990年の湾岸危機の際に巨額の資金拠出をしたのにクウェートの感謝国リストから外された、だから見える貢献をしないことが感謝されないことだと、馬鹿げた思いに捉われた結果、相手国の人々に直接感謝されるような「目に見える貢献」であることが大切とばかりにイラク特措法を制定し、自衛隊を海外に派遣するようなことまで小泉自民、公明連立政権がしでかしてきた。
極端なまでの格差社会を造り出し、金持ちを優遇し、その資本家からお金を吸い上げる術に優れた能力を発揮する小泉、竹中などの自民党政府の連中ならさもありなんと言ったところではあるが、人の幸せを説き布施を自ら実践するべき宗教者、求道者の集団を母体とする公明党が連立政府の与党であるにも拘らず、感謝を求める政府の動きを黙過していたとは、これは何ともオソマツと言わねばならないのではないかと私は思う。
何かタラン、何かオカシイと思うのは私だけではないだろう。
『まつりごと』が崩れる時、世の中は荒ぶ。
『まつりごと』は、政治も『まつりごと』であるが、祭祀を行う宗教的なことも『まつりごと』である。
強要し、要請するような、これ見よがしに請求するような感謝、これをしてあげるから何ぼ、まるで子どもと同じである。
エエ加減にせえっ!
渇!
しかし、感謝というものは、それをしてもらうためにする言動に対応するものではない。
『無償の奉仕』、『無償の愛』などという言葉が使われることがあるが、返礼を求めたり、感謝を求めるために行為するものではなく、ある言動の結果として予期せず、他者から表明されることが感謝である。
勿論、自分がある言動を行い得た事に対し、自ら有り難いと思う感謝というものもある。
もう随分昔のことになるが、御堂筋の某寿司店で下働きをしていたオジイチャンが自分の店の後片付けをし、職人さんや仲居さんが帰ってしまった深夜、御堂筋の一画の50メートルくらいはあるだろうか、掃除をしているのに出くわしたことがあった。
各店の灯は落ち、シャッターが下ろされた御堂筋の歩道は人通りも少なくなり、昼間や夜の早いうちのような喧騒さも無い。
しかし、通りすがりに捨てられた諸々のゴミが多くの人通りがあったことを示していた。
飲食店と言っても、この寿司屋だけではなくラーメン店などもあり、それぞれの店は店で自分の店の前だけの掃除は最低限済ませたように見えたが、それでもゴミが散らばっていた。
私は寄らなければならない店があって、小一時間して再びその場所へ戻ってくると、オジイチャンは長い歩道の掃除を一つ先の道路の端まで終えていた。
「ご苦労さん、ありがとう。」
私の方から何の抵抗もなく口からスンナリと出た言葉である。
以後、私がミナミで飲んで遅くなれば覗きに行ったが、その都度オジイチャンは長い歩道の掃除を黙々と一人でやっていた。
公道やさかいに行政の仕事・・・四角四面に考えればその通りである。
最近の風潮で言えば、「税金を払ってるんやさかい。」と。
むむむむむ。
なるほど・・・しかし、何かタラン、何かオカシイと思うのは私だけではないだろう。
テロルを認めない、許さないということでは一致出来るが、テロ対策特措法を制定してまで自衛艦船をインド洋に派遣し、アメリカなどの艦船に給油するということに対して私は反対である。
今回、テロ対策特措法に基づき、パキスタンとアフガニスタン国境の国際テロ組織アルカイーダに対する攻撃のみに使用されている筈であった給油がイラク作戦や、さらにアフリカのソマリアでの爆撃にも目的外使用がされていたのではないかということがアメリカ第五艦隊の公開情報から疑わしい部分が出てきた。
更に期限が切れるテロ対策特措法の延長を目論む自民党・公明党連立政権は、参院で多数となった民主党を始めとする野党が反対することを予想し、米国には公開した情報の修正とともに、国連での日本の給油活動の貢献に対して感謝を求める働きかけを行ったとされている。
これまでアメリカの艦船が日本の港に入港する際、自民党の佐藤栄作首相は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という三原則を守ることを日本の姿勢として公言してきたが、その後の日本政府の対応は「事前協議が無いから、核も無いはず」との曖昧な姿勢を取り続け、実際上アメリカの言うがまま為すがままの状況で今日まできており、テロ対策特措法による給油に関しても機密事項として公けになることも無いのではないかと私は考える。
感謝を要請することもチャンチャラ可笑しいことであり、1990年の湾岸危機の際に巨額の資金拠出をしたのにクウェートの感謝国リストから外された、だから見える貢献をしないことが感謝されないことだと、馬鹿げた思いに捉われた結果、相手国の人々に直接感謝されるような「目に見える貢献」であることが大切とばかりにイラク特措法を制定し、自衛隊を海外に派遣するようなことまで小泉自民、公明連立政権がしでかしてきた。
極端なまでの格差社会を造り出し、金持ちを優遇し、その資本家からお金を吸い上げる術に優れた能力を発揮する小泉、竹中などの自民党政府の連中ならさもありなんと言ったところではあるが、人の幸せを説き布施を自ら実践するべき宗教者、求道者の集団を母体とする公明党が連立政府の与党であるにも拘らず、感謝を求める政府の動きを黙過していたとは、これは何ともオソマツと言わねばならないのではないかと私は思う。
何かタラン、何かオカシイと思うのは私だけではないだろう。
『まつりごと』が崩れる時、世の中は荒ぶ。
『まつりごと』は、政治も『まつりごと』であるが、祭祀を行う宗教的なことも『まつりごと』である。
強要し、要請するような、これ見よがしに請求するような感謝、これをしてあげるから何ぼ、まるで子どもと同じである。
エエ加減にせえっ!
渇!
at 16:09|Permalink│
十和田湖からの帰途
十和田湖もカルデラ湖であり、十和田火山が噴火し、その火口部分が陥没して十和田湖の原形が出来上がり、湖を取り囲む山々が外輪山である。
しかし、その後、陥没した火口中央から再び噴火活動を伴う爆発が起き、その火口部分が陥没してカルデラを形成した。
この噴火の際の外輪山の一部が御倉半島と中山半島であるとされている。
つまり十和田湖は二重火山によるカルデラ湖であり、ほぼ四角形に近い十和田湖の南側から北側に向って突き出ているフォークの先のような御倉半島と中山半島に挟まれた中湖に第二次噴火の火口部分があるとされているのである。
高村光太郎の作品『乙女の像』が湖畔に建つ西湖の休屋から中山半島の先の中山崎を周り込み、中湖を周遊して御倉半島の先、御倉山の日暮崎を回り込んで東湖の宇樽部、或いは十和田湖の水が流れ出る子の口までの間を遊覧船が行き交っているが、中湖を巡る際に御倉半島や中山半島の崖に爆裂壁を観ることができる。
朝早く目覚めた私は半野天風呂とも言えるホテルの温泉に浸かりに行った。
浴室は方形に仕切ってあり、芝生庭から湖を眺められるように開放されている。
霧がかかっており遠望は利かないが、和らげられた朝の光を受けて緑の芝生に白樺の木と湖水の薄いブルーが優しい感じを与えてくれる。
夜間にグンと気温が下がったのであろう、湖岸は見えるものの遠くは霧と湖面の境界が霞んではっきりしない。
湯は透明でツルツルと気持ちが良く、冷たい外気が頬に心地よい。
バイキング形式の朝食をメインダイニングルームで終えた私達はチェックアウトを済ませ、大川岱の十和田プリンスホテルを後に小鳥の囀る緑深い湖岸の道路を発荷峠に向かった。
発荷峠(647m)の展望所からは上の写真の通り。
十和田湖(湖面標高401m)はすっかり雲海に覆われ遠く北方に八甲田の峰々が望める。
私達は樹海ラインを秋田県小阪へ下り、東北自動車道の上り線に入った。
丁度、松尾インターを過ぎた辺りからだったろうか、右手前方に岩手山が雲を被りながらも綺麗に眺めることができた。
八幡平へ登る時には、この角度からの岩手山を眺めてきたが、盛岡市内からだと写真左手の向こう側より山を眺めることとなる。
石川啄木が少年時代を過ごした盛岡には不来方城(こずかたじょう)・盛岡城があり、彼は、
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
と詠んでいるが、随分以前に訪れた折には岩手山の眺めが素晴らしいものであったことを覚えている。
やがて啄木が東京朝日新聞社に勤務していた頃に詠んだのが、
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
高速道を走りなが美しいら岩手山を目にし、後続車が1台もいないことを確認したものだから、超低速走行でパチリ。
例によって殆ど瞬間的に過去の岩手山に関わる記憶が甦る。が、何年の出来事であったのやら・・・
滝沢から1日がかりで登り、その後、松尾から八幡平を縦走して蒸ノ湯温泉へ抜けたことがあった。これは昭和39年か40年だったか。
この後、多分昭和51年か52年に盛岡市内の釜師・13世『鈴木盛久』氏が制作された“砂鉄卓鈴”をなけなしの財布をはたいて買って帰ったことがあった。
欲しい茶釜があったのだが、とても私などが買えるような値段でもなく、それでも、この作家さんのモノが欲しいと・・・多分、作家さんの奥さんだったと思うが、いわゆる“お友達価格”にしていただいたのである。
いまでも良い音色で大事にしているモノだが、スゴイ、つまり私にすれば清水の舞台どころか、雲の上から飛び降りた気持ちの出費だったのである。
最近、テレビの旅番組で女性が釜師を継がれたと放映していたのだが、お嬢さんなのだろうか。ゆとりが出来れば再訪したいと思うていたが・・・。
“みちのく”は思い出深いところ。いろんな思いに浸りながら失礼を顧みずに仙台・奥松島の友人宅を電撃訪問。
勿論、電話だけは入れ、在宅ならばと・・・
初対面ながら旧知の如く・・・いやはや・・・
このような場でありますが、失礼を詫び、またあたたかくお迎えいただいたことに対し、お礼も併せて申し上げておきます。
その後、ほとんど休憩らしい休憩も取らず、日にちが変わったばかりの時刻に無事我が家に帰着。
思い出を沢山作ることの出来た北海道周遊の旅を終えることが出来ました。
そして、かなり遅れましたが、一通りスケジュールを追った形での旅のまとめをも書く事ができました。
自分では未だ未だ不充分な記述もあるのですが、一応の区切りが出来たということで満足しております。
健康になった家内と共に旅行を、それも無事に終えさせて頂き、区切りとなるまとめをもさせていただけたことに感謝しつつ、これにて北海道旅行についての記述を終えさせていただくことにします。
しかし、その後、陥没した火口中央から再び噴火活動を伴う爆発が起き、その火口部分が陥没してカルデラを形成した。
この噴火の際の外輪山の一部が御倉半島と中山半島であるとされている。
つまり十和田湖は二重火山によるカルデラ湖であり、ほぼ四角形に近い十和田湖の南側から北側に向って突き出ているフォークの先のような御倉半島と中山半島に挟まれた中湖に第二次噴火の火口部分があるとされているのである。
高村光太郎の作品『乙女の像』が湖畔に建つ西湖の休屋から中山半島の先の中山崎を周り込み、中湖を周遊して御倉半島の先、御倉山の日暮崎を回り込んで東湖の宇樽部、或いは十和田湖の水が流れ出る子の口までの間を遊覧船が行き交っているが、中湖を巡る際に御倉半島や中山半島の崖に爆裂壁を観ることができる。
朝早く目覚めた私は半野天風呂とも言えるホテルの温泉に浸かりに行った。
浴室は方形に仕切ってあり、芝生庭から湖を眺められるように開放されている。
霧がかかっており遠望は利かないが、和らげられた朝の光を受けて緑の芝生に白樺の木と湖水の薄いブルーが優しい感じを与えてくれる。
夜間にグンと気温が下がったのであろう、湖岸は見えるものの遠くは霧と湖面の境界が霞んではっきりしない。
湯は透明でツルツルと気持ちが良く、冷たい外気が頬に心地よい。
バイキング形式の朝食をメインダイニングルームで終えた私達はチェックアウトを済ませ、大川岱の十和田プリンスホテルを後に小鳥の囀る緑深い湖岸の道路を発荷峠に向かった。
発荷峠(647m)の展望所からは上の写真の通り。
十和田湖(湖面標高401m)はすっかり雲海に覆われ遠く北方に八甲田の峰々が望める。
私達は樹海ラインを秋田県小阪へ下り、東北自動車道の上り線に入った。
丁度、松尾インターを過ぎた辺りからだったろうか、右手前方に岩手山が雲を被りながらも綺麗に眺めることができた。
八幡平へ登る時には、この角度からの岩手山を眺めてきたが、盛岡市内からだと写真左手の向こう側より山を眺めることとなる。
石川啄木が少年時代を過ごした盛岡には不来方城(こずかたじょう)・盛岡城があり、彼は、
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
と詠んでいるが、随分以前に訪れた折には岩手山の眺めが素晴らしいものであったことを覚えている。
やがて啄木が東京朝日新聞社に勤務していた頃に詠んだのが、
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
高速道を走りなが美しいら岩手山を目にし、後続車が1台もいないことを確認したものだから、超低速走行でパチリ。
例によって殆ど瞬間的に過去の岩手山に関わる記憶が甦る。が、何年の出来事であったのやら・・・
滝沢から1日がかりで登り、その後、松尾から八幡平を縦走して蒸ノ湯温泉へ抜けたことがあった。これは昭和39年か40年だったか。
この後、多分昭和51年か52年に盛岡市内の釜師・13世『鈴木盛久』氏が制作された“砂鉄卓鈴”をなけなしの財布をはたいて買って帰ったことがあった。
欲しい茶釜があったのだが、とても私などが買えるような値段でもなく、それでも、この作家さんのモノが欲しいと・・・多分、作家さんの奥さんだったと思うが、いわゆる“お友達価格”にしていただいたのである。
いまでも良い音色で大事にしているモノだが、スゴイ、つまり私にすれば清水の舞台どころか、雲の上から飛び降りた気持ちの出費だったのである。
最近、テレビの旅番組で女性が釜師を継がれたと放映していたのだが、お嬢さんなのだろうか。ゆとりが出来れば再訪したいと思うていたが・・・。
“みちのく”は思い出深いところ。いろんな思いに浸りながら失礼を顧みずに仙台・奥松島の友人宅を電撃訪問。
勿論、電話だけは入れ、在宅ならばと・・・
初対面ながら旧知の如く・・・いやはや・・・
このような場でありますが、失礼を詫び、またあたたかくお迎えいただいたことに対し、お礼も併せて申し上げておきます。
その後、ほとんど休憩らしい休憩も取らず、日にちが変わったばかりの時刻に無事我が家に帰着。
思い出を沢山作ることの出来た北海道周遊の旅を終えることが出来ました。
そして、かなり遅れましたが、一通りスケジュールを追った形での旅のまとめをも書く事ができました。
自分では未だ未だ不充分な記述もあるのですが、一応の区切りが出来たということで満足しております。
健康になった家内と共に旅行を、それも無事に終えさせて頂き、区切りとなるまとめをもさせていただけたことに感謝しつつ、これにて北海道旅行についての記述を終えさせていただくことにします。
at 11:27|Permalink│
September 23, 2007
十和田プリンスホテル
下北半島・むつ市田名部から野辺地湾に沿った国道279号線は4号線の野辺地で合流するまでダラダラと長い道のりであった。
調査の際には、東通村や六ヶ所村の砂丘地帯にまで調査担当を派遣したが、下北半島の首にあたるこの一帯は砂丘地帯で、当時、太平洋側は自衛隊の射爆地になっていたところである。
現在、むつ小川原港辺りは原子燃料サイクル施設が設置されるなど随分の変貌ぶりを示しているのであろうと想像するがどんなものであろうか。
野辺地からは国道4号線を南に向かう。
江戸時代の五街道の一つ、奥州街道(明治期以後は陸羽街道と呼んでいる)である。
奥州街道というのは、江戸から陸奥白川(福島県白河市)を経て仙台、そして仙台から青森県の三厩宿(津軽半島の先端)、そして蝦夷・筥館までを言う。
江戸・陸奥白川の間、江戸から栃木県宇都宮までは日光街道と共通であるし、陸奥白川と仙台を結ぶ仙台道は脇街道、仙台から蝦夷・筥館までも松前道という脇街道であり、奥州街道という一本の街道が独立してあったわけではない。
ともあれ所々に残る昔の街道そのままの松並木の道路を走り続けて十和田市に入り、国道102号線に入って行った。
やがて、道路は奥入瀬川を縫うように延びて奥入瀬渓流にさしかかった。
焼山、石ケ戸から子の口に至る奥入瀬渓流は家内も私も幾度も歩いて往復しているのだが、車で通るのは珍しく久し振りのこととなる。
渓流沿いの遊歩道を散策している人たちにはたまに出会うだけで夏場に比べると断然少ない。勿論、ほとんどの部分で遊歩道と車道は完全に区分されているから分からないで過ぎ去っているばあいもあるが、超低速で走っていたので大概気付いたと思う。
私の車の前後に他車が近付くこともほとんど無かった。が、主要な景勝地である雲井の滝、銚子大滝などでは路上駐車の車両がかたまり、運転者のマナーが問われる光景を目にした。
情としては分からなくはないのだが・・・
深い広葉樹の森に覆われ、昼猶暗き奥入瀬の渓流を出ると子の口。周りがパッと明るくなる。
十和田湖畔に沿って休屋から更に湖畔西の道を走る。湖に突き出た中山半島の休屋一帯は開けて賑やかであるが湖西は静かな所なのである。
その和井内というところに『十和田プリンスホテル』がある。
リゾート・ロッジ風の2層の落ち着いた建物が湖岸の道路から湖側に垣間見える。
なだらかな斜面に、やや斜めに取られた広い進入路の両サイドに駐車スペースをもうけ、建物の中央部の車寄せに停車するとドアスタッフが来てくれる。
以前、北大からの帰りに十和田に立ち寄り、その時に十和田プリンスホテルを利用したのだが、その折に機会があれば家内を案内してやろうと思っていたのである。
上の写真のように、ホテルの湖側には広い芝生の庭が広がり湖に突き出た中山半島や御倉半島が望めるリゾートホテルなのである。
1泊では少々勿体無い気もするが、それでも充分に堪能できるホテルと、その周辺の環境が素晴らしいのである。
夕食の料理は1階の芝生庭と湖を眺めることの出来るレストランで洋風のコース料理と決まっているのだが、若干の料理をアラカルトとしてオーダーもできる。
夕刻、徐々に陽が暮れ落ちていく様子を眺めながら食事をしているうちに、景色が暗闇に包まれ始めると、庭園の水銀灯が緑の芝生を鮮やかに照らし始めるのである。
勿論のサッポロビールで気分が良くなり、食事を終えると芝生庭の散歩。夜空には満天の星。古夫婦であってもロマンティックなムードに浸れるものだ。
以前泊まった時と変わっていることがあった。
温泉が湧いているのだ。ホテルの建物の端っこに増設されたもので、屋根はあるが湖側は全開になっており、半露天風呂と言えるのかな?
そして、朝には自然観察会が催され、ホテルの芝生庭から湖岸に沿って1時間程度の散策ができるのである。勿論自由参加であり、グループで一緒に巡らねばならないということではない。一人でも気軽に歩いて行ける散歩コースなのである。
ちなみに朝食はレストランでのバイキング形式であるが、プリンスホテル系列は結構味は良いものである。
調査の際には、東通村や六ヶ所村の砂丘地帯にまで調査担当を派遣したが、下北半島の首にあたるこの一帯は砂丘地帯で、当時、太平洋側は自衛隊の射爆地になっていたところである。
現在、むつ小川原港辺りは原子燃料サイクル施設が設置されるなど随分の変貌ぶりを示しているのであろうと想像するがどんなものであろうか。
野辺地からは国道4号線を南に向かう。
江戸時代の五街道の一つ、奥州街道(明治期以後は陸羽街道と呼んでいる)である。
奥州街道というのは、江戸から陸奥白川(福島県白河市)を経て仙台、そして仙台から青森県の三厩宿(津軽半島の先端)、そして蝦夷・筥館までを言う。
江戸・陸奥白川の間、江戸から栃木県宇都宮までは日光街道と共通であるし、陸奥白川と仙台を結ぶ仙台道は脇街道、仙台から蝦夷・筥館までも松前道という脇街道であり、奥州街道という一本の街道が独立してあったわけではない。
ともあれ所々に残る昔の街道そのままの松並木の道路を走り続けて十和田市に入り、国道102号線に入って行った。
やがて、道路は奥入瀬川を縫うように延びて奥入瀬渓流にさしかかった。
焼山、石ケ戸から子の口に至る奥入瀬渓流は家内も私も幾度も歩いて往復しているのだが、車で通るのは珍しく久し振りのこととなる。
渓流沿いの遊歩道を散策している人たちにはたまに出会うだけで夏場に比べると断然少ない。勿論、ほとんどの部分で遊歩道と車道は完全に区分されているから分からないで過ぎ去っているばあいもあるが、超低速で走っていたので大概気付いたと思う。
私の車の前後に他車が近付くこともほとんど無かった。が、主要な景勝地である雲井の滝、銚子大滝などでは路上駐車の車両がかたまり、運転者のマナーが問われる光景を目にした。
情としては分からなくはないのだが・・・
深い広葉樹の森に覆われ、昼猶暗き奥入瀬の渓流を出ると子の口。周りがパッと明るくなる。
十和田湖畔に沿って休屋から更に湖畔西の道を走る。湖に突き出た中山半島の休屋一帯は開けて賑やかであるが湖西は静かな所なのである。
その和井内というところに『十和田プリンスホテル』がある。
リゾート・ロッジ風の2層の落ち着いた建物が湖岸の道路から湖側に垣間見える。
なだらかな斜面に、やや斜めに取られた広い進入路の両サイドに駐車スペースをもうけ、建物の中央部の車寄せに停車するとドアスタッフが来てくれる。
以前、北大からの帰りに十和田に立ち寄り、その時に十和田プリンスホテルを利用したのだが、その折に機会があれば家内を案内してやろうと思っていたのである。
上の写真のように、ホテルの湖側には広い芝生の庭が広がり湖に突き出た中山半島や御倉半島が望めるリゾートホテルなのである。
1泊では少々勿体無い気もするが、それでも充分に堪能できるホテルと、その周辺の環境が素晴らしいのである。
夕食の料理は1階の芝生庭と湖を眺めることの出来るレストランで洋風のコース料理と決まっているのだが、若干の料理をアラカルトとしてオーダーもできる。
夕刻、徐々に陽が暮れ落ちていく様子を眺めながら食事をしているうちに、景色が暗闇に包まれ始めると、庭園の水銀灯が緑の芝生を鮮やかに照らし始めるのである。
勿論のサッポロビールで気分が良くなり、食事を終えると芝生庭の散歩。夜空には満天の星。古夫婦であってもロマンティックなムードに浸れるものだ。
以前泊まった時と変わっていることがあった。
温泉が湧いているのだ。ホテルの建物の端っこに増設されたもので、屋根はあるが湖側は全開になっており、半露天風呂と言えるのかな?
そして、朝には自然観察会が催され、ホテルの芝生庭から湖岸に沿って1時間程度の散策ができるのである。勿論自由参加であり、グループで一緒に巡らねばならないということではない。一人でも気軽に歩いて行ける散歩コースなのである。
ちなみに朝食はレストランでのバイキング形式であるが、プリンスホテル系列は結構味は良いものである。
at 10:32|Permalink│
September 22, 2007
恐山~田名部へ
昔は、恐山(おやま)へ参るには田名部からバスで登った。
亡くなった人たちの霊魂は、みんな恐山(おやま)に集まるのだと信じる下北地方の人たちにとって、恐山への参詣はお墓参りと同じようなものであり、恐山街道途中の山道に清水が湧く冷水峠は恰好の休憩処である。
ヒバの大木がうっそうと茂り、崖面が僅かに後退した所にきれいな冷たい湧き水が滝のように流れ落ちているのである。
この水を一杯飲めば1年、二杯飲めば2年長生きするという。
42年前、恐山に向かうバスのガイド嬢が客達に問いかけた。
「一杯飲めば1年、二杯飲めば2年長生きすると申します。では、三杯飲むとどれくらい長生き出来るのでしょうか?」
客達が答えた。
「3年!」
すると、バスガイド嬢が澄まして言った。
「三杯飲めば、死ぬまで長生きするそうでございます。」
乗客たちから笑い声が起こった。
私も笑い転げたという印象深い記憶があったので、何とか冷水の場所を家内にも教えてやろうと崖の方に注意をしながら下って行った。
昔は未舗装で赤っぽい土が波打つような路面の山道であったが、現在は舗装されて揺れを感じることもない。そんな道路の崖面が後退した場所を見つけた。
ヒバの木々が日光をさえぎり、ひんやりと暗い崖面から勢い良く流れ落ちる湧水は昔と変わらずに綺麗な水であった。
私達が一杯冷水を飲んだところへワンボックスカーで登ってきた中学生連れの父子が20リットルのポリタンクを10個運んできた。
彼らがポリタンクに水を入れている時に、10数人を乗せたマイクロバスが1台停車し、観光客が車から降りてきた。みんな長生きしたいのである。
ポリタンクの親子は冷水を運んで帰ってどうするのだろう。
ガブガブ飲んで鶴や亀と年齢の競い合いでもするのだろうか。
田名部の町に着いたものの目指すお寺が分からずに迷ってしまった。大畑線が廃止になり、田名部駅が無くなっているし、街並みが変わってしまっているのである。
地元の人に尋ねて何とか辿り着いた。
明神川という小さな水路のような川を渡った正面に本堂がある。
浄土宗『不退山・常念寺』である。
この寺は1590年代、関が原の戦(1600)以前に開山の歴史のあるお寺なのだ。
私が下北半島一帯で調査を行った時に本部を置いたお世話になった寺である。
当時のご住持は関さんと言われる方で随分便宜を図っていただいた。
下は観音堂。
この観音様は『川端観音』と言い、直ぐ傍を流れる明神川で子どもが河童に攫われるため、河童から子ども達を守りたいという願いを込めて建立されたものだそうだ。
調査実施期間中、ここを本部として提供していただき、男女の調査員が10人ばかりいたので寝所には庫裏につながる持仏堂などを提供していただいた。
調査は7月から8月前半で終了したのだが、私は8月の田名部神社の夏祭りが終わるまで滞在させてもらった。
田名部は綺麗な地下水が豊富な所で、庫裏での洗い物や調理も豊富な湧水を使っていた。
多分、カルデラ(恐山の)となる外輪山の山々に降った雨水が地中に浸透し、長い年月をかけて濾過された水が湧水として田名部地域に出ているのではないかと想像していたのだが、そのせいか、田名部には美人が多い。
ここのお嬢さんとお友達が食事の用意などで世話をしてくれていたのだが、当時、16~18歳程度だったように・・・高校生だったと思うが美人のお嬢さんたちだった。
田名部祭りの踊りに誘われて少し稽古したけれど、そうした事に全く弱かったためにお断りしたが、残念なことをしたと・・・ぶっはははは。
祭りの歌は独特なのだが、メロディーやリズムは・・・
エンヤーコラヤット、ドッコイ、ジャンジャン、コーラヤット、
北海名物~ア、コーリャコリャ、数々コリャあーれどよー
と言う、北海何とかのメロディーとリズムに合わせて踊るのだったと思う。
何でも夜通し踊るんだと聞かされていたけど・・・今では懐かしい思い出のひとつ。
今夜の宿は十和田湖。
随分走らねばならない。
亡くなった人たちの霊魂は、みんな恐山(おやま)に集まるのだと信じる下北地方の人たちにとって、恐山への参詣はお墓参りと同じようなものであり、恐山街道途中の山道に清水が湧く冷水峠は恰好の休憩処である。
ヒバの大木がうっそうと茂り、崖面が僅かに後退した所にきれいな冷たい湧き水が滝のように流れ落ちているのである。
この水を一杯飲めば1年、二杯飲めば2年長生きするという。
42年前、恐山に向かうバスのガイド嬢が客達に問いかけた。
「一杯飲めば1年、二杯飲めば2年長生きすると申します。では、三杯飲むとどれくらい長生き出来るのでしょうか?」
客達が答えた。
「3年!」
すると、バスガイド嬢が澄まして言った。
「三杯飲めば、死ぬまで長生きするそうでございます。」
乗客たちから笑い声が起こった。
私も笑い転げたという印象深い記憶があったので、何とか冷水の場所を家内にも教えてやろうと崖の方に注意をしながら下って行った。
昔は未舗装で赤っぽい土が波打つような路面の山道であったが、現在は舗装されて揺れを感じることもない。そんな道路の崖面が後退した場所を見つけた。
ヒバの木々が日光をさえぎり、ひんやりと暗い崖面から勢い良く流れ落ちる湧水は昔と変わらずに綺麗な水であった。
私達が一杯冷水を飲んだところへワンボックスカーで登ってきた中学生連れの父子が20リットルのポリタンクを10個運んできた。
彼らがポリタンクに水を入れている時に、10数人を乗せたマイクロバスが1台停車し、観光客が車から降りてきた。みんな長生きしたいのである。
ポリタンクの親子は冷水を運んで帰ってどうするのだろう。
ガブガブ飲んで鶴や亀と年齢の競い合いでもするのだろうか。
田名部の町に着いたものの目指すお寺が分からずに迷ってしまった。大畑線が廃止になり、田名部駅が無くなっているし、街並みが変わってしまっているのである。
地元の人に尋ねて何とか辿り着いた。
明神川という小さな水路のような川を渡った正面に本堂がある。
浄土宗『不退山・常念寺』である。
この寺は1590年代、関が原の戦(1600)以前に開山の歴史のあるお寺なのだ。
私が下北半島一帯で調査を行った時に本部を置いたお世話になった寺である。
当時のご住持は関さんと言われる方で随分便宜を図っていただいた。
下は観音堂。
この観音様は『川端観音』と言い、直ぐ傍を流れる明神川で子どもが河童に攫われるため、河童から子ども達を守りたいという願いを込めて建立されたものだそうだ。
調査実施期間中、ここを本部として提供していただき、男女の調査員が10人ばかりいたので寝所には庫裏につながる持仏堂などを提供していただいた。
調査は7月から8月前半で終了したのだが、私は8月の田名部神社の夏祭りが終わるまで滞在させてもらった。
田名部は綺麗な地下水が豊富な所で、庫裏での洗い物や調理も豊富な湧水を使っていた。
多分、カルデラ(恐山の)となる外輪山の山々に降った雨水が地中に浸透し、長い年月をかけて濾過された水が湧水として田名部地域に出ているのではないかと想像していたのだが、そのせいか、田名部には美人が多い。
ここのお嬢さんとお友達が食事の用意などで世話をしてくれていたのだが、当時、16~18歳程度だったように・・・高校生だったと思うが美人のお嬢さんたちだった。
田名部祭りの踊りに誘われて少し稽古したけれど、そうした事に全く弱かったためにお断りしたが、残念なことをしたと・・・ぶっはははは。
祭りの歌は独特なのだが、メロディーやリズムは・・・
エンヤーコラヤット、ドッコイ、ジャンジャン、コーラヤット、
北海名物~ア、コーリャコリャ、数々コリャあーれどよー
と言う、北海何とかのメロディーとリズムに合わせて踊るのだったと思う。
何でも夜通し踊るんだと聞かされていたけど・・・今では懐かしい思い出のひとつ。
今夜の宿は十和田湖。
随分走らねばならない。
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