September 2007
September 21, 2007
恐山 続きの続きの続き
『恐山・伽羅陀山菩提寺』は862年に慈覚大師円仁が地蔵尊を刻み仏教を広めよとのお告げを受け、延命地蔵菩薩を彫り上げ、それを本尊として開基したことによる。
地蔵菩薩については以前にも書いたが、釈迦が入滅して以降、弥勒仏が現れ出でるまでの無仏の間、六道の衆生の教化・救済を行うのが菩薩であり、六地蔵とか延命地蔵などと尊称されているもので、坊主頭で左手に宝珠、右手に錫杖を持った像として知られている。
もっとも弥勒仏も地蔵を始めとする菩薩も、或いはキリスト教におけるGodも信仰者における心象であって実体としては存在しないものである。
古来、そうした実体のない信仰対象を彫像としたり、絵画として表し、それを信仰の対象とすることに対する様々な論争が起きてきた。
しかし、実体のないものに対しての人間の信心は弱く、仏像や仏画、キリスト教におけるキリストやマリアの像、或いは日本における神仏混淆(神仏習合)以来のお墓や霊璽(霊代)などが仮の信仰対象とされて今日に至っているように、地蔵菩薩も偶像として仮の信仰対象となっており、そのため恐山でも多くの地蔵菩薩像が祀られている。
下の祠は『地獄』の丘上に建てられており、地蔵尊像が祀られている。
地蔵は、人間の悩み苦しみなどについて教え、そして、そうしたことから抜け出し救われる道すじを明らかにし、助けて下さる菩薩であることを先に書いた。
そうした地蔵信仰の表れとして恐山境内には幾つもの地蔵尊像が建てられているのであろうが、同時に大きい石や小さい石が積み上げられたものが無数に見られ、風車が立てられていたり、人形が供えられていたりもする。
“ひとつ積んだら母のため、2つ積んだら父のため~”
幼くして亡くなった子どもの亡者が、両親に孝行出来なかったことを詫び、石を高く積めば親不孝の罪障が消え、極楽往生が出来るものと『三途の川』の河原で一心不乱に石を積み上げるが、積み上げたところへ鬼がやってきて崩してしまう。それでも幼い亡者は崩されても崩されても、泣く泣く石を積み上げ続ける。
三途の川の話であるが、人が死ぬと、その霊魂は三途の川を渡って閻魔大王の許へ行き裁きを受ける。その際に生前の善行或いは罪業によって極楽浄土へ行けるか地獄に行くかが決定されるという。
風車も人形も、子どもを亡くした親が供えたものであろう。
そして、小石が積み上げられた無数の小山は亡くなった人たちの霊を弔い、冥福を祈ったものであろう。早くに子を亡くした親が、子どもを哀れみ不憫に思って積んだ石の山なのであろう。白っぽい小石が積まれた沢山の小山は、そうした人たちの思いや願いを語り掛けてくるように思えた。
地獄については比叡山、天台宗の高僧・恵心僧都(源信)の『往生要集』に八熱地獄として等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻という地獄があるとされているが、地獄があるのかどうか、これは個々人の心の問題であると私は考えているし、インドに元々あった輪廻転生の思想、インド仏教、中国仏教、そして日本に育った仏教と、仏教そのものも時代や地域性によって、或いは経典・教義の解釈によって異なる受け取り方があるので、ここでは触れないことにする。
いずれ折りがあれば・・・
上の写真で、中央の小高い丘の向こうで白くなった所が横に点在している一帯が『地獄』であり、宇曽利湖の湖畔に出てきた所である。
湖に流れ込む前の段階の水で、溶融物に因るものと思われるがエメラルドグリーンやコバルトブルーの部分が広がっていた。
下は宇曽利湖の湖畔で『浄土が浜』と呼ばれている所。
下の3枚の写真とも宇曽利湖であるが、上から順に『浄土が浜』から視点を右へ移動させて撮影したものである。
3枚目の写真の左部分の三角形の山が釜臥山である。
さして信仰心が強いわけでもなく、地獄・極楽について信じているわけでもない私たちではあるが、今回の恐山観光?参詣?はお参りしたなあって感じにさせるものがあった。
それが恐山の醸し出す霊場として独特の雰囲気や景色がそうさせたのか、私達の内在する意識がさせたのか分からないが、満足感めいたものがあった。
恐山と言えば、亡くなった人の気持ちや言葉を代言する『イタコ』の“口よせ”が広く知られているところだが、盲目の女性が資格条件である彼女たちが境内に集うのは7月20日の法要日。
40年前には『イタコ』の人数も結構いたが、現在はどうなのだろうか。単に女性で盲目であるという条件だけでは出来ないのが“口よせ”であるが・・・
それはさておき、42年ぶりに恐山の温泉に入浴させてもらうことも出来、懐旧の思いをも満足させてもらえ気分爽快で山を下ることにした。
地蔵菩薩については以前にも書いたが、釈迦が入滅して以降、弥勒仏が現れ出でるまでの無仏の間、六道の衆生の教化・救済を行うのが菩薩であり、六地蔵とか延命地蔵などと尊称されているもので、坊主頭で左手に宝珠、右手に錫杖を持った像として知られている。
もっとも弥勒仏も地蔵を始めとする菩薩も、或いはキリスト教におけるGodも信仰者における心象であって実体としては存在しないものである。
古来、そうした実体のない信仰対象を彫像としたり、絵画として表し、それを信仰の対象とすることに対する様々な論争が起きてきた。
しかし、実体のないものに対しての人間の信心は弱く、仏像や仏画、キリスト教におけるキリストやマリアの像、或いは日本における神仏混淆(神仏習合)以来のお墓や霊璽(霊代)などが仮の信仰対象とされて今日に至っているように、地蔵菩薩も偶像として仮の信仰対象となっており、そのため恐山でも多くの地蔵菩薩像が祀られている。
下の祠は『地獄』の丘上に建てられており、地蔵尊像が祀られている。
地蔵は、人間の悩み苦しみなどについて教え、そして、そうしたことから抜け出し救われる道すじを明らかにし、助けて下さる菩薩であることを先に書いた。
そうした地蔵信仰の表れとして恐山境内には幾つもの地蔵尊像が建てられているのであろうが、同時に大きい石や小さい石が積み上げられたものが無数に見られ、風車が立てられていたり、人形が供えられていたりもする。
“ひとつ積んだら母のため、2つ積んだら父のため~”
幼くして亡くなった子どもの亡者が、両親に孝行出来なかったことを詫び、石を高く積めば親不孝の罪障が消え、極楽往生が出来るものと『三途の川』の河原で一心不乱に石を積み上げるが、積み上げたところへ鬼がやってきて崩してしまう。それでも幼い亡者は崩されても崩されても、泣く泣く石を積み上げ続ける。
三途の川の話であるが、人が死ぬと、その霊魂は三途の川を渡って閻魔大王の許へ行き裁きを受ける。その際に生前の善行或いは罪業によって極楽浄土へ行けるか地獄に行くかが決定されるという。
風車も人形も、子どもを亡くした親が供えたものであろう。
そして、小石が積み上げられた無数の小山は亡くなった人たちの霊を弔い、冥福を祈ったものであろう。早くに子を亡くした親が、子どもを哀れみ不憫に思って積んだ石の山なのであろう。白っぽい小石が積まれた沢山の小山は、そうした人たちの思いや願いを語り掛けてくるように思えた。
地獄については比叡山、天台宗の高僧・恵心僧都(源信)の『往生要集』に八熱地獄として等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻という地獄があるとされているが、地獄があるのかどうか、これは個々人の心の問題であると私は考えているし、インドに元々あった輪廻転生の思想、インド仏教、中国仏教、そして日本に育った仏教と、仏教そのものも時代や地域性によって、或いは経典・教義の解釈によって異なる受け取り方があるので、ここでは触れないことにする。
いずれ折りがあれば・・・
上の写真で、中央の小高い丘の向こうで白くなった所が横に点在している一帯が『地獄』であり、宇曽利湖の湖畔に出てきた所である。
湖に流れ込む前の段階の水で、溶融物に因るものと思われるがエメラルドグリーンやコバルトブルーの部分が広がっていた。
下は宇曽利湖の湖畔で『浄土が浜』と呼ばれている所。
下の3枚の写真とも宇曽利湖であるが、上から順に『浄土が浜』から視点を右へ移動させて撮影したものである。
3枚目の写真の左部分の三角形の山が釜臥山である。
さして信仰心が強いわけでもなく、地獄・極楽について信じているわけでもない私たちではあるが、今回の恐山観光?参詣?はお参りしたなあって感じにさせるものがあった。
それが恐山の醸し出す霊場として独特の雰囲気や景色がそうさせたのか、私達の内在する意識がさせたのか分からないが、満足感めいたものがあった。
恐山と言えば、亡くなった人の気持ちや言葉を代言する『イタコ』の“口よせ”が広く知られているところだが、盲目の女性が資格条件である彼女たちが境内に集うのは7月20日の法要日。
40年前には『イタコ』の人数も結構いたが、現在はどうなのだろうか。単に女性で盲目であるという条件だけでは出来ないのが“口よせ”であるが・・・
それはさておき、42年ぶりに恐山の温泉に入浴させてもらうことも出来、懐旧の思いをも満足させてもらえ気分爽快で山を下ることにした。
at 18:15|Permalink│
恐山 続きの続き
恐山が高野山や比叡山と肩を並べて『日本三大霊場』の一つに数えられていることを知る人は少ないのではないだろうか。
“みちのく”に惚れて何度も足繁く通い、東北通と呼ばれたこともある、かく言う私でもいつから恐山が『日本三大霊場』の一つに数えられるようになったのか知らない。
ひょっとしたら随分以前からそう呼ばれてきたのに、実は私の勉強不足であっただけのことなのかも知れないが。
もっとも、何でも三大何々と言われるのを私は余り面白く思っていない一人ではあるが、唐から帰ってきた空海が高野山に霊場を開き真言宗を広め弘法大師として崇められていること、同じく唐から帰ってきた最澄は比叡山に霊場を開き天台宗を広め伝教大師として尊敬されていることを考え合わせれば、最澄の弟子で唐から帰り、恐山に『伽羅陀山菩提寺』を開き、地蔵信仰を広めた慈覚大師についても、その場所を霊場として掲げるに不思議なことではない。
下の写真は『地獄』と呼ばれる場所。
写真右端は山門、左端に少し軒の見えるのが地蔵堂。
この写真を撮影をした一帯は灰白色か白色の岩石が岩肌を見せてゴツゴツし、荒涼とした景色を表している。
色合いだけでは判別出来ないので組成について調べた資料を探してみなければならないが、岩石の割れ目からは水蒸気を含む白い噴煙が『地獄』のあちらこちらで上がっており、噴気孔の周りは黄色く結晶化された硫黄が付着している。
例の“ゆで玉子”のような独特な臭い、火山性ガスの硫化水素(H2S)であり、可燃性の毒性気体だから火気に関しては要注意である。
それに具合の悪い火山性ガスの亜硫酸ガス=『二酸化硫黄(SO2)』も噴出している。この二酸化硫黄は硫化水素と結合して硫黄が生成されるし、温泉の湯の華をも作るので良い面もあるのだが、毒性の強い無色気体であるから谷間などでガスが沈滞している場所では僅かな時間で命を落とすことにもなり恐ろしい気体である。
しかし、白色と灰色の殺伐とした『地獄』の一画には写真のような緑が青い宇曽利湖に広がる部分もある。
火山噴出砕屑物であるテフラが堆積して出来たような岩石が壊れ奇怪なる地形となっている『地獄』の様子は、通り道も含めて40年前より余り変わっていないように思った。
この緑色の植物は栄養に乏しく酸度にも強い高層湿原や傾斜地に生えるイソツツジである。(上サロベツ原生花園でも見たが花は咲いていなかった)
だが、私の記憶が間違っていなければ、この辺りにはハイマツが群生し、『マムシに注意』の立て札が立てられていたように思うのである。
それに宇曽利湖は強酸性、確かPh3程度ではなかったろうか、余りに酸度が強いので生物が住めず、この湖から流れ出す川も生物の生息に適してはいないと聞いていたように思う。
しかしながら、最近になって宇曽利湖にウグイが生息していることを何かで知った。
強酸性の水でウグイ自体が生理的に適応させて生きているという珍しい例であるようなことが書かれていたように・・・。
淡水で生きる金魚にしても、塩分の浸透圧を徐々に変化させ、やがて海水で生きれるようになるという生物学の実験レポートも出ているのだから、酸度についても言えるのかもしれない。
もっとも不確かな記憶なので断言はできないが。
“みちのく”に惚れて何度も足繁く通い、東北通と呼ばれたこともある、かく言う私でもいつから恐山が『日本三大霊場』の一つに数えられるようになったのか知らない。
ひょっとしたら随分以前からそう呼ばれてきたのに、実は私の勉強不足であっただけのことなのかも知れないが。
もっとも、何でも三大何々と言われるのを私は余り面白く思っていない一人ではあるが、唐から帰ってきた空海が高野山に霊場を開き真言宗を広め弘法大師として崇められていること、同じく唐から帰ってきた最澄は比叡山に霊場を開き天台宗を広め伝教大師として尊敬されていることを考え合わせれば、最澄の弟子で唐から帰り、恐山に『伽羅陀山菩提寺』を開き、地蔵信仰を広めた慈覚大師についても、その場所を霊場として掲げるに不思議なことではない。
下の写真は『地獄』と呼ばれる場所。
写真右端は山門、左端に少し軒の見えるのが地蔵堂。
この写真を撮影をした一帯は灰白色か白色の岩石が岩肌を見せてゴツゴツし、荒涼とした景色を表している。
色合いだけでは判別出来ないので組成について調べた資料を探してみなければならないが、岩石の割れ目からは水蒸気を含む白い噴煙が『地獄』のあちらこちらで上がっており、噴気孔の周りは黄色く結晶化された硫黄が付着している。
例の“ゆで玉子”のような独特な臭い、火山性ガスの硫化水素(H2S)であり、可燃性の毒性気体だから火気に関しては要注意である。
それに具合の悪い火山性ガスの亜硫酸ガス=『二酸化硫黄(SO2)』も噴出している。この二酸化硫黄は硫化水素と結合して硫黄が生成されるし、温泉の湯の華をも作るので良い面もあるのだが、毒性の強い無色気体であるから谷間などでガスが沈滞している場所では僅かな時間で命を落とすことにもなり恐ろしい気体である。
しかし、白色と灰色の殺伐とした『地獄』の一画には写真のような緑が青い宇曽利湖に広がる部分もある。
火山噴出砕屑物であるテフラが堆積して出来たような岩石が壊れ奇怪なる地形となっている『地獄』の様子は、通り道も含めて40年前より余り変わっていないように思った。
この緑色の植物は栄養に乏しく酸度にも強い高層湿原や傾斜地に生えるイソツツジである。(上サロベツ原生花園でも見たが花は咲いていなかった)
だが、私の記憶が間違っていなければ、この辺りにはハイマツが群生し、『マムシに注意』の立て札が立てられていたように思うのである。
それに宇曽利湖は強酸性、確かPh3程度ではなかったろうか、余りに酸度が強いので生物が住めず、この湖から流れ出す川も生物の生息に適してはいないと聞いていたように思う。
しかしながら、最近になって宇曽利湖にウグイが生息していることを何かで知った。
強酸性の水でウグイ自体が生理的に適応させて生きているという珍しい例であるようなことが書かれていたように・・・。
淡水で生きる金魚にしても、塩分の浸透圧を徐々に変化させ、やがて海水で生きれるようになるという生物学の実験レポートも出ているのだから、酸度についても言えるのかもしれない。
もっとも不確かな記憶なので断言はできないが。
at 12:16|Permalink│
恐山 続き
恐山を取り囲む周囲の低い山並みは緑色であるが、地面は真っ白で太陽の照り返しが目映い所であり、一種異様な雰囲気を醸し出している。
恐山と言うのは、正式には『恐山・伽羅陀山菩提寺』と言い、慈覚大師開基の曹洞宗の寺である。
40年あまりの時を経て行った恐山は寺務所が新しくなり、少し変わったという印象は受けたものの建物は平屋であり、従来の景観を維持するように配慮されていたように思えて好感を持てた。
総門をくぐった所、写真右手が寺務所であり、白い石畳が敷かれた参道が左の山門の先にある地蔵堂に続き、写真左手(写っていないが)には本堂がある。
下の写真の正面が地蔵堂。
以前は地蔵堂だけが建っていたが、現在は他の建物が出来て賑やかな感じになってしまった。
もの淋しい、侘しい、或いは不気味な感じというのが消えてしまったように、ここは変わったなあと感じたところ。仕方ないが・・・
ところで恐山という山号は先に書いた通り『伽羅陀山菩提寺』のことであるが、地質的には周辺の山々一帯を指すものである。
つまり、後に写真を掲載するが恐山には宇曾利湖という非常に酸性度の強い水を湛えた湖があるが、この湖はカルデラ(caldera)湖、即ち火山噴火の後に火山の中央部分が陥没して、そこに水が溜まって出来た湖なのである。
北海道旅行で訪れた洞爺湖、支笏湖、屈斜路湖、摩周湖などもカルデラ湖であることを書いてきたが、恐山も宇曾利湖を取り巻く屏風山、釜臥山、大尽山、鶏頭山、地蔵山などを外輪山とするカルデラ湖なのである。
下の写真は地蔵堂に向かう参道左手にある二つの温泉浴場の一つ、男湯であり、もう一つの女湯とともに参詣者に開放されている。
湯温は高く、酸度が強い温泉である。
42年前も木造りの浴槽で簡単な木造の小屋の中に写真のような浴槽が設えられていたが、地蔵堂付近に点々と4つか5つの浴屋があり、それぞれに泉質の異なった湯が湧いていたように記憶している。
もっと白濁した湯もあったように思うのだが、それに現在は男湯、女湯と区別されているが42年前はそのような区別は無く、いわゆる混浴であった。
恐山へは当時2回訪れているのだが、うち1度は寺務所に2~3泊、宿泊させてもらった。
昔は質素な木造の建物で規模も小さかったが、当時としては珍しい水洗式便所であったことを思い出した。
と言っても現代的イメージとは異なり、ベニヤ板で仕切られた便所で床面を長方形に切り取っただけのもので、子どもらが言うところの“ボットン便所”である。
水洗と言うのは、通常“ボットン便所”の場合は肥溜め甕に便を溜めるのであるが、この寺務所の便所の場合、常に川のように水が流れており、それを水洗式と言ったのである。
流れた便がどのように処理されていたのかは知らないが、強酸性の宇曾利湖の水であれば、便が腐敗しバクテリアが発生するということも無いであろうから衛生的と言わないまでも処分しやすかったかもしれない。(これは余談)
恐山と言うのは、正式には『恐山・伽羅陀山菩提寺』と言い、慈覚大師開基の曹洞宗の寺である。
40年あまりの時を経て行った恐山は寺務所が新しくなり、少し変わったという印象は受けたものの建物は平屋であり、従来の景観を維持するように配慮されていたように思えて好感を持てた。
総門をくぐった所、写真右手が寺務所であり、白い石畳が敷かれた参道が左の山門の先にある地蔵堂に続き、写真左手(写っていないが)には本堂がある。
下の写真の正面が地蔵堂。
以前は地蔵堂だけが建っていたが、現在は他の建物が出来て賑やかな感じになってしまった。
もの淋しい、侘しい、或いは不気味な感じというのが消えてしまったように、ここは変わったなあと感じたところ。仕方ないが・・・
ところで恐山という山号は先に書いた通り『伽羅陀山菩提寺』のことであるが、地質的には周辺の山々一帯を指すものである。
つまり、後に写真を掲載するが恐山には宇曾利湖という非常に酸性度の強い水を湛えた湖があるが、この湖はカルデラ(caldera)湖、即ち火山噴火の後に火山の中央部分が陥没して、そこに水が溜まって出来た湖なのである。
北海道旅行で訪れた洞爺湖、支笏湖、屈斜路湖、摩周湖などもカルデラ湖であることを書いてきたが、恐山も宇曾利湖を取り巻く屏風山、釜臥山、大尽山、鶏頭山、地蔵山などを外輪山とするカルデラ湖なのである。
下の写真は地蔵堂に向かう参道左手にある二つの温泉浴場の一つ、男湯であり、もう一つの女湯とともに参詣者に開放されている。
湯温は高く、酸度が強い温泉である。
42年前も木造りの浴槽で簡単な木造の小屋の中に写真のような浴槽が設えられていたが、地蔵堂付近に点々と4つか5つの浴屋があり、それぞれに泉質の異なった湯が湧いていたように記憶している。
もっと白濁した湯もあったように思うのだが、それに現在は男湯、女湯と区別されているが42年前はそのような区別は無く、いわゆる混浴であった。
恐山へは当時2回訪れているのだが、うち1度は寺務所に2~3泊、宿泊させてもらった。
昔は質素な木造の建物で規模も小さかったが、当時としては珍しい水洗式便所であったことを思い出した。
と言っても現代的イメージとは異なり、ベニヤ板で仕切られた便所で床面を長方形に切り取っただけのもので、子どもらが言うところの“ボットン便所”である。
水洗と言うのは、通常“ボットン便所”の場合は肥溜め甕に便を溜めるのであるが、この寺務所の便所の場合、常に川のように水が流れており、それを水洗式と言ったのである。
流れた便がどのように処理されていたのかは知らないが、強酸性の宇曾利湖の水であれば、便が腐敗しバクテリアが発生するということも無いであろうから衛生的と言わないまでも処分しやすかったかもしれない。(これは余談)
at 09:47|Permalink│
September 20, 2007
下北半島・恐山へ
かれこれ40年と少し前になるが、下北半島の観光経済的発展の可能性について半島全域に亘る調査を敢行した。
予備調査を2回と夏期の本調査。
田名部町に本部を置き、大間町と脇野沢村に支所を置いて下北半島を3分割して調査にあたった。
現在は行政区の合併で『むつ市』が広くなっており、当時、脇野沢村や大畑町であった所が市域に入り、半島を一周する道路が出来ただけでなく内陸にまで道路が整備されるに至った。
鉄道も以前は青森~野辺地~むつ市(田名部経由)~大畑と~大湊まであった国鉄線のうち、田名部・大畑間が廃止となったり随分の変貌ぶりである。
実地調査完了の翌日、僅か40km先に北海道を眺める大間に集うた全員が北海道へ渡ってみたいと言ったので、大函フェリーに乗ったのが40年と少し前のこと。
フェリーが大間港に着岸してマイカーを下北半島に乗り入れた時、当時の思い出の数々が一度に脳裏に甦ってきた。
建物が変わり、道路が拡幅・舗装され、随所に変化を認めつつ、家内に当時のことを話し聞かせながら懐かしい思いで海岸沿いに車を走らせた。
風間浦を過ぎ、下風呂温泉では長谷旅館(屋号をカクチョウ)が現存するか探した。
この旅館は井上靖が小説『海峡』を執筆したことでも知られており、階段を下りた突き当たりの風呂場からは津軽海峡を隔てて恵山を望むことが出来たのである。
予備調査を兼ねて当地を巡っていた師走の30日(28日?)から正月2日まで長谷旅館の2階に滞在した。
この時にサメの料理を頂いたし、当地の正月・元日の料理を頂くことも出来、貴重な体験をしたのであった。
この長谷旅館も改築されていたように思うが、他に大きい旅館が出来ていたのには驚いた。
大畑から右折して薬研温泉から恐山への道路を走った。
この道路も綺麗に拡幅舗装されている。
私が調査を指揮していた当時、この道路は未舗装でヒバなどを伐採して運搬する林道であり、便数の少ない薬研温泉へのバスと木材運搬用のトラックが通るだけの道であり、確か行き止まりの道であったように記憶するが、現在は恐山と半島西側の海岸・佐井へも通じている。
現在は奥薬研温泉の施設も出来ているようだが、私達が訪れた当時は渓流の傍に沸くカモシカの湯という簡易な屋根を設けた共同浴場があるだけであった。
深い樹々に覆われた渓流沿いの道を走り、やがてクネクネと曲がる上り坂に入り、どんどん高度を上げて行く。
峠の部分に出たのだろう、頭上にあった樹陰が切れ、パッと一面が明るくなり、少し走ったところに白っぽい土地が広がった場所に出た。
恐山である。
ー続くー
予備調査を2回と夏期の本調査。
田名部町に本部を置き、大間町と脇野沢村に支所を置いて下北半島を3分割して調査にあたった。
現在は行政区の合併で『むつ市』が広くなっており、当時、脇野沢村や大畑町であった所が市域に入り、半島を一周する道路が出来ただけでなく内陸にまで道路が整備されるに至った。
鉄道も以前は青森~野辺地~むつ市(田名部経由)~大畑と~大湊まであった国鉄線のうち、田名部・大畑間が廃止となったり随分の変貌ぶりである。
実地調査完了の翌日、僅か40km先に北海道を眺める大間に集うた全員が北海道へ渡ってみたいと言ったので、大函フェリーに乗ったのが40年と少し前のこと。
フェリーが大間港に着岸してマイカーを下北半島に乗り入れた時、当時の思い出の数々が一度に脳裏に甦ってきた。
建物が変わり、道路が拡幅・舗装され、随所に変化を認めつつ、家内に当時のことを話し聞かせながら懐かしい思いで海岸沿いに車を走らせた。
風間浦を過ぎ、下風呂温泉では長谷旅館(屋号をカクチョウ)が現存するか探した。
この旅館は井上靖が小説『海峡』を執筆したことでも知られており、階段を下りた突き当たりの風呂場からは津軽海峡を隔てて恵山を望むことが出来たのである。
予備調査を兼ねて当地を巡っていた師走の30日(28日?)から正月2日まで長谷旅館の2階に滞在した。
この時にサメの料理を頂いたし、当地の正月・元日の料理を頂くことも出来、貴重な体験をしたのであった。
この長谷旅館も改築されていたように思うが、他に大きい旅館が出来ていたのには驚いた。
大畑から右折して薬研温泉から恐山への道路を走った。
この道路も綺麗に拡幅舗装されている。
私が調査を指揮していた当時、この道路は未舗装でヒバなどを伐採して運搬する林道であり、便数の少ない薬研温泉へのバスと木材運搬用のトラックが通るだけの道であり、確か行き止まりの道であったように記憶するが、現在は恐山と半島西側の海岸・佐井へも通じている。
現在は奥薬研温泉の施設も出来ているようだが、私達が訪れた当時は渓流の傍に沸くカモシカの湯という簡易な屋根を設けた共同浴場があるだけであった。
深い樹々に覆われた渓流沿いの道を走り、やがてクネクネと曲がる上り坂に入り、どんどん高度を上げて行く。
峠の部分に出たのだろう、頭上にあった樹陰が切れ、パッと一面が明るくなり、少し走ったところに白っぽい土地が広がった場所に出た。
恐山である。
ー続くー
at 12:20|Permalink│
September 19, 2007
函館から大間へ(津軽海峡をわたる)
函館で迎えた北海道周遊の旅、最後の朝。
私は『朝市』で良いのだが、ナマモノが余り好きではない家内はイマイチの様子。
ホテルの朝食も飽きたし・・・と言うことで、函館駅構内の端っこにある“@Cafe’st.”でコーヒーとパンでも食べようということになった。
ホテルの私達の部屋から函館駅のコーヒーショップを見下ろすことができ、午前6時からだったか、営業を始めているらしいのが透明なガラス張りの壁に並んだ席に客が座ることで分かっていたのだ。
コーヒーショップ“@Cafe’st.”には、透明なガラス壁に沿って取り付けたような長いカウンター状のテーブルに客が3人、スティール製の椅子に腰掛けているだけだった。
私達は4人用のテーブルに座り、モーニングセット(580円)を注文した。コーヒー、パン、野菜サラダ、バターとジャム、それに玉子増量サービスとか言って、ゆで玉子が2個も出てきた。
勿論、私は大喜びである。(朝から玉子を3個、ウッシッシである)
家内も野菜サラダが付いていてニコニコ。
「Y君なら可哀想やね。ここへは、きっとけえへんやろね。」
「そらそうや。朝市の方へ行ってウニ丼かイクラ丼を喰っとるやろう。」
コーヒーを追加(380円)して朝の食事を楽しんだ後、駅構内を巡ったが、土産物店が開いているだけで、2階のレストラン(2~3軒)の開店時刻は10時と遅い。
しかし、青函トンネルが福島町に入口を設けたとは言え吉岡は海底駅。
JR津軽海峡線から江差線で函館駅へ、そして函館駅を基点に函館本線が札幌その他の都市への重要な出発連絡駅であることに変わりはない。
列車の発着時刻が近付けば駅構内を動く人たちの数は多くなる。
私達は若干の土産物を買い入れてホテルに戻り、車でフェリー乗り場へ向かった。
フェリー乗り場は改装工事中で、私達が着いた時には既に駐車場が満杯で、乗船申し込みの窓口には沢山の人たちが列を作っていた。
夏休みの観光シーズンには予約を取っておかないと希望する便に乗るのは難しいらしい。
私達が本日乗船するのは、東日本フェリーの大間行き、午前9時出航の『ばあゆ』。
乗用車5m、車両12530円、2等、ドライバー・大人1名、旅客1170円、合計13700円が航送運賃である。
フェリーは便利ではあるが、いちいち車検証記載事項を申込書に書かねばならず、必ず乗れる保証、必ず運行する保証というものが鉄道に比べて低いのが難点である。
この日、大型トラックに乗用車などが結構積まれたが、単車の台数が多かった。それでもフェリーの車両積載甲板の後部は3分の1ばかり空いていた。ラッキーであった。
函館山を見ながら、フェリーは間も無く防波堤を出て函館港外へ航行して行く。
景色が遠ざかり見えなくなると、それまで沈んでいた気持ちが何故か大きく息を吸い込んだ時のように気持ちまでが膨らむのである。潮風をいっぱいに吸って。
みんながそうなのか、それとも私だけの感情なのか、これは誰にも訊ねたこともない。
私はロマンティスト?
「そんな、ええもんか。」なーーんて言葉が聞こえてきそう。
この日の航海は穏やかであった。
40kmの海上を規則正しい航跡を描いて大間崎を左舷に眺める所までやってきた。
写真右手が大間崎、中央左が弁天島と灯台。
所要1時間40分、定刻10時40分に大間フェリー港へ着いた
本州最北端、青森県・下北半島に上陸である。
この地は43年ぶりになるだろうか。
感慨深いものがある。
私は『朝市』で良いのだが、ナマモノが余り好きではない家内はイマイチの様子。
ホテルの朝食も飽きたし・・・と言うことで、函館駅構内の端っこにある“@Cafe’st.”でコーヒーとパンでも食べようということになった。
ホテルの私達の部屋から函館駅のコーヒーショップを見下ろすことができ、午前6時からだったか、営業を始めているらしいのが透明なガラス張りの壁に並んだ席に客が座ることで分かっていたのだ。
コーヒーショップ“@Cafe’st.”には、透明なガラス壁に沿って取り付けたような長いカウンター状のテーブルに客が3人、スティール製の椅子に腰掛けているだけだった。
私達は4人用のテーブルに座り、モーニングセット(580円)を注文した。コーヒー、パン、野菜サラダ、バターとジャム、それに玉子増量サービスとか言って、ゆで玉子が2個も出てきた。
勿論、私は大喜びである。(朝から玉子を3個、ウッシッシである)
家内も野菜サラダが付いていてニコニコ。
「Y君なら可哀想やね。ここへは、きっとけえへんやろね。」
「そらそうや。朝市の方へ行ってウニ丼かイクラ丼を喰っとるやろう。」
しかし、青函トンネルが福島町に入口を設けたとは言え吉岡は海底駅。
JR津軽海峡線から江差線で函館駅へ、そして函館駅を基点に函館本線が札幌その他の都市への重要な出発連絡駅であることに変わりはない。
列車の発着時刻が近付けば駅構内を動く人たちの数は多くなる。
私達は若干の土産物を買い入れてホテルに戻り、車でフェリー乗り場へ向かった。
フェリー乗り場は改装工事中で、私達が着いた時には既に駐車場が満杯で、乗船申し込みの窓口には沢山の人たちが列を作っていた。
夏休みの観光シーズンには予約を取っておかないと希望する便に乗るのは難しいらしい。
私達が本日乗船するのは、東日本フェリーの大間行き、午前9時出航の『ばあゆ』。
乗用車5m、車両12530円、2等、ドライバー・大人1名、旅客1170円、合計13700円が航送運賃である。
フェリーは便利ではあるが、いちいち車検証記載事項を申込書に書かねばならず、必ず乗れる保証、必ず運行する保証というものが鉄道に比べて低いのが難点である。
この日、大型トラックに乗用車などが結構積まれたが、単車の台数が多かった。それでもフェリーの車両積載甲板の後部は3分の1ばかり空いていた。ラッキーであった。
出航である。
朝であれ、夕刻や夜であれ、雨天であれ晴天であれ、船がボゥーボゥーと汽笛を鳴らして岸壁を離れていく時、しばし沈んだ心地になるのはどうしてなのだろうか。
遠ざかる景色を眺めている暫しの時間、いろいろなことが次々と脳裏に浮かび、しんみりした気分に陥ってしまう。
バルト海の34000tもの巨大船であっても、今回のフェリー『ばあゆ』1529tのフェリーでも同じ感情が込み上げる。
朝であれ、夕刻や夜であれ、雨天であれ晴天であれ、船がボゥーボゥーと汽笛を鳴らして岸壁を離れていく時、しばし沈んだ心地になるのはどうしてなのだろうか。
遠ざかる景色を眺めている暫しの時間、いろいろなことが次々と脳裏に浮かび、しんみりした気分に陥ってしまう。
バルト海の34000tもの巨大船であっても、今回のフェリー『ばあゆ』1529tのフェリーでも同じ感情が込み上げる。
函館山を見ながら、フェリーは間も無く防波堤を出て函館港外へ航行して行く。
景色が遠ざかり見えなくなると、それまで沈んでいた気持ちが何故か大きく息を吸い込んだ時のように気持ちまでが膨らむのである。潮風をいっぱいに吸って。
みんながそうなのか、それとも私だけの感情なのか、これは誰にも訊ねたこともない。
私はロマンティスト?
「そんな、ええもんか。」なーーんて言葉が聞こえてきそう。
この日の航海は穏やかであった。
40kmの海上を規則正しい航跡を描いて大間崎を左舷に眺める所までやってきた。
写真右手が大間崎、中央左が弁天島と灯台。
所要1時間40分、定刻10時40分に大間フェリー港へ着いた
本州最北端、青森県・下北半島に上陸である。
この地は43年ぶりになるだろうか。
感慨深いものがある。
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