November 2007

November 29, 2007

カラスミ(唐墨)考

日本ではコノワタなどと共に海産の珍味として有名なカラスミ(唐墨)。

少々高価ではあるが酒肴としてはナカナカのモノである。

私が初めてカラスミを口にしたのは、かれこれ50年近くも前のことであった。

そのモノが何であるか分からなかったために「塩羊羹」かと思ったものだった。

色合い、照り、練り具合、食感と、羊羹と間違えても仕方が無かったと今でも思っている。

二度目に食べたのは30数年前。台湾の友人から戴いたものだと義兄が酒席に出してくれたものであった。

大きい立派なカラスミでベッコウ色の見事なものであった。

下の写真は台湾産のカラスミ(烏魚子)で、長さは15センチだが厚みは1.5センチと、マズマズのモノである。
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マズマズというのは感覚的表現であり、全く個人的なことであって統一的基準があるわけではない。

私的な基準を敢えて挙げるなら、大きさ色合い照り具合形や下処理などの仕上げ具合といった見栄え、そして、僅かな塩味もっちりとした柔らかさ加減といった食感に加え、噛み砕く時に香るほのかな匂い(生臭さデハナイ)などを総合的に判断した“味わい”が基準で、同時にそれが評価でもある。

日本では長崎のカラスミが有名であるが、随分以前のモノは唐墨、つまり中国の墨のようであるという名前の謂れの如く、黒くて硬く小さなモノが多かったように記憶している。(このところ見かけるのは台湾産に近い品質のモノが多い)

最近はカラスミも一般的になって知っている人も多くなったが、簡単に言えばボラの卵巣を塩漬けにしたものを天日干しにしたものである。

ボラは成長すると一抱えほどの大きさになるが、2~30センチ程度の頃はイナとかイナダと呼ばれ、海だけでなく淡水域の河川にもやってくる。

成長すれば名前が変わるので出世魚とされ、白身魚で私が子どもの頃は秋によく食べられていたように思う。

新淀川の橋の上からボラを釣っている人をよく見かけたこともある。ボラの吸い込み針と言って、釣鐘のような形に針金で細工をしたものに何本かの針とエサを詰め込んだものをテグスの先に付けて釣るのである。

しかし、ボラはウロコが大きく、口先を正面から見ると頭が扁平、つまりボラの体の断面は逆三角形、これはまるで毒蛇の頭を見るが如きで私はこの魚が嫌いで食べない。

ところがカラスミは、このボラの卵巣なのである。

下の写真もカラスミではあるが、イタリア南部サルデーニャ産のモノをナポリで仕入れたのである。
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イタリアではカラスミのことをボッタルガ(Bottarga)と言うが、別にボッタクられたという感じではなく、味や柔らかさといった干し加減はマズマズであった。

だが、写真でも分かるように、色合いは許すとしても血筋を取らず、成型もせず、おまけに卵巣が小振りなため見た目に貧弱で仕事に丁寧さを感じられない代物である。

写真の焦点距離や露光を同じくして撮影したので、上下の写真を比較すれば見た目の違いがはっきりすると思う。

イタリアでの用途はパスタやサラダなどに下ろし金で下ろし、振りかけて食べることが多いので見栄えは関係無いのかもしれない。

私は2~3mmの厚さに切って食べるのだが、台湾では卵巣の薄皮をむいて、紹興酒を塗り、サッと遠火であぶって表面が黄色くなったところで、同じ程度の大きさに切った大根と共に食べるのが一般的である。

これは一層香ばしくて美味しいものではあるが、私はそのままスライスした状態で食べるのを好みとしている。

オーストラリアでもカラスミを食べたが、彼の地のモノはベッコウ色には程遠い黄色っぽいもので、大きさも貧弱この上ないような代物で味も良いとは言えなかった。

生産地を上に挙げた4つに限るならば、全ての点において最も上質なカラスミは台湾産であり、次に日本産、3番目がイタリア産で4番目がオーストラリア産ということになる。

ボラは世界中の海(温暖海)と川を行き来し、晩秋から初冬に産卵期を迎えて海を産卵場所にしているため、台湾でも新物のカラスミは1月、2月に生産されるものが多く、大きい立派なモノは18cmから20cmというものもある。

四国・高松では古くからサワラのカラスミを作っているのでボラに限らず他の魚の卵巣でも作れるはずである。

京都の料理屋の板長が随分以前からボラのカラスミを作っていたが、最近身近な寿司屋や居酒屋などの主も作っており、それがなかなか立派なモノが仕上がっているのに感心しているのである。

ポイントは下処理で綺麗にすること、塩漬けにして水分を取る・・・ここの塩梅加減と、後は天日干しやろなあ、うまいこと色が出るように、と、この辺りを気付けたら何とかなるかと思うけど、ボラの卵巣の市場での価格を訊ねたら結構高い。

やっぱり自分で作るよりも台湾へ遊びに行ったついでに買って帰る方が安いというのんが現段階での結論。

が、いっぺん作ってみたいものである。


at 07:02|Permalink

November 27, 2007

イタリア旅行 ? ヴェネツィア 5

サン・マルコ寺院の正面に向って『凹』の字型にヴェネツィア行政長官府の建物が建ち、それらの建物に囲まれた石畳敷きの場所がサン・マルコ広場である。

下の写真右側の建物が行政長官府新館の建物で、これと向かい合う位置に行政長官府旧館がある。

正面がサン・マルコ寺院で右手の塔が鐘楼、写真では写っていないが左手に時計塔がある。
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6枚目の写真でサン・マルコ広場の夜景を掲載したが行政長官府の新旧の建物は大理石が用いられ、広場に面した1階は大理石の柱が建ち並ぶアーケードになっており、多くの商店が連なっている。

ヴェネツィアン・グラスの店をはじめ、宝石、衣類、土産物、バール、カフェの店が並び、建物裏側の街路(横丁)にもバール、リストランテなどが小さな店舗を構えている。

この回廊のアーケードには創業1720年というカフェ・フローリアン(Caffe Florian)があり、店の前では5人編成の楽団がワルツなどクラシカルな曲を奏で、店内の狭い長椅子はコーヒーを飲む観光客で詰まり回廊も人々で溢れかえっていた。

1720年頃の日本といえば、将軍・徳川吉宗や江戸町奉行・大岡越前守忠相の時代であるから、話の種程度にカフェに入っても良かったのだが、混雑する店に並んで待って入るなどということが私は嫌いなので脇見だけで通り過ぎることにした。

ヴェネツィアでは何と言ってもゴンドラに乗ってみなくてはと、家内とも意見が一致していたので楽しみに乗り場に向かった。

ゴンドラへの乗り場は下の写真のような狭い運河の一角にあった。

帰ってきたゴンドラの船頭の歌声が狭い運河に建ち並ぶ建物の谷間に反響して耳に心地よかった。
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私達が乗ったゴンドラの船頭は、若い、いかにもイタリアの兄ちゃんといった感じであり、建物の谷間を多少左右に揺れながらも静かにスイスーイと進んでいった。

ゴンドラの後部甲板?上に船頭、船の真ん中の部分の座席に6人は乗れるのだろうか、私達はアベックで2組の4人が乗っていた。

船頭は立ったままでゴンドラの右舷に固定した櫓を漕ぐ。

日本の田舟や渡し舟などに見られる棹で船を進めるのではなく、一本の櫓で漕ぎ進める方法なので、櫓を漕ぐたびに船首が左右に振れて横に揺れるのではないかと思っていたのだが、ゴンドラは前へ前へグイグイと推し進む感じで動くのである。

きっと櫓にワケがあるのだろうが、これについて私は知らないがゴンドラに乗ってみてこそ違いも分かることである。
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時に水上タクシーと行き交ったり、ゴンドラ同士が行き交ったりするが、船頭達の操船技術は大したもので衝突することもなく上手に船を進めていた。

ゴンドラの周遊コースは短時間コースも長い時間のコースもほとんど裏道のような建物に挟まれた細い運河を進むのだが、いずれの周遊コースであっても必ず一度は通るのが下の写真の大運河(Canal Grande)である。
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上の写真の橋は大運河に架かるリアルト橋(Ponte di Rialto)である。

大運河にはスカルツィ橋(Ponte Scalzi)、リアルト橋、アカデミア橋(Ponte Accademia)の3つの橋が架かっているだけで他は渡し舟が対岸とを結んでいる。

元々は木製の橋であったが、16世紀末に現在の大理石製の橋に架け変えられ、3つの橋の中では最も大きくヴェネツィアの橋を代表するものである。

裏通りのような小さな運河にもそれぞれの町区画を結ぶ橋が架けられているが、下の写真のように、それらは人々が歩いて渡るだけの小さなものである。
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ゴンドラでの水の都巡りも終点に近付いてきたが、私達の船頭は歌を聞かせてはくれなかった。

別に船頭の歌を聞くためにゴンドラに乗ったのではないが、昔から水の都ヴェニスと言えばゴンドラと船頭の歌をイメージしていたものだけに、これは拍子抜けのことであった。

加えて言えば、ゴンドラの下船場に篭が置いてあり、船頭へのチップを入れていけという次第。

チップとは心付け。

つまり余分な仕事をしてもらったり、相手の親切さなどに感謝する気持ちを金銭に換算して手渡すもの・・・と私は理解しているが、ゴンドラ乗船料は支払っており、この場合の乗船料とはゴンドラに乗って所定のコースを巡って下船するまでの料金である。

ゴンドラ乗船中、特別に頼んだ用事も無いのにチップの要求とは・・・

2ユーロ程度のことでゴチャゴチャ言いたくはないが、期待していた歌のひとつも聴けず、私達の乗ったゴンドラに関しては40点で不可。

観光客相手でスレてきているのではないだろうか。
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夜の闇が迫り、雨上がりのサン・マルコ広場はアーケードの光で照らされ、寺院の装飾が煌きを増していた。

しかし随分寒く、温かいものでもと裏町のバール(Bar)に入ってエスプレッソを飲んだ。

この店はハムやソーセージのサンドウィッチを得意とするのか、バーの上のショーケースには幾種類かのものが並べられていた。

耳を落とした大きいサイズの三角形の食パンにタップリのハムや野菜を挟んだサンドウィッチが2組、1.5ユーロだと。

1ユーロが160円として240円。日本のコンビニよりも遥かに安い内容のものであったが、夕食にサンドウィッチでは・・・ムムム

今夜のホテルはサン・ザッカリーアの船着場からジュデッカ島に渡らねばならない。

ヴェネツィアの夜を楽しむならば本島のホテルが安くて良いであろうし何より数が多いが、のんびり寛ぐならばリド島のウェスティンだとかジュデッカ島のヒルトンが良いと思う。


at 05:44|Permalink

November 26, 2007

イタリア旅行 ? ヴェネツィア 4

前ページの騎馬銅像を少し進むとパリア橋(Ponte Paglia)を渡るのだが、勿論運河に架かっている橋である。

この写真撮影の場所はパリア橋上で、右手が新牢獄(Prigioni)、英語のPrisonに似ているが、この新牢獄と向かい合う左の建物がドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)で、この間の運河に架かる背の高い橋が嘆きの橋(Ponte dei Sospiri)と呼ばれているものである。・・・ブレた写真しか無かった。
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つまり、ドゥカーレ宮殿で裁きを受けて有罪になった者が、この橋を渡って牢獄に向かう際、宮殿と新牢獄の建物に挟まれた僅かな景色を小さな窓から垣間見て、二度とこの橋を渡って戻れないことを嘆き溜息を漏らしたことから嘆きの橋と名付けられたそうな。

1755年、好色で有名な男ジャコモ・カサノヴァ(Giacomo Girolamo Casanova)が妖術に関心があるということから宗教裁判所で有罪を宣告され、ドゥカーレ宮殿に隣接した’鉛の監獄’(piombi)に収監された。

しかし、カサノヴァは警戒厳重な牢獄から脱獄に成功してパリに逃亡するが、この牢獄が写真の新牢獄であり、カサノヴァ脱獄以後脱獄を成功させた者は一人もいないらしい。
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上の写真の右手がドゥカーレ宮殿、中央は行政長官府(Piocuratie)の建物、遠方のドームのある建物は1687年に完成したサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会(Basilica di Santa Maria della Salute)で1630年に大流行したペストの終息に感謝して建てられたものらしい。

8角形の建物に円形のドームを置いた形は遠目でもバロック建築の特徴と美しさを感じることの出来るものである。


下の写真はドゥカーレ宮殿に入り、その中庭からサン・マルコ寺院(Basilica di San Marco)を眺めたものである。
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ドゥカーレ宮殿はヴェネツィア総督の邸宅と役所を兼ねたものとして9世紀に建設され、以後14~15世紀に改築の手が加えられたものだが、大理石と木材による建物は今も重厚さを伝えている。
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            写真撮影が禁止されていたのでカタログより転載
上の元老院の間では100人だか1000人だか、直接参加で政治が論議されていたらしい。

また世界最大の油絵『天国』が壁面に描かれている。

下の写真はサン・マルコ寺院の正面で、右手に少し見えているのがドゥカーレ宮殿である。

サン・マルコ寺院の前身は828年にアレキサンドリアから聖マルコの遺骨を運んできたことを記念して建てられたものが最初らしいが、その後現在の場所に移され、建物も何度か建て替えられ、1090年に完成した後も何度かの改修を経て現在の建物になっているらしい。

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一見、ビザンチン様式の建築に見えるが、ゴシック的な要素もあり、多分改修される毎に時代の要素が加味されていったものではないかと推量したが、実のところは不明。

下の写真はサン・マルコ寺院の正面部分を拡大したもので、守護聖人マルコと福音書を象徴する『聖書を持って翼を広げる金のライオン』が飾られている。

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ドームの中は金箔が施され目映いばかりに輝き、細かなモザイク画など見事な装飾である。


at 15:20|Permalink

イタリア旅行 ? ヴェネツィア 3

サン・ザッカリーアの船着場に上陸し、スキアヴォーニ海岸通りを西へ少し歩いたところに下の写真のような騎馬銅像がある。
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実は雨がひどくなったので確かめなかったのだが、その雄姿はヴィットリオ・エマヌエーレ2世ではないかと思ったのだ。

彼の名前はミラノのヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアとして名前を記憶しているし、ドゥオモ広場には彼の騎馬像があった。

下の写真はミラノ・ドゥオモ広場のヴィットリオ・エマヌエーレ2世の騎馬像である。97458392.jpg

下の写真はヴェローナのブラ広場のヴィットリオ・エマヌエーレ2世の騎馬像である。
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それぞれ少しずつ異なるが、ミラノとヴェローナの2つの騎馬像を見てきているので、最初のヴェネツィアの騎馬像もヴィットリオ・エマヌエーレ2世の乗馬姿であると思うのだが、これの台座を見てこなかったために確証を持てないでいるのである。

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II di Savoia)は1849年にサルデーニャ王国における最後の国王となり、フランスのナポレオン3世の支持を受けてオーストリア帝国を退けイタリア統一に成功した。

1870年には教皇領を併合し、都をローマに定めイタリア統一を成し遂げたイタリア王国の初代国王である。

そうした経歴から各地に顕彰銅像があっても不思議では無く、ヴェネツィアの騎馬像をヴィットリオ・エマヌエーレ2世と推測するのもあながち懸け離れた推量であるとも言えないとは思っているのだが、何にしても『後悔先に立たず』、大事な俚諺を忘れていた。


at 11:57|Permalink

イタリア旅行 ? ヴェネツィア 2

バスの終点・ローマ広場やサン・マルコ駐車場の一画(結構広い)を取り囲むように大運河と川があり、船着場も何箇所かあった。

ローマ広場から東へ運河を越えるとパパドーポリ庭園があり、ホテル・ソフィテル・ヴェネツィアがある。
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本土からバスや乗用車で通勤してくる人たちのうち水上バス(ヴァポレットVaporetto)や水上タクシー(モトスカーフィMotoscafi)を利用せずに職場へ向かう人たちは上の写真のパパドーポリ庭園を通り、更に運河に架かる橋を渡って行くため、朝の通勤時には多くの人たちがこの橋を渡るのである。

下の写真のように水上タクシーで職場に向かう人たちも多く、朝の運河はボートのエンジン音が賑わしい。

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干潟の土地(Lagoon)が開発された歴史は6世紀に遡る。

330年、ビュザンティオンに遷都してコンスタンティノポリス(現・トルコのイスタンブール)と改称したコンスタンティヌス1世(大帝)が亡くなって以後、北方のゲルマン人の侵入は激化、ローマ帝国の支配力はどんどん弱まっていった。

395年、テオドシウス1世が亡くなる際、長男のアルカディウスに東、次男のホノリウスに西を治めるように帝国を東西に分けた。

476年、ゲルマン人の侵入は更に激化し、西ローマ帝国はロムルス・アウグストゥルス帝を最後に滅亡した。

ヴェネツィアにもゲルマン民族やフン族などの侵入が激しかったため。本土にいた人たちは干潟や島嶼に逃れたが、最初に移り住んだのがトルチェッロ島であったと言われている。

その後、現在のヴェネツィア本島に移住してきたとされているが、ヴェネツィアの行政・観光の中心は歴史的にも大運河、ジュデッカ運河、サン・マルコ運河の3つ運河の交点とも言えるサン・マルコやサン・ザッカリーアの船着場を持つサン・マルコ広場であろう。
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私はローマ広場の船着場から水上タクシーに乗り、ジュデッカ運河を通ってサン・ザッカリーアの船着場を目指したが、途中ジュデッカ島にあるイル・レデントーレ教会(上の写真中央Chiesa il Redentore)を見ることが出来た。

1577年に着工して1592年に完成した後期ルネサンスの建造物であり、古典建築の様相を踏まえた建物であるということであった。

船上よりの眺望だけであったが、全体としてドッシリと落ち着いた感じのする建物で、ドームの素敵な教会であった。

ジュデッカ運河とは言うものの写真の通り’海峡’のような広さなのである。

このジュデッカ島を過ぎるとサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂 (Basilica di San Giorgio Maggiore)の建物群が見えてくるが、この島には教会の他、ヴェルデ劇場があるらしいが、島には渡らなかったので詳しくは知らない。

聖堂は1611年、鐘楼は18世紀末に完成し、鐘楼にはエレベーターで昇ることが出来て・サン・マルコの鐘楼や寺院などの景色が素晴らしいとのことであったから、次回?訪れる機会があれば・・・果たしてどうなるか。

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ところで教会の名前がサン・ジョルジョ・マッジョーレとあるが、『サン・ジョルジョ』については’イタリア旅行記?ヴェローナ5’で少し触れた。

ジョルジョ(Giorgio)はイタリア読みで英語でのジョージ(George)にあたり、ドイツではゲオルク(Georg)、フランスではジョルジュ(Georges)であると。

サン・ジョルジョ(San・Giorgio)=ゲオルギウス(Georgius)は、キリスト教の聖人の一人で『黄金伝説』でのドラゴン退治で有名である。

イングランドやモスクワの守護聖人でもある。

ちなみにヴェネツィアの守護聖人は新約聖書の「マルコによる福音書」の著者マルコ(San Marco Evangelista)であり、英語的には福音者マーク( Mark the Evangelist)となる。

ヴェネチアの商人で『東方見聞録』(La Description du Monde)のマルコ・ポーロ(Marco Polo)、アメリカの小説家で『トム・ソーヤーの冒険』(The Adventures of Tom Sawyer)や『ハックルベリー・フィンの冒険』(Adventures of Huckleberry Finn)を書いたマーク・トウェイン(Mark Twain)らも『Marco』の名前を戴いている。

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上はヴェネツィアの市章である。

マルコやマークといった名前は、以前にも書いたクリスチャンネームと関わるものであり、ヴェネツィアの市章は聖マルコを指す聖書を持った翼のある金のライオンで、次ページで書くつもりのサン・マルコ大聖堂などにも翼を持つライオン像を認めることが出来る。



at 06:32|Permalink
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