December 2007
December 31, 2007
イタリア旅行 ? フィレンツェ 8
フィレンツェの町も丹念に歩いて回ると随分疲れる。
決められた平坦な区間の道路を歩くのは1日に40km~50km程度は今でも可能である(と、思う)。
思うだけであって、実際にはどうであろうか・・・自宅にいる時はあまり歩いてはいないが、旅行に出ると1日に4万歩程度は歩いている。通常、ゆっくりしたペースで歩く時の歩幅が45cm強程度なので18km程度。1日に40kmを歩くことはできるが、明くる日は足に痛みを覚えているかもしれないなあ。
平坦な道を目標地点に向かって、ただ歩くのと、美術館や博物館などで作品を見ながら歩くのとでは同じ歩数を歩いても疲れようが違うということをいつも感じているが、フィレンツェの町も同じような感じを覚えた。
ウフィッツィ美術館だけでも廊下に面している部屋を順に巡り、廊下の彫刻を見て歩くだけでも随分の時間をかけて歩いた。
更に今回は個人の見学では入れないヴァサーリの回廊、つまりウフィッツィ美術館の第三廊下のドアからポンテ・ヴェッキオを渡りピッティ宮まで延々と続く廊下と美術品の数々を見学するために団体ツアーに合流して巡ることにしたのである。
下の写真はポンテ・ヴェッキオのたもとから橋の一般通路と右上のヴァサーリの回廊を写したものである。
このヴァサーリの回廊の見学にはウフィッツィ美術館から解説と警備を兼ねた者が2人付き、見学団体に1人付くイタリア人ガイドもいるので解説もキッチリされるが警備もキッチリとなかなか厳重なものであった。
見学は一方通行であり、出口がピッティ宮になっているのだが、出てきた時には疲れており綺麗なボーボリ庭園が広がっているのに、とても庭園を歩いて巡ってみようという気にはならなかった。
全てを紹介できないけれど旧市街の中心地域(フィレンツェ歴史地区)だけでも美術館、博物館、教会など巡る価値ある所が沢山ある。
残り少しだけ紹介しておこう。
下の写真は1294年から90年もの年月を費やして建設されたというサンタ・クローチェ教会だが、この教会も色大理石が建材に用いられており素晴らしく、また重厚な感じを受けるネオ・ゴシック様式の建物である。
この教会にはミケランジェロ、ガリレオらも埋葬されており、奥の方にはパッツィ家礼拝堂がある。
パッツィ家もフィレンツェに本店を置く銀行であり、メディチ銀行とは熾烈に競合する関係にあったが、当時フィレンツェの影響下にあったピサに対するローマ教皇の姿勢やパッツィ家と通じていた当時の教皇・シクストゥス4世が教皇庁の金融部門からメディチ銀行を外してパッツィ銀行に移したことなどからメディチ家、パッツィ家、それにローマ教皇庁を巻き込む対立関係が激化した。
その結果、1478年に「パッツィ家の陰謀」と呼ばれる暗殺襲撃事件が起き、メディチ家の当主・ロレンツォ・イル・マニーフィコは手傷を負うも難を逃れたものの弟のジュリアーノが殺害されてしまった。
この暗殺襲撃に加わった者達は捕らえられ即刻処刑、その後、パッツィ家の当主をはじめ100人近くが捕らえられて死刑に処せられた。
パッツィ家とつるんでいたローマ教皇・シクストゥス4世は激怒し、フィレンツェを破門にし、自らはナポリ王国と同盟を結んでフィレンツェのメディチ(ロレンツォに対して宣戦布告をした。(パッツィ戦争)
これに対しロレンツォはナポリ王フェルディナンド1世と和平を結ぶことに成功しメディチ家の支配体制が安泰する結果となった。
このサンタ・クローチェ教会もフィレンツェの歴史とは深いつながりを持っているのである。
また、この教会はフランチェスコ派の教会だが、ロレンツォの死後、メディチ家の独裁的支配体制を批判してメディチ家をフィレンツェから追放し、代わって支配者となったジロラモ・サヴォナローラはドミニコ会の修道士であり、彼が民衆の支持を失って魔女裁判の如く絞首刑に処された後に火刑にまで処され、さらに遺骨はアルノ川に捨てられるという状況に追いやったのがフランチェスコ会であったことを思い起こすと何やら妙な感じがするのである。
町を歩いていると写真のような古い建物が多いが、それらの建物が今も猶現役として用いられていることに驚きを感じざるを得ない。
これらの建物が石造で、日本の建物が木造であるという建材が異なるというだけの理由ではないことが町を歩いていると分かる。
こうした建造物が点在している所もないではないが、多くの場合、面として連なり残っているのである。
下はサンタマリアノヴェッラ教会
ドミニコ会派の教会で800年代に建てられた礼拝堂に代えて1211年に新しく建てられたらしく、聞くところによれば、当時は修道僧たちが薬草を栽培して薬剤を調合していたのが現代に受け継がれて世界最古の薬局と言われているらしい。
私は知らないのだが、石鹸など、品質が優れていることで有名らしい。
下の写真は日がくれてからのものであるがサンタ・マリア・ノヴェッラ教会である。
この教会も写真のように建物の横から見ればゴシック様式のようにも思えるが、正面・ファザードは緑や白に黒の大理石を組み合わせたもので丸い円や正方形が組み合わされている形を考え合わせるとロマネスク様式になるのだろうか。フィレンツェ中央駅の直ぐ前にある。
決められた平坦な区間の道路を歩くのは1日に40km~50km程度は今でも可能である(と、思う)。
思うだけであって、実際にはどうであろうか・・・自宅にいる時はあまり歩いてはいないが、旅行に出ると1日に4万歩程度は歩いている。通常、ゆっくりしたペースで歩く時の歩幅が45cm強程度なので18km程度。1日に40kmを歩くことはできるが、明くる日は足に痛みを覚えているかもしれないなあ。
平坦な道を目標地点に向かって、ただ歩くのと、美術館や博物館などで作品を見ながら歩くのとでは同じ歩数を歩いても疲れようが違うということをいつも感じているが、フィレンツェの町も同じような感じを覚えた。
ウフィッツィ美術館だけでも廊下に面している部屋を順に巡り、廊下の彫刻を見て歩くだけでも随分の時間をかけて歩いた。
更に今回は個人の見学では入れないヴァサーリの回廊、つまりウフィッツィ美術館の第三廊下のドアからポンテ・ヴェッキオを渡りピッティ宮まで延々と続く廊下と美術品の数々を見学するために団体ツアーに合流して巡ることにしたのである。
下の写真はポンテ・ヴェッキオのたもとから橋の一般通路と右上のヴァサーリの回廊を写したものである。
このヴァサーリの回廊の見学にはウフィッツィ美術館から解説と警備を兼ねた者が2人付き、見学団体に1人付くイタリア人ガイドもいるので解説もキッチリされるが警備もキッチリとなかなか厳重なものであった。
見学は一方通行であり、出口がピッティ宮になっているのだが、出てきた時には疲れており綺麗なボーボリ庭園が広がっているのに、とても庭園を歩いて巡ってみようという気にはならなかった。
全てを紹介できないけれど旧市街の中心地域(フィレンツェ歴史地区)だけでも美術館、博物館、教会など巡る価値ある所が沢山ある。
残り少しだけ紹介しておこう。
下の写真は1294年から90年もの年月を費やして建設されたというサンタ・クローチェ教会だが、この教会も色大理石が建材に用いられており素晴らしく、また重厚な感じを受けるネオ・ゴシック様式の建物である。
この教会にはミケランジェロ、ガリレオらも埋葬されており、奥の方にはパッツィ家礼拝堂がある。
パッツィ家もフィレンツェに本店を置く銀行であり、メディチ銀行とは熾烈に競合する関係にあったが、当時フィレンツェの影響下にあったピサに対するローマ教皇の姿勢やパッツィ家と通じていた当時の教皇・シクストゥス4世が教皇庁の金融部門からメディチ銀行を外してパッツィ銀行に移したことなどからメディチ家、パッツィ家、それにローマ教皇庁を巻き込む対立関係が激化した。
その結果、1478年に「パッツィ家の陰謀」と呼ばれる暗殺襲撃事件が起き、メディチ家の当主・ロレンツォ・イル・マニーフィコは手傷を負うも難を逃れたものの弟のジュリアーノが殺害されてしまった。
この暗殺襲撃に加わった者達は捕らえられ即刻処刑、その後、パッツィ家の当主をはじめ100人近くが捕らえられて死刑に処せられた。
パッツィ家とつるんでいたローマ教皇・シクストゥス4世は激怒し、フィレンツェを破門にし、自らはナポリ王国と同盟を結んでフィレンツェのメディチ(ロレンツォに対して宣戦布告をした。(パッツィ戦争)
これに対しロレンツォはナポリ王フェルディナンド1世と和平を結ぶことに成功しメディチ家の支配体制が安泰する結果となった。
このサンタ・クローチェ教会もフィレンツェの歴史とは深いつながりを持っているのである。
また、この教会はフランチェスコ派の教会だが、ロレンツォの死後、メディチ家の独裁的支配体制を批判してメディチ家をフィレンツェから追放し、代わって支配者となったジロラモ・サヴォナローラはドミニコ会の修道士であり、彼が民衆の支持を失って魔女裁判の如く絞首刑に処された後に火刑にまで処され、さらに遺骨はアルノ川に捨てられるという状況に追いやったのがフランチェスコ会であったことを思い起こすと何やら妙な感じがするのである。
町を歩いていると写真のような古い建物が多いが、それらの建物が今も猶現役として用いられていることに驚きを感じざるを得ない。
これらの建物が石造で、日本の建物が木造であるという建材が異なるというだけの理由ではないことが町を歩いていると分かる。
こうした建造物が点在している所もないではないが、多くの場合、面として連なり残っているのである。
下はサンタマリアノヴェッラ教会
ドミニコ会派の教会で800年代に建てられた礼拝堂に代えて1211年に新しく建てられたらしく、聞くところによれば、当時は修道僧たちが薬草を栽培して薬剤を調合していたのが現代に受け継がれて世界最古の薬局と言われているらしい。
私は知らないのだが、石鹸など、品質が優れていることで有名らしい。
下の写真は日がくれてからのものであるがサンタ・マリア・ノヴェッラ教会である。
この教会も写真のように建物の横から見ればゴシック様式のようにも思えるが、正面・ファザードは緑や白に黒の大理石を組み合わせたもので丸い円や正方形が組み合わされている形を考え合わせるとロマネスク様式になるのだろうか。フィレンツェ中央駅の直ぐ前にある。
at 15:14|Permalink│
December 30, 2007
イタリア旅行 ? フィレンツェ 7
フィレンツェの歴史とメディチ家の歴史について少しばかり触れながら本ページを更新してきた。
13世紀に入ってフィレンツェは都市国家の1つとして自治を確立していくことになるのだが、その執政の中心となったのがシニョリーア広場(Piazza della Signoria)に面して建つヴェッキオ宮(Palazzo Vecchio)である。
ちなみにシニョリーア(Signoria)というのは『統治』とか『執政』といった意味の言葉で、『統治者』、『執政官』という意味の言葉がシニョーレ(Signore)らしいが、イタリアの歴史に関する書物では『僭主』(古代ギリシャにおける貴族と平民の抗争を利用して政権を奪う者を僭主<tyrannos>)が支配する政治体制を指しているので、13世紀後半頃からヨーロッパで見られる『領主』に近い意味合いの言葉かと私は理解している。
ヴェッキオ宮は写真の通りゴシック様式の堅牢な石造りの建物であり、100m近い(94mらしい)塔とともに建っており、現在も一部は市庁舎として使われている。
右がヴェッキオ宮で左側がゴンディ宮(Palazzo Gondi)である。
石畳が敷かれたシニョリーア広場は、白く大きい大理石のネプチューンが立つ大きい噴水のある結構広い公共地である。
『白の巨人』と呼ばれる大理石のネプチューン像の噴水近くに、1498年、ドミニコ会の修道士・ジロラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)が、彼の弟子たちと共に首を吊るされ、その後焼かれた所であると碑文に記されている。
ジロラモ・サヴォナローラは、当時フィレンツェが実質的にメディチ家の独裁的支配体制にあったことなどを批判し、人々に神に対する純然とした信仰に回帰するよう訴えた初期の宗教改革者の一人である。
その後、ジロラモ・サヴォナローラは一時期フィレンツェの支配者として政治を行う事になるが、彼の批判はローマ教皇の奢侈な生活にまで及び、厳格で質素な生活を強制する施政方針にはフィレンツェ市民の多くが反発、更にドミニコ会に対立するフランチェスコ会からの挑戦を受けて失墜。暴徒と化した民衆によって裁判にかけられ、絞首刑の後、火刑にまで処され、遺骨はアルノ川に捨てられるという魔女裁判のような扱いを受けた。
このあたりの歴史的流れは別途書き記すことにする。
下はウフィッツィ美術館の第二廊下からヴェッキオ宮やドゥオモを眺めたものである。
右手が第一廊下側で、1階に美術館の入口がある。
館内は撮影禁止である。(但し、第二廊下で下の写真を撮影した場所はOKだった。)
上はポンテ・ヴェッキオ。
第二次世界大戦の1944年、アルノ川に架かる橋はこのポンテ・ヴェッキオを除いて全て破壊されたらしい。
ポンテ・ヴェッキオは政庁であるヴェッキオ宮からメディチの事務所であるウフィッツィ(現・美術館)から川端を通り、ポンテ・ヴェッキオを渡り、サンタ・フェリチタ教会から更にピッティ宮まで延々と伸びる回廊で結ばれている。
この長い回廊の両壁面には膨大な数の肖像画を中心に展示されており、メディチ家の人たちは住まいから事務所や政庁へ行くのにも、教会のミサに参列するのにも傘の必要も無く、部外の誰とも会うことなく行き来が出来たのである。
ポンテ・ヴェッキオは写真の通り、通常の橋の両側に小さな商店の建物が連なり、その上(3階相当部分)を回廊が通っている珍しい橋である。
13世紀に入ってフィレンツェは都市国家の1つとして自治を確立していくことになるのだが、その執政の中心となったのがシニョリーア広場(Piazza della Signoria)に面して建つヴェッキオ宮(Palazzo Vecchio)である。
ちなみにシニョリーア(Signoria)というのは『統治』とか『執政』といった意味の言葉で、『統治者』、『執政官』という意味の言葉がシニョーレ(Signore)らしいが、イタリアの歴史に関する書物では『僭主』(古代ギリシャにおける貴族と平民の抗争を利用して政権を奪う者を僭主<tyrannos>)が支配する政治体制を指しているので、13世紀後半頃からヨーロッパで見られる『領主』に近い意味合いの言葉かと私は理解している。
ヴェッキオ宮は写真の通りゴシック様式の堅牢な石造りの建物であり、100m近い(94mらしい)塔とともに建っており、現在も一部は市庁舎として使われている。
右がヴェッキオ宮で左側がゴンディ宮(Palazzo Gondi)である。
石畳が敷かれたシニョリーア広場は、白く大きい大理石のネプチューンが立つ大きい噴水のある結構広い公共地である。
『白の巨人』と呼ばれる大理石のネプチューン像の噴水近くに、1498年、ドミニコ会の修道士・ジロラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)が、彼の弟子たちと共に首を吊るされ、その後焼かれた所であると碑文に記されている。
ジロラモ・サヴォナローラは、当時フィレンツェが実質的にメディチ家の独裁的支配体制にあったことなどを批判し、人々に神に対する純然とした信仰に回帰するよう訴えた初期の宗教改革者の一人である。
その後、ジロラモ・サヴォナローラは一時期フィレンツェの支配者として政治を行う事になるが、彼の批判はローマ教皇の奢侈な生活にまで及び、厳格で質素な生活を強制する施政方針にはフィレンツェ市民の多くが反発、更にドミニコ会に対立するフランチェスコ会からの挑戦を受けて失墜。暴徒と化した民衆によって裁判にかけられ、絞首刑の後、火刑にまで処され、遺骨はアルノ川に捨てられるという魔女裁判のような扱いを受けた。
このあたりの歴史的流れは別途書き記すことにする。
下はウフィッツィ美術館の第二廊下からヴェッキオ宮やドゥオモを眺めたものである。
右手が第一廊下側で、1階に美術館の入口がある。
館内は撮影禁止である。(但し、第二廊下で下の写真を撮影した場所はOKだった。)
上はポンテ・ヴェッキオ。
第二次世界大戦の1944年、アルノ川に架かる橋はこのポンテ・ヴェッキオを除いて全て破壊されたらしい。
ポンテ・ヴェッキオは政庁であるヴェッキオ宮からメディチの事務所であるウフィッツィ(現・美術館)から川端を通り、ポンテ・ヴェッキオを渡り、サンタ・フェリチタ教会から更にピッティ宮まで延々と伸びる回廊で結ばれている。
この長い回廊の両壁面には膨大な数の肖像画を中心に展示されており、メディチ家の人たちは住まいから事務所や政庁へ行くのにも、教会のミサに参列するのにも傘の必要も無く、部外の誰とも会うことなく行き来が出来たのである。
ポンテ・ヴェッキオは写真の通り、通常の橋の両側に小さな商店の建物が連なり、その上(3階相当部分)を回廊が通っている珍しい橋である。
at 16:10|Permalink│
December 26, 2007
法善寺『斛(マスメ)』・・・ショット・バー
昔は随分あったショット・バーであるが、ここ20年ばかりの間にキタもミナミもどんどん減ってきた。
法善寺『斛(マスメ)』は開店54年目と、大阪では歴史を誇るショット・バーの1軒である。
ショット・バーの盛衰については別途書くとして、『斛(マスメ)』は法善寺西門の道を少し南へ、つまり阪神高速の高架のある千日前通りの方へ歩くと左手(東側)に店がある。
入口は小さなドアであるが、店に入ると長いカウンターと座席があり、奥には10人くらいのグループ用のスペースが別に用意されている。
ミナミでも『斛(マスメ)』ほど長いカウンターを設置している店はホテルのバーを除いては数少ないのではないかと思う。30年ほど以前には難波『蓬莱』の近くに『ローヤル』という店があったが・・・
現在、70を越えたご主人と奥さんが共にバーテンダーとして頑張っておられ、年配層の常連客が多く落ち着いた雰囲気を醸し出している。
一人ずつに提供される手製のオードヴル。その日によって内容は異なり、別途一品料理の品数もそこそこにある。
昨夜は奥さんにカクテルを依頼し、シェーカーを振ってもらった。
写真撮影は了承してもらったが、ウェブページ掲載についての了解は取っていないので目隠しで失礼。
カクテルなどのベースとなるアルコールの種類、味、香り、色合いなどを表現するためのリキュール類などの品数も多く、何百種あるのか知らないが基本となるカクテルの類いが提供されるのは当然だが、好みや希望を伝えて作ってもらうこともできる。
下の2つは私のためのオリジナル・カクテルである。
青い色の作品は『○○○ de MASA』
下の褐色がかったカクテルは新年を寿ぐ祝いのためのカクテルで昨夜作ってもらったものだが名前を未だ付けていない。
金箔で華やかさも加味しているが、どちらのカクテルもスッキリした味わいのものである。青い方は少々アルコール度が高い。
ホテルのラウンジやバーは眺めが良いなどの面もあるが、チャージ料だけでなくアルコールの飲料がバカ高い。しかし法善寺『斛(マスメ)』は料金の点では安心出来る店なのである。
赤垣屋で飲むのと比較すれば高いけれど、ダルマで串カツを食べて飲むよりも若干安いのではと・・・、当然飲酒量によって変わるので単純比較できるものではないが。
法善寺『斛(マスメ)』は開店54年目と、大阪では歴史を誇るショット・バーの1軒である。
ショット・バーの盛衰については別途書くとして、『斛(マスメ)』は法善寺西門の道を少し南へ、つまり阪神高速の高架のある千日前通りの方へ歩くと左手(東側)に店がある。
入口は小さなドアであるが、店に入ると長いカウンターと座席があり、奥には10人くらいのグループ用のスペースが別に用意されている。
ミナミでも『斛(マスメ)』ほど長いカウンターを設置している店はホテルのバーを除いては数少ないのではないかと思う。30年ほど以前には難波『蓬莱』の近くに『ローヤル』という店があったが・・・
現在、70を越えたご主人と奥さんが共にバーテンダーとして頑張っておられ、年配層の常連客が多く落ち着いた雰囲気を醸し出している。
一人ずつに提供される手製のオードヴル。その日によって内容は異なり、別途一品料理の品数もそこそこにある。
昨夜は奥さんにカクテルを依頼し、シェーカーを振ってもらった。
写真撮影は了承してもらったが、ウェブページ掲載についての了解は取っていないので目隠しで失礼。
カクテルなどのベースとなるアルコールの種類、味、香り、色合いなどを表現するためのリキュール類などの品数も多く、何百種あるのか知らないが基本となるカクテルの類いが提供されるのは当然だが、好みや希望を伝えて作ってもらうこともできる。
下の2つは私のためのオリジナル・カクテルである。
青い色の作品は『○○○ de MASA』
下の褐色がかったカクテルは新年を寿ぐ祝いのためのカクテルで昨夜作ってもらったものだが名前を未だ付けていない。
金箔で華やかさも加味しているが、どちらのカクテルもスッキリした味わいのものである。青い方は少々アルコール度が高い。
ホテルのラウンジやバーは眺めが良いなどの面もあるが、チャージ料だけでなくアルコールの飲料がバカ高い。しかし法善寺『斛(マスメ)』は料金の点では安心出来る店なのである。
赤垣屋で飲むのと比較すれば高いけれど、ダルマで串カツを食べて飲むよりも若干安いのではと・・・、当然飲酒量によって変わるので単純比較できるものではないが。
at 16:22|Permalink│
法善寺『に志むら』の『鰹のたたき』
法善寺『に志むら』の『鰹のたたき』は客の注文が入った時点で鰹をさばき、店の外に設えられた竈で炙られる。
『鰹のたたき』は鰹の頭を落として身を4分の1に。それを鋤のような道具に載せて、竈で茅に火をつけ、一気に炙り上げるのである。
何とも言えぬ味わいと香りの秘密がこの工程にあることは明らかである。
以前にも紹介したことがあるが、暖簾をたたんでしまったので、その工程を再び見ることは出来ない。
昨日、カツオを炙っていたところを写真に収めたので紹介しておこう。
『鰹のたたき』は鰹の頭を落として身を4分の1に。それを鋤のような道具に載せて、竈で茅に火をつけ、一気に炙り上げるのである。
何とも言えぬ味わいと香りの秘密がこの工程にあることは明らかである。
以前にも紹介したことがあるが、暖簾をたたんでしまったので、その工程を再び見ることは出来ない。
昨日、カツオを炙っていたところを写真に収めたので紹介しておこう。
at 10:21|Permalink│
法善寺『に志むら』最後の日
12月25日。どんより曇った寒い日であった。
法善寺の『に志むら』が暖簾をたたむ日である。
朝から出掛けるか出掛けるまいか逡巡していた。
客が多く混雑することを予想していたこともあるが、出費が続いて前夜に財布の中が空っぽになっていたことが暗い気持ちにさせていたのである。
毎年恒例となっている広島・博多の友人に会う旅に出立したい気もあるのだが・・・それすらも断念せざるを得ない懐具合は何とも侘しく辛いものがある。
現職時は懐は温かくも自由な時間が無かった、が、リタイヤすれば時間はタップリあるのに懐は極端に寒い。
人間の欲望というもの、これは限りないものではあるのだが・・・
そんな優柔不断な気持ちが顔にでも表れたのであろうか、家内が「今日は『に志むら』最後の日やなかった?行って来てあげたら」との言葉。
ええ奴っちゃ。と、この言葉が後押しに。
いつもは午後4時に暖簾を掛けるのだが出ていない。
一瞬迷うも引き戸を開けるとテレビ撮影機材と関係者達、それに何升炊いたのか、名物『土佐寿司』(鯖の棒寿司)の山でテーブル席もカウンターも埋まっていた。
女将が包装の手を休めて挨拶に来てくれたが、今日は予約で満席だと。結構なことである。
もとより挨拶だけのつもりだったので、仕込みでてんやわんやの大将に挨拶。
「ご苦労はんやったなあ、長い間楽しませてもろうた。おおきに。」
「予約は5時からや、まあ座っていきなはれ。」
「今日は3本いけるやろ。包んであげて」と大将。
3本というのは『土佐寿司』のことなのだが、いつも数が少なくて一本持ち帰ることが出来る日もあれば、全く手に入らない日もあるという美味しい人気商品なのである。
いつもなら仕込みが終わっている時間なのに・・・大将も二人の板前も手を休めることなく調理を続ける。座敷も何もかも一杯であることがよく分かる。
時間があれば『カツオのたたき』を食べたいが、店の様子を思えば注文するのも躊躇せざるを得ない。
が、仕込みの間にさばいて盛ってくれたのであろう。カツオの刺身と白和え、それにお酒を出してもらった。
むむむむ・・・トロ鰹である。・・・ツマラン注釈は要らない。
この間もテレビクルーが慌しく店を出入りしながら撮影準備を進めていた。
長居は気の毒ゆえ、5時前には失礼することにしたが、『に志むら』最後の日。大将の顔は満足気で爽やかなものであった。
ホンマ、ご苦労さんやった。
おおきに。
法善寺の『に志むら』が暖簾をたたむ日である。
朝から出掛けるか出掛けるまいか逡巡していた。
客が多く混雑することを予想していたこともあるが、出費が続いて前夜に財布の中が空っぽになっていたことが暗い気持ちにさせていたのである。
毎年恒例となっている広島・博多の友人に会う旅に出立したい気もあるのだが・・・それすらも断念せざるを得ない懐具合は何とも侘しく辛いものがある。
現職時は懐は温かくも自由な時間が無かった、が、リタイヤすれば時間はタップリあるのに懐は極端に寒い。
人間の欲望というもの、これは限りないものではあるのだが・・・
そんな優柔不断な気持ちが顔にでも表れたのであろうか、家内が「今日は『に志むら』最後の日やなかった?行って来てあげたら」との言葉。
ええ奴っちゃ。と、この言葉が後押しに。
いつもは午後4時に暖簾を掛けるのだが出ていない。
一瞬迷うも引き戸を開けるとテレビ撮影機材と関係者達、それに何升炊いたのか、名物『土佐寿司』(鯖の棒寿司)の山でテーブル席もカウンターも埋まっていた。
女将が包装の手を休めて挨拶に来てくれたが、今日は予約で満席だと。結構なことである。
もとより挨拶だけのつもりだったので、仕込みでてんやわんやの大将に挨拶。
「ご苦労はんやったなあ、長い間楽しませてもろうた。おおきに。」
「予約は5時からや、まあ座っていきなはれ。」
「今日は3本いけるやろ。包んであげて」と大将。
3本というのは『土佐寿司』のことなのだが、いつも数が少なくて一本持ち帰ることが出来る日もあれば、全く手に入らない日もあるという美味しい人気商品なのである。
いつもなら仕込みが終わっている時間なのに・・・大将も二人の板前も手を休めることなく調理を続ける。座敷も何もかも一杯であることがよく分かる。
時間があれば『カツオのたたき』を食べたいが、店の様子を思えば注文するのも躊躇せざるを得ない。
が、仕込みの間にさばいて盛ってくれたのであろう。カツオの刺身と白和え、それにお酒を出してもらった。
むむむむ・・・トロ鰹である。・・・ツマラン注釈は要らない。
この間もテレビクルーが慌しく店を出入りしながら撮影準備を進めていた。
長居は気の毒ゆえ、5時前には失礼することにしたが、『に志むら』最後の日。大将の顔は満足気で爽やかなものであった。
ホンマ、ご苦労さんやった。
おおきに。
at 05:33|Permalink│