January 2008

January 30, 2008

イタリア旅行? ポンペイ 5 モザイク画の精緻 

ポンペイがヴェスヴィオ火山の噴火によって、その火山砕屑物で埋められてしまったのが西暦79年のことであった。

今年は西暦2008年。

ナポリ湾に望む古代都市国家として紀元前4世紀以来発展を続け、西暦79年の頃は大いに栄えていたであろうことは18世紀より徐々に進められてきた発掘により明らかになってきた。

長靴型のイタリア半島、コルシカ島、サルデーニャ島、アフリカ(チュニジア、アリジェリア)、シチリア島に囲まれたティレニア海に面しているポンペイの町は海上交易も盛んであり、中東やアフリカとの人的交流も大いに行われていたようである。

そのようなポンペイ遺跡から多くの美術品、工芸品などが発掘され、それらから当時の人々の生活様式も明らかにされてきたのであるが、下にモザイク画をひとつ紹介してみる。
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上の写真はポンペイ遺跡で発掘されたモザイク画で以前のページで紹介したものだが、ストリート・ミュージシャンを表現したものであり、多分いずれかの家の装飾に用いられていたものであろう。

楽器が何であるのかは分からないが、右手の男はタンバリンのような打楽器を叩き、中央の男は小さなシンバル様のチャンポンであろうか、それを叩いて互いにリズムを取っている様子が足元の表現などから見てとれる。

髪型や衣装から女であると想像できる者は2本の棒状のものを口に咥えているようなので、笛のようなものでメロディーを奏でているのかもしれない。

また、端っこの少年は何かを持ってはいるが、楽器であるのかどうか分からないが、絵の構図といい、色彩といい、路傍のミュージシャンたちの生き生きとした躍動感が伝わってくるような作品である。

この作品が西暦79年よりも以前のものであることは明らかで、この作品からも当時のポンペイの人たちの生活の一端を垣間見ることができる。

下に中央の男を拡大した写真を掲載する。

当時のモザイク画がいかに精緻なものであったかが分かると思う。

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色を塗っているのではない。

貝殻や石、陶片などを細かく砕いて貼り付けて仕上げたものであり、全く見事なものである。

こうしたものが数多く発掘され、ナポリの国立考古学博物館には展示されている。

西暦79年、火山灰に埋もれてしまった廃墟の町からである。



at 06:29|Permalink

January 29, 2008

大阪府知事選とメディアの危険性

大阪府知事選挙における各候補者の得票結果が確定し橋下氏に対して当選証書が渡された。

投票総数の内、最多得票数を得た橋下氏が大阪府知事になるわけだが、これは大阪府民が選択した結果なのだから受け入れる以外にない。

このような結果になることを予想してはいたのだが、予想通りになってしまったことに私は残念であり気掛かりに思うこともある。

一つは、タヌキ・ムジナの類いが跳梁跋扈したこと。

二つ目には、メディア効果と、その効果に対するマスメディアに関わる者たちの自覚の無さ、更にはそれらの仕掛けの中で踊らされた人々がいたのではなかったかという危惧を感じることである。

タヌキやムジナについては以前にも書いているので省くことにするが、二つ目に挙げたマスメディアに関しては危険極まりないので一言。

先ず、メディア効果について。

嘘も百回繰り返せば真実となる』と言われてきているように、何度も繰り返し繰り返し刺激を与えられると、動物一般は拒否から受容、容認へと感情が変化するものである。

人間の場合は当初知性が否認・拒絶していても、繰り返される過程において疑念を抱きながらも受容し、やがて容認、果ては肯定するに至ることもある。

勿論、テレビや雑誌といった媒体を通しての音声や文字、映像といった知覚できるものばかりとは限らない。

これらには時間的、環境的条件が作用するので細かいことは省くが、ローレンツの刻印付け(imprinting)にも似るし、サブリミナル効果(subliminal)といったものにも似た『刷り込み』と言えるものの効果である。

警察の捜査過程のミスによる冤罪が大きい社会的問題となっているが、被疑者(警察側の独断での)の自供が誘導・捏造されたもので、それが公判の過程で明らかになったり、結審し判決が下される段階において無実であると認定されることなども、一部『刷り込み』効果の為せるものがあるようだ。

以前、ヤンキー先生こと義家弘介氏を『メディアの寵児』と書いたが、私は橋下徹氏も同様『時流に乗って、もてはやされる人物』であると思っている。

宮崎県知事の東国原氏も同様である。

テレビ・ラジオ・新聞・雑誌と無縁の日本人は今や誰一人として居ないであろう。

むしろ、『一億総テレビ浸け』状態であり、北海道の北の果ての寒村の情報が沖縄の小さな離島で瞬時に知り得、東京の若者ファッションが殆ど同時的に日本全国の若者ファッションとして全国津々浦々で一斉に流行り始める情報時代なのである。

つまりメディア媒体としてのテレビが「今、流行っているのはコレだ」と、言葉と映像を発信すれば、それはほぼ同時的に日本全体で共有するものになるということである。

言うなれば、テレビは日本の世相をリードし、日本人全体の頭脳としての働きをしていると言っても良いくらいなのである。

もっとも、これは比喩的表現であって、日本人全てがテレビによって評価・判断を左右されているというものではない。

が、影響を与えていないと断言できる状況にないことは事実である。

それほどのテレビにおいて、立候補前にはレギュラー番組で顔と名前を売り込み、立候補後にはニュース報道などで紹介してもらい、夕刊紙やスポーツ新聞などの媒体は、その話題性から他の候補の何倍も橋下氏に関する記事を写真入りで紹介してきた。

何が良い、何が悪いと結論付けるものを持ち得ないが、「こんな状況で良いのだろうか」と危惧の念を抱かざるを得ないのである。

戦前、政府が情報統制を行い一方的、恣意的に流される情報の中、戦争に否定的であった人たちも積極的に反対していた人たちも、極めて一部の人を除いて誰一人戦争に反対することもなく、ついには戦争に賛同していった歴史を思い起こせば、情報が一国の国民の思想と行動をも操作し得る重要な役割を果たすものであることに気付く。

ましてや戦前とは異なる高度に発達したテレビという音声だけではなく文字も映像も送ることのできる機具をもって、しかも24時間、いつでもどこでも情報が流れっぱなしの世の中でのこと。

視聴者の側からすれば、いつでもどこでも情報を入手できるという利便性はあるものの、流される情報によって判断させられるという危うい面もありマスメディアに関わる者たちは視聴者以上にテレビが与える影響の功罪両面の効能について悉皆自覚せねばならない私は考える。

長くなるので、今回の府知事選に関わって危惧する部分の一端について、私見の極々触りの部分だけを記しておく。




at 08:57|Permalink

January 27, 2008

イタリア旅行? ポンペイ 4

紀元100年にも満たない頃、ポンペイの人々は結構優雅で文化的な生活をしていたのである。

前ページの写真はナポリ国立博物館に展示されてあるものだが、当時の建物に飾られていたものだから、その頃の人たちも似たような生活をしていたのであろう。

事実ポンペイ遺跡のガイドは市場も浴場も劇場もあったと説明してくれた。

居酒屋や娼館もあったんだと。

娼館と漢字で書けば分かるが、音読みなら商館を思い浮かべるのではないだろうか。もっとも、いずれも商いに違いは無いが、私は女郎屋の方が分かり良いが・・・。

それはともかく、下の写真は装飾が剥げ落ちてはいるが浴場の跡である。

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下は屋敷跡の床であるが、綺麗なモザイク模様が残っている。
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平屋の家があったり、二階建ての家があったりだが、町として随分整ったものであったらしい。
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ポンペイ遺跡を見学する際、遺跡そのものを実地に見て回るのも良いが、出来れば発掘されたものを合わせて見ることが良いと考える。

ポンペイの遺跡やエルコラーロ遺跡の発掘品だけではなく、カンパーニャ地方の美術品なども展示しているナポリの国立考古学博物館を薦めたい。

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上はポンペイのフレスコ画であり、剣闘士が競い合っている部分を拡大してみたが、観覧席の上に天幕が張られているなど闘技場の様子が分かるのではないだろうか。

下もポンペイのフレスコ画であるが、紀元前600年頃のギリシャの女流詩人サッフォー(Sappho)を描いたものとされている。

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下はポンペイのモザイク画であるが、当時のティレニア海やナポリ湾で獲れた魚なのであろう。

色の異なる小さなガラス片などを敷き詰めて仕上げられたモザイク画の精巧さには感嘆の声しか出なかった。

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上の3点の写真は、いずれもナポリ国立考古学博物館所蔵のものである。

at 15:40|Permalink

イタリア旅行? ポンペイ 3

ミラノのコモ湖を訪れた時にドゥオモに立ち寄ったことを以前に書いた。

コモはイタリア北部、スイスにつながる湖水地方でありローマ時代よりリゾート地として別荘が建ち並ぶ所であり、ドゥオモも立派な建築物で、そのファサード入口の左右にコモ出身であるプリウス親子の像が刻まれている。

父親のプリウスはローマ時代の政治家で軍人、また『博物誌』を著したガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus)という学者である。

彼はヴェスヴィオ火山の噴火が起きた際、イタリア南部の町に滞在中であり火山爆発の模様を目撃していた。

大きい地震が続いた後、ヴェスヴィオ火山の火口の上に松の木のような黒雲が立ち上り、分厚い雲が一気に山腹から海岸にまで覆い下り、海の水は沖の方まで引いていった後、海水が押し寄せてきた、と。

彼には養子で政治家でもあったガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Caecilius Secundus)がおり、二人を区別するために父親を『大プリウス』、息子を『小プリウス』と呼び分けている。

『大プリウス』は現地の様子を調べるために被災地へ向かい、その途中で亡くなったが、病死とも亜硫酸ガスによる死亡とも説が分かれてはっきりしていない。

その父親の目撃した噴火時の様子を息子の『小プリウス』が友人への手紙の中に書いていた概要が上に記したようなものであったらしい。

太陽の光が見えなかったことも書かれていたようなので、噴煙が空を覆う薄明かりの中、山頂より高圧・高温の火砕流が超高速で山を街を駆けて海に到達したことが分かる。

そして津波が押し寄せてきたのだろう。

ヴェスヴィオ火山の噴火が無ければ人々は平穏な生活をしていたのである。

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【ポンペイのフレスコ画・ナポリ国立考古学博物館 蔵】

                  
パン販売
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        【ポンペイのフレスコ画・ナポリ国立考古学博物館 蔵】

ストリート・ミュージシャン
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【ポンペイのモザイク画・ナポリ国立考古学博物館 蔵】

火山爆発・噴火にはいろいろな形態があるが、いずれの場合も地中で圧力が高まり、外からの力で制することが出来なくなった限界点で爆発を起こすのだが、何トンもの岩石を無数に空高く吹き上げ、大きい島を一つ造り上げるだけの溶岩を噴出すエネルギーの大きさというものは想像出来ないほどのものである。

我が国で記憶に新しいのは1990年に九州・雲仙の普賢岳の爆発がある。

何度かの爆発によって普賢岳の山頂付近には巨大な溶岩によるドームが造られたが、何千度もの高温でガス状になった火山砕屑物が一気に流れ下る様子をテレビ映像でも見ることが出来た。

この何千度もの高温・高圧で火山砕屑物がガス状になって一気に流れ下るものを火砕流と呼んでいるが、火山砕屑物とは地表に放出された固体物質の全てを言うので、小さなチリのような火山灰も小石のようなものも、その形状や大きさはいろいろである。

史実に明らかなものでは浅間山の噴火がある。


1783年の爆発の折には溶岩が流れ下り、山麓の村々を焼き埋め尽くしてしまって2000人もの死者を出している。

一つの火山の爆発・噴火という現象は、地球の全エネルギーからすれば極一部、人間に比するならば顔の極一部にニキビが出来た以上にちっぽけなことである。

しかし、地球レベルでは極々小さいヴェスヴィオ火山の噴火によって、多くの人々が生活していた町もろとも一瞬のうちに焼き埋められてしまっているのである。









at 04:13|Permalink

January 26, 2008

イタリア旅行? ポンペイ 2

去年だったか一昨年だったか、確かサントリーミュージアム天保山で開催されていたポンペイ展を見るために家内と出かけていった。

火山灰など、火山噴出物で埋まってしまった遺跡のうち40haばかりが発掘されているようであるが、20数haは未発掘であるということであった。

今回ポンペイの遺跡を訪れ、実際に発掘された部分の街を巡ってみたが、その広さもさることながら、街はきちんと区画整備され、大きい石を敷き詰められた道路には荷車の明瞭な轍(わだち)が残されており、活気に満ち溢れた街の様子を思い描くことができた。
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レンガを積み上げた家々の壁面、その壁と大きい石を敷き詰めた道路との間は歩道なのだろうか。

広く取られた道路には玄武岩のように緻密な黒い大きい石が敷き詰められ、道路上で一定距離を空けて、写真のような一周り大きい石が飛び石のように埋め込まれている。

轍(わだち)を見れば、荷車を停め、その荷台への荷物の積み下ろしをこの場所で行っていたことが窺える。

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家々はレンガの壁や大理石の柱で構成され、天井には木材が用いられていたのであろうが、それらは無い。

これらの構造物が火山噴出物で埋まっていたのだから、一体どれだけの量の火山灰が降り積もったのか・・・僅か1日ばかりの間にである。
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釜戸のたき口も残っていた。

発掘は終了していても通行制限の箇所が随所にある。

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向こうの端まで見通せないほどの距離があるほどに広い遺跡地域なのだが、道路がきっちりと交叉し、区画整理がきっちりされた都市であったことが想像出来ると思う。

この大きい都市が西暦79年8月24日のヴェスヴィオ火山の噴火で、翌25日まで1昼夜降り積もった火山噴出物で完全に埋もれてしまったのである。

発掘作業の過程で時々空洞があったそうだが、それらの中には火山灰に埋もれた時の人々の姿がそのままの形で残っていたいたそうだ。

つまり、灰に埋もれて亡くなった人の体の部分が腐敗、その体の部分が空洞となって残ったらしく、その空洞に石膏を注入して形状を保存してもいるのである。

ポンペイ展でも見たし、ナポリ国立博物館にもある。

突然の火山噴火で降り積もった火山噴出物によって埋められてしまった人々の苦悶の姿勢や表情が2000年を経た今明らかにされてきているのである。

今回はポンペイを訪れただけだが、エルコラーノにも遺跡はあり、当時の人々の暮らしを知ることの出来るものが多く発掘・保存されている。



at 15:31|Permalink
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