March 2008

March 27, 2008

東京・高輪『泉岳寺』あたり

東京・品川あたりは何度か訪れている場所であるが『泉岳寺』を訪れたのは今回が初めてであった。

東海道五十三次の宿場で言えば、江戸日本橋を出でて第一番目の宿場が品川宿であり、江戸の町の南側の入口でもあったところで、地下鉄・都営浅草線の泉岳寺駅の近くには『高輪の大木戸』の石塁が残り国の史跡指定の石標が建てられている。

つまり江戸の町から言えば、芝・増上寺の大門を過ぎ、古川に架かる金杉橋を渡って三田に至り、高輪の大木戸をくぐって泉岳寺の前を通れば品川宿に至るということである。

現在の第一京浜や都営・浅草線が江戸時代の東海道の道すじに沿っているというわけである。

江戸の古地図を見れば泉岳寺や高輪の大木戸は直ぐ海浜に近く、鹿島神宮(明神)から東海道線に沿って品川駅に至る線が海岸線であったようだ。

現在、東京海洋大学のある辺りなどは海の底であり、幕末ペリーが浦賀にやってきた1853年(嘉永6年)、幕府が江戸防衛のために品川台場を築いて大砲を据えつけたりしたが、現在レインボーブリッジが出来てフジ・テレビなどのビルが建ち並ぶ‘お台場’一帯も海の中であったわけである。

1701年(元禄14年)、江戸城中・松の廊下において播州赤穂城主・浅野内匠頭長矩が、高家筆頭・吉良上野介義央に刃傷沙汰を起こし、即日切腹、城地没収(改易)となった事件が起きたのは折りしも3月14日。

風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん

浅野長矩の辞世であるが、これに端を発した『赤穂四十七士の敵討』。

1702年(元禄15年)12月15日早暁、赤穂四十七士が吉良邸(墨田区本所松坂町・時津風部屋の近く)に討ち入り、吉良上野介の首を取ったあだ討ち事件である。

なまこ塀の吉良邸跡として当時の場所に残ってはいるが、小さいものであり往時のものとしては上野介の首洗い井戸ぐらいか。

討ち取った首を携え、確か永代橋を渡って泉岳寺へ向かったのではなかったろうか。忠臣蔵も暫く縁遠いので忘れてしまったが播州赤穂藩・浅野家の菩提寺で長矩も眠る泉岳寺に四十七士が凱旋、墓参を果たしたのだったと思う。
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1612年(慶長17年)創建の曹洞宗の禅寺であるが、現在の場所に移ったのは1641年(寛永18年)のことらしい。

山門を入って正面に本堂があり、浅野家、大石内蔵助ら四十七士の墓地は左手にある。
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上は泉岳寺の本堂。

下は浅野内匠頭長矩の墓。
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下は大石内蔵助の墓(中央)と四十七士の墓が並ぶ。
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四十七士の墓は国の史跡指定。

下は上野介の首洗い井戸とのことであり、吉良邸の井戸で洗い、ここでも首を洗って主君・浅野内匠頭長矩の墓前に置き、あだ討ちを報告したようだ。
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墓地の近くには赤穂義士記念館と木像館があり、義士連名書状や討ち入りの口上書などが展示・陳列されている。

四十七士の木像には当時の彼らそれぞれの禄高が記されていたが、多くの者は年若く、極めて少ない禄の者たちであったことに驚いた。

そう言えば、早朝の赤坂の散歩コースに南部坂(アメリカ大使館宿舎横)わ通っているが、大石内蔵助が遥泉院に暇乞いをした後に通ったとされる坂道が南部坂であった。

忠臣蔵『南部坂雪の別れ』の名場面である。


at 16:09|Permalink

March 24, 2008

東京散歩 芝・増上寺あたり

東京という町も江戸の歴史を知って歩き回れば随分楽しい所である。

しかし、武家社会から天皇中心の国家に変わるという国家的大変事の際に起きた戊辰戦争での影響は少なかったものの、関東大震災、そして太平洋戦争における焼け野原の状態から高層ビル群の町へと変貌を遂げる東京において昔日の面影を求めることは容易なことではない。

そのような東京にあって増上寺の三門は歴史的な建造物として見逃すことの出来ないものの一つである。
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上の写真は日比谷通りに面して建つ増上寺の『三解脱門』であり国の重要文化財に指定されているものである。

増上寺は1393年に現在の千代田区平河町(紀尾井町のホテル・ニューオオタニ辺り)付近に開基された浄土宗の寺であるらしいが、1590年に徳川家康が江戸を治めるようになって徳川氏の菩提寺と定められ、1598年に現在の芝の土地に移ってから隆盛を極めるようになっていったらしい。

江戸時代における将軍家の権力というものが絶大なものであったことは充分想像できることであるが、事実、古地図を見れば当時の増上寺も大層な寺領を持っていたことが分かる。

増上寺の寺領は、各塔頭寺院のほか学寮などを含めると東側は第一京浜のある都営浅草線から西、南側は都営大江戸線の走る古川から北、北側は御成門のある線、そして西側は東京プリンスホテルを含む線までの広さであるから相当なものである。

1612年、家康は増上寺にて葬儀を行なうことを命じて亡くなったが、この寺には二代将軍・秀忠のほか、六代・家宣、七代・家継、九代・家重、十二代・家慶、十四代・家茂ら六人の将軍の墓所があり、各将軍の正室と側室の墓も設けられており、幕末動乱期に公武合体の政略婚として将軍・家茂に嫁いだ皇女和宮の墓所もある。

NHKの大河ドラマ『篤姫』こと十三代将軍家定の正室・天璋院は和宮の姑であり、家茂と共に上野の寛永寺が墓所になっている。
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増上寺境内から東京タワーを眺めたものだが、大殿とその右に安國殿が写っているが、徳川将軍家の墓所は安國殿の後ろに位置し、更にその奥には金地院がある。

金地院は京都の南禅寺の塔頭寺院のひとつであり、崇伝が駿府に創建、後に現在の地に移設したらしく、芝の金地院南禅寺の京都出張所になっているらしい。

崇伝というのは南禅寺の高僧の一人であり、『金地院崇伝』『以心崇伝』或いは『黒衣の宰相』などの異名をとる僧侶であり、政治、法律などにも明晰であったらしく、徳川家康に重用されて行政はもとより法律(法度)の起案など幕府の最高顧問として家康、秀忠、家光の時代の幕政に影響を与えてきた人物として名高い。

同様に徳川家康、秀忠、家光らの政策立案に関与し、比叡山・延暦寺を再興、上野の寛永寺を創建した政僧・天海僧正と並び称せられる人物である。

下は『東京タワー』の展望台から眺めた東京の町の景色である。

ハシゴ酒には強いがハシゴの高さでも弱い高所恐怖症とも言える私が今回初めて『東京タワー』に上ったのである。
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上は『お台場』方向を眺めたもので、レインボーブリッジやフジ・テレビの建物が見えている。

下は『増上寺』の境内を上から眺めた写真である。
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下の写真では、中央のJTビルの左側に国会議事堂が顔を出し、ビルの合間に皇居の緑が垣間見えている。
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晴れて空気が澄み渡っていれば富士山も望見できるらしいが、逆光と黄砂のために見えなかった。



at 10:13|Permalink

東京 赤坂Sacas 朝の散歩

昨夜から降りだした雨が朝になっても続いている。

雨というのは自然大気の循環のひとつの作用であり、昨今、地球規模で語られている環境問題とは密接な関係にある。

つまり、地球や人類の生命の誕生から現代の人々の生活に直接にも間接にも関わる重要な働きをしているのが雨と言うわけである。

古来、‘甘雨’‘慈雨’‘恵雨’などとも呼ばれてきた雨ではあるが、雨天というのを私は好まない。

幸いと言うか、今回の東京滞在中に雨に降られるということが殆ど無くて良かったと思っている。

ただ一度、横浜へ出かけた日の午前中に小雨が降った程度で、朝の散歩を楽しむことができた。

溜池山王に近いホテルを出て、アメリカ大使館から外堀通りを経て山王日枝神社へ。そして赤坂通りからTBS放送センター・赤坂サカスをグルリと回って氷川神社を経てホテルに戻る。

早朝で車の通行が少ない時間帯での赤坂一帯の散歩は山坂が多くて結構疲れるのだが気持ち良いものである。
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上の写真はTBS放送センター前の赤坂通りを乃木坂に向って歩くと交番があり、そこを右折して少し登ると写真の『報土寺』がある。

浄土真宗大谷派・咲柳山報土寺』と言うが、江戸時代に活躍した横綱・雷電為右衛門の墓がある寺で、創建は1614年(慶長19年)ということである。

この寺の築地塀(練塀)は港区の文化財に指定されているが、何故の指定なのか私には分からない。

築地塀というのは土塀の上に屋根を葺いたもので、その様式は古く奈良時代にまで遡ることができる。

奈良の古寺にはよく見られるし、韓国でも多く見ることの出来るものであり、その様式を文化財としているのか、築造年代を文化財としているのかが不明である。

写真の坂道を『三分坂』と呼ぶそうだが、坂道の上の方向がTBS放送センターや赤坂Bizタワーの方向であり、新しく敷設された道はTBS放送センターの外側を巡るようにして赤坂サカスに下るようになっている。

このTBSの敷地一帯は江戸時代には松平安藝守の中屋敷であったところである。

安藝・広島藩の浅野家中屋敷・・・中屋敷というのは上屋敷の控えとしての屋敷であるが、その屋敷が現在のTBS放送センターから赤坂Bizタワー、赤坂サカスなどを含む一ツ木通りまでの一帯を敷地としていたのだから、殿様というのは大変な力を持っていたのだということが想像できる。

ついでのことではあるが四代藩主である綱長の時代に、分家である赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が勅使接待役となり、殿中松の廊下に於いて吉良上野介義央を傷つけ、即日切腹・城地没収の沙汰を受けるという事件があった。

時に1701年(元禄14)3月14日のことであったが、本家への咎めは無かった。
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上の写真は早朝の赤坂サカスであり、後ろのビルがTBS放送センターである。
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ちょうど『みのもんた』氏の‘朝ズバッ!’の中の天気予報担当である根本さんが準備にかかっていた。

初めに見かけた時には上の写真のSacasオープニングの架かる建物のところで撮影していたのだが、この写真の時にはTBSのビルに近い所へ移動していた。
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テレビでも可愛いお嬢さんに見えてはいるが、実際には小柄でもっと可愛いなあって・・・オジンもウットリ。

私と家内が眺めていると、軽く頭を下げてニコッと笑顔。

うーーん、もおぅ、カワユイッ

ぶっははははは

ちょっと恥ずかしいねえ。

どうやら雨も上がったらしい。


at 05:49|Permalink

March 23, 2008

法善寺・浪速割烹『喜川』へ寄る

‘春分の日’と 土・日に挟まれた21日の金曜日ということもあって、ミナミの人出は昼間から結構多かった。

午後8時近く畳屋町、笠屋町はネオンが輝く中、出勤を急ぐネーチャンや、これから飲みに行こうかという客らと行き交う。

既に一杯機嫌の私は道頓堀に架かる太郎左衛門橋南詰・『大たこ』の前に群がる一山を掻き分けるようにして道頓堀(通り)に出た。

この橋詰めには‘たこ焼き’ の屋台店が2軒あるのだが、『大たこ』の前には客が列をなして路上でフーフー言いながら焼きたての‘たこ焼き’を食べる人だかりが出来ているのだが、もう1軒の方は焼けて茶色くなって並んでいる‘たこ焼き’を手持ち無沙汰に若い店員の男2人が眺め、2つの店は全く好対照となっている。

人間の心理というものはオモシロイもので、列が出来たり人垣が出来ると、そこへまた人が寄ってくるので余計に大きい一山が出来るものである。

私は、この二つの店の‘たこ焼き’を食べ比べた事が無いので味に判定を下すことは出来ないが、この夜の客の殆どは上海か台湾かの中国人観光客の一団であることが話す言葉で分かった。

きっと日本人がガイドブックを持って世界各地を旅行するように、彼らも大阪のガイドブックを頼りに集まってきているのであろうが、ここ10年ばかり中国人団体観光客が目立って多くなっているように感じている。</大></太>

千日前筋から狭い石畳の法善寺横町へ入って『喜川』を覗いてみるとカウンター席が空いているようだったので暖簾を分けて2枚のガラス戸を引いた。

空いてるか?」

いつもなら席が空いていても「予約が入っておりまして」などと白い割烹着の若い衆に店先まで送り出されるのであるが、この時は2階の席も空いていたらしく珍しく1階カウンター席に座らせてもらった。

アベックの客が二組のほか、会社関係の人たちであろうか数人が飲食を楽しんでいたが、何と私が座った席の他にも空席があったのである。

予約を入れるのが最善ではあるのだが、私のように気まぐれに一人でフラフラと飲み食いに出掛ける者にとって予約するなどということは自分の行動を規制することになるし、予約した時刻に遅れると店側に迷惑をかけることになるので連れて行く人がいない限り予約して行くということは殆ど無い。

女将は「閑古鳥が鳴いているんです」、なーんて言うてはったが、立ち寄るごとに・・・などと言っても『喜川』は高級店私の懐具合からは)のために法善寺へ出向いたからといって常に覗いているわけでは無いが、満席か予約で席が埋まっていたことが多く、勢い敬遠してしまうということになっていたのである。

8時過ぎという時間帯が幸運だったのかもしれない。

ともあれ『マグロの赤身の刺身』に、酒は『秋鹿』にしようか『春鹿』にしようかと少し迷ったが『春鹿』の冷酒で頂くことにした。

秋鹿』というのは大阪・能勢の酒、『春鹿』は奈良・今西清兵衛商店の酒で、どちらも辛口系統で今流の日本酒度、つまり一定量の酒に含まれる糖分量で言うなら+3~4度程度から、原酒や超辛口と表示されているものは+8度くらいとなる。

大阪には河内長野の『天野酒』とか、池田の『呉春』など2~30年前から特に有名になってきた酒があるが、『天野酒』も辛口系統であり、『呉春』は私好みで言えば燗酒の方が美味しいと思える酒である。

酒談義は置いておくことにするが、辛口系統の酒はどんな料理であっても料理の味わいを壊すものではなく、むしろ料理を頂いた口をすすぎ、次に頂く料理の味わいを新鮮なものにしてくれるので私は好む。

もっとも、料理によっては甘口系統の酒の方が、より一層料理との相乗効果を上げる酒もあるので一概には決め難いものである。

私の席から上野氏(息子さん)が調理をする姿を斜め後ろから眺めることが出来るのだが、調理するサヨリが綺麗に見えたのでソレもオーダー。

あと、『喜川』では常に食べることの出来る『クジラと菜っ葉を炊いたもん』を注文。

‘炊いたもん’やなんてケッタイな言い方ではあるが、大阪弁ならこれで通じる。

‘炊いたもん’とか、‘炊いたん’とか、京都でも大阪でも同様の表現で良い。

クジラの『コロ』と呼ばれるものと菜っ葉を煮た汁物のような料理であるが、私の小さかった頃は『クジラの赤身』や『尾の身』と水菜をすき焼き風に煮る『ハリハリ鍋』というご馳走があった。

乾物の『コロ』や『さえずり』でも‘関東だき’の具材として豊富に用い、コロンコロンとした大きい切り身であったが、小さい切り身になってしまったことは仕方が無いと言うか残念なことであるが、これは私の思いであり、調理する立場からは小さい切り身の方が味が染み込みやすくて美味しくなるという理由があるのかもしれない。

昔は白長須クジラの美味しい肉が買えたものだが、捕鯨禁止などと叫ぶ欧米のトンチンカンな輩の勢力に屈して日本の食文化が変わってきてしまった。

忘れていたが、バタバタしていたためにお昼ご飯を食べなかった。でも美味しい料理にウマイ酒を飲んですっかりお腹がイッパイになってしまった。

ただでさえお腹が膨らんでいるのに、本日も満足、満腹、不自由なく食べさせて頂けた事に感謝感謝である。

大将・上野氏と女将に見送られて法善寺の路地を難波駅に向かったが週末で戎橋筋も難波の地下も沢山の人やった。

外字を作成したけれど読み取りが出来ないようで、『きがわ』の『喜』の字は『七が3つ』の字でおます。


at 18:24|Permalink

久し振りの法善寺『斛(マスメ)』と宗右衛門町『本二鶴』

昨日は延ばしに延ばしていた用事を片付けるために朝から動き始めた。

自動車の会社での用件を済ませて郵便局へ、その後大阪市内の銀行を3行回るつもりが随分の混みようで2行目を終えたら午後3時を過ぎており1行は後日にせざるを得なかった。

春分の日と土曜日の狭間で混雑は予想できたのだが、リタイヤした立場になると、そうした考えが浮かばなくなるようである。

難波の喫茶店に入ってコーヒーを飲みながらタバコを一服。

5時を過ぎたので法善寺の『(マスメ)』へ向かうことにした。

(マスメ)』については何度か書いているが、今やミナミでも珍しくなったショットバーであり、この3月で開店55周年を迎えた老舗のバーでオーナーは奈良県出身の西田氏。

70歳を超えた西田氏であるが、ご内儀ともどもに華麗にシェーカーを振られる。

私はいつも通りスコッチとソーダ水、アメリカ式にはハイボールというものであるが、ご内儀が私のために創作して頂いたカクテル『Oh,MASA』も頂き、後から来た友人T氏としばらく世間話をしてから店を出た。

直ぐ近くの浪速割烹『喜川』を覗いてみたのだがカウンター席に客の背が並んで見え、又満席で断られるであろうと予想して宗右衛門町の某クラブを久し振りに訪れた。

1時間ばかり席を温めてから『本二鶴』へ寄った。

本二鶴』は今年で創業131年

ミナミへ出てきたら土産に買って帰るのだが、ここの名物は茶巾寿司である。
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本二鶴』では『きんちゃく』と呼ぶが、海老と鰻を入れた寿司飯を薄焼きの玉子で包み、細切りの昆布で結んだ美味しい上品なものである。

生ものをあまり食べない家内にも好評な寿司で、明くる日にレンジで温めても美味しく、昔の『蒸し寿司』のように味わえる絶品である。

日曜と祝日は休みだが、普段は午後3時から12時まで店を開けているので便利である。

息子さんが『吉兆』での修行を終えて戻っているので、これからは息子さんが継いで行かれることになるのだろうか。

誤解の無いように、『船場・吉兆』では無い、念の為。

昨夜も息子さんとしばらく話していたが、真面目な青年で、料理人としてなかなか研究熱心であり、これから『本二鶴』の伝統を守りながらどのように発展させていくのか楽しみに思えた。

この帰りに再び法善寺の浪速割烹『喜川』を覗いてみたのである。

喜川』の『』の字は『七が3つ』でおます。



at 18:18|Permalink
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