April 2008

April 29, 2008

画家・『加藤眞琴』氏

眞琴・・・人物の名前としては比較的少ないものであるが、私の友人である女性にも同じ名前の者がいる。

前のページで書いた先輩・K氏というのが画家・『加藤眞琴』氏のことである。

彼は名古屋の出身であり、先輩と言っても私の学校を通じてのものではなく、年齢的に先輩という意味である。

70年の人生の殆どを絵を描くことで過ごしてきた彼は将に画家であり『画伯』と敬称を付けて呼んでも良いのだが、彼と私の間柄ではそうした尊称は先輩と言えど必要ないと私は思っているし、彼も又そうした堅苦しい社会的儀礼を好み、押し戴くような人物では無いのである。

と言って、社会常識に欠ける人物かと言えばそんなことは無い。

常識も知識も充分に持ち合わせているし、思想的にもしっかりした人物である。

彼と私の出会いは随分古いものであり、何十年になるのか直ぐには思い出せない大昔である。

以前に私のホームページで彼の絵画を紹介しているように抽象画を描いているのであるが、いつから抽象に傾倒したのか私は知らない。

私のホームページへは、当ページのリンク先の『XPK'S WEBSITE』をクリックすることで別枠が開けるが、最近は更新していないので面白くないものではある。

http://xpk.fc2web.com/index.html

下の写真の絵は最近開催された彼の個展で仕入れた小品の1枚である。
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                        『花・木・羊』

『抽象画は難しい』とは多くの人が思っていることである。

事実、その通りであると私も思う。

ピカソにしてもミロにしても何やらワカランさかいに興味も持たず知ろうとすることもしてこなかったのが私の学生時代であった。

そんな私であったから、彼との出会い以後、彼の絵画に関わって抽象画についての論争が長く続いた。

やがて、私が納得する(言い負かされたのではナイ)のだが、簡単に記せば以下の3つに絞り込めるように思う。

絵は描いた人間の思想であり言語であり、表現のひとつの方法
言語では表現しきれない事がある
絵は、それらの結果であって、観る人の受け止め方は自由であり、作者の意図する事とズレがあっても当然

科学の世界では記号や式(文字や言葉、数字など)を用いて矛盾無く正確に伝達・表現することが至上であるが、これとて絶対では無いのであり、基本の点において私自身が理解できたことが納得したわけである。

これだけでは納得したことを説明するにはマダマダ充分であるとは言えないが、要は作品をしっかり見つめ、
「オマエ、何が言いたいねん?」
と作品に問いかけていれば、何となく作者の言いたい、思っていることが想像できるのだが、それはそれでエエということなのである。

仮に作家の意図とは異なっていても、こうした齟齬は言語社会においても往々にして起こり得ることなのである。

下も先日の個展で仕入れたもの。
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                        『ひとり散歩』

以来、彼の絵は私にいろいろと語り始めてくれることになった。

絵画も表現のひとつの方法であるなら、どんどん発表せねばと彼の尻を叩いて個展を開催させ、作品の運搬などいろいろと支援もしてきた。

運送業のニイチャンよろしく広島へも走った。

ある時、一緒に飲みに行った帰りのこと、家まで随分遠いので私が携帯電話でタクシーを呼ぶ操作をしていたら「自分と一緒にいる時は止めよ、私は携帯が嫌いだ。」と突然不機嫌になったことがあった。

その彼が、つい最近パソコンを購入してデジタル社会に入り込んできた。

アナログの世界で70年の生活をしてきた彼がである。

私は自分の研究資料をまとめる必要性から、30年前に目玉が飛び出すような価格でワープロを購入し、以来、ニューモデルが発売されるごとに買い替えを繰り返し、94年に初期のパソコンを始めた。

私の場合はキー操作や機能について若干の共通性があったためにパソコンへの乗り換えが比較的スムースにいったが、『70の手習い』となれば私も躊躇せざるを得なかったであろう。

70歳にして尚且つ好奇心旺盛な彼は、やはり素晴らしい人物と評価できるものと考えている。

やはり、『画家』よりも『画伯』と呼ぶべきか。

むむむむむっ。

舌がもつれるような・・・

下は『加藤眞琴』氏が開設したページである。

http://amiroro.blog.drecom.jp/archive/1

まだまだコレからのページであろう。

at 10:46|Permalink

April 28, 2008

ちょっとエエ店・居酒屋『かがり』

医者に叱られるものだから酒を飲む機会を減らすように努力してはきたのだが、どうも自分に対して甘いという評価を下さざるを得ない。

飲酒総量としては減っているし、飲む機会も減ってはいる。

我が家での酒量もビールなら350mlの缶を1つか、25度の芋焼酎を80ml程度、それも毎日ではない。

しかし、友人と顔を合わせた時には自ら定めた制限量をオーバーするのが当然のことのようになってしまっている。

3~40年前には灯りひとつ無かった駅への道であるが、今では下の写真のように飲食店の照明が輝くようになっている。
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もっとも、私が訪れる店は無い。

正しくは無かったと言うべきであり、先日、我が先輩に連れてもらったので無いとは言い切れなくなってしまったのである。

そして今回が2度目である。
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商売っ気が無くはないが、家庭的な雰囲気を感じさせる店で、関西流に言えば『ええ店』なのである。

客である私達が座って飲んでいる横で、「筍、持ってきたでえ」「山椒の葉、摘んできたわ」と、客らしいのが女将に手渡し、女将も野菜のようなものを「これ持ってかえって」と手渡している。

丁度、地元の筍が出回っており、本日の‘お通し’も筍の煮物であった。

すかさず客の一人が、
「山椒の葉を筍に載せんかいな」。

「あっ、そやねえ」
と、女将。

「貝のヒモを湯がいたんやけど、どないして食べたらええやろ」

「そらあ酢味噌やがな」

「でも、何に入れようかなあ」

女将の問いに客らが、あれやこれやと器を指示している。

「これやろか」
「これでええかな」
と、女将。

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筍の煮物、鯛の白子の玉子とじ、筍の天ぷら、マグロ・中トロのお造り、ガッチョのからあげ、貝ひもの酢味噌和え。

この夜、私達が注文した酒肴であるが、『貝のヒモ』は四角い小鉢に酢味噌がかけられ山椒の葉が飾られて提供された。

万事がこのような感じなのである。

酒肴のひとつ、『ガッチョのからあげ』は私にとって何十年ぶりという珍しいものであった。

‘からあげ'と書いたように、これはビールの酒肴として最も口に合うと言えよう。

『ガッチョ』と言うのは『テンコチ』とも呼ばれる白身の魚であり、春から秋口にかけて砂地での投げ釣りでキスに混じってよく釣れる小魚である。

30センチを超えるようなものは見たことが無く、通常20センチまでのものがよく釣れ、形は鯒(コチ)に似ているが別物であり、表皮は鰈(カレイ)やハゼなどと同様に砂地の保護色・模様になっており、平面的には頭部が三角状でエラの部分が張り、その部分に突起(トゲ)が出ているために注意しないと痛い思いをすることになる。

小さいものは頭の部分を落とし、大きいものでも頭を落として中骨を切り取って松葉状にして唐揚げにすると美味しく食べることができる。

私も先輩もマグロ、特に赤身(天)が好きで、この店のマグロは良いものを仕入れていることが2度目に店を訪れた理由のひとつでもある。
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許可を頂いているので目隠しは無し。

ご主人も息子さんもいる女将、ええオバハンである。

息子はんが厨房で調理を担当し、手伝いに20前後のお嬢さんらが3人?だったかローテーションを組んで働き、カウンターは6人程度の席数だが小上がりの座敷が結構広く取ってある。

日本酒は山口県の地酒『東洋美人』を『冷や』で飲めるし、幾つかの銘柄を揃えていたようであるが、通常は『白雪』を提供するらしい。

焼酎は、さして珍しいものは無かったし、ビールも『アサヒ』と『キリン』であって、『サッポロ』が無かった。

客の注文が無いというのではなく、ビール会社の営業担当と店の親密な?関わりによるのであろうが、こうした関わりを私は好まない。

地ビール云々というほどの要求はしないが、『アサヒ』『キリン』『サッポロ』『ヱビス』『サントリー』ぐらいは常時揃えておくぐらいのサービス精神が店には欲しいものである。

ここで帰れば良かったのであるが、先輩は
「ちょっと寄ってみよか」
と。

結構大きいラウンジであった。

長いカウンターに、ゆったりしたフロアには何セットかソファも置かれており、まずまずの店ではあった。
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1級建築士で奈良の舞妓に三味線を指導しているY氏、それに客の一人である往年の美女とも仲良く、70歳の先輩の画家・K氏は上機嫌であった。

もっとも、一人際立って唸っていた客・・・ご本人は歌っていたのであろうが、その歌声とカラオケの伴奏がウルサク、私はこういう店の雰囲気が好きではない。

それにしても随分変わってしまったものである、我が町も。


at 20:58|Permalink

April 18, 2008

裁判官にもマトモな者がいた

裁判官にもマトモな者がいたということを知って少しばかり安堵の気持ちを抱いた。

しかし、少しばかりの安堵と書いているように、大海で指輪を探し当てたようなもので、非常に稀有な出来事であるが故に安堵の気持ちが大きく、本来ならば至極当然のことが当然とは言い得ないツマラン判決を出す裁判官が余りにも多かったために一つの判決が輝きを見せたというだけのことであった。

2003年3月、アメリカはイラクが大量破壊兵器(核兵器・生物兵器)を保有するからとか国連の無条件査察を受け入れないからなどを理由に一方的に戦争を開始した。

このアメリカ軍などのイラク侵攻に関し、小泉元首相は、「アメリカの武力行使を理解し、支持する」と発言し、翌年1月には陸上自衛隊を派遣、3月には航空自衛隊をイラクに派遣して輸送支援行動を開始させている。

今回の名古屋高裁での判決は自衛隊イラク派遣の違憲確認と派遣差し止めを求める控訴審に対するものであり、自衛隊のイラク派遣は政府が何が何でも自衛隊をイラクへ派遣するためにと立法化したイラク特措法にも違反するし、憲法9条の武力行使を放棄する主旨にも違反すると、イラクへの自衛隊の派遣が憲法違反であることを明確にしたものである。

政府がなり振り構わずアメリカ追随の恭順姿勢で戦争協力を行おうとしていたことは、当時のイラク自衛隊派遣についての国会審議でも分かる。

自衛隊を派遣することが憲法違反であることは既に指摘されており、自衛隊の派遣先が戦場であるかどうかについて小泉元首相は「どこが非戦闘地域で、どこが戦闘地域なのか、私に聞かれたって分かるわけがない」と、自衛隊派遣を決定する自衛隊の最高指揮官である日本の総理大臣として非常に無責任極まりない発言をしていたのである。

将に詭弁を弄する狂人的総理大臣を頭としていた国民の一人として嘆かわしい思いを抱いたものであった。

内閣行政府は法律に基づき、法律に規制されての行政を行い、その法律を作る立法権が立法府である国会にあることは国民全てが承知しているはずのことである。

その国会で作られる法律が日本国憲法に照らして事実・条理に違背していないかどうかを見極め判断するのが司法府たる裁判所なのだが、この裁判所での審理を担当する重大な責任を付託されているのが裁判官であることも国民全てが知っていなければならないことなのである。

そうした重要、かつ責任の重い裁判官であるが故に、彼らの自主性を最大限に保証し、行政府からも立法府からも独立した権限・司法としての権限を与え憲法や法律だけにしか拘束されない立場として認め尊重し、国家公務員として身分保障されることを国民が承諾しているのである。       【三権分立の基本原理】

憲法と法律に準拠し、社会状況を極力偏ることの無いよう直視し、不偏不党の立場から真実を見極め良心に従った判決を下すのが裁判官としては当然の責務である。

しかるに、過去の裁判判例史上、ロクなものが無い。
私の主観であるために偏りがあることは認めるが、再審請求棄却判事、有罪判事、行政迎合判事、憲法判断忌避判事と、つまり、ええ加減な裁判官が多過ぎるのである。

裁判官も階級社会に生きる人間であるから下級裁判所の判事よりも上級裁判所の判事となることを望むのであろう。

日本には上下(かみしも)意識というものが国民の価値判断基準の底流にあるものだから、司法修習を終えた判事補や、その他法曹界の人物を最高裁判所が指名して内閣が任命するというシステムの中で、我が身可愛い、上から良く見られたい、だから穏健で迎合的な判決を下す、つまり極端に言えば憲法にも法律にも一応触れているように見せかけて、最終的には自己保身の結論ありきの公平・公正さを欠いた偏った、或いは玉虫色の判決を下すという流れを生み出して来ているのである。と、私には見えるのである。

言い過ぎかもしれないとは思うものの、こうした判決を下す裁判官が実に多いと私自身は感じてきたが、ここ10数年、そうした裁判官が益々増えているように感じている。

おざなりで、お茶を濁すような訴訟指揮に判決。

後は上級裁判所に、そっくり丸投げ。

そして丸投げされた最高裁判所が国会や内閣に遠慮し、独立した司法権の行使を忌避。

こうした司法の態度が法曹界全体を堕落させていると言われても仕方がないのが現状ではあるまいか。

メンツを重んじ、ファッショで点数稼ぎの検察官しかり。

違憲の判断が出されても、その意を尊重する態度を見せない福田首相。

右翼の威圧行動に恐れを為して日教組との会場使用契約を直前にキャンセルした高輪プリンスホテルは違法判決を受けながらも判決に従わなかった。


判決に従わなかった高輪プリンスホテルに対して港区役所は口頭処分という軽い軽い行政指導だけ。

法曹界全てがオカシイのと違うのだろうか。

そう言えば弁護士で知事をしとるのが涙を流したとか・・・

これは『きかん坊』のひとつの姿。

専制的で人に譲ることを知らず、負けん気の強い気性の激しさを良く表している。

役者ならば大したもの。同情でも集めるつもりなのかどうかは知らんが、自ら首長に立候補して、エエ歳して誠にツマラン醜態と言うべき。


at 16:26|Permalink

April 17, 2008

私の誕生旬間

表題を『私の誕生日』とせず、『誕生旬間』としたのには意味がある。

『誕生日』とするなら特定の日となり、‘1年に一度巡ってくる日’と言える。

しかし、この表現は正しくない。

‘1年に一度巡ってくる日'という表現は一面正しい、が、有限の世界に生きる人間について‘1年に一度巡ってくる日'などと、あたかも巡り来るのが当然の如くにとらえるかのような表現はやはりマズイ。

その誕生日をして、若い女性の中には「また誕生日が来た」と露骨に嫌な顔をする者がいる。

自らを『今を盛りの花』に譬えて、おそらく花の美しさに重きをおいた見方をしているのであろう。

『花の命は短くて苦しきことのみ多かりき』

行商を営む家族に従い九州各地を点々とせざるを得なかった林芙美子の言葉であるが、パンダのような化粧に現を抜かす現代女子高生が思う『花の命』とは全く異なるものである。

林芙美子の代表作に『放浪記』があるが、女優・森光子は菊田一夫脚本の『放浪記』で芙美子の役を1961年の初演以来47年間も演じ続けてきている。

最近、舞台での『でんぐり返し』を止めることになったというが、彼女は今年5月に満88歳の誕生日を迎えられることになるであろう。

俳優として好きかどうかという以前に『スゴイ人』と敬服するばかりである。

そんな素晴らしい人には年齢をも含めて遥かに及ばない私も誕生日を迎えさせていただくことが出来た。

昨夜は二組の若夫婦のお招きを受けてご馳走していただき、素敵なプレゼントまで頂いてしまった。
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有り難いことである。

誕生日を祝って頂いたことは勿論嬉しいことである。

が、何よりも誕生日を覚えていてくれたということ、そのことがとても嬉しく有り難いという思いでいっぱいなのである。

その上、元気で共に祝うことが出来たという事に対しても感謝の気持ちで・・・

一瞬緩みそうになったが、昨夜は店の女将の視線が気になってグッと、何とか堪えることができたが、この時の気持ちを博多言葉で書けば、

分かろうもん

ということになり、ゴチャゴチャ説明を必要とはしない。

円筒状のものは私がスコッチを好み、その銘柄まで知っている息子たち(私の勝手な思い込みであるが)のことだから、スコッチであることは当てたものの銘柄はハズレであった。

ハズレと言っても良くないという意味では勿論ない。

私が30数年来好んで飲むスコッチはハイランド・モルトのグレンフィディックの12年ものである。

以前は高い酒であったが並行輸入の関係もあって今は手頃な価格になっている。

しかし、頂いたボウモア・カスク・ストレングスは14年以上熟成させたモルトであってアルコール度数も一般の42~3度よりも高い56度の酒である。

高いお酒なのだろうと思う。 ありがとう。
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そして小さな包み。

この小さな箱の重量感などから中の物を想像したのだが・・・

リタイヤして以降ネクタイを結ぶ事が無くなったしカッターシャツを着ることもないので、『ネクタイピンとカフスのセット』かと思ったが、これは予想から外した。

ライターにしては軽過ぎるし箱が小さいので、これも違う。

箱の大きさからすれば指輪でも・・・

しかし、指輪など装飾品の嫌いな私に「まさか」。

リボンを外し、某デパートの包装紙を取ると『Givenchy』の文字が。

「ええっ、私に香水か!」

一瞬驚きつつも、小箱を開けると円盤状のモノ。

思わず『万歩計』と言ってしまった。

実は今朝方、家内に見せたところ、家内も『万歩計』と言ったのである。

しかし、有名ブランドがいろんな商品を手掛けていることは知っているが、フランスのファッションや香水の有名ブランドである『Givenchy』が『万歩計』というのも、どうもシックリこないものがあったのである。

これはモノを手にとってみても分からなかった。
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仕方なく、このモノが何であるかを訊ねたのだが、

『携帯用灰皿』であった。

初めに「健康で、いつまでも元気で」なーんて言ってくれていたものだから、てっきり健康に関わるモノという考えが予想枠を絞り込んでおり、『万歩計』という思いが最も妥当なものとして浮かんだのである。

娘・「健康にって、健康に悪いものばかりでしたね」

ぶっはははははは

全く愉快。

既に先週より祝いの宴がポツリポツリと。

祝いのメールも頂いている。

誕生日一日だけのことではなく、何日にもわたって皆さんからお祝いを頂き、誠に有難いことであると思っている。

私の場合、誕生日が幾日もあるようで、そのため『誕生旬間』と思うて喜ばせていただいている。


at 11:19|Permalink

April 09, 2008

姫路城 桜満開の時期に

これまで日本各地の城郭を巡ってきた。

北は北海道・松前城(福山城)に五稜郭、南は沖縄・首里城。

城郭に詳しいわけではないが、松前城は日本の城郭として最後の築城で、石垣や礎石などの遺構が残っているが天守閣は昭和30年代に再建されたものらしい。

函館の五稜郭は西洋式で石垣のみ残っている。

沖縄の首里城は日本の伝統的な城郭とは趣きを異にしている。

城というものは戦国時代以降領主の住居という意味もあるが、もともと侵略に対する防御のための軍事施設であり、日本の場合、柵、濠、土塁に物見櫓、時代が下って幅広で深い堀、高い石垣に幾重もの塀、迷路のような道すじとそれを阻む幾つもの門構え、更には物見を兼ねた頑丈な櫓に天守などで構成されている。

しかし、自然災害、火災、太平洋戦争などによって城郭遺構として残っていたり、一部再建されたものはあるが築城完成して以後、完全な姿形で残っている城郭は無い。

そのような中にあって、江戸初期に造営された『姫路城』がかなりの部分において元の姿形を伝え残していることは稀有なことであり、その完成した日本の城郭建造物として国宝の指定を受け、ユネスコの世界文化遺産に登録されていることは至極もっともなことであると言える。
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写真は内堀に架かる桜門橋と大手門、中央遠くに大天守を望む。

城を訪れたのは4月8日、昨日のことである。

大手門を入ったところに広がる『三の丸』広場を囲むように植わる桜は満開。

大天守を構える本丸、手前の二の丸、西側の西の丸と、いずれの桜も見事な咲きようであった。
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上の写真は西の丸の隅櫓の下手より見た大天守と乾櫓(左端)と小天守、それに白く横長の渡り櫓が見える。

姫路城は1333年に当地の守護・赤松則村が挙兵し、砦を築いたことに始まるとされている。

足利高氏(尊氏)が後醍醐天皇に応じ丹波で挙兵したのもこの年のことで、これら守護や土豪らの蜂起によって鎌倉(北条)幕府が滅び建武の新政が始まった。

※(赤松則村は元弘の乱で六波羅を攻めたが、後、足利尊氏に属し、新田義貞の追撃を阻止)

1581年に西国攻めの拠点として、羽柴秀吉が黒田官兵衛孝高の勧めで3層の天守閣を完成。

後、羽柴秀長、木下家定と続き、関が原の合戦後、徳川家康の娘婿である池田輝政が入封(52万石)して1601年から8年の歳月を要し、城域を拡大して5層7階の天守閣を築いた。

この後、池田家は3代続くが、その後に入封した本多忠政(15万石)が長男である忠刻と再嫁した2代将軍・徳川秀忠の長女『千姫』のために西の丸を整備し、現在の姫路城の全容を整えたのが1618年のこと。

以後、松平氏、榊原氏、酒井氏と変わって明治維新を迎えた。
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写真の白い部分が化粧櫓と渡り櫓のある西の丸で桜が満開の状態である。

秀忠の長女・千姫は僅か7歳で豊臣秀頼に嫁ぎ、大阪落城後に忠刻に再嫁して姫路城西の丸で穏やかな日々を過ごしたとされている。
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写真は西の丸隅櫓と渡り櫓であるが、石垣に枝を落とす桜花が見事であった。

丁度、夜間の観桜会が催されている期間中であり、城内一帯の桜の枝の下はブルーシートが広く敷かれ、花見の場所を確保する人たちが座り込んでいたり、既に宴を始めているグループもあった。

これが新入社員の花見担当かと思える黒いスーツ姿の若い男たち7名ばかりのグループも見かけたが、大きいクーラーボックスを3ケースに工事現場用の照明ライト2基、それに大型発電機まで準備しておった。

以前、大阪城で見かけた花見会は僅かな照明のもとでの暗がり花見会であったが、このグループは大層な花見会になるのであろう。

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上の写真は姫路駅から城へ通ずる大手前通りの歩道に据えられた彫刻作品の一つであるが、『裸婦坐像本郷 新氏の作品である。

自動車が走る大手前通りの両側の歩道に、このような素敵な彫刻作品が据えられているのだが、なぜか観光パンフレットでは紹介されていなかった。

(私が気付かなかっただけかもしれないが・・・)

私ならこうした文化紹介活動にはもっと力を入れるのだが。

大手門の所には『国宝・姫路城』の古い石標が建てられているのだが、その直ぐ近くに大きくて立派な黒御影石の『国宝・姫路城』の石碑が建てられていた。

別に2つも必要無いのにと思ったが、『国宝・姫路城』と並んで姫路市長○○と個人名が彫られてあった。

明らかな売名行為である。

個人の寄付行為であっても寄贈者の名前は背面に小さく彫るとか、本来、純然とした寄付行為の場合は名前を明らかにしないものである。

どうも日本人というのは名誉欲というか権威・権力主義を好むと言うか、何とも嘆かわしいものである。

文化財に落書きをするツマラン輩がいるが、国宝であり世界文化遺産に登録された姫路城であっても石碑に名前を彫ったものなら構わないと言うのだろうか。

私には落書き行為とカワランように思えた。

素晴らしい城郭建築を見学し、見事な桜を愛で、本郷氏らの素敵な彫刻に出会い、姫路の町の素晴らしさを感じたのだが、この市長の個人名の入った石碑を見て情けない思いを感じたのは残念なことであった。


at 12:00|Permalink
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