May 2008

May 28, 2008

九州・大分、福岡~韓国へ 【18】豊後高田・熊野磨崖仏・・・3

鬼が一夜で築いた石積みの坂道は段差が一定していないし、足場が安定しないので上りにくい道であった。

途中行き交った2組のアベックと子供連れの家族に、挨拶とともに「あとどれくらい上れば」と尋ねてみたのだが、どうもまだ随分あるらしい。

下って行く彼らの足元もおぼつかない。

石積みの道がやや方向を変えて未だ続く。

更に頑張って上るも石段は続いている。

が、左手の樹々が切れて空が見え始めたと思ったところ、岩肌に磨崖仏が現れてきた。
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上は岩肌に向って左側の不動明王像であり、高さは約8メートル。

写真上の不動明王の右側に刻まれているものを拡大したものが下の写真。

パンフレットによれば、この磨崖仏の彫られた場所が熊野神社の境内であることから、この2体は家津御子(けつみこ)と速玉(はやたま)の2神であり、それらの右に夫須美神がほられていたのではないかと書かれているが、剥落が進行しておりはっきりとは分からない。
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下は、その右側に刻まれている大日如来像で、高さは6.8メートル。
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大日如来像の頭部の後ろには円形光背と種子(しゅじ)曼荼羅が隠刻されている。

このことから、この場所が修験道の霊場であったと考えられる。
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下に不動明王と大日如来の角度を変えて撮った写真を掲げてみたが、不動明王のユーモラスな顔が印象的であった。

通常、不動明王は火焔の前で目を剥き口をギュッと結んで憤怒の形相で宝剣を持っているものだが、この不動明王の表情は何とも愛嬌のあるものである。

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大日如来は半立像であり、宝冠もなく、印も結んでいないので薬師如来とする説もあるらしいが、パンフレットでは古い形の大日如来であろうとしている。

私は仏教を専門とはしないし僧侶でもないので分からないが、仏教の目指すところを一言で言えば人々を救済することであると理解している。

つまり、人々はあらゆる人間的な悩みや欲望といった煩悩によって日々苦しんでいるが、それらの苦しみや悲しみから救ってあげたいというのが阿弥陀仏の本願である。

密教においては、その仏の姿を3つの姿(輪身・りんじん)に分けて見ており、人々を救済する中心に位置づけられているのが自性輪身の如来であり、煩悩を断ち切ることによって救われるという道筋を明らかにするのが正法輪身の菩薩、そして、その煩悩を宝剣で断ち、火焔で焼き尽くす働きをしてくれるのが教令輪身の明王であるとしている。(と思う。)
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従って、不動明王が彫られているのだから下の磨崖仏は薬師如来ではなく大日如来であろうと単純に考えてしまうのである。

そればかりか、ひょっとすると大日如来の右側の岩壁には菩薩像も刻まれているのではないだろうか、埋もれてしまっているとか、或いは既に崩落してしまったのかもしれないなどと、ド素人の勝手な想像はどんどん広がるのである。

動かなくなる寸前の足であったが、大日如来と不動明王の磨崖仏を眺め見て少しばかり楽になったところで、先ほどの鬼が築いた石段を上ることにした。

ここから権現さまの神社までは近い。

木立にかこまれた、さして広くもない平地に木造の社殿が1棟建っているだけであるが、お参りを済ませて元来た石段を下っていった。

金属製の手すりが設けられてはいるものの、石段を下るのは骨が折れた。

途中、2組の人たちが上ってくるのに出会ったが、土産物店のオバサンは店じまいをしているところであった。

冷たいビールでも飲みたいところであったが、車を運転しなければならないのでオバサンが勧めてくれたカボスの飲み物を。

いかに美味しかったかは書くまでも無い。

『杖』を借りたお礼を丁重に申し上げ、一路別府のホテル花菱を目指したが、アクセルを踏む膝がケラケラ笑うのには困ってしまった。


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九州・大分、福岡~韓国へ 【17】豊後高田・熊野磨崖仏・・・2

これまでのところ『杖』はむしろ邪魔であると書いた。

荷物はショルダーバッグだけではあるが、『杖』を使わなければ、ただ持っているだけで片手が塞がってしまう不自由な状態になっているのである。

平地では然程感じはしないが、山道坂道を歩行する場合に両手が自由であるか否かということは、歩き登るという行動に結構負荷を与えるものなのである。

日頃の運動不足だ、太りすぎだ、年だからなどと言われれば返す言葉も無いが、谷沿いの坂道を登り、更に長い石段を上っていけば帽子の内側に汗が溜まっていくのや、汗が背中を伝って行くのが分かるのである。

暦が5月になったばかりだと言うのに初夏の暑さ。風でも吹いてくれれば多少はマシなのだが、歩むスピードがどんどん遅くなるのが分かる。

石段が途切れ、やっと辿り着いたかと思ったところ、
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これまでに無かった急勾配の石積みの道。

しかも、大小さまざまの石が不規則に並んでいる。

何より石段の先が見えず、辿り着く先が分からないものだから、どれほど登ればよいのか・・・

目標が明確になっているのといないのとでは、やろうという意気込みに大きく影響を与えるものなのである。

この石積みの急な上り坂、実は鬼が築いたのだと

霊験あらたかな権現さまが紀州熊野から田染に来られ、近在の人々がお参りするようになっていた。

そんな中、1匹の鬼が住みつき、村人を食べたいと思っていたが、権現さまが怖くて我慢をしていたらしい。

しかし、どうしても我慢が出来なくなって、ある時権現さまにお願いをした。

すると、「日が暮れてから、翌朝鶏が鳴くまでに下の鳥居から上の神殿までの間に100段の石段を造れ。さすればお前の願いをかなえてやる。しかし、もし出来なかったならお前を食い殺す」と権現さまが鬼に約束された。

権現さまは、一夜で100段の石積みなど出来るわけがなかろうと鬼に申されたのだが、人間を食べたい一心の鬼は西叡山に日が沈むや山から石を探しては運び石段を築き始めたのだと。


真夜中を過ぎた頃、権現さまの坐す神殿の近くで何やら音が聞こえるので不思議に思った権現さまが覗いてみると、何と、石段は既に99段まで積まれ、最後の100段目の石を担いだ鬼が石段を上って来るところであった。

権現さまは、村人たちが食べられてはいけないと、『コケコッコー』と鶏の鳴き声をあげた。

鶏の鳴き声を聞いた鬼は、「もう夜明けか、このままでは俺が権現さまに喰われてしまう」と、最後の石を担いだまま夢中で山の中を走り抜け、1里半ほど走った平地で息絶えてしまった。

そこで、その土地を立石(速見郡山香町)と呼ぶようになったんだと。

この石段の写真は熊野磨崖仏管理委員会が発行するパンフレットより転載したものである。

実は、しんどくて写真を撮る気力も無かったのである。

ぶっははははは

【続く】





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May 27, 2008

九州・大分、福岡~韓国へ 【16】豊後高田・熊野磨崖仏・・・1

真木大堂から車を走らせて暫くすると左手へ曲がるようにカーナビが指示を出してくれた。

ナビゲートされるままに走らせると昔の農道を簡易舗装しただけのような道を走ることになり、それが更に細く、そして急な坂道になっていった。

レンタカーということもあり、こんなとこで対向車が来たらと左右に回避できるスペースがあるかどうかを確かめながら進んで行った。

回避できるとしても農家へ続く進入路のような細い道が時々あるだけ。

そんな集落内の急坂の道を抜けた所にやや広い道路が交差していたが、そこから更に細い急坂を登るようにナビが指示する。

かなりの急勾配の道であったが、それを登りきると土産物店が見え、その左手の石積みの前に駐車場が設けてあった。

車が3台駐車してあったので熊野磨崖仏参りか見学の人たちと思い、私も車を降りた。

駐車場の入口辺りに木造の小屋があるので、駐車料金を支払わねばならないのかと思い行ってみた。

が、駐車料金を払うのではなく、熊野磨崖仏の拝観券200円也を支払うのだ。

その小屋の窓口の前に杖が何本も立てかけてあるのに気がついたので、窓口のオバサンに、「杖があるということは登りの坂道がキツイということですかねえ」と訊ねてみた。

すると、オバサン曰く「そりゃあ、もう。持って行った方がいいですよ」と笑っている。

冗談を言っているのだと思っていたら、「ウソは言わんけん」と真面目な顔で付け加えた。

そんなことがあって私も杖を借りて土産物店の前を登り始めたのだが、駐車場の石積みの上にお寺があるようなので、それの石段を上ることにした。
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この寺は、今熊野山胎蔵寺と言い阿弥陀如来を本尊として718年に開かれた天台宗の本山の末寺のひとつである。

末寺とは言え本山の末寺であるから学問をする寺であったのだろうが、磨崖仏との関わりを考えると、やはり山岳信仰として修行寺であったのではと思いたくなる。

下は不動明王の石像であるが、なぜか銀箔をペタペタと貼られている。

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他に七福神も置かれてあったのだが、全て同様に銀箔を貼られてピカピカに輝いていた。

下は打ち出の小槌を持っているので大黒天であろうが、体全体に銀箔を貼られて銀ピカに輝き光っている。

大国様は五穀豊穣の神様なので、お金持ちになりたいという人たちが銀箔を貼ったのであろうか、所々金箔も貼られていた。

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さて、この胎蔵寺の石段を下りて土産物店との間に山の方へ向かう地道があるが、磨崖仏を見るためにはこの坂道を登っていかねばならない。

谷川(と言っても殆ど水は無い)に沿って登って行くのだが、しばらくすれば体中から汗が噴出してくる。

土止めの横木が入れられた山道であるから、さして登りにくいというわけでは無いものの息遣いが荒くなる。

一人で山登りのようなことをするのは心細くもあり、余計にしんどいものでもある。

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背中が汗でビショビショになったところで写真のような石畳の道に変わったため、「ああっ、もう直ぐやな」と喜んだものの、この石段が結構続くのである。

これまでのところは未だ杖を必要とするほどでもなく、「何や、この程度かいな」と思い、むしろ杖が邪魔に思えるほどであった。

             
続く





at 14:17|Permalink

九州・大分、福岡~韓国へ 【15】豊後高田・元宮磨崖仏から真木大堂

富貴寺から少し車を走らせると元宮磨崖仏に出会える。

田染中村の交差点にあって、駐車スペースのある場所とは向かい合う位置に元宮磨崖仏はある。

地名が田染であることから六郷のひとつの田染であることが分かるし、この元宮磨崖仏の他にも夕日・朝日観音や大門坊磨崖仏などもあるのだが、駐車場と時間の関係で訪れる場所を絞らざるを得なかった。
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元宮磨崖仏は上の写真の通りであるが、雨水からの保護のため覆い屋根がかけられている。

元の状態では無いが、少しでも長く保存するためには致し方の無いことであろう。

もっとも、日本の『文化財保存』に関する調査や技術に関しては失敗例も無いでは無い。

最近では奈良県・飛鳥の高松塚古墳の壁画の保存での失敗があるし、やや古く戦前のことになるが、1910年代の頃、韓国・慶州の仏国寺にある石窟庵の巨大な石仏の保存も失敗の例である。

石窟庵の石仏については周囲が部分的に崩壊していたりしたためセメントによる人工的天蓋を設けたりしたらしいが、セメントから出る炭酸ガスによって御影石造りの石仏坐像が損傷を受けたり、流水径路を変えることで自然に湿度管理されていたバランスを壊したりと、現在はガラス張りにして湿度を一定に保つように為されてはいるが、かなり好い加減な土木工事まがいの保存工事を施してメチャクチャにしていたらしい。

もっとも、そうした失敗があったからこそ現代の保存技術へ発展的に継承されてきている面があるとは考えるが・・・
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これらの写真は、いずれも部分拡大であり、磨崖仏が不動明王であることが分かる。
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この元宮磨崖仏を右手に見ながら真っ直ぐに進むと右手に真木大堂がある。

真木大堂は、最も隆盛を極めた頃の六郷満山65ケ寺のうち36坊の霊場を有した馬城山伝乗寺のことであり、奈良時代(養老年間)に仁聞菩薩によって開かれた後、平安時代の浄土信仰が栄えた当時は七堂伽藍を備えた大寺院であったらしい。

しかし700年前に火災で焼失、その後も衰退して、私が訪れた時は寺務所と修復工事のためにか完全に工事用パネルで覆い尽くされた本堂があるだけの小さな寺であった。

安置されているはずの仏像(藤原時代・木造)は寺に無く、拝観料を徴収する寺務所も閉じられており、残念と言うか何とも淋しい思いがした。

宇佐市の風土記の丘にある歴史博物館に仏像は保管されているらしいが、今回はこれら仏像との面会は果たせなかった。

せめて真木大堂のパンフレットの写真より
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上の写真は大威徳明王像(藤原時代・木造・1.3m)

白牛に乗って火焔光背を背負う忿怒の形相には畏敬の念を禁じ得ないものがある。

下は、阿弥陀如来坐像の頭部。

藤原時代の作で木造、2.2m。

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残念だが再来を期して国東半島最大の熊野磨崖仏へ向かうことにした。

at 10:37|Permalink

九州・大分、福岡~韓国へ 【14】豊後高田・富貴寺の続き

富貴寺の仁王門をくぐって更に石段を上ったところに国宝・富貴寺の大堂が静寂な山間の樹々に囲まれるように落ち着いたたたずまいで建っている。

ゆるやかな曲線を描くように四方にのびる宝形造りの堂屋の甍、それに長年の風雨に耐えてきた扉や柱の朽ちた色合いが大堂を一層幽雅で風情あるものにし、周囲の状況と相まって静謐なる空間を醸し出している。
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富貴寺は山号を蓮華山と言い、蕗寺とも言うらしい。

大堂を囲む樹陰には山蕗が茂っていたのかもしれないなあと想像を掻き立てられる。
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大堂は総榧(かや)造りで内部は板間になっており、堂の周囲は廻り縁になっている。

堂内での撮影は禁止されているが、内部の照明や外部から陽光の反射があるために堂の外側から写真を撮ってみた。
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富貴寺で頂いたパンフレットには大堂も、その内部も、その他の石造についても良い写真が印刷されているので、それで充分であると考えるが、幾分暗い堂内を外部から撮ってみたらどういった写真になるかという程度の考えであったが、意外と良く取れていたので載せてみた。

写真4本の柱に囲まれた内陣台上に阿弥陀如来坐像(重文)が安置され、天井は細かな格天井で、長押上部には幾つもの仏像が描かれ、阿弥陀如来坐像の背後の壁面には浄土変相図(重文)が描かれている。

浄土変相図は何やら大伽藍が目立つ壁画ではあったが・・・

写真ではいずれも良く分からないが、壁画の劣化は随分進行していたように見受けられた。

本尊である阿弥陀如来坐像は蓮華座の上にあり、二重光背の木造仏で藤原時代後期の作とされている。

また、本尊の阿弥陀如来坐像のほか、同じく藤原時代後期作の阿弥陀三尊として阿弥陀如来坐像、勢至菩薩立像、観世音菩薩立像も安置されている。

下は石造の国東塔の写真である。

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国東塔と言うのは、以前杵築城の項でも書いたが宝塔や宝篋印塔、或いは供養塔や墓碑塔と呼ばれているものと同じである。

鎌倉時代以降に一定の形式が成立したものの地方によってその形に若干の異なりがあることから、国東地方の宝篋印塔を特に国東塔と名付けられているとのことである。

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大堂の横には国東塔のほか、古い時代(1368年)の石造・地蔵菩薩坐像なども並んでいる。【上の写真】

下の写真は富貴寺大堂の横の石段と鳥居(石造)であるが、鳥居は神社の象徴であり、我が国独特の神仏混淆の姿を表しており興味深いものである。

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738年、宇佐神宮は境内に神宮寺である「弥勒寺」を建立し、僧・法蓮を別当にしているし、749年には奈良・東大寺の大仏造立の際、鎮守神として宇佐神宮より勧請し手向山八幡宮を建立していることなどを思い出す。

前ページの最初の写真で示した富貴寺の石段横の石灯籠・・・これは正しくは石灯籠ではなく石幢(せきどう)と呼ぶ【燈籠のように火袋が無い】・・・などのような石造文化財が国東半島の至る所で見ることができ、国東はもっともっと時間をかけて巡りたいものと思った。

時間が限られているので先を急ぐことにする。


at 06:06|Permalink
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