May 2008

May 26, 2008

九州・大分、福岡~韓国へ 【13】豊後高田・富貴寺

当初は豊後高田の真玉付近の石仏をも巡るつもりであったが、時間的に余裕が無くなってきたので富貴寺へ急ぐことにした。

以前に書いたが国東半島には天台密教(台密)の修行寺が多く、それら六郷の寺々65ケ寺全ての寺院を称して六郷満山と呼んでいるが、それらを統括していたのが西叡山高山寺である。

天台宗の総本山は滋賀県の比叡山延暦寺。

東の比叡山という意味で東京には東叡山寛永寺があるように、西の本山という意味合いで大分県・国東には西叡山高山寺があって日本三叡山とも言われている。

もともと国東半島は土着の信仰としての山岳信仰の場であったらしいが718年(養老2)に僧・仁聞が千燈寺を開き、その後、国東半島の両子山の谷の各地に計28の寺院を開いたのが国東半島における天台密教の始まりとされている。


仁聞は6万9千体の仏像を造ったとされるが、6つの郷(六郷・・・武蔵、来縄、国東、田染、安岐、伊美)において学問をするための本山(もとやま)、修行をするための中山(なかやま)、布教をするための末山(すえやま)の3つの群に分け、これら六郷の寺々を合わせて満山としたことから六郷満山と呼ばれている。

富貴寺は西叡山高山寺の末寺のひとつであったらしいが、仁聞の開基で現在の建物は平安時代後期のもので九州最古の木造建築として国宝に指定されている。

では、写真で富貴寺に参拝してみよう。
4b56e2b0.jpg

苔むした石段を登って行くと仁王門に至る。
9e11adbe.jpg

安養閣・富貴寺の額がかかる山門の左右に石造の阿形吽形の仁王が立っている。

山門に向って右手が阿形。下の写真。
249609eb.jpg


山門に向って左手が吽形。下の写真。
62e43c1e.jpg


阿形吽形というのは『阿吽の呼吸』などと称して相手方との息がピッタリ合う場合の表現に用いるが、古代インドの文語・サンスクリットでの【ア】(阿)は口を開いて発する音声であり、【ウン】(吽)は口を閉じる時の音声であり、万物の始めと終わりを象徴する意味である。
d574dd9a.jpg

4c395bf4.jpg

そうした意味合いから密教では【阿】を万物の根源とし、【吽】を一切が帰着する智徳と考えているとのこと。

ただ単に表情が違っているというだけでは無いということである。

ところで、六郷満山を統括していた西叡山高山寺であるが、平安時代に比叡山を凌ぐ勢力を誇り、国東に65ケ寺もの寺院を擁した時期があったそうだが、それを妬んだ比叡山の僧侶によって焼き討ちされて無くなったということを聞いた。

欲しい、惜しい、妬み、腹立ちなどは人間の強欲を代表するようなことであるが、仏法に仕え、それを守り、広めようとする僧侶が同じ目的にある他の寺を焼くなどとは・・・怪しからんと言うよりも情けない思いで話しを聞いた。

他の寺を焼くという愚行にまでは至らないまでも、他の宗教、宗派と、それらを信仰している人たちに対し、邪宗と罵り貶して広宣流布する某宗派の講・S学会がオーバーラップして見えた。

時の権力と結び付いて仏教・僧侶ともに堕落した歴史は我が国にも隣国にもある。

この某宗派の講・S学会は講に所属する会員組織を基盤として自ら政党までをも組織し、権力にすり寄り、自らも権力の一翼を担うまでになっている。

宗教と政治・・・歴史を学習しつつ道を踏み誤らないように願うばかりである。

先の西叡山高山寺が約700年ぶりに再興されたらしいが、随分時間がかかりそうなので今回の参詣はしないことにした。

富貴寺は次にも続く

at 17:51|Permalink

九州・大分、福岡~韓国へ 【12】豊後高田のI氏

宇佐神宮を後にして10号線を東へ走ると程なく213号線との三叉路に出る。

左手の213号線は国東半島の海岸線をグルッと一周して別府の隣・日出町で10号線に合流する道である。

豊後高田市へ入って213号線の新町交差を右折し、豊後高田郵便局手前の交差点を左折すると昭和ロマンの町・・・と言っても小さなアーケードも無い商店街といった風情の一画であるが、最寄りの駐車場と思っている間に商店街へ入り込み、アッと言う間に商店街を通過して213号線へ出てしまった。

実は豊後高田郵便局手前の交差点を入ったところ直ぐ左右に駐車場があったのだが、より近い所をと考えたのがいけなかった。

結局、先に通過した立派な甍の妙壽寺(浄土真宗)隣の駐車場に車を入れた。

明日が九州へやってきた最大目的であるY君とHさんの結婚披露宴の日であり、この豊後高田がHさんの実家のある町なのである。

明日の件もあり、Hさんのご両親にご挨拶すべく電話をかけるとお母さんが出られ、「主人が迎えに行きますから」と、遠慮申したのだが結局ご主人に来て頂き、先方の車でお宅へ連れて頂いた。

その後、ご主人の案内で昭和ロマンの町を歩いて見て回ったが、行く先々お知り合いばかり。

市役所、商工会議所、昭和ロマン蔵から数々の商店と・・・小さな町であり、この町で育った方ではあるが老若男女、余りにお知り合いが多いので正直なところ驚いてしまった。

私どもの町では市長、議員と言えどこれ程に顔の広い人はいない。

ともかくも小さいとは言え昭和ロマンの町を全て案内して頂き、車を駐車してある所まで送って頂いて別れた。

ご挨拶だけのつもりであったが、3時間強の時間を潰させてしまった。

このページでもお礼を申し上げておきたい。




at 14:47|Permalink

May 25, 2008

九州・大分、福岡~韓国へ 【11】宇佐神宮--?

先に宇佐神宮(八幡宮)のご祭神について書いたが、一之御殿に応神天皇、二之御殿に比売大神、三之御殿に神功皇后が祀られている。

下の写真が上宮で、右の黒っぽい建物が社務所で、左側の朱塗りの回廊の中央、2階構造の部分が南中楼門で1742年(寛保2)の建立である
813484ba.jpg

国宝の八幡造りの神殿・一之御殿、二之御殿、三之御殿は、この朱塗りの桧皮葺きの回廊の奥にあって外側からはよく見えない。

南中楼門のある場所に二之御殿があり、比売大神を祀っている。

南中楼門の左右に拝殿があり、各拝殿ごとに数段の石段が設えられている。

上の写真では手前から一之御殿、二之御殿、三之御殿と並んでいる。


下の写真は社務所の側から見たものであり、最手前石段の拝殿の奥に神功皇后が、2番目の石段のある楼門の奥に比売大神、3番目の石段の奥に応神天皇が祀られている
5557536f.jpg

神功皇后の三韓征伐というのは、当時の新羅、百済の国を征し、高句麗も従えさせたもので340年~346年頃のことである。

そのことについて神功皇后が行ったのかどうかは分からないが、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)の業績を称えるため息子・長寿王によって建てられた石碑である広開土王碑には『百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡?破百残??新羅以為臣民』と刻まれ、“百済と新羅は属国であったが、倭が辛卯年(391年)に?を渡って百済と新羅を打ち破って従えてしまった”ということを記している。

広開土王碑の建立が414年と記されており、日本には史実として明確に出来る文字による記録文化の無かった時代であり、当時の日本の様子は中国や朝鮮半島の国々における文字記録によって傍証的に知る事が出来るだけである。

日本に仏教が伝わったのは欽明天皇に対し百済の聖明王の使者が金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上した時とされ、元興寺縁起では538年のこととされている。

『隋書』「倭国伝」【唐・魏徴(580~643)】では、「倭国は百済・新羅の東南にあり・・・文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏教を敬す。百済において仏教を求得し、始めて文字あり」と記されていることから、日本において記号文字として漢字が用いられるようになったのは仏教が伝来した538年以降のことと考えるのが妥当なように考える。

c1071887.jpg

一之御殿、二之御殿、三之御殿の拝殿と向かい合う位置にある回廊

奥宮を遥拝するための窓枠も、この回廊に設えられている


『古事記』や『日本書紀』では応神天皇の時期、284年に千字文(せんじもん)などによって漢字が伝来したかのごとき記述が認められるが、これは無理なことである。

千字文は漢字を教えるために異なる1000種類の文字を使った漢文の長詩で、南朝・梁(502 - 549年)の武帝が文官・周興嗣(470 - 521年)に作らせたものであって、270年~310年の在位であった応神天皇の時期には無かったものである。

『古事記』・応神記では、『故受命以貢上人、名和邇吉師。即論語十巻、千字文一巻、并十一巻、付是人即貢進。』・・・(百済は、応神天皇の)命令を受けて和邇吉師という名の人を奉った。そして、論語10巻・千字文1巻の合わせて11巻(の書物)をこの人に付けて献上したと記されている。

『日本書紀』・応神紀では、『十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直岐。(中略)阿直岐亦能讀經典。即太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰、「如勝汝博士亦有耶。」對曰、「有王仁者、是秀也。」(中略)十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。習諸典籍於王仁。莫不通達。』・・・(応神天皇)15年(西暦284年)の8月6日、百済王が阿直岐を遣わした。(中略)阿直岐は(儒教の)経典も読むことができた。そこで、皇太子である菟道稚郎子の先生にした。ここにおいて、天皇は阿直岐に「お前より優れているような博士はまだいるか」と訊ねた。(阿直岐は)「王仁という者がいまして、この者は優れています」と答えた。(中略)(応神天皇)16年(西暦285年)の2月、王仁が来た。ただちに王仁を皇太子である菟道稚郎子の先生にした。(皇太子は)諸々の典籍を王仁に習い、理解しないものはなかったと記されている。

下の写真は下宮で、上宮と同様に一之御殿に応神天皇(八幡神)、二之御殿に比売大神、三之御殿に神功皇后が祀られている
b08e4973.jpg

しかし、記号文字として史実に符合する記録が無いからと言って仏教が伝来した538年以前の日本で漢字が用いられていなかったという証明にはならない。

4世紀に百済から倭へ贈られたとされる国宝・七支刀(日本書紀では七枝刀)には金象嵌による銘文が刻まれているし(天理市・石上神宮)、107年には倭国王帥升が生口を160人献じたこと、239年、243年と卑弥呼が魏に使いを送っていることや、248年に卑弥呼が亡くなったこと、また、もっと古くは57年に倭の奴の国王が後漢の光武帝に使いを送り、印綬を授けられたことなどが後漢書東夷伝に書かれているが、漢字文化の国々との交流において記号としての漢字が用いられていなかったなど考えられないことであり、記録として残っていないだけと解釈すべきであろう。

下は寄藻川に架かる『呉橋』。
a285322c.jpg

屋根が付いている橋というのも珍しいが、昭和初期までは、この西参道が表参道であり、宇佐使が参詣する道であることから勅使街道と呼ばれていたらしい。

鎌倉時代以前に架けられた橋らしいが、1622年(元和8)細川忠利によって修築されて以後、幾度かの改修があったらしいが大分県の有形文化財の指定を受けている。

初めての宇佐神宮参拝であったが、大陸や朝鮮半島との交流の窓口であった九州・筑紫に近く瀬戸内海上交通の拠点とも言える位置にある宇佐、古代より拓けていた土地に於ける巫術(シャマニズム)といった土着の信仰に加えて神仏混淆の歴史をもつ宇佐、或いは邪馬台国の畿内説と九州説、卑弥呼が桜井の箸墓に眠る夜麻登登母母曾毘賣命(古事記)倭迹迹日百襲姫命(日本書紀)なのか、一説にある神功皇后と同一人物であるとする説など、宇佐神宮に関わって古代の史実として明確な記録の無い時代に思いを馳せながら宇佐八幡宮の広い境内を歩いた。

宇佐八幡宮だけに絞っても想像の域は広いのに、想像が想像を呼び、更にまた想像が広がるという大変愉快な時間を過ごすことができた。

想像といえば宇佐神宮の二之御殿に祀られている比売大神が宗像の三神と同じであることを書いた。

宗像の三神とは、多岐津姫命」(たきつひめのみこと)「市杵島姫命」(いちきしまひめのみこと)「多紀理姫命」(たきりひめのみこと)の三柱の神であるが、広島県・厳島神社にも「市杵島姫命」(いちきしまひめのみこと)が祀られている。

「市杵島」(いちきしま)に「厳島」(いつくしま)・・・宇佐より周防灘を回り込めば厳島である。

更に思いが広がる。

宇佐から昭和の町・豊後高田市は直ぐである。



at 10:36|Permalink

May 24, 2008

九州・大分、福岡~韓国へ 【10】宇佐神宮--?

中津城を後にして、しばらく213号線を走ると10号線に合流する。

宇佐神宮への看板が道路わきに掲示されているので間違うこともないが、10号線を右折すると直ぐに広い駐車場がある。

ここは無料ではなく、出庫の際にコインを入れるとゲートが開くシステムになっている。

この駐車場と広い参道を挟んで土産物店が建ち並び、参道の先に朱塗りの大鳥居があって、土産物店もココまで。
72acb728.jpg

この大鳥居をくぐると細かい砂利を敷き詰めた参道が続き、左手に宇佐参宮鉄道時代のものか蒸気機関車が展示されており、右手に寄藻川への支流が流れている。
c827efce.jpg

この支流にかかる橋を渡ると緑濃い神域と言える参道を更に進むことになる。

やがてまた大きい鳥居を見ることになるが、参道はここからも続き左右に社殿や神社関係の建物や池が広がり、神宮域が相当に広いことが想像できる。

993a860d.jpg

宇佐神宮は一度訪れたいと思っていただけに神宮域をキョロキョロしながら歩いていった。

平日ということもあってか参拝者が多いとは言えないが、伊勢神宮に次ぐと言われているだけあって歩くだけでも相当な距離であると感じた。

上の大鳥居をくぐると左手の方に宇佐の3つの山に囲まれた菱形池があるのだが、このあたりに八幡神が初めて現れたのが571年(欽明天皇32年)のことであったそうな。

童児となって現れ出でた八幡神は、「我は、誉田天皇廣幡八幡麻呂、我名をば護国霊験威力神通大自在王菩薩」と語ったと『八幡宇佐宮御託宣集』等に書かれているらしい。

この誉田天皇(ほむたすめらみこと)は誉田別天皇(ほむたわけすめらみこと)とも言われ、神功皇后が三韓征伐の際に皇后の胎内にあったことから胎中天皇とも呼ばれる応神天皇のことである(とされている)。

応神天皇は神功皇后の三韓征伐の帰途、宇瀰(うみ)、現在の福岡県糟屋郡宇美町で生まれたとされ、その御陵は大阪府羽曳野市にある5世紀初めの前方後円墳・誉田(こんだ)古墳であるとされている。

応神天皇御陵(誉田古墳)は二重に堀をめぐらし、仁徳天皇御陵(堺市の大仙古墳)に次いで第2位の規模を持つ広く大きい古墳である。

応神天皇については、また後に述べねばならない。

つまり、571年に宇佐の地で八幡神の託宣があったということが宇佐神宮(宇佐八幡宮)の元始まりであるというわけである。

広い参道を進むと、下のような大鳥居があり、そこからは石段が続き、その左右は神宮の歴史を感じさせる巨木が陽光をさえぎっている。
c52d2268.jpg

上の写真の右手の鳥居をくぐって行くと下宮があり、私は左手の鳥居をくぐって石段を登って行った。

広い神宮境内を歩いた上に更に石段が続くのには少々参ってしまった。

5月に入ったばかりだというのに、かぶっていた帽子は汗でビショビショ、ずつしりと重くなってしまっていた。
604d2d90.jpg

石段を登りきり、ようやく辿り着いた上宮の入口となる神門が上の写真の西大門である。

切妻、唐破風の桧皮葺きという桃山風の唐門は1592年頃(文禄年間)に改築されたものらしいが、豊臣秀吉の頃の豪奢な建築様式を見てとることができる。

宇佐神宮(八幡宮)の祭神は、応神天皇、比売大神、神功皇后の三柱の神様であるが、比売大神というのは多岐津姫命」(たきつひめのみこと)「市杵島姫命」(いちきしまひめのみこと)「多紀理姫命」(たきりひめのみこと)の三人の女性神であり、宗像三神のことであるとも言われている。

日本書紀巻第一神代上第六段一書第三の条に「則ち日神の生れまする三の女神を以ては、葦原中國の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。号けて道主貴と曰す。」(訳)と記されていることから、この三柱の神が宇佐の御許山に天降ったという立場を主張する向きもある。

その御許山(大元山)を宇佐神宮では奥宮として上宮から遥拝できるよう、上宮を囲む塀(壁)の一角を開けている。
695f2653.jpg

遥か遠くに霞む山が御許山(大元山)であり、奥宮が祀られているらしいが、ここは訪れ(参拝し)ていないのでわからない。

が、3つの巨石があるということなので、古代原始信仰の『磐座(いわくら)』であるのかも・・・【つづく】



at 14:51|Permalink

慌しい広島行(ギャラリー・バザレ&ひろしま美術館)・・・4

ひろしま美術館での『マティスとルオー』展を鑑賞して、県庁前よりアストラムに乗り『やすひがし』駅まで行った。

この駅は安田女子大学の学生が乗降するので女子大生の一団に混じって改札を出たが危うく大学の方へ行ってしまいそうになった。

集団に紛れ込んでしまうと自分の意思とは関わり無く無意識的に集団の行動に沿った行動を取ってしまうことがある。

が、ここで無意識という言葉を使うことは厳密には正しくない。

脳の科学や心理学的には、無意識とは意識が無いことであって、意識が無いと言うのは死んでいることだから、コレは間違った言い方ということになる。

あえて意識という言葉を使うならば、無意識ではなく、意識しようとせずにといった使い方がベターになるだろうか。

それはともかくギャラリー『バザレ』は安田女子大学とは逆の方向に向かい、安東駅南出口からほんの2~3分のところ、安川の堤の角のビルにある。

記憶していた通り、表側のビルから中へ数段階段を下りた中庭に面してギャラリー『バザレ』はあった。

打ちっ放しのコンクリート壁に加藤氏の作品が掛けられ、ギャラリーの中心部や、一部壁の前に置かれた台上にも小品が展示されていた。

ギャラリーは床面が広いことに加え天井も高く取ってあるので、広々した空間の中で加藤氏の明るい色調の絵が一層輝いて見えた。

今回の絵は大小いずれも明るい感じのもので加藤氏の作風というか特徴のよく表れたもので占められていた。

気に入った作品が数点あったが、我が家も絵を掛けるスペースが限られているため、結局お気に入り第3番手の小品を1点だけ購入することにした。

絵を掛け、保管できるスペースがあり、フトコロ潤沢なら何枚でもというところだが、今回は出費多く難しい。

私も野放図に使えるほどの資産家ではなく僅かな年金生活者であるため、出す時には思い切って出すが、その時以外は爪に火をともすような生活をしているのである。

ギャラリー前のコートヤードで5月の陽光を浴びながらコーヒーを頂き、ノンビリとした時を過ごさせていただいた。
1f458a3a.jpg

上は『ひろしま美術館』の中庭である。


美術館の白い壁、新緑の樹々にサツキの花が見事であった。

彫刻は、『清水多嘉示』(しみず たかし)

“爽やか(Refreshing)”

テーマとの調和も素晴らしい作品である。


3時過ぎであったろうか、昼間っからでも飲める源蔵という店が、そごうデパートの7階にあるので、そこでイッパイやってから袋町芸術館を覗いてみた。

このギャラリーはビルの2階であり、さして広くも無いのだが本通商店街に近いということで便利が良く、同好の士には重宝されているらしい。

丁度、蔵場絢子という若い女性(年齢は知らないが20代後半かな?)の陶器展をやっていたので観覧し、カリフォルニア・ワインを飲みながら作家と語らった。

作品は生活食器であり、取り立ててオモシロイというものでは無かったのだが・・・(辛口批評だが作家の女性には直接伝えた・・・それが礼儀であると私は考えるから)。

我が家で使える食器であったことと、彼女への奨励の思いも込めて数点の買い物をした。

展示が終われば送ってくれることになっているが、届いたなら改めてじっくりと観てみたい。

袋町芸術館を出て、1軒だけ立ち寄った店で加藤氏が体調悪く退席。しばらくしてから追うも行方知れず。携帯電話で呼び出せど通ぜず。リーガロイヤルへは2名宿泊の旨連絡していたのできっと連絡あるものと仕方なく知り合いの店で事情を話して待つ。

やっと連絡つくも何らかの齟齬があったのか、別々のホテルへ。旅先でのハプニングは頭がコンガラガッテしまう。

翌早朝のメールに返信したけれど、連絡つかずに待機しているところへ神戸の友人からの急用。

ややこしい時にはややこしい話が重なるもので、止む無く帰ることに。

全くもって慌しい広島行であった。


at 09:17|Permalink
記事検索
月別アーカイブ