July 2008

July 31, 2008

私は麗子が好きである

『私は麗子が好きである』などと書けば、きっと世界中の麗子さんたちは驚き、私は彼女達からお叱りを受けることになるであろう。

つまり名前は個人を特定するものではあるが、世の中には同名の方も多く間違えることも多いものだ。

中国古代の詩集として掲げられるものに孔子の編と言われる『詩経』と、戦国時代の楚の国の屈原と門下らの作品を集めた『楚辞』があるが、この『楚辞』に『麗而不奇些』とある。

漢文を横書きというのもオカシイが『ウルワシクシテ イササカモ キ ナラズ』とでも訳そうか。

つまり『麗』という文字の持つ意味合いは、すっきりと澄み整い綺麗な様を表していると言える。

『名は体を表す』と言うように、『麗』の字を持つ麗子さんはきっと美しい人なのであろうし、名付けた親御さんもそう望み、その願いを名前に託されたのだと思う。

『名は実の賓(ひん)』という言葉もあるように、人間の美しさは徳(心根)が主であって、外見的な美しさや名誉などといったものは従であり、徳を積んでこそ外見・外形的なものが初めて光り輝くものになるということである。
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ところで、私が言う『麗子』とは上の写真の『麗子』である。

大正期の日本における洋画家・岸田劉生が描いた彼の愛娘『麗子』の肖像である。

上の作品『麗子像』は大正10年(1921)の制作で、国の重要文化財に指定され東京国立博物館に収蔵され切手にもなっている。

劉生の言葉からレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ(Monna Lisa)』【La Joconde】の微笑に触発されて描いたと考えられるが、確かに『麗子』のつつましやかな楚々とした表情に表れる穏やかで優しい微笑はジョコンダの微笑みに感じとして似ていなくもない。
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上の写真は同じ『麗子』であるが1920年制作の『毛糸肩掛せる麗子肖像』であり広島県佐伯郡の(財)住建美術館(現・ウッドワン美術館)の所蔵作品である。

岸田劉生は『麗子』像を何枚も描いており、『麗子弾絃図』(京都国立近代美術館蔵)、『 麗子五歳之像』(東京国立近代美術館蔵)、『林檎を持てる麗子』(愛知県小牧市のメナード美術館蔵)、『麗子十六歳之像』(ふくやま美術館蔵)などがあるが、まだ全てを見ていない。

岸田劉生の言葉を大原美術館のカタログ『?日本の洋画』において小倉忠夫(国立近代美術館)が抜書き解説している。

麗子の肖像をかいていたら、僕は又一段或る進み方をした事を自覚する。今迄のものはこれ以後にくらべると唯美的な美が主で、これより以後のものよりは唯心的な域が多くなってゐる。即ち形に即した美以上のもの、その物の持つ精神の美、全体から来る無形の美、顔や眼にやどる心の美、一々に云えば深さ、この事が僕はこの子供の小さい肖像を描きながら或る処まで会得した。この事はレオナルドに教へられる処が多かった。 」(1919年)・・・劉生の言葉の引用部分

こうした点での劉生と、その彼の作品である『麗子』を私が好きであるということを知っている1年先輩のK氏は私信に下の写真のような『麗子』の絵葉書に『麗子』の切手を貼って送ってくれるのである。
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先輩K氏は哲学の専攻で私は教育学だったし、学年が1年違っていたこともあって在学中に親しく交流するということもなくK氏は広島県の役所へ、私は関西の学校へと夫々の歩む道を進んだのだが、10年前に私が某研究会を担当するようになって親しく交流するようになったのである。

しかしながら郵便物のことゆえ消印が押されるのだが、その消印が『麗子』の顔をメチャクチャにしてしまうことがあるのだ。

機械による作業ゆえ仕方がないとは思うのだが、刺青を顔に彫った『麗子』など・・・コレハ『麗子』デハナイ。

そのことを先輩K氏に伝えると、まっさらの『麗子』の葉書が封書で届けられるのである。

嬉しいの何の、小躍りするような気持ちで封書を開くのだが、不思議なことは一体何枚の『麗子』の切手、『麗子』の絵葉書を持っているのだろうかと・・・

『麗子』ばかりではない。
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広島在住のゆえからか宮島・厳島神社のものまで。

と思いきや広隆寺の弥勒菩薩像の絵葉書に切手。
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切手を蒐集する者のタイプは幾つかに分かれる。

記念切手などが発売されると、それを1枚から数枚を買って蒐集を楽しむタイプ。もう一つのタイプはシートで買って蒐集することを楽しむと共に、その切手の価値が上がるのを楽しみにするタイプではないだろうか。

実は私も切手蒐集をしていた。

初めて買った切手は浮世絵の『ビードロを吹く女』、これを小遣いをはたいて1枚だけ買った。と言うより1枚しか買えなかったのである。

その当時は今のように頻繁に記念切手が発売されたわけでもなく、発売枚数が多いわけでもない。その上に学校から帰ってからでなければ郵便局まで買いには行けなかった。

だから買えなかった記念切手もあるが高校を卒業する頃までは蒐集していた。ところが甥っ子が切手蒐集をしており、先に書いた『ビードロを吹く女』が欲しいけれど無いので・・・と、せがむものだから、私にとっては思い出深い切手ではあったが、他に欲しいというものと合わせてあげてしまった。

私は1枚1枚の切手を集めていくのが楽しみであって、先輩K氏のように沢山の切手を買ったという事がないし、K氏のように切手に合わせた絵葉書を求めるということをしてこなかった。
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上は先輩K氏より送って頂いたものの一部であるが、切手が貼られた絵葉書を一枚一枚を眺めていると、切手だけを一枚一枚見ているのとは違った良さがあるものだと思っている。

多分、先輩K氏も何十年と切手と絵葉書を集めてこられたのであろう。それを今、記念切手と同じ絵柄の絵葉書に貼って私信を出すことを楽しみにしておられる。

ちょっと早いかと思えるが身辺整理をしつつ、そのことを楽しみとされている。

その楽しみを頂いて私も楽しませて頂いている。

人間世界相身互い持ちつ持たれつ助け合い。

形に即した美以上のもの、その物の持つ精神の美、全体から来る無形の美」・・・劉生の言葉に頷きつつも猶達観し得ぬ私ではあるが、『麗子』は美しいと思う。

at 07:39|Permalink

嬉しい爆弾・・・(ほや)

爆弾が到着したと言っても別に戦争状態にあるわけではない。

もっとも戦争当事国であっても、この爆弾では目的を果たすことはできない。

むしろ、現に国家間や内戦などの戦争状態にある国や、世界中のテロリストたちが、この爆弾を使用するならば地球上は素晴らしい世界になるのだろうが・・・。

ここで言うところの爆弾とはほやのことである。

昨日の午前11時過ぎであったろうか、仙台・奥松島の『Sママ』が送ってくださったモノである。【下の写真
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質・量・大きさ全てにおいて優良品である。

Sママ』と言ってもクラブやバーの類いのママではない。

ご主人の会社のマネージメントを行いつつ、非常勤ではあるが医療業務(有・国家資格)に従事し、舅姑のもとで家事一般をこなしながら4人のお子さんを立派に育てておられる将に『肝っ玉母さん』のお手本のような方である。

もう10年にもなるだろうか、ひょんなことからお知り合いになったものの顔を合わせる機会が無く、昨初夏に家内と北海道を巡っての帰路、ご主人も共々にお会いすることができた。

毎年、夏を迎えると立派な爆弾を送って頂くのだが、このきっかけとなったのは私が学生時代『みちのく』に惚れ込んだ諸々の思い出の一端を『Sママ』に語ったことであった。

青春時代の思い出であるから色彩的にはオールカラーであり、その全てをここで書くわけにはいかない。
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写真のように粒揃いの立派な『ほや』である。

関西では『ほや』を食べる事が殆ど無くて知らない人が多く、私にしても学生時代に仙台・東一番丁の酒造会社『天賞』のアンテナショップのような炉端の店で主の『おんちゃん』に勧められて食べたのが初めてであった。

赤紫色をした厚い被嚢を切って剥くと、中からオレンジ色を帯びた黄色い白桃のような『ほや』の身がコロンと現れる。

『ほや』の上部には2つの乳首のような突起があるが、入水孔と出水孔であり、『ほや』は海中の微生物を海水と共に入水孔より吸い込み、濾過した後に出水孔より排泄する。

だから『ほや』の消化・排泄管を押すように搾れば排泄物が出てしまうので、そのまま、むしゃぶりつくように食べることが出来るが、料理屋では見栄えが良いように臙脂(エンジ)色をした臓物部分を取り去って黄色い白桃のような身の部分だけを皿に盛って提供する。

私は、むしゃぶりつくように丸カブリするのが好きである。

韓国の釜山から南西の海岸は多島海と呼ばれるように岩礁地帯が多いため『ほや』がよく獲られ食用にされているし、韓国の人たちは『ほや』が好きであり市場でもドッサリ売られているが、今回送って頂いたような立派なモノは見たことがない。

日本でも昔は潜って獲っていたのだが、最近は養殖が主流でモノが立派になり、この写真を韓国の人が見れば羨ましく思うだろう。

Sママ』、今回も『みちのく』の磯の香りをありがとう。

このページで紹介し、あわせてお礼を申し上げる。



at 04:52|Permalink

July 30, 2008

京都・貴船の川床

7月28日。

6月の夏至の頃から思えば40日近くを過ぎて日の出の時刻も少し遅くなったが、早朝から既に陽射しが厳しい。

天気予報では『近畿北部や南部で夕立の降る所も』という程度だったので傘の用意もせずにカンカン照りの道を家内と共に駅へ向かった。

駅で知人のお嬢さんと落ち合い京都へ。僅かな時間ではあるが座席指定の特急に乗る。

学校への往復も特急を利用しているのだが、先ず第一に座席が確保されていることとテーブルがあるので寛げるということ。それに1号車はタバコを吸えるし空調設備が備わっているので快適であるという理由である。

連結車両が多い時には5号車も喫煙カーとなる。

しかし、家内もお嬢さんもタバコを吸わないので、本日は一般車両で缶コーヒーのみ。

近鉄特急では京都駅のひとつ手前の丹波橋駅で京阪電車の出町柳行きの特急に乗り換えるのが鞍馬・比叡山へ行くのに便利なのである。

私が学生の頃、京阪電車は三条までだったが今は出町柳まで通じているので叡山電車に直結し、北山へ向かうのに大変便利になっている。
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叡電に乗るのも久し振りなら、貴船の料理屋へ行くのも久し振りである。

職場の者との飲食で利用したのは10数年も前のこと、息子たちを鞍馬寺へ連れて行ったのは、もう30年も前のことになるだろうか。

電車も立派なものになり、頭上までガラス張りになったパノラマカーまで走っている。

出町柳というのは京都市の北東・比叡山や八瀬大原から流れてくる高野川と、京都市の北西・雲ヶ畑辺りを起点とする賀茂川が鞍馬川や貴船川の水を集めて流れてきたものとが合流する地点であり、下鴨神社の近くである。
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上は叡山電車の貴船口に近い辺りの写真であるが、電車は出町柳を出ると高野川に沿うように一乗寺、修学院、宝ヶ池へと向かう。

昭和40年前後、叡山電鉄の沿線は田畑に山という田舎であったが、宝ヶ池に国際会議場が出来た頃より市街化がどんどん進んできたように記憶する。

私が学生の頃、宝ヶ池一帯は田畑が広がり、少し西にある深泥ヶ池(みどろがいけ)は氷河期の生き残り植物と言われるミツガシワやミズゴケが繁茂する湿地帯で、生物のフィールドワークに出向いたような地域であった。宮本武蔵が吉岡道場の一門と決闘した一乗寺下り松や石川丈山の詩仙堂など訪れる観光客も少ないところであり、修学院離宮も参観には許可証が必要だったので落ち着いた静かな風情を楽しむ隠れ名所でもあったのだが・・・

夏の五山送り火の『妙』と『法』は宝ヶ池の松ヶ崎に近い西山と東山で護摩木が焚かれるように京の町の北端とも言えるところであったのである。

叡山電鉄は、この宝ヶ池から八瀬比叡山口と貴船・鞍馬へ向かう線に分かれる。

八瀬比叡山口からはケーブルカーとロープウェイで比叡山山頂まで行くことができ、一方鞍馬線では鞍馬川と貴船川が合流する貴船口駅を経て鞍馬駅に至るのである。

ちなみに鞍馬天狗や牛若丸の修行で有名な鞍馬寺へは鞍馬駅で下車、坂道を登って本殿金堂へ行く(30分程度)のだが、ケーブルカーなら2分程度で行けるし、更に木の根道を上って下れば1時間ほどで貴船神社に行くことができる。

今回私達は貴船の料理旅館で川床料理を楽しむのが目的だったので貴船口駅で電車を降りた。

ところが大変な夕立で、迎えに来てくれた自動車に乗るまでの僅かな間に帽子もシャツもビショビショに濡れてしまった。
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まんが悪いと言えばそれまでなのだが、私も家内も何度も来ているのに雨に降られたのは今回が初めて。

北山の天気はよく変わるので暫くすれば晴れるかと思ったのだが、どしゃ降りの雨模様は一向に治まらず、川床は中止となって部屋で川音を聞きながらの宴となってしまった。

上の写真は『先付け』。利休豆腐、ゴリの生姜煮、鰻の押し寿司、瓜の和え物に食前酒は赤梅酒(紫蘇風味)である。

天気が良ければ貴船川の上に設えた床に赤い毛氈を敷き詰めた野天で床下を流れる清流の音を聞きつつ、緑に包まれた中での飲食となるのだが、せっかくお連れしたお嬢さんには気の毒であった。

料理は川魚がメインとなるもので、鰻の落とし、アマゴの揚げ物、鯉の煮物、メインは鮎の塩焼き、素麺、ご飯、湯葉の味噌汁、香の物にフルーツと続き、ビール、冷酒も進み、料理としてはマズマズの内容であったろうか。

貴船と言っても京都だけに、木の芽に湯葉を多用した料理で、とりわけ女性には喜ばれる内容だったのではと思えた。

クーラーも要らない貴船の旅館の部屋で暑い我が家に比べれば将に天国なのだが憎っくきはどしゃ降りの雨。

『糸へん』や『建築関係』の景気が良かった頃は旦那衆が祇園の芸妓を連れて昼間っから貴船の料理旅館で遊んでいたらしいが、今は昔か。
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家内は『ひろや』に来ていたらしいが、今回は私が利用していた『ふじや』にした。

と言うのも、貴船神社の直ぐ前が『ふじや』なので、食事後にブラブラするのに近くて良いかなと考えたからである。

お参りと書けば良いものをブラブラなどと神様に対して失礼千万な・・・などと怒らない。酔うと歩くのが辛いものなのだ。それでなくとも歩行力が鈍ってきておるのだから。

下は『水占い』・・・社務所で御神籤(おみくじ)料を納めて頂いた御神籤を水面に浮かべると文字が浮き出てくるのである。
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貴船神社の由緒から言えば第18代の反正(はんぜい)天皇の時代(406~412年)に玉依姫が黄色の船で浪速津に現れて、船の留まるところに社を造って神様を祀るようにと淀川、鴨川を遡って貴船の水湧き出る所を見つけられ、その場所に造営されたのが貴船神社であり、黄色い船で遡られたことから黄船がなまって貴船になったとか。

15代応神天皇、16代仁徳天皇といった上古時代の文献の無い時代のことゆえ、信じるかどうかはそれぞれのこととして、そうした謂われから貴船神社の神様は水を司る神様としての信仰を集めてきた。

湧水があることや分水界となる山地に近いことなどから大昔の人々が信じ敬ってきたのではないかと思うが、事実、貴船神社に連なる貴船山や、その北方には芹生峠があり、鞍馬川の北には花背峠など700~800mの分水嶺が並んでいる。

最近は降雪量が少なくなったが、花背は昔っから京都市内唯一のスキー場でもあり、京都市内は晴れていても北山はどしゃ降りであるとか、大雪であるとか全く気象条件の異なる地域なのである。
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先の『水占い』、お嬢さんが選び取った御神籤は・・・

スゴイ

何と大吉ではないか。

しかし、帰路、京阪電車は落雷のため出町柳・寝屋川市間は各駅停車の折返し運転をしていた。

気の毒なのは神戸市灘区の川で鉄砲水のために学童保育所の子どもと指導員が流されて亡くなられたことだ。

全く身につまされる思いである。

合掌


at 06:00|Permalink

July 29, 2008

やっと終わった研究集会

10年前に退官した恩師もいつのまにか傘寿を越えられ、今や杖が必要になるほど足腰の弱りが目立ち始めてきた。
しかし、老化現象が見えるのは階段などの昇降運動の面だけ。

頭は冴え、口も達者。

恩師は矢田部達郎氏に師事、園原太郎氏は当時助教授、三高時代の校長が佐藤幸治氏。私にとっては書籍上の先生達である。

恩師とは唯一共通の先生がいる。

今は亡き西洋哲学の田中美知太郎先生であるが、私が講義を受けた頃はフサフサとした見事な白髪(銀髪)であった。
哲学では山内得立先生の講義も受けたが、先生は田中先生とは逆で綺麗にツルっと禿げていたことを思い出した。

髪の毛の色合いやシミなどは誰でも齢を重ねれば現れるもので、若い者でも白髪になったりシミ・ソバカスの多い者もいる。

かく言う私など恩師より遥かに頭髪が少ない、と言うより山内先生と同じようなものである。

私は、恩師が現職時代より開設されている研究所の仕事に関わってきたが、退官を機にひとつの研究会を恩師が主宰されることになり、その事務局を私が担ってかれこれ10年になる。
下は研究会のスナップより

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この研究会は研究対象の幅が広く、それだけに会員の年齢幅も職域も広く、保育士、幼、小、中、高、大学の教員、府県市町村の公務員、一般企業の会社員、医療、社会福祉に携わる者たちに、僧侶、主婦と、年齢も30代から70代と現役からリタイヤした者までが所属するユニークな団体である。

今回も東は横浜、東京から、西は高知、広島から、更に今回はアフリカ・マラウィからの出席もあった。

年に一度の七夕様のような集会であるが、研究会の企画や懇親会の準備など、事前の仕事が結構大変なのである。

年に一度とはいうものの馬鹿高い旅費を使って暑い京都へ集まってきてくれるのであるから、事務局としては準備怠り無く、たとえ僅かであっても何らかのお土産を持って帰って頂けるように苦心工夫をするのである。

今年も無事に終わった。

果たして何か心に残るお土産を持って喜んで帰って頂けたであろうか。

事務局としては気になるところであるが、夏の間に今年の研究集会の内容を報告書にまとめて、秋からの広報活動の準備と来年度の企画を考え始めねばならない。

とりあえずは今年のイベントを終えることができ、私の夏休みが始まったということになる。

会を盛り上げてくれた皆さんに、そして、今年も無事に元気で事務局の務めを終えさせて頂けたことに感謝。

そして最後に、皆さん方に喜んで頂けるよう奮迅努力した自分自身に「ご苦労さん」。

at 14:50|Permalink

July 23, 2008

マグロ・・・これやがな、コレ!

Y君とHさんと、それにSさんと約束した日。

すし処『福寿』のT氏が「アラを買い付けましたから・・・」と言ったので、急遽、日曜日の晩餐が決まったのであった。

愚息にも声を掛けたが予定があるとか・・・残念だが仕方が無い。

デパートの某レストランで生ビールを立て続けに2杯。

乾いた喉を潤し、熱い体を内部から冷やしながら『福寿』での約束の時間に合わせるも、こんな時に限って時間はなかなか進まない。

T氏には、ちょっと早めに店を開けてくれと、Y君には既に飲んでいるから余り勧めてくれるなと電話を入れてタクシーに乗り『福寿』へ。
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アラとはハタ科のクエ(私達の呼び方)のことであり、博多ではアラと呼んでいる魚である。

関西では和歌山県日高の辺りの漁師が紀伊水道に棲むクエを釣り上げるが、近年大きいものはおろか釣り上げられる数が極端に少なくなっている。

岩礁状の海底に生息する魚であるから日本各地で漁獲はあるのであろうが、和歌山以外では玄界灘で獲れたものを博多の料理屋が提供するアラ料理が有名である。

しかし、福岡(博多)でも手に入りにくい魚になっているようだ。

大相撲福岡場所(11月場所)が開催されると力士たちはアラ鍋を食べるらしいが、そのアラを確保するために地元では前もって獲れたアラを水槽などで生かして数を確保しておくようである。

博多・中洲の『銀寿司』でもたまにアラが入荷することがあり(他の客が注文していた場合であるが)、そんな時には身の刺身、コラーゲンたっぷりの皮の湯引き、臓物からエラの部分まで骨とヒレ以外、アラの体の全部分を食べさせてもらう。

体長が60cmもある大きい魚だから少々私が横取りしたところで客に提供するのに何の不足も無く、つまりアラという魚、骨を鍋のダシに取って捨てるだけで、他に捨てる部分が全く無い魚なのである。
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上はアラの刺身。

身が透き通っているが薄造りというような薄さの身では無い。

脂が乗っているのでポン酢に薬味を入れて頂くのであるが、アラの脂は決してヒツコイ(しつこい)ものでは無く、上品なものなのである。

少し弾力感がある食感と、臭味の無い新鮮なアラの刺身は絶品なのである。

アラのアラ(臓物以外の)はT氏が野菜と共に鍋仕立てにしたものを椀で頂いたが、熱い湯気のために写真は撮れなかった。

アラは体の大きい魚であり、鍋仕立てにしても身がコロンコロンと骨から外れるので食べやすいし、火が通った身は真っ白で、てっちりのフグの身を食べているような感じでもあり、身と皮の間のゼラチン状のコラーゲンたっぷりの脂質の食感と味わいは最早説明を要しない。

「ゴッツァン」です。

しかし・・・この日、臓物(肝や腸など)は頂け無かったが・・・

下はサンマの刺身。
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まだ7月だと言うのに、今年はサンマにしろカツオにしろ脂の乗りが早い。

海流に変化が生じているのだろうか。

活けダコが入っていたので塩揉みの後、私好みで軽く湯がいてもらった。

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私はブツ切りでと注文したのだが、写真のように通常の刺身で提供するように切ってしまいおった。

もっとも、これはこれで大好物ゆえに美味しく頂いたのだが。

T氏、私の歯を心配してくれたのだろうか・・・

まだ、大丈夫なのだが・・・ぶっははははは

そうそう、このT氏、大根の桂剥きも上手に出来るのだが、刺身のツマに三陸産の生ワカメを使用するのである。

彼氏曰く、「同じように出させてもらう料理なら、お客さんに喜んで全て食べて頂ける方がよろしおまっしゃろう」と。

全くその通りで、彼が調理し提供する料理に対する彼の観点、気構えと言うものが垣間見え、何だか嬉しい気分になるのである。

三陸産の生ワカメの使用は提供する側からは少々高くつくのであるが、そこにT氏の気概を感じ取れるし、実際に三陸産の生ワカメは美味しく、それだけで一品の価値あるものなのである。

私も好きだが、家内など生の魚介類は好んで食べないのだが、ここの生ワカメだけは『おかわり』を請求するくらいである。

下は炙ってもらおうかとも思ったのだが、上物の牛肉を仕入れていたので刺身で土生姜を下して醤油で頂くことにした。

勿論、私は1切れで充分。こういうものは若いY君とHさんに任せておけば良い。
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さて、私がマグロを好むことは何度も書いてきた。

私が座ると黙っていても出してくれるマグロ。

私が赤身(天身)を注文するのに出してくれるのが写真のマグロの手前の部分。

『これやがな、コレびっくり
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見事な中トロである。

これを赤身の値段で提供してくれるのは『福寿』だけであろう。

マグロもここ3~4年の間、急激に値段が上がってきた。

私がカウンター席に座ってもマグロが出てこない時もある。そんな時は良いマグロが入らなかった時である。

つまりT氏、自信を持って提供できないモノは出さない。

それでもマグロ好きの私が注文すると仕方が無いと諦めたように調理台の下の冷蔵庫に隠してあるブロックを取り出して切ってくれる。

こうしたところにも彼の気骨が見て取れる。

写真のマグロはスペイン沖の地中海産のモノと思われ、養殖では無く畜養モノと思われるがなかなかのモノであった。

今やマグロと言えば青森・大間産や北海道・戸井産といった津軽海峡モノを代表格にしているが、200kg前後の体の大きいマグロは東京・築地へ流れ、ほとんどは料亭行きで一般市場に出回ることは少ない。

大きいもの必ず良いと食品に関しては言えないが、ことマグロに関しては大きいモノほど脂の乗りが良くて美味しいのである。

若い頃と違って大トロを食べることは無くなったが、赤身でも少し脂の乗った中トロと呼ばれるような部分は好きである。

だから日本近海で獲れる80kgに満たないような小さなマグロを食すよりはボストン沖やスペイン沖の大西洋、或いは南太平洋や地中海などで獲れるクロやインドの魚体の大きいマグロの方が美味しいのである。

今回初めてT氏の許諾を得て写真に収めたが、私は『福寿』を宣伝するつもりは無い。

正直に言えばT氏には沢山儲けて更に立派な経営者にもなってもらいたい、が、千客万来の状況になれば私の居場所が無くなる・・・セコイ話ではあるが、私は私なりの大事な城を守りたい。

それゆえ『福寿』の店舗を特定できる電話番号などは写真では伏せておいた。

知る人ぞ知る店で良いのである。私にとっては。


at 17:28|Permalink
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