August 2008

August 31, 2008

光陰矢のごとし (七回忌)

愚息が逝って丸6年目の命日を迎える。

仏教で言えば七回忌。

しかし、特定の宗教を信仰していなかった愚息ゆえ葬儀もその後の法要・祭式も無宗教とし、遺影への献花のみの形式で執り行ってきた。

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お墓だけは家のものがあるので、それに納骨してあるが、墓標には愚息の名前と生年・没年が記してあるだけ。

信仰することは自由であり、それぞれの個人が独自に持つものであるとの考え方が比較的徹底されてきた我が家のことだから、新しく分骨建立されたお墓の墓標には祖父の代から様々な諱(いみな)、敬称が付けられている。

仏教系の諱や敬称である『釋○○院』○○信士、信女、『○○院』○○居士、大姉、或いは神道系の○○主、○○刀自などである。

我が家の係累を辿れば『大僧正○○』とか『権大僧正○○』とか、また墓石も一般的な形(我が家の)の他、社の形、柱状で丈の高いもの、同じ柱状でも明らかに軍人のものと、いろんな形の墓石がある。

墓石の裏面には建立年月が彫られているが、これの年代も様々である。

既に判読できない墓石もあるが、古い墓石では文化○○年と銘記されたものが判読可能な墓の中では最も古いものである。

文化年間というのは江戸時代の1800年代初頭であるから、ヨーロッパではナポレオンが活躍し、日本近海にロシア、アメリカ、イギリスの船がウロチョロし始めた頃である。

人間の、ヒトの歴史というのは、もっともっと古いものであるが、我が祖先を遡って辿ってみても墓石に見る限り、せいぜい200年である。

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上は献花の後の会食・・・森伊蔵・伊佐美・甕雫・佐藤(黒)・・・芋焼酎の評判が良かった。

愚息が29年と8ヶ月少々、私は母親の没年を既に越えさせて頂き、徐々に父親の没年に向かいつつあるが、未だ両親が積んだ『徳』に追いつくことができないでいる。

ここでいう『徳』とは勿論科学の物差しで計ることの出来るものではなく、私の感性によって計り知ることのできることで、言葉で表現すれば『他人様に喜んで頂く』『助かって頂く』ということで、有難うと言われることを求めるのでも、お金をばら撒き施しをするというものでも無い。

そうしたこともひとつの方法であったり、過程としての一現象である場合もあるが、それが目的ではなく結果として見える場合もあれば見えない場合もあるという非常に曖昧なものを私は言っているのだ。

日常の自分の言動に『喜んで頂きたい』『助かって頂きたい』という気持ちが自然と意識もせずに表れていることを最良の我が姿にしたいと願う、そのレベルに到底私は到達していないと感じるゆえ、生前の両親の姿勢に追いつくことができないでいると判断しているのだ。


ところで我が愚息の法事であるが、これは毎年命日に『偲ぶ会』として愚息の会社の同僚や事務職の女性たち、大学時代の同級生や後輩たちが集うてくれるのである。
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そればかりか次男の友人たちも来てくれるし、この6年の間に結婚した者たちが嫁や旦那を連れ、また誕生した子供たちをも連れて来てくれるので、都合が悪いからと出て来れない者たちがいても、いつも大変な人数になるのである。 上は大きくなってきた子どもたち(私にとっての孫たちの一部)。

彼らが愚息が亡くなったことをきっかけとして集うてくれるということは、しかも毎年毎年中心となるべき愚息がいないにもかかわらずに集まってくれる、これは愚息の人徳というものだろうかと、私も家内も親馬鹿として嬉しく有難いことであると思っているのだが、この事実を考えると、私の徳を積む努力は愚息にも及ばないものなのかと、内心ダメだなあと更なる努力を誓っているのである。

ともあれ愚息の6年目の偲ぶ会(七回忌)を賑やかに執り行わせて頂けた。

準備に片付けと、これらの仕事も助けて頂き、このことにも感謝するものである。

何くれとなく助けて頂き、皆さん有難う。

沢山生きさせて頂だいてきた私の方が皆さん方を助け喜ばせてあげなければならないのに、逆になって・・・心よりお礼を申し上げる。


at 16:10|Permalink

August 30, 2008

京都での教育学会 於・佛教大学

8月29日、京都市北区紫野の佛教大学を会場に
第67回日本教育学会大会が始まった。


毎年8月末に開催されるのだが、原則的に旧七帝大の所在地持ち回りで開催してきたため、札幌、仙台、東京、名古屋、京都、大阪、福岡の各都市での開催が多く、計算上は7年に1度開催地が巡ってくることになる。日本教育学会は役員選出のため全国を8地区に分けているので、正確には北海道、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州・沖縄の8地区持ち回りということになる。

しかし、学会を開催するというのは単に研究発表やシンポジウムのための会場を確保するだけでなく、その企画、準備、実施といった面で様々な課題が山積しており、それら全てをクリヤー出来ない限り、大会開催地として、また開催校として名乗りを上げることなど出来ないのである。

昨日も佛教大学の教育学部の学生、院生、教官全てが大会事務に携わっていたが、人的な力も必要不可欠の要件なのである。

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ともあれ「ご苦労様」とだけは関係者に送っておきたい。

今年は久し振りの京都開催なので早くから予定をしていたのだが、30日(本日)は我が家での法事のために昨日のみの出席となってしまった。

佛教大学を訪れたのは40年ぶりになるだろうか。 法然上人の浄土宗系 ( 知恩院 ) の宗門大学で、当時は文学部のみの単科大学であったために学生数も多くなく、大学の建物も多くは無かった。 が、昨日訪れてみてキャンパスにコンクリート造りの建物が林立しているのに驚いてしまった。

そのため平面の空地がほとんど無い状態で、せせこましいキャンパスという印象を持ったが、大学周辺には住宅も所狭しと立ち並んでおり、以前は未だのどかな感じであった大学周辺も完全に都市化の波を受けているといった様相であった。

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大学から少し坂を下ったあたりに北大路通りがあり、
それに出るまでの路上から
左大文字を望むことができる。

上の写真でも分かるように山裾まで住宅が連なっているが、
以前は農地であった場所である。


下は、左大文字を拡大したもので、大の字に石が積まれているのが分かる。 8月16日の大文字送り火では東山・如意ヶ嶽の大文字から火が点けられ、松ヶ崎の妙と法、西賀茂・船山の舟形、そして大北山のこの左大文字に点火され、最後に嵯峨・曼荼羅山の鳥居に火が点けられるのである。
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昨日は佛教大学での研究発表などを聞いた後に河原町四条へ出て、久し振りに祇園の『さか季』へ寄った。

暫く顔を見なかったので話がいろんな方向へ飛んでしまったが、昨夜のお奨めは伊勢のヒラマサに立派な車海老であった。

ヒラマサも夏の魚であるが、よく脂ののった腹身であった。

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夜の祇園に出て飲むことは帰りの交通機関の便から滅多に無いので、久し振りにクラブ『アリュール』へも寄ってみた。

7時半すぎに行ったのだが、開店は8時半からなのだと。

初顔のウェイターに断って準備中のソファに腰掛けてママに電話を入れると直ぐに行くから待っててほしいって。 ははははは、弱いなあ・・・

この日、新顔女性二人のデビューであり、5人の女性を相手に仏様の顔が一段とニコヤカとなったのは言うまでもない。

何とデビューの2人ともに20歳。

これだけでも驚きだが、一人は女子体操をやってきて今春大学卒業を機に現役引退したという女性。

変り種が多いが、ここのママもピアノの先生。

新島 襄・大先生も女性の自立に驚いていることであろう。


at 11:31|Permalink

August 29, 2008

兄弟って、いいもんだ。

昨日、従兄弟が我が家を初めて訪れてくれた。

初めてという表現が私にはイマイチすんなりピッタリとこない感じがするのだが、事実初めてであったのだ。

私には兄弟がいず、一人っ子であることは以前に触れている。

その私にとって、わが父親の妹の子ども3人(長男、次男、長女)は私にとって兄であり姉であった。

事実、住まいは違っていたが私が幼い頃から何くれと無く世話をしてくれ、兄弟の良さというものを教えてくれたのも、これら従兄弟であり叔母であった。

とりわけ長く入院していた我が母親が亡くなり、続いて祖父も他界するという状況の中、高校3年の進学期にもあった私は自分で自分を掴みきれないというか、非常に不安定な時期でもあったのだが、この折に随分長く祖父の家に居候することとなり、真の兄弟の一人として対応してもらうという時期を過ごした。

祖父の家と書いたが、父親は長男ではあったが別に居を構えており、叔父(従兄弟3人の父親)が特務機関の仕事で中国本土へ行っていたために祖父母の家に叔母達が同居していたということである。

現在70半ばとなる長男、それに次男と次いで長女、それに3男の私という新しい家族構成が出来上がったのである。

この長男と次男は共に同志社大学柔道部の主将を務めた猛者であるが、私が居候をしていた時、長男は既に会社を興し、次男はエンジニアとして、長女は大学の助手として皆が社会人で学生は私ひとりであった。

昼間は皆がバラバラの生活であったが、夕刻に長女が帰宅して家事を行い、私、そして大学教授であった叔母が帰宅、少し遅れて長男と次男が帰宅して皆が揃って夕食の膳を囲むというのが大方の日常スタイルであった。

寝所は皆別々であったが、私の寝床は次男の隣。

だから、大学生活のことから会社のこと、そして身の回りのことなど、あらゆる面での教えを直接受け、人生上の大きい影響を受けたのが、この兄貴である次男なのである。

こうした繋がりを持ってきた兄貴(次男)なので、我が家を初めて訪れたなどとはとても思えないのであった。

冒頭で『初めてという表現が私にはイマイチすんなりピッタリとこない感じがする』と書いたのは、こうした経緯があったからなのである。

この兄貴(次男)は私を旅行好きにした最初の旅『広島~山口へ』に連れてくれた人物であり、広島原爆の強烈な熱と光のため一瞬にして新聞社玄関の御影石の階段に焼き付けられた人の影を見せ、原爆の恐ろしさと共に理不尽な戦争や、その悲惨さを教えてくれた人物でもある。

18世紀のフランスの社会思想家で『社会契約論』などを著したルソー(J.J.Rousseau)は、『エミール(Emile)』《教育について》という教育小説も著しているが、エミール(主人公)の出生から青年期までの生活をとらえ、自然的教育、つまり強制的・人為的教育ではなく、子どもが本来的に持つ性質(本姓としての感性や淘汰性など)を自ら発揚させることによって為す教育、言葉をかえて言えば『待つ教育』とでも言えるような自然に従う自由教育を主張しているのである。

こうした教育・社会思想は近代教育思想に大きい影響を与え、現代の教育思潮の根本的な見方考え方として受け継がれてきている。

エミール少年は旅を続ける中であらゆる事を自ら学んでいくのであるが、私はこの兄貴(次男)と私との関係をエミールと彼の家庭教師である先生の関係にも似たもののように長年思ってきているのである。

兄弟喧嘩でなどと兄弟の仲が悪いなどということをよく耳にするが、私には信じられないし聞きたくもないことである。

『隣の糂汰味噌(じんだみそ・・・ぬか味噌)』とか『隣の庭の芝は青い』などと言う。

確かに、一人っ子の私にとって兄弟とは隣の芝か糂汰味噌なのかもしれない、が、私は従兄弟達との間に出来た兄弟という絆、そして家内と一緒になって以降、家内の兄や姉から義理であっても兄弟として接してもらっている間柄を思えば決して隣の・・・と言ったものでないことを身を持って感じてきていることである。

義理であれ実であれ、私にとって兄弟とは素晴らしいものである。





at 06:51|Permalink

August 28, 2008

阪神・しっかりせえよ(甲子園球場)

8月28日木曜日、家内と甲子園球場まで阪神タイガースの応援に行ってきた。

普段はテレビを見ての応援なのだが、知人を介して岡田彰布監督からの招待券が出たってことで現地応援になったのである。

息子に近隣の駅まで車で送ってもらったのだが、どうも空模様がややこしい。

梅田(阪神電車の大阪駅)からは阪神電車で甲子園へ向かったのだが、地上駅である野田阪神を越え新淀川の鉄橋を渡り始めた頃から窓ガラスに雨の水滴が何本も斜めに走り出した。

「行って中止やったらイヤやねえ」と家内。

「いや、西の空の雲が高いさかい大丈夫や」と返答するも、実は私の観天望も不安の上に立った強がり半分のものであったのだ。

実際、甲子園駅で電車を降りたら傘が必要な量の雨が降っていた。

しかし、一応観戦応援の用意だけはと、駅と球場の間にあるダイエーの店舗に入った。

露店が沢山並んでいるし、球場内にも飲食に関しての売店は結構あるのだが、やはりダイエーの地下の食料品売り場の方が安いのである。阪神タイガースの応援グッズは露店での購入となるのだが弁当にお茶はダイエーで買う方が私は良いと考える。

幕の内弁当2つとお茶(家内の)を買って外に出ると雨が上がり、西空に広がっていた雲に隙間ができて薄っすら青空が覗ける空模様になっていた。

阪神甲子園球場の文字盤のある下にガラス張りの総合案内所がある。ここにチケットを預けてくれていることになっていたので、岡田監督から私へのチケットをと受付の女性に言うと、何枚ですかと尋ねられた。

誰から誰へ、そして何枚かというのが、この窓口での暗号というか勘合符の役割を果たしていたようだ。
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戴いたチケットを持って8番ゲートへ。

このゲートをくぐる前にセキュリティチェックが行われており、これを通過しなければ入場できない仕組みになっている。

ビン、缶類の持込みが禁じられているのである。

昔は、なんて言うと時代錯誤だとか現状認識が甘いとか安全管理がどうのこうのと言われそうだが、全くツマラン世の中になってしまったものだと思う。

まあそれはともかくとして、ゲートをくぐって2階へ上がり、廊下を進むと売店が並び、何と喫煙室を設けてくれてあった。

球場内は完全禁煙かと覚悟して入ったのだが、最近の情勢を考えると、この配慮には有難いと感じた。

分煙・禁煙と主張する人たちの考えや気持ちも分からないでは無い。そして世界の趨勢として禁煙方向に向かい、多くの人たちがそうした方向を支持しているという現状も充分理解している。

今の世界で喫煙者は将に多勢に無勢の立場。

喫煙悪害説(肺がん、副流煙など)という科学的統計仮説について否定するだけの根拠を持ち合わせていないのと無勢の立場から、ひたすら遠慮し周囲を気遣っての喫煙という淋しい思いを抱いていたので喫煙室が設置されていたというこの配慮には嬉しさを禁じえないものがあったのである。

喫煙については大上段に振りかぶって他と同じレベルで言えることでは無いかもしれないが、地球上の歴史では『悪貨は良貨を駆逐する』と同様『多が少を、強が弱を制する』ということが理の正否に関わり無く往々にして行われてきた。

キリスト教におけるローマ教皇庁権力が絶対の時代、コペルニクスは地動説を確信、後にガリレオ・ガリレイはコペルニクスの地動説を支持したがために宗教裁判にかけられたことはよく知られている。 これを喫煙、禁煙と同じレベルで論ずるつもりは無いが『一寸の虫にも五分の魂』という慣用句もある。

侮ってもらいたくは無いし、喫煙についての統計仮説の正否は別として少数の立場をも配慮できるという社会を作り上げたいものである。

閑話休題

天気も回復し、球場上空は陸風。試合は順調に進んだと書きたいのだが、この日の阪神はボロボロ。

ボウグルソン、アッチソン、江草とまあまあだったのだが・・・
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上は賢太郎、下は金本。

賢太郎は26日が誕生日だから満30歳と2日。
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フォアボールを選んだ赤星は1塁へ。
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7回までは負ける気はせんかったし、風船も気持ち良う上がった。

ビヤタンクを背負ったネーチャンが注いでくれる冷たいビールも気持ち良う2杯も飲んでしもうた。

コップ1杯のビールと言っても500mlぐらいは入ってるのだろうか、それが1杯600円。 これが高いか安いか。 しかし大きなビヤタンクを背負い、勿論二酸化炭素のボンベも共に背負っているであろうから相当に重いはずである。 それを背中に球場の急な階段を忙しく上り下りしている若いネーチャンらの働き方を見ていると、うーーん、安いか高いかは人それぞれ。私にはウマイビールであった。
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それにしても肝心な時に林威助も矢野輝弘も桧山進次郎までもが打てんかったし、久保田智之は自沈のピッチングやった。

勝負のこっちゃさかいに当然勝ち負けはある。

しかし、負け方というのもあるように思う。

つまり互いの力が拮抗していて惜しかったなあという負け方。私は負けるにしてもこのような負け方が好き。

昨夜の試合はそうした点で覇気が無かった。

あまり久保田を責めてやるのは可哀想にも思うし、何とか次回は頑張ってくれよとは思う。 が、昨夜の惨めなピッチングは何やねん、顔を洗って出直して来いと言いたい気分であった。

しかし、残念やが負けてしもうたもんは仕方がない。
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むしゃくしゃ気分で名物カレーだけ息子に買って帰った。

息子曰く
もう、お父さんらは甲子園出入り禁止や

まるで私達が応援に行ったから負けたような・・・

at 07:17|Permalink

August 27, 2008

美術・切手と絵葉書 先輩K氏

7月31日に先輩K氏について触れた。

日本の美術切手・・・このような言い方をするのかどうか知らないが、美術品を切手のデザインに取り上げているものが結構多い。

私も子どもの頃に切手蒐集をしていたことについても書いたが、美術切手の種類があまりにも多いのに驚いているのである。

私が初めて買った切手が浮世絵の『ビードロを吹く女(娘か?)』、母親から小遣い10円をもらって1枚だけ買った。と言うより小学生の私には当時10円というのは大金で1枚しか買えなかったのである。

後に、その思い出深い切手を甥っ子にせがまれてあげてしまったことも書いたが、そのことを先輩K氏への手紙に書いたら何と何と早速返信の手紙とともに『ビードロを吹く女(娘か?)』の切手を貼った絵葉書とともに、他にもどっさり送られてきた。
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この浮世絵作品は江戸時代に活躍した喜多川歌麿(1754~1806)の版画で、『婦女人相十品』の一つ『ビードロ吹き』で東京国立博物館の所蔵だそうな。

切手の発行年が1955年となっている。

昭和30年のことであったのだ。

絵の意味も分からないまま、たった1枚だけの切手を買い大切にしていた小学生の頃が懐かしく思い出される。

長いこと見ることの無かった切手である。

当時の私には1枚しか買えなかった切手を先輩K氏は2枚の絵葉書それぞれに『ビードロ吹き』の切手を貼って送ってくれた。それも『ノースタンプ』の切手をである。

今はどうか知らないが、私が切手蒐集を始めた1955年の頃は郵便局の消印、つまりスタンプを押していないものを良しとしていたのだから、これは大変なプレゼントなのである。

当然、切手の金銭的価値を云々しているだけではない。

『ビードロ吹き』の切手という有形のものだけではなく、それに伴う無形の計り知れない価値をプレゼントしてもらったということなのである。

他にもいろいろとと書いたが、下は鳥居清長の『雨中湯帰り』であり、切手の発行年は1958年。
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切手が2枚あったものは絵葉書も2枚用意してくれたようであり、切手面と絵葉書面を合わせて少し紹介してみたい。

原画の作者や、その背景に思いを馳せるとただの切手一枚もなかなか興味深いものがある。

上の2枚の切手は、いずれも切手趣味週間の切手として発行されたものである。

以下、つづく・・・






at 11:39|Permalink
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