September 2008

September 21, 2008

伴大納言絵巻の続き 【完】

伴大納言絵巻が『宇治拾遺物語』の《四 伴大納言の事》と《一一四 伴大納言焼応天門事》として書かれた866年に起きた応天門の放火炎上事件(『応天門の変』)についてのことであることを前段で書いた。

そして、絵巻に登場する人物が清和天皇、太政大臣・藤原良房(よしふさ)、左大臣・源信(みなもとのまこと)、右大臣・藤原良相(よしみ)、大納言・伴善男(とものよしお)であることも書いた。

平安時代の官位として天皇は別格で頂点に位置するが、実際的政治機構のトップは太政大臣であり、そのもとに左大臣、右大臣が控え、更に大納言が位置し、国政を総括する最高機関職であった。

その大納言・伴善男が応天門の放火は左大臣・源信の仕業であると清和天皇に讒言(告げ口)したことによって左大臣の処罰が決まるが、これに太政大臣・藤原良房がきちんと調査をせねばと清和天皇の断に口を挟み、調査の結果、応天門の放火は伴大納言の犯行であるとされ、当人は犯行を否認し続けたにも拘らず伊豆に配流となった事件、これを『応天門の変』と言う。
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燃えさかる火事の様子を見る人たちの絵に続いて伴大納言らしき人が火災の様子を眺めている絵と続き、清和天皇と天皇に諫言する太政大臣、その様子に聞き耳を立てているような右大臣・藤原良相が描かれて上巻は終わる。

中巻は冒頭に「おとゝはつゆをかしたることなきにかゝるよこさまのつみにあたるをおほしなけきて日のさうそくをしてにはにあらこもをしき」(大臣は犯したことも無い邪悪な罪を着せられたことを嘆き、内裏の務めに出る時の束帯を着て、庭に荒菰を敷いて)などと詞書があり、左大臣・源信の屋敷に使者が到着した時の家人の慌てぶりや、無実を天に訴えている源信の上の(詞書)様子を表現する絵が続いて描かれている。

左大臣という要職にあった者の家のことだから家族、家人も多く、大変なことになっていたのであろうと想像するが、女達の嘆く様子も描かれている。

しかし、京・七条の町中で子ども同士の喧嘩があり、その子どもの喧嘩に一方の親が出てきて相手の子どもを殺さんばかりに蹴飛ばした。この蹴飛ばした親というのが伴大納言に仕える役人。そして蹴飛ばされた子の親は応天門が炎上した夜、門に放火した伴大納言と一味を目撃していたという重大な目撃事実を喋ってしまった。

やがて重大な秘密を暴露した舎人(下級役人)は呼び出しを受けて取り調べられる部分から下巻が描かれ、伴大納言の逮捕へと移っていく。
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伴大納言が連れて行かれるのを心配そうに眺め、或いは涙を流す家人達が描かれている。

下は武装して大勢でやってきた検非違使たちが大納言を逮捕連行していく様子を描いた絵の一部。
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大納言は牛車に乗せられ連行されている。
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大納言・伴善男が伊豆へ流されたほか、善男に係わる一族郎党が配流となり、飛鳥時代より続いた名門・大伴の家が消えていくこととなる。

氏名の伴(とも)は、もともと大伴(おおとも)であったが、823年、淳和天皇の諡号(しごう・贈り名)が大伴であったことから恐れ多いと伴に変えたとのことである。

大伴氏は飛鳥時代からの豪族であり、一族の中には石川内命婦(うちみょうぶ)、大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)といった女流歌人や、三十六歌仙の一人に数えられる大伴家持(やかもち)などがいる。

『応天門の変』については、この事件後に太政大臣であった藤原良房のみが権勢の実権を握ったことや、絵巻の欠落部分などの諸状況から良房の陰謀ではなかったかといった説など様々な見解が発表されてきており、出光美術館の黒田泰三氏の見解などもオモシロイ。

また、出光美術館と東京文化財研究所が合同で行った絵巻の光学的調査研究によって、この絵巻に登場する461名の人物について全く下書きもせずに一気に仕上げていることや顔料の使い分けなど新たに判明したことを踏まえて絵巻を見れば、また一層の面白さが湧き出てくるように思う。

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上は中巻の詞書の一部であるが、「をるゝものゝありみれば伴大納言 なりつきにこなるものをるまたつきに さうしきときよといふものをるなにわさ するにかあらむとつゆこゝろもえてこの 三人のひとをりはつるまゝにはしること かりなしみなミの朱雀門さまにはしり ていぬれはこのとねりもいへさまに いくほとに二条ほりかはのほといくに うちのかたにひありとてのゝしるみか へりてみれはおほうちのかたと見ゆ はしりかへりたれはかみのこしの なからはかりもえたるなりけりこのあ・・・」『降りてくる者がいたので見れば伴大納言であった。次に来る者がいて、その次に雑色のと清と言う者が降りた。何をしたのかしらと僅かに心にひっかかりを覚えた。この3人の人は降りた途端に走り出し、南の朱雀門の方へ走った。それで、この舎人も家に向かって行くと二条堀川のあたりに行くと内裏の方で火の手が上がっていると騒ぐので振り返って見ると確かに内裏の方であった。直ぐに走って戻ってみれば上の層は凡そ半分は燃えてしまっていた。』と訳すことができようか。 

つまり、伴大納言が放火をしたという重大な舎人の目撃についての詞書の部分なのである。

が、私が感心して見入ったのは、この『かな文字』なのだが、漢文社会であった日本が平安期の国風文化の流れの中で三蹟と呼ばれる小野道風(とうふう)、藤原理佐(すけまさ)、藤原行成(ゆきなり)らが和様書道の基礎を築いたとされるのが900年代半ば頃のこと。

『伴大納言絵巻』は後白河法皇が常磐光長に命じて作成させたと言われ、その制作年代は1177年であるという説が一般的だが、この時代にこれほどの『かな文字』が既に書かれていたとは・・・

綺麗な字。 とても美しいと思う。

今回の写真も『国宝伴大納言絵巻』(出光美術館 平成18年10月7日発行)の図の一部を撮影、転写したものであることを明記しておく。

at 11:19|Permalink

伴大納言絵巻の続きから出光美術館

平安時代の後期、院政期に制作されたとされる4つの絵巻物が国宝に指定されるだけの素晴らしいものであることは、その実物を観ることでド素人である私にも感じられるほどに作品そのものが私の感性を揺さぶってくるのである。

絵は言語とは異なるが意志・感情・情景などを伝達する道具のひとつであることはこれまでにも書いてきたし、音楽も音の高低や強弱、長さやリズムなどを考慮、更に楽器による音色の違いなどを組み合わせて言語・絵と共に伝達のための道具である。

芸術的感性という点で非凡なる人たちは『音』だけで、或いは『絵』だけで意志や感情の交流が可能であるようだが、私のような平凡な者にはなかなか難しいことである。

国宝は重要文化財(Important Cultural Properties)の中でも学術的・美術的・文化史的に特別優れ価値の高いものに対して文部科学大臣が指定するのであるが、勿論、文部科学大臣に国宝や重文を選定できる能力など無く、選定にあたっては博物館、美術館などの専門の学芸員や大学など研究機関におけるそれぞれの専門家が研究資料や鑑定結果をもとに検討を行い、重文や国宝の指定をするよう文化庁に提起するのであり、国としては文部科学大臣の諮問機関として文化審議会を置き、その中に文化財分科会を設けている。

重文、国宝は有形文化財として国が指定することによって保存(保護)管理責任の一翼を担い、民間での保存に限界がある場合の補助金交付や行政(法律執行上の)として行うことのできる保存(保護)管理などについて文化財保護法で定めている。

伴大納言絵巻』は国宝ではあるが出光美術館が所有するものであって、その保存・修理や公開など管理に関する第一次的義務は所有者にあり、それの国外輸出の禁止などについても文化財保護法で定められている。

出光美術館は、石油輸入販売企業である出光興産の創業者・出光佐三(いでみつ さぞう)氏が長年蒐集してきた、所謂『出光コレクション』と、その後美術館が蒐集した逸品の数々を所蔵している我が国有数の私立美術館である。

出光佐三氏は福岡県宗像市の出身で、神戸高商(現・神戸大学)卒業後、福岡県門司に出光商会を設立した時から事業家としての道を歩み、浮世絵や文人画の他、洋画ではルオーの作品蒐集などで知られている。

東京・丸の内に出光美術館があるが、北九州市門司区の門司港レトロ地区の一角に港の倉庫を模した出光美術館(門司)があり、東洋美術を中心に展示が行われている。

いずれの美術館も私は訪れたことがあるが、何万点にも及ぶ『出光コレクション』の、ほんの一部だけを見たに過ぎない。

私は未だ訪れたことがないのだが、出光興産が行う企業の社会還元のひとつとして東京に『中近東文化センター』を設け、オリエント文化の紹介の他、アナトリア考古学研究所を設立し、トルコにおける遺跡発掘など考古学研究についても積極的な支援を行っているらしい。

別に出光興産の宣伝をするつもりではないが、政党へのツマラン献金をするよりは国民に対して遥かに有益な還元(私の主観)をしている出光興産の企業姿勢は大いに褒め称えても良いと考える。

収益性が悪いとか赤字施設だとかの理由で文化・教育施設の廃止や民間への売却しか打ち出せない大阪の知事には文化が何たるか、見てくれの数量化できるものだけでなく、効果は数量化出来ずに見えなくとも心の育成に大きくはたらく文化価値について、もっともっと関心を持ってもらいたいものである。

 『出光美術館』『出光美術館(門司)』『出光コレクション』『中近東文化センター』については、当該文字をクリックすれば該当ページにリンクしている。

at 06:06|Permalink

September 20, 2008

切手と美術絵葉書(伴大納言絵巻)先輩K氏の続き4

表題を『先輩K氏の続き4』としたが、『伴大納言絵巻』については切手も絵葉書も戴いてはいない。

だが、国宝の絵巻物4点のうち、『信貴山縁起絵巻』『鳥獣人物戯画』について書いてきたので私が蒐集している『伴大納言絵巻』の切手について書いてみることにする。
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伴大納言絵巻』については上の2枚の切手が発売されている。

『伴大納言』については『宇治拾遺物語』に出てくるが、ここでは『伴(ばん)』大納言とされ、《四 伴大納言の事》では「これも今は昔、伴大納言善男は佐渡国郡司が従者也。」の書き出しから始まり、郡司が伴善男に対して「汝、やむごとなき高相の夢見てけり。それに、よしなき人に語りてけり。かならず、大位にはいたるとも、事いで来て、罪をかぶらんぞ」と言い、「然あひだ、善男、縁につきて、京上して、大納言にいたる。されども、猶、罪をかぶる。郡司がことばにたがはず。」と、伴大納言の出世と失脚が佐渡の役人であった頃に予言されていたことが記されている。

伴大納言絵巻』は上巻、中巻、下巻の3巻からなり、大納言・伴善男(とものよしお)の他、清和天皇(せいわてんのう)、藤原良房(ふじわらのよしふさ・太政大臣)、源信(みなもとのまこと・左大臣)、藤原良相(ふじわらのよしみ・右大臣)という実在の人物が登場する。
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伴大納言絵巻』は上巻の冒頭、詞書も無く、いきなり馬で駆ける検非違使(けびいし・現在の検察・警察官)や、それらの下部が走る姿が描かれている。

中巻、下巻の前半は詞書で始まるが上巻には無い。

宇治拾遺物語』の《一一四 伴大納言焼応天門事》(ばんのだいなごん おうてんもんをやくこと)に『応天門の変』の大筋が書かれているが、絵巻上巻の炎は大内裏から上がっているものらしく、絵巻では朱雀門の外へ逃げようとする人々が混乱する様子と、そこへ落ちてくる赤い火の粉を巧みに描き出している。
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大内裏は延焼を続け、火炎はますます激しいものとなっている。
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一番初めに掲げた2枚の切手の右下、80円の図柄は朱雀門の内側にあって燃え続ける応天門より更に内裏の内側で風上になる会昌門に集まり、火炎を高々と吹き上げ炎上する応天門を眺める宮廷に仕える人たちの姿である。
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それを拡大したのが上の写真であるが、火事の熱で頬が赤く焼けている表現など実に細かい配慮がされていることに感心する。

この『応天門の変』と呼ばれる事件の発端となったのが866年に起きた応天門の炎上なのだが、この火災は左大臣・源信(みなもとのまこと)が起こした放火事件であると大納言・伴善男(とものよしお)が清和天皇に讒言(ざんげん)したため、天皇はすぐさま左大臣・源信に対する処罰を決めた。 ところがそれを知った太政大臣・藤原良房は事の真相は時間をかけて正確に調べねばならないと主張し、天皇も先の処罰を撤回することとなった。

やがて、真の放火犯は大納言・伴善男であるとされ、拷問を受けるも彼は犯行を否認し続け、結局は死罪を一等免れ伊豆へ流罪と決まり、この地で死没することとなった。

もう少し続くが、ページを改めてのこととしたい。

尚、ここで使用した切手以外の写真は『国宝伴大納言絵巻』(出光美術館 平成18年10月7日発行)の図を撮影、転写したものであることを明記しておく。




at 12:04|Permalink

September 13, 2008

トラサバ? マサバ・ゴマサバ 寿司『福寿』

「今日はお寿司でも食べに行こうか」

「ええよ」

いつになく、二つ返事が返ってきたので東生駒のゴルフ練習場まで車を走らせた。

『福寿』という寿司屋なのだが、我が家からは少々交通便が悪い。

板前でありオーナーの田中氏は未だ40前であるが、大阪・鶴橋の寿司屋に長くいたので魚の目利き、調理ともに信頼できるものを持っている。

プライベートなことを書くのは憚られるが、彼は一児の甘ーいあまーい父親であり、奥さんは某学校の美術教師で、店で使用する陶器皿などは彼女の作によるものが多く、裏方として店を支えている。

私が席につけば先付けの如く三陸ワカメの上に『マグロの中トロ』と山葵を載せた陶器の皿を出してくれるのだが昨日は出なかった。

一番目の皿には軽く〆られた鯖(さば)の切り身が載っていた。

今年は魚の脂の乗りが良いのか、既にサンマ、カツオなどを美味しく戴いているし、私は『鯖の生ずし(きずし)』も好物なので大いに喜んだ。

※『鯖の生ずし(きずし)』というのは〆サバのことで、関西ではこのように呼ぶ。 通常新鮮な鯖の頭を落とし、三枚に下した後の2枚の身に塩をして水分をタップリ出した後、酢に浸す。 一定の時間、このように〆てから鯖の皮を剥き、適当な厚みに切って皿に盛りつける。

この酢に浸す時間の長短によって鯖の身の白色に変化する度合いが変わり、長い時間をかけると一般的には身に柔らかさや湿り気が無くなり、カスカスした感じとなってマズイものとなる。

話を戻そう。 下の写真は持ち帰った“握り寿司”のものである。
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店で戴いた“鯖の生ずし”と同じ鯖である。 

「えっ、ゴマサバか?」

と、私が問うたのに対して田中氏は、

「いえ、トラサバです」

「?????」

私が黙ってしまったのには理由がある。

先ず、『トラサバ』という名前の鯖を知らなかったこと。

次に、白い腹の部分の黒いゴマ斑(ふ)はゴマサバの特徴的模様であること。

三番目には、9月初めだからゴマサバが出ても季節的にオカシイということは無いにせよ、関西の料理屋では真鯖(まさば)は使うが、ゴマサバを供することは稀であるということ。

上のような理由から私の頭はコンガラガッテしまったのである。

確かに、よく見ると上の“握り寿司”の写真でも分かる通り黒いゴマ斑(ふ)はゴマサバの特徴を示しているが、青背と白色の腹の間の体側線に沿って黒色のハッキリした斑(ふ)が並ぶというゴマサバの特徴(下の比較写真を参照)が見えない。
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体全体が大きく、模様だけで言うならば背の部分は真鯖(まさば)であり、腹の部分はゴマサバという実にケッタイなサバ、トラサバなのである。

そして、このトラサバ、体全体に脂が乗り、将に“トラサバ”ならぬ“トロサバ”なのである。

冗談交じりに「ゴマの顔しとったんかいな」と私が尋ねると、「ええ、まったくゴマの顔でした」と田中氏もニコニコ。
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上の写真は独立行政法人『水産総合研究センター中央水産研究所』中央水研ニュース(№38)に掲載のゴマサバ(上)とマサバ(下)を比較するために借用・転載した。

昨夜の『トラサバ』というもの、体の模様と脂の乗り具合から見るならば上の写真のゴマサバとマサバを重ね合わせたようなものであった。

真鯖は秋から冬にかけて脂が乗って美味しくなるが、春からは産卵期に入り味が落ちる。しかしゴマサバの場合は真鯖と反対なので夏場に美味しいとされ、九州・博多の居酒屋などでは夏場にゴマサバの刺身を提供したりしている。

“トラサバ”という名前については『阿波学会研究紀要33号』徳島県海部郡海部町の海産動物の研究報告の中で、採取魚類として『182.マサバ Scomber japonicus HOUTTUYN(地方名 トラサバ,ヒラサバ)海部郡海部町鞆浦漁協,昭和61年8月7日』と挙げられていることから、マサバが地方によってはトラサバと呼ばれている場合があることは分かったが、私はトラサバという名前を昨夜初めて耳にした。

今ひとつオモロイのは、中央水研ニュース(№38)に紹介されている記事である。 

マサバもゴマサバも共に「同属(Scomber属)であり、交雑することは以前から知られていましたので、これは雑種第一代(以下、F1)に違いないと思い」と記されており、マサバ×ゴマサバ=『マゴマサバ』?、これが昨夜の“トラサバ”であったのかどうかは分からないが、体の模様のみで判断するならマサバの地方名としての“トラサバ”では断じてなかったことだけは言える。

それにしても田中氏、一番に“トラサバ”を出したということは、このサバに対して余程の自信を持っておったということであり、最後になっても『マグロの中トロ』が出てこなかったということは・・・・・

彼は胸張って出せない場合、まな板の下の冷蔵庫に仕舞い込んで、客から見えるショーケースには絶対に出さないのである。

どうしても欲しいと注文を受けると、将にシブシブ出してくるのである。

市場の仕入先との関係は持ちつ持たれつ。 買いたくないモノであっても、時には付き合い上買わねばならない時もあるのだろう。

田中氏の人柄を知れば、私も無理強いするようなことはしない。

何においても『阿吽の関係』、ツーカーというのは良いものである。

電話会社の宣伝をしとるのではない。 念のため。


at 09:13|Permalink

September 10, 2008

切手と美術絵葉書(鳥獣人物戯画)先輩K氏の続き3

鳥獣人物戯画は平安時代末期に制作されたとして、小学校、中学校の教科書にも参考図として掲載されてきたりした国宝に指定されている絵巻である。

これは甲乙丙丁の4巻から成っており、原画は東京国立博物館(甲、丙)と京都国立博物館(乙、丁)で管理・保存されているが京都市右京区の北山・栂尾(とがのお)の高山寺所蔵のものである。

平安時代とは『鳴くよ(794年)ウグイス平安京』と学生が覚えるように、桓武天皇の京都遷都から、『いい国(1192年)造ろう鎌倉幕府』と言われる武士政権が始まるまでの約400年ばかりの時代を指す。

一般的に平安時代は律令制復興期、摂関政治期、院政期(平清盛政権も含む)と政治的特徴によって3つに区分している。
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上の切手と美術絵葉書も先輩K氏より戴いたものであるが、鳥獣人物戯画甲巻の1場面であり、ウサギと相撲をとったカエルがウサギを投げ飛ばし、それを観ていたカエルたちがヤンヤノ喝采を浴びせている様子が、その姿態や肉付きの細かな描き方から、今まさに目前で行われているが如くに見える。

この絵巻の作者は天台宗の僧侶『覚猷(かくゆう)』(1053~1140)であろうとされ、『覚猷』は1138年に第47代・天台座主、つまり延暦寺の住職にして天台宗門の最高位に就いたが、その後直ぐに鳥羽上皇が住まわれる鳥羽離宮・南殿の証金剛院の護持僧として離宮に住むようになったことから鳥羽僧正と呼ばれるようになったとか。

この鳥獣人物戯画甲乙丙丁の4巻について、画風や筆のタッチは『覚猷』のものであろうとされつつも鳥羽僧正・『覚猷』が描いたものであるとの確証が無いことから今も猶(伝)鳥羽僧正作と言われている。

また美術史の分野では複数の画家が関わっているとか、一部の制作年代は鎌倉時代にまで広がるとの説もあるらしいが、私には分からないことである。

しかし、優れた画才で多くの仏画を残していることで知られ鳥羽絵の祖とも言われている『覚猷』であることから、私は(伝)ではなく(真正)なものと思いたい。
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美術絵葉書の場面を拡大したものであるが、あざけり笑う声(上)や、気合いの入った声(下)が聞こえてくるようである。
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水遊びをしている様子や川を渡る様子、当時の人々の服装など、見事なまでの擬人化である。
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平安時代の中期以降、遣唐使の廃止によって唐の文化の影響が無くなると共に貴族文化とも呼ばれる国風文化の花が開いた。

貴族社会に仮名文字が広まり、世界最古の物語文学である紫式部の源氏物語をはじめとする女流文学としては世界の草分け的作品の数々が生まれたのもこの時期である。

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オリエント社会にあってはビザンチン美術、ヨーロッパ社会にあってはロマネスク美術に分類される時代の日本において、寝殿造など我が国独自の文化が醸成され、前に紹介した源氏物語絵巻、伴大納言絵巻、信貴山縁起絵巻らとともに鳥獣人物戯画などの大和絵が描かれていたことは日本と言わず世界美術史の上でも特筆すべきことであると言える。

私は国粋主義者でもツマランちっぽけなナショナリズムを後生大事に持つものでもないが、日本文化をしっかり学習しもせずに外国文化を誉めそやしたり、欧米にかぶれるのはいかがかと思う。

若い時に夢を持ち外国に憧れるのは良い。が、彼我の文化を比較できるだけの最低限の知識(識見までとは言わない)ぐらいは持って外国を訪れてほしいものだ。

若い人たちの中には感覚の相違だと言う人がいたが、感覚と知識とをゴチャ混ぜにしてはいけないと思う。

歴史や文化を知るということは事実を事実として受け容れ学ぶこと、これは知識であり、そうして知り得たことに対して良いとか悪いとか好きとか嫌いとか判断する段になって個々の感性という感覚が作用するものと私は考えるが・・・

ともあれ、この【鳥獣人物戯画の甲巻】についてはインターネットで見ることが出来るので紹介しておこう。

( 【鳥獣人物戯画の甲巻】をクリックすればリンク先ページが表示される。)

at 07:43|Permalink
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