October 2008
October 28, 2008
大阪育ちには懐かしい寺社名【大坂三十三所廻り】
秋のこの時期は何かと行事が多い。
月々の定例のものもあれば、年に一度の行事、それに突発的なものもあったりで、あれやこれやと楽しみにしているものもあれば、そうでないものもある。
それらが集中するのが11月の連休の時期なのである。
体が2つあれば・・・などと言われる気持ちがよく分かる。
このブログの更新もままならず、少し空いた時間に手早くブログを書いて次の用事、次の行事と慌しく立ち回っているが、そんなところへ義兄からの手紙を落手。
『大坂三十三所廻り』について調べて欲しいということで、楽しみにしていた用事ではないが、かと言って嫌なことでもない。
ただこうした調べごとは時間がかかるので他の仕事を休止せねばならないのが痛い。 が、多分義兄は講演の裏づけ資料とするのであろうから好い加減では済まされない。
『大坂三十三所廻り』というのは近松門左衛門の『曽根崎心中』の冒頭に出てくる観音廻りのことで、「一番に天満の。大融寺。此御寺の。名もふりし昔の人も。気のとほるの。大臣の君が。塩竈の裏を。都にほり江漕ぐ。潮汲舟の跡絶えず。」と掛け言葉やリズム感のある文体で33の観音様を奉る社寺を綴っている
第1番が大融寺(正しくは太融寺)、第3番が曽根崎の神明宮(露天神社・通称お初天神)、第10番が玉造稲荷、第20番から24番が四天王寺、第30番が難波の三津寺、第32番が博労町稲荷(難波神社)、第33番が本町の御霊神社と4つの神社と29の寺が連なり、私が知る寺社も含まれている。
『曽根崎心中』のほか近松の作品の幾つかは学生時代に読み、その後に人形浄瑠璃として鑑賞してきたが、40数年以前と現在も底本となる作品は江戸・元禄の頃より変わらぬ内容でありながら、今回全く久し振りに読み直してみるとグンと心に響くものが強く、また、以前に読んだ時とは異なる観点に立つ自分自身を発見することとなった。
自分が年をとったのか、それだけ人情の機微を察することが出来るようになったのか、賢くなったのやらどうやら、いろいろ思いをいたすうちに肝心要の『大坂三十三所廻り』のことをそっちのけでお初と徳兵衛の心情にどっぷり浸かりこんでしまった。
これはいかんと、大阪府史や佛教関係の歴史書などを紐解くものの、いつ頃どのようにして起こり、どのように発展し、何が理由で、いつ頃より衰退してきたのかなど『大坂三十三所廻り』に関してピッタリくる記述が見当たらない。
たまたま観音巡りの札所にあたる神社の宮司さんと面識があるので電話をしてみたが、『大坂三十三所廻り』に関わる神社の記録は無いようで、結局江戸・元禄期の町民信仰や経済状況、旅行など移動の実態に関する史料や西国三十三所霊場巡礼の他、12世紀に始まった京の都の洛陽三十三所観音、13世紀の坂東三十三所観音、15世紀の秩父三十三所観音などの成立と推移、また江戸時代の伊勢講(おかげ参りを含む)や熊野詣などに関する史料を蒐集し、『大坂三十三所廻り』について類推できる程度のことまでしか出来なかった。
時間があれば今少し調べごとを行っても良かったのだが、義姉からの依頼である彼女や同人による童謡詩をプリントする作業も受けていたものだから、自分自身としては不完全燃焼の思いのまま仕事を完了扱いにしてしまった。
しかし、まあ喜んで頂けたということで良かったということにして継続している仕事に取り掛かっているが、同窓会に大学祭など等、お呼びの掛かる行事が続くものの体はひとつ、全てに出席出来ないのが残念である。
そんなこんなでブログの更新もままならない。が、元気にさせていただいていることを喜ばねばなるまい。
月々の定例のものもあれば、年に一度の行事、それに突発的なものもあったりで、あれやこれやと楽しみにしているものもあれば、そうでないものもある。
それらが集中するのが11月の連休の時期なのである。
体が2つあれば・・・などと言われる気持ちがよく分かる。
このブログの更新もままならず、少し空いた時間に手早くブログを書いて次の用事、次の行事と慌しく立ち回っているが、そんなところへ義兄からの手紙を落手。
『大坂三十三所廻り』について調べて欲しいということで、楽しみにしていた用事ではないが、かと言って嫌なことでもない。
ただこうした調べごとは時間がかかるので他の仕事を休止せねばならないのが痛い。 が、多分義兄は講演の裏づけ資料とするのであろうから好い加減では済まされない。
『大坂三十三所廻り』というのは近松門左衛門の『曽根崎心中』の冒頭に出てくる観音廻りのことで、「一番に天満の。大融寺。此御寺の。名もふりし昔の人も。気のとほるの。大臣の君が。塩竈の裏を。都にほり江漕ぐ。潮汲舟の跡絶えず。」と掛け言葉やリズム感のある文体で33の観音様を奉る社寺を綴っている
第1番が大融寺(正しくは太融寺)、第3番が曽根崎の神明宮(露天神社・通称お初天神)、第10番が玉造稲荷、第20番から24番が四天王寺、第30番が難波の三津寺、第32番が博労町稲荷(難波神社)、第33番が本町の御霊神社と4つの神社と29の寺が連なり、私が知る寺社も含まれている。
『曽根崎心中』のほか近松の作品の幾つかは学生時代に読み、その後に人形浄瑠璃として鑑賞してきたが、40数年以前と現在も底本となる作品は江戸・元禄の頃より変わらぬ内容でありながら、今回全く久し振りに読み直してみるとグンと心に響くものが強く、また、以前に読んだ時とは異なる観点に立つ自分自身を発見することとなった。
自分が年をとったのか、それだけ人情の機微を察することが出来るようになったのか、賢くなったのやらどうやら、いろいろ思いをいたすうちに肝心要の『大坂三十三所廻り』のことをそっちのけでお初と徳兵衛の心情にどっぷり浸かりこんでしまった。
これはいかんと、大阪府史や佛教関係の歴史書などを紐解くものの、いつ頃どのようにして起こり、どのように発展し、何が理由で、いつ頃より衰退してきたのかなど『大坂三十三所廻り』に関してピッタリくる記述が見当たらない。
たまたま観音巡りの札所にあたる神社の宮司さんと面識があるので電話をしてみたが、『大坂三十三所廻り』に関わる神社の記録は無いようで、結局江戸・元禄期の町民信仰や経済状況、旅行など移動の実態に関する史料や西国三十三所霊場巡礼の他、12世紀に始まった京の都の洛陽三十三所観音、13世紀の坂東三十三所観音、15世紀の秩父三十三所観音などの成立と推移、また江戸時代の伊勢講(おかげ参りを含む)や熊野詣などに関する史料を蒐集し、『大坂三十三所廻り』について類推できる程度のことまでしか出来なかった。
時間があれば今少し調べごとを行っても良かったのだが、義姉からの依頼である彼女や同人による童謡詩をプリントする作業も受けていたものだから、自分自身としては不完全燃焼の思いのまま仕事を完了扱いにしてしまった。
しかし、まあ喜んで頂けたということで良かったということにして継続している仕事に取り掛かっているが、同窓会に大学祭など等、お呼びの掛かる行事が続くものの体はひとつ、全てに出席出来ないのが残念である。
そんなこんなでブログの更新もままならない。が、元気にさせていただいていることを喜ばねばなるまい。
at 12:19|Permalink│
October 24, 2008
九州への旅・・・6 平戸を巡る(2)
平戸の町は港の入り江を『Uの字』を囲むように成り立っており、歩いて見て回ることのできる小さな範囲に城や寺、教会などが建っているから車で回れば見学に要する時間は短くて済む。
しかし、どこにでも駐車できるわけでもないし、狭い道も多いので駐車場に車を停めて周辺を散策し、また次の駐車場に停めて、その辺りを見学するようにすると良いと思った。
平戸城の駐車場、平戸港交流広場の駐車場、そして以前には無かったと記憶しているが、聖フランシスコ・ザビエル記念教会と道を挟んで向かい側に位置する駐車場の3つが効率よく巡るための駐車場であると思う。
聖フランシスコ・ザビエル記念教会は1931年に建てられた平戸カトリック教会のことである。
平戸の町を観光した私達は平戸島を通る国道383号線に沿って南へ下っていくことにした。
国道だけに往復1車線ずつの道路ではあるが、丘陵上を通ったり海岸線を通ったりと結構曲がりくねった道であったが景色の変化を楽しむことができた。
途中、川内という町の近くでは鄭成功居宅跡や鄭成功廟があったり、歓楽街の丸山があった所など、「ええっ」と驚くようなこともあった。
鄭成功は中国・明の末期に清国軍と戦った武人で、近松門左衛門の『国姓爺合戦』での『和藤内』のことであるが、その彼の居宅や御霊屋である廟が平戸島にあるということに驚いたのである。
また、歓楽街・丸山跡であるが、丸山というのは長崎の花街のことと思い込んでいたのだが、それが平戸にもあったというこに驚いたのである。
近くにはオランダ商館の倉庫跡もあることから、幕府の鎖国政策によって長崎の出島に商館が移るまでは、この地でオランダ人や平戸藩の武士たちが遊興に耽っていたのかもしれない。
この海岸沿いに走っていた道路が丘陵上の道に変わって暫くの後、宝亀教会との表示が出ていたので立ち寄ってみることにした。
車1台が通れる程度の農道というか山道を少し走り、T字路を更に急な上り坂を上がっていった所に宝亀教会というのがあった。
カトリック宝亀教会という名称で1898年(明治31年)に建てられた。
赤レンガと白の漆くいの色の対比が鮮やかで、丘陵の緑の向こうに海を見下ろす高台に位置するこの宝亀教会が九州西部・平戸島のはずれにあるとは思えないほどの感じを受けてしまった。
上の写真は教会の横の部分であるが、張り出した庇(ひさし)の部分や窓などに明治時代の木造建築の趣きが感じられる。
写真でも分かるように地面から5~60cmの高さが床面になっているのだが、教会の窓の開扉部が床面まであることも分かるだろう。 通常、窓の開口部は床面から幾分かの高さを置いているものだが、この教会の窓のように出入り口と同じように床面まで開扉部としているのは建築上でも珍しいものである。
私から見れば辺鄙な丘陵に建てられた教会で、近くに大きな集落があるわけでもなく、17世紀から19世紀半ばまでの幕府による鎖国政策下でキリスト教が厳しく禁じられ、隠れキリシタンを除いて信仰者はいなかったと考えるのが当然。それが明治期に入って信教の自由、布教の自由が認められたといっても、この平戸島の辺鄙な場所でキリスト教信徒の数が急増したとは考えにくい。
が、明治期より信徒たちの寄付によって幾つもの立派なキリスト教会が平戸島の各地に建てられているのだが、この平戸島に日本を代表するような大企業があったというわけでもないし、大財閥がいたということを聞いたこともない。
つまり、単純に考えれば、この地のキリスト教徒がいかに熱心な信徒であるのかを窺い知ることのできる教会建設であったということである。
誤解を招いてはいけないので敢えて付け加えるが、金銭の多寡、つまり寄付金額が大きいということが同時に信仰の大きさを表すものであるなどと言っているのではないということ。
この教会の直ぐ横に男女別の便所1棟が建てられており、私たちも使わせていただいたのだが、とても綺麗に維持・管理されており正直なところ、これにも驚いたのである。
下のロマネスク風の教会はカトリック紐差教会であり、宝亀教会より丘陵を下って行った入り江の集落・紐差にあって、1873年に布教に入ったペルー神父らの尽力によって1929年に完成したものである。
私の解釈が間違っていればキリスト教徒の皆さんに申し訳ないが、教会というものは神に対する『証しの場』として常時公開されているべき場所であると私は考えている。
つまり、人間が神の子である以上、洗礼を受けた者であれ受けていない者であれ全ての者たちを迎え受け入れるのがキリストの『愛』であると私は考えているのである。
この私の考え方はキリスト教会に限らず、仏教寺院や他の宗教教会にも当て嵌められるものとも考える。
しかし、都会の仏教寺院や他の宗教の教会が1日24時間、常時公開しているのでは無い方の例を私は多く知っている。
それには防犯や治安上の問題が絡んでいるのかもしれないが、宗教というものは、そうした人間の悪行をも超越したものでなければならないのではないかと・・・これは私の思いであるが。
キリスト教の『愛』も仏教における阿弥陀仏の『本願』も、ともに人間を救うという観点に立てば同じものと思うのである。
親鸞が表した『歎異抄』の『悪人正機』説は将にこのことを言っているのだと私は理解している。
紐差にしろ宝亀教会にしろ、全てに公開された場ゆえに手洗所が設置されているのは当然としても、それを日々維持管理するというのは誰が考えても大変なことである。
走り行く車からポリ袋入りのゴミを平気で路上に捨てていく人のいる日本であり、『我さえ良ければ他は知らぬ』というツマラン風潮がまかり通る情けない国である。
いかに『キリストの愛』に根ざした信仰心厚き信徒と言えど、丘陵上の辺鄙な場所に建つ教会、しかも仮に365人の信徒がいて、その全てが毎日交代するとしても全てが加わることなど出来ない教会や手洗所の清掃である。
私達は事前に連絡を入れて訪れたのではない。 全く突然に訪れたのであるが、チリひとつ無く整頓、清潔にされた教会施設を見学し、そこに信徒さんたちの信仰の厚さ深さを感じ、感謝と敬服の念を抱いたのである。
私達の喜びの気持ちをこの拙劣なブログのページではあるが紹介し感謝の意を表しておきたい。
しかし、どこにでも駐車できるわけでもないし、狭い道も多いので駐車場に車を停めて周辺を散策し、また次の駐車場に停めて、その辺りを見学するようにすると良いと思った。
平戸城の駐車場、平戸港交流広場の駐車場、そして以前には無かったと記憶しているが、聖フランシスコ・ザビエル記念教会と道を挟んで向かい側に位置する駐車場の3つが効率よく巡るための駐車場であると思う。
聖フランシスコ・ザビエル記念教会は1931年に建てられた平戸カトリック教会のことである。
平戸の町を観光した私達は平戸島を通る国道383号線に沿って南へ下っていくことにした。
国道だけに往復1車線ずつの道路ではあるが、丘陵上を通ったり海岸線を通ったりと結構曲がりくねった道であったが景色の変化を楽しむことができた。
途中、川内という町の近くでは鄭成功居宅跡や鄭成功廟があったり、歓楽街の丸山があった所など、「ええっ」と驚くようなこともあった。
鄭成功は中国・明の末期に清国軍と戦った武人で、近松門左衛門の『国姓爺合戦』での『和藤内』のことであるが、その彼の居宅や御霊屋である廟が平戸島にあるということに驚いたのである。
また、歓楽街・丸山跡であるが、丸山というのは長崎の花街のことと思い込んでいたのだが、それが平戸にもあったというこに驚いたのである。
近くにはオランダ商館の倉庫跡もあることから、幕府の鎖国政策によって長崎の出島に商館が移るまでは、この地でオランダ人や平戸藩の武士たちが遊興に耽っていたのかもしれない。
この海岸沿いに走っていた道路が丘陵上の道に変わって暫くの後、宝亀教会との表示が出ていたので立ち寄ってみることにした。
車1台が通れる程度の農道というか山道を少し走り、T字路を更に急な上り坂を上がっていった所に宝亀教会というのがあった。
カトリック宝亀教会という名称で1898年(明治31年)に建てられた。
赤レンガと白の漆くいの色の対比が鮮やかで、丘陵の緑の向こうに海を見下ろす高台に位置するこの宝亀教会が九州西部・平戸島のはずれにあるとは思えないほどの感じを受けてしまった。
上の写真は教会の横の部分であるが、張り出した庇(ひさし)の部分や窓などに明治時代の木造建築の趣きが感じられる。
写真でも分かるように地面から5~60cmの高さが床面になっているのだが、教会の窓の開扉部が床面まであることも分かるだろう。 通常、窓の開口部は床面から幾分かの高さを置いているものだが、この教会の窓のように出入り口と同じように床面まで開扉部としているのは建築上でも珍しいものである。
私から見れば辺鄙な丘陵に建てられた教会で、近くに大きな集落があるわけでもなく、17世紀から19世紀半ばまでの幕府による鎖国政策下でキリスト教が厳しく禁じられ、隠れキリシタンを除いて信仰者はいなかったと考えるのが当然。それが明治期に入って信教の自由、布教の自由が認められたといっても、この平戸島の辺鄙な場所でキリスト教信徒の数が急増したとは考えにくい。
が、明治期より信徒たちの寄付によって幾つもの立派なキリスト教会が平戸島の各地に建てられているのだが、この平戸島に日本を代表するような大企業があったというわけでもないし、大財閥がいたということを聞いたこともない。
つまり、単純に考えれば、この地のキリスト教徒がいかに熱心な信徒であるのかを窺い知ることのできる教会建設であったということである。
誤解を招いてはいけないので敢えて付け加えるが、金銭の多寡、つまり寄付金額が大きいということが同時に信仰の大きさを表すものであるなどと言っているのではないということ。
この教会の直ぐ横に男女別の便所1棟が建てられており、私たちも使わせていただいたのだが、とても綺麗に維持・管理されており正直なところ、これにも驚いたのである。
下のロマネスク風の教会はカトリック紐差教会であり、宝亀教会より丘陵を下って行った入り江の集落・紐差にあって、1873年に布教に入ったペルー神父らの尽力によって1929年に完成したものである。
私の解釈が間違っていればキリスト教徒の皆さんに申し訳ないが、教会というものは神に対する『証しの場』として常時公開されているべき場所であると私は考えている。
つまり、人間が神の子である以上、洗礼を受けた者であれ受けていない者であれ全ての者たちを迎え受け入れるのがキリストの『愛』であると私は考えているのである。
この私の考え方はキリスト教会に限らず、仏教寺院や他の宗教教会にも当て嵌められるものとも考える。
しかし、都会の仏教寺院や他の宗教の教会が1日24時間、常時公開しているのでは無い方の例を私は多く知っている。
それには防犯や治安上の問題が絡んでいるのかもしれないが、宗教というものは、そうした人間の悪行をも超越したものでなければならないのではないかと・・・これは私の思いであるが。
キリスト教の『愛』も仏教における阿弥陀仏の『本願』も、ともに人間を救うという観点に立てば同じものと思うのである。
親鸞が表した『歎異抄』の『悪人正機』説は将にこのことを言っているのだと私は理解している。
紐差にしろ宝亀教会にしろ、全てに公開された場ゆえに手洗所が設置されているのは当然としても、それを日々維持管理するというのは誰が考えても大変なことである。
走り行く車からポリ袋入りのゴミを平気で路上に捨てていく人のいる日本であり、『我さえ良ければ他は知らぬ』というツマラン風潮がまかり通る情けない国である。
いかに『キリストの愛』に根ざした信仰心厚き信徒と言えど、丘陵上の辺鄙な場所に建つ教会、しかも仮に365人の信徒がいて、その全てが毎日交代するとしても全てが加わることなど出来ない教会や手洗所の清掃である。
私達は事前に連絡を入れて訪れたのではない。 全く突然に訪れたのであるが、チリひとつ無く整頓、清潔にされた教会施設を見学し、そこに信徒さんたちの信仰の厚さ深さを感じ、感謝と敬服の念を抱いたのである。
私達の喜びの気持ちをこの拙劣なブログのページではあるが紹介し感謝の意を表しておきたい。
at 11:26|Permalink│
October 22, 2008
九州への旅・・・6 平戸を巡る(1)
団体客の朝は早く、私達がレストランに入る時には彼らが出発のためにロビーに集まっていた時であった。
このあたりも個人で旅行する者は自由で気楽なのである。
『旗松亭』の朝食も最近の日本の旅館が殆ど取り入れているヴァイキング方式であり、お膳を部屋へ運んでくれた頃が懐かしいが、経営上の様々な要素を考え合わせればヴァイキング方式も分からなくはない。 止む無しか。
しかし、日本に於いて『巨人・大鵬・玉子焼』ではないが、『ご飯・味噌汁・玉子焼(生でも可)』・・・私の『三種の神器』が揃わないと朝食を食べた気分にならないのである。
外国での朝食には必ず玉子が付く。 生卵は言えばくれるが、通常はスクランブル、ボイルのいずれかが並べられ、コックが食事時間帯にレストランの一角で焼いてくれるところも多い。
日本の場合、ゆで卵、スクランブル、玉子焼が多く、生卵を置くところが少なくなってきた。 これは日本食を好み、玉子かけご飯の好きな私にとって残念なことである。
『旗松亭』の場合、品数は結構あったのだが玉子焼とスクランブル・エッグだけで、この玉子焼というのが甘くてお菓子のような代物。 玉子焼の甘いのは私は好かん。せめて温泉玉子か、ゆで卵だったらと玉子に関しては私の好みには合わんかった。
ほうれん草とコンニャクの和え物があったが、これも甘くて・・・むむむ。
ご飯大好きの私は結局チリメンジャコと大根おろし、味噌汁、それにアゴ(トビウオ)の干物で食事を終えた。
8時半になって展望風呂に浸かりに行ったが、団体客が出発した後で広い湯船を一人占めにし、小雨煙る平戸城や平戸大橋を眺めながら朝湯をノンビリと楽しんだ。 ここの温泉は湯から上がると肌がツルツルするようで気持ちが良いのである。
雨がひどくなっていたが10時にホテルを出発。
『旗松亭』からの急坂を海岸通りに出たところにオランダ商館跡、オランダ埠頭跡など建物などは現存しないが石塀や石組みの遺構が保存されている。
15世紀から17世紀は『大航海時代』と言われる新大陸、新航路の発見時代でヨーロッパの大国は盛んに船を出しており、1550年には平戸の地にポルトガル船がやってきている。
この年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島より平戸にきて1ヶ月ばかり滞在してもいるらしい。
平戸にオランダの商館が建てられたのは1609年のことであり、1613年にはイギリスの商館も設置されているように江戸幕府が鎖国政策を実施した1639年までの平戸は外国との貿易港として賑やかであったようだ。
写真中央奥の尖塔がフランシスコ・ザビエル記念教会で手前には仏教寺院があり、異なる宗教施設が一枚の写真に収まるといのも珍しい光景である。
しかし、江戸幕府が鎖国政策を実施して以来、キリシタン大名が多くいた九州にあって処刑された人々は数知れず殉教の遺跡も多い。 また幕藩体制の弾圧のもとでも改宗せず強い信仰心を持った人々は『隠れキリシタン』として密かに信仰を続けたが、そうした史跡・資料がこの平戸をはじめ九州各地には多く残っている。
平戸も歴史的に辿れば中国や朝鮮との交流が更に古くからあり、魏志の倭人伝に出て来る末盧(まつら)国は現在の松浦・・・佐賀県北部から長崎県にかけての地域で平戸も含む・・・であり、中世、鎌倉時代の武士団・松浦党(まつらとう)は水軍としても勇名を馳せ、元寇の役での佐志氏の活躍などは小説でも取り上げられている。
平戸の瀬戸に面する丘陵上に最初に城を構えた松浦鎮信(まつらしげのぶ)も松浦党の領袖の一人であるが、彼は豊臣秀吉の朝鮮侵略に参戦後、壱岐、松浦の領主となり、商館を建ててオランダ船を招くなど平戸の礎を築いた人物である。
写真は平戸城の天守閣であるが遺構をもとに復元されたものである。
規模としては小さい城であるが、当初、松浦鎮信が日の岳城として築いたが、関が原の戦以後、徳川家康との対決を避けて城を炎上消滅させたらしい。
やがて、1702年の元禄15年に天祥松浦鎮信(29代)が幕府に願い出て山鹿素行の軍学により築城を開始し、14年の歳月をかけて完成したが、やがて1871年(明治4年)の廃藩置県で城が解体された後、1962年(昭和37年)に復元され、現在の天守閣は3代目ということになる。
上は天守閣よりの眺め(北側)であるが、ノロノロ台風が鹿児島あたりを通過するということで天守への雨の吹き降りが激しく、写真右手の平戸の瀬戸は白い波頭が無数に立っていた。
写真中央は入り江になっており、右端に出張っている部分が『常燈の鼻』と呼ばれる昔の灯台、そこから左の白い建物の間あたりにオランダ商館や、石塀、井戸などの遺構が残っている。
私達が宿泊した『旗松亭』が写真中央の小高い位置にある建物で、松浦氏の城が無かった当時の『御館』が写真中央の丘陵の左端あたりの位置になる。
この『御館』は現在『松浦史料博物館』として松浦家に伝わる品々を展示し観覧に供している。
随筆『甲子夜話』の作者・松浦静山は江戸後期の平戸藩主であった。
平戸の町自体は小さいところであり、晴れていればノンビリ歩いて回っても良かったのだが、台風による雨風が時々強くなったりしていたので自動車で急ぎ巡ることにした。
このあたりも個人で旅行する者は自由で気楽なのである。
『旗松亭』の朝食も最近の日本の旅館が殆ど取り入れているヴァイキング方式であり、お膳を部屋へ運んでくれた頃が懐かしいが、経営上の様々な要素を考え合わせればヴァイキング方式も分からなくはない。 止む無しか。
しかし、日本に於いて『巨人・大鵬・玉子焼』ではないが、『ご飯・味噌汁・玉子焼(生でも可)』・・・私の『三種の神器』が揃わないと朝食を食べた気分にならないのである。
外国での朝食には必ず玉子が付く。 生卵は言えばくれるが、通常はスクランブル、ボイルのいずれかが並べられ、コックが食事時間帯にレストランの一角で焼いてくれるところも多い。
日本の場合、ゆで卵、スクランブル、玉子焼が多く、生卵を置くところが少なくなってきた。 これは日本食を好み、玉子かけご飯の好きな私にとって残念なことである。
『旗松亭』の場合、品数は結構あったのだが玉子焼とスクランブル・エッグだけで、この玉子焼というのが甘くてお菓子のような代物。 玉子焼の甘いのは私は好かん。せめて温泉玉子か、ゆで卵だったらと玉子に関しては私の好みには合わんかった。
ほうれん草とコンニャクの和え物があったが、これも甘くて・・・むむむ。
ご飯大好きの私は結局チリメンジャコと大根おろし、味噌汁、それにアゴ(トビウオ)の干物で食事を終えた。
8時半になって展望風呂に浸かりに行ったが、団体客が出発した後で広い湯船を一人占めにし、小雨煙る平戸城や平戸大橋を眺めながら朝湯をノンビリと楽しんだ。 ここの温泉は湯から上がると肌がツルツルするようで気持ちが良いのである。
雨がひどくなっていたが10時にホテルを出発。
『旗松亭』からの急坂を海岸通りに出たところにオランダ商館跡、オランダ埠頭跡など建物などは現存しないが石塀や石組みの遺構が保存されている。
15世紀から17世紀は『大航海時代』と言われる新大陸、新航路の発見時代でヨーロッパの大国は盛んに船を出しており、1550年には平戸の地にポルトガル船がやってきている。
この年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島より平戸にきて1ヶ月ばかり滞在してもいるらしい。
平戸にオランダの商館が建てられたのは1609年のことであり、1613年にはイギリスの商館も設置されているように江戸幕府が鎖国政策を実施した1639年までの平戸は外国との貿易港として賑やかであったようだ。
写真中央奥の尖塔がフランシスコ・ザビエル記念教会で手前には仏教寺院があり、異なる宗教施設が一枚の写真に収まるといのも珍しい光景である。
しかし、江戸幕府が鎖国政策を実施して以来、キリシタン大名が多くいた九州にあって処刑された人々は数知れず殉教の遺跡も多い。 また幕藩体制の弾圧のもとでも改宗せず強い信仰心を持った人々は『隠れキリシタン』として密かに信仰を続けたが、そうした史跡・資料がこの平戸をはじめ九州各地には多く残っている。
平戸も歴史的に辿れば中国や朝鮮との交流が更に古くからあり、魏志の倭人伝に出て来る末盧(まつら)国は現在の松浦・・・佐賀県北部から長崎県にかけての地域で平戸も含む・・・であり、中世、鎌倉時代の武士団・松浦党(まつらとう)は水軍としても勇名を馳せ、元寇の役での佐志氏の活躍などは小説でも取り上げられている。
平戸の瀬戸に面する丘陵上に最初に城を構えた松浦鎮信(まつらしげのぶ)も松浦党の領袖の一人であるが、彼は豊臣秀吉の朝鮮侵略に参戦後、壱岐、松浦の領主となり、商館を建ててオランダ船を招くなど平戸の礎を築いた人物である。
写真は平戸城の天守閣であるが遺構をもとに復元されたものである。
規模としては小さい城であるが、当初、松浦鎮信が日の岳城として築いたが、関が原の戦以後、徳川家康との対決を避けて城を炎上消滅させたらしい。
やがて、1702年の元禄15年に天祥松浦鎮信(29代)が幕府に願い出て山鹿素行の軍学により築城を開始し、14年の歳月をかけて完成したが、やがて1871年(明治4年)の廃藩置県で城が解体された後、1962年(昭和37年)に復元され、現在の天守閣は3代目ということになる。
上は天守閣よりの眺め(北側)であるが、ノロノロ台風が鹿児島あたりを通過するということで天守への雨の吹き降りが激しく、写真右手の平戸の瀬戸は白い波頭が無数に立っていた。
写真中央は入り江になっており、右端に出張っている部分が『常燈の鼻』と呼ばれる昔の灯台、そこから左の白い建物の間あたりにオランダ商館や、石塀、井戸などの遺構が残っている。
私達が宿泊した『旗松亭』が写真中央の小高い位置にある建物で、松浦氏の城が無かった当時の『御館』が写真中央の丘陵の左端あたりの位置になる。
この『御館』は現在『松浦史料博物館』として松浦家に伝わる品々を展示し観覧に供している。
随筆『甲子夜話』の作者・松浦静山は江戸後期の平戸藩主であった。
平戸の町自体は小さいところであり、晴れていればノンビリ歩いて回っても良かったのだが、台風による雨風が時々強くなったりしていたので自動車で急ぎ巡ることにした。
at 15:10|Permalink│
九州への旅・・・6 平戸・『旗松亭』の2
宿で一風呂浴びてから夕食をホテルの浪漫亭『美湾』で頂くことになった。
このレストランも前回と同じ所なのだが、今回はきっちりと仕切られ、ガラス戸の開閉によって出入りする和室だったので家内と2人落ち着いて食事をすることができた。
前回は通路を行き来する人たちが気になる仕切りとは言えない仕切り?で囲った部屋で、通路を挟んだ向かい側の座敷(ここは仕切り無しで見通せる)に団体さんがいたものだからハッキリ言えばウルサイ状況での食事であった。
食事を始めてから暫く後に気が付いて写真を撮ったが、これだけでも実は相当量のお膳なのである。
船盛りにはヒラメ活け造りの他、サザエ、カンパチ、イカ・・・他にもあったが忘れてしまった。
エビの天ぷらやタコのマリネ?などなど、会席膳だから煮物なども・・・
卓上コンロの1つは平戸牛の焼き物、もう1つの卓上コンロにはアワビの踊り焼き、釜飯にウチワエビの味噌汁。
前回も同様であったが、この宿の食事の盛り沢山な内容には驚かされるのである。
いたって少食で生ものを余り好まない家内が昼食の活けイカの刺身を全て食べたのにも驚いたが、この宿の食事も刺身こそ少し箸を付けた程度とは言うものの、他の料理についてはほぼ1人で食べたことにも驚かされた。
やはり美味しかったということなのであろう。
私にしても昼間は車の運転をするためアルコールを口にすることが出来ないが、夜の旅館では食べることと飲むことが一番の楽しみとなるので、この『旗松亭』での食事内容には大満足だったのである。
ところが食事中、卓上コンロに火を点けて平戸牛を焼いていたのだが、ぼちぼち焼けたかと陶板の蓋をつまんで持ち上げた家内が「熱いっ」と声を上げた。
その瞬間の状況を見てはいなかったが、家内の弁と直後の家内と陶板の蓋の様子を見た時のことを合わせ推測すれば、陶板の蓋の中央に取っ手があり、そこにヒモのようなものが結わえられているので、家内はそのヒモを持って持ち上げたところ、円盤状の蓋が僅かに回転し、蓋に開けられている蒸気孔からの蒸気を中指と薬指の間に受けたらしい。
結局、この薬指の火傷は水泡がつぶれて薄皮ながら痛みが無くなるまで3週間を要し、皮膚の色は現在も元には戻っていない。
これは家内の不注意であるが、その折に係りの女性に火傷したことを告げて冷やすための氷を持ってきてくれるように依頼したら、その女性、迅速に対応してくれ、「医者に見てもらいましょう」とも言ってくれた。
小さな部分の火傷は直ぐに患部を冷やし、それを続けている限り痛みは和らぐし大事に至ることも少ないから家内は「結構です」と言ったのだが、係りの女性は随分気にしてくれてアロエの葉っぱを持っても来てくれた。
丁度、他のお客も出ていったところだったので片付けなどもあったであろうに随分気を遣わせてしまい、こちらが恐縮するほどであった。
部屋へ戻り、夜間の冷却用にと氷を依頼すると、これも迅速に対応して頂けた。
こうした宿の対応は当然とする向きもあることは承知しているが、実際の場面に遭遇して、適切な言葉かけや応急的処置を親切に行うことが出来るということは実に素晴らしいことであり、ホテルを利用する立場の私には安心できる要素のひとつであると思っている。
浪漫亭『美湾』で担当頂いた女性、そして『旗松亭』レセプションの方達にはこのブログ・ページを通じて御礼を申し上げる。
『旗松亭』をクリックすればリンクしていますから、どうぞ。
このレストランも前回と同じ所なのだが、今回はきっちりと仕切られ、ガラス戸の開閉によって出入りする和室だったので家内と2人落ち着いて食事をすることができた。
前回は通路を行き来する人たちが気になる仕切りとは言えない仕切り?で囲った部屋で、通路を挟んだ向かい側の座敷(ここは仕切り無しで見通せる)に団体さんがいたものだからハッキリ言えばウルサイ状況での食事であった。
食事を始めてから暫く後に気が付いて写真を撮ったが、これだけでも実は相当量のお膳なのである。
船盛りにはヒラメ活け造りの他、サザエ、カンパチ、イカ・・・他にもあったが忘れてしまった。
エビの天ぷらやタコのマリネ?などなど、会席膳だから煮物なども・・・
卓上コンロの1つは平戸牛の焼き物、もう1つの卓上コンロにはアワビの踊り焼き、釜飯にウチワエビの味噌汁。
前回も同様であったが、この宿の食事の盛り沢山な内容には驚かされるのである。
いたって少食で生ものを余り好まない家内が昼食の活けイカの刺身を全て食べたのにも驚いたが、この宿の食事も刺身こそ少し箸を付けた程度とは言うものの、他の料理についてはほぼ1人で食べたことにも驚かされた。
やはり美味しかったということなのであろう。
私にしても昼間は車の運転をするためアルコールを口にすることが出来ないが、夜の旅館では食べることと飲むことが一番の楽しみとなるので、この『旗松亭』での食事内容には大満足だったのである。
ところが食事中、卓上コンロに火を点けて平戸牛を焼いていたのだが、ぼちぼち焼けたかと陶板の蓋をつまんで持ち上げた家内が「熱いっ」と声を上げた。
その瞬間の状況を見てはいなかったが、家内の弁と直後の家内と陶板の蓋の様子を見た時のことを合わせ推測すれば、陶板の蓋の中央に取っ手があり、そこにヒモのようなものが結わえられているので、家内はそのヒモを持って持ち上げたところ、円盤状の蓋が僅かに回転し、蓋に開けられている蒸気孔からの蒸気を中指と薬指の間に受けたらしい。
結局、この薬指の火傷は水泡がつぶれて薄皮ながら痛みが無くなるまで3週間を要し、皮膚の色は現在も元には戻っていない。
これは家内の不注意であるが、その折に係りの女性に火傷したことを告げて冷やすための氷を持ってきてくれるように依頼したら、その女性、迅速に対応してくれ、「医者に見てもらいましょう」とも言ってくれた。
小さな部分の火傷は直ぐに患部を冷やし、それを続けている限り痛みは和らぐし大事に至ることも少ないから家内は「結構です」と言ったのだが、係りの女性は随分気にしてくれてアロエの葉っぱを持っても来てくれた。
丁度、他のお客も出ていったところだったので片付けなどもあったであろうに随分気を遣わせてしまい、こちらが恐縮するほどであった。
部屋へ戻り、夜間の冷却用にと氷を依頼すると、これも迅速に対応して頂けた。
こうした宿の対応は当然とする向きもあることは承知しているが、実際の場面に遭遇して、適切な言葉かけや応急的処置を親切に行うことが出来るということは実に素晴らしいことであり、ホテルを利用する立場の私には安心できる要素のひとつであると思っている。
浪漫亭『美湾』で担当頂いた女性、そして『旗松亭』レセプションの方達にはこのブログ・ページを通じて御礼を申し上げる。
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九州への旅・・・6 平戸・『旗松亭』の1
名護屋城址の見学を終えて午後3時を過ぎた。
旅行出発の前にあらかたのコースは決めてはあったのだが、つまり長距離のフェリーは利用しないで出来るだけ陸上を走行し、唐津より見学を始めて伊万里・有田、平戸、長崎、島原・雲仙から熊本、大分を経てフェリーで四国へ渡って帰るというものであった。
しかし、旅先においては思わぬ出会い、それが人であったり、決して有名ではない所であったりするものだから、私達の旅程は有って無いのと同じなのである。
私自身、いわゆるパック旅行という商品化されたものが嫌いな理由がコレなのである。
有名神社仏閣・景勝地を順々に、それも時間を決められ動き回らされる旅はオモシロクないのである。
しかし、安く、短時間(短時日)で効率良く巡るという点でパック旅行商品は素晴らしいものが多く、そうした良さは率直に認めなければならないし、有名神社仏閣などを訪れないというものではない。
ただ、パック旅行商品というものは気に入った場所でゆっくり時間を取ったり、行ってみたいと思い立った所へ足を延ばしたりする自由さが団体旅行であるだけに出来ないという不自由さがあり、こうした点が嫌いなのである。
今回は家内と2人だけ、しかも我が愛車で巡ってきたため何もかもが自由に出来たのである。
この日の宿も午後3時を過ぎたので平戸辺りにしようと決めたもので事前にホテルの予約を取って出発してきたわけではない。
この日に宿泊依頼の電話を入れたのは平戸の政府登録・国際観光ホテル『旗松亭』であった。
この旅館は以前に私が利用しており、その際まずまずの評価をしていた宿なので家内にも同じ経験をと決めたのである。
名護屋城址から平戸まで直線距離にすれば40kmほどなのだが、深い入り江になっている伊万里港など幾つもの入り江に沿って走るものだから実際の走行距離は70km以上であったと思う。
しかも、ほとんどが片側1車線の道路の上、雨降りの夕刻で渋滞続き。 そのため私が予測したより1時間も遅くなって午後6時近くになって宿に到着した。
『旗松亭』は平戸大橋(100円)を渡った右手に建つ平戸城と入り江を挟んだ向かい側の小高い丘の中腹に建つホテルであり、ホテルの部屋の窓から、また温泉大浴場(炭酸水素塩素泉)からは平戸港の入り江を挟んだ丘陵上に聳える平戸城や、九州本土と平戸島の間の瀬戸に架けられた赤色の平戸大橋(665m)が眺められる絶好の場所に位置しているのである。
夜は平戸城や聖フランシスコ・ザビエル記念教会がライトアップされ、平戸大橋も電飾灯が点される。写真は私たちの部屋より
夕食会場の浪漫亭のレストラン『美湾』からは聖フランシスコ・ザビエル記念教会も眺められるのだが、私達の部屋からは見えない。
九州への旅・・・6 平戸・『旗松亭』の2へ続く。
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旅行出発の前にあらかたのコースは決めてはあったのだが、つまり長距離のフェリーは利用しないで出来るだけ陸上を走行し、唐津より見学を始めて伊万里・有田、平戸、長崎、島原・雲仙から熊本、大分を経てフェリーで四国へ渡って帰るというものであった。
しかし、旅先においては思わぬ出会い、それが人であったり、決して有名ではない所であったりするものだから、私達の旅程は有って無いのと同じなのである。
私自身、いわゆるパック旅行という商品化されたものが嫌いな理由がコレなのである。
有名神社仏閣・景勝地を順々に、それも時間を決められ動き回らされる旅はオモシロクないのである。
しかし、安く、短時間(短時日)で効率良く巡るという点でパック旅行商品は素晴らしいものが多く、そうした良さは率直に認めなければならないし、有名神社仏閣などを訪れないというものではない。
ただ、パック旅行商品というものは気に入った場所でゆっくり時間を取ったり、行ってみたいと思い立った所へ足を延ばしたりする自由さが団体旅行であるだけに出来ないという不自由さがあり、こうした点が嫌いなのである。
今回は家内と2人だけ、しかも我が愛車で巡ってきたため何もかもが自由に出来たのである。
この日の宿も午後3時を過ぎたので平戸辺りにしようと決めたもので事前にホテルの予約を取って出発してきたわけではない。
この日に宿泊依頼の電話を入れたのは平戸の政府登録・国際観光ホテル『旗松亭』であった。
この旅館は以前に私が利用しており、その際まずまずの評価をしていた宿なので家内にも同じ経験をと決めたのである。
名護屋城址から平戸まで直線距離にすれば40kmほどなのだが、深い入り江になっている伊万里港など幾つもの入り江に沿って走るものだから実際の走行距離は70km以上であったと思う。
しかも、ほとんどが片側1車線の道路の上、雨降りの夕刻で渋滞続き。 そのため私が予測したより1時間も遅くなって午後6時近くになって宿に到着した。
『旗松亭』は平戸大橋(100円)を渡った右手に建つ平戸城と入り江を挟んだ向かい側の小高い丘の中腹に建つホテルであり、ホテルの部屋の窓から、また温泉大浴場(炭酸水素塩素泉)からは平戸港の入り江を挟んだ丘陵上に聳える平戸城や、九州本土と平戸島の間の瀬戸に架けられた赤色の平戸大橋(665m)が眺められる絶好の場所に位置しているのである。
夜は平戸城や聖フランシスコ・ザビエル記念教会がライトアップされ、平戸大橋も電飾灯が点される。写真は私たちの部屋より
夕食会場の浪漫亭のレストラン『美湾』からは聖フランシスコ・ザビエル記念教会も眺められるのだが、私達の部屋からは見えない。
九州への旅・・・6 平戸・『旗松亭』の2へ続く。
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