November 2008

November 30, 2008

九州への旅・・・16 原城跡と島原の乱

小高い丘の上の『原城跡』。

北に雲仙の山並みを、東側眼下には有明海(島原湾)を、周囲にはのどかな田園風景を眺めることのできる『原城本の丸跡』。

1637年12月から翌1638年4月まで行われた『島原の乱』での最後の戦場となった『原城跡』。

この城跡に籠城して戦い死んだ人たち、その後、この地で処刑された人たち、その数老若男女合わせて3万7000人と聞く。

あまりに犠牲者の数が多いため、この地を掘って埋葬したと言う。

下の写真は有明海(島原湾)を望む位置に建てられた十字架の碑である。
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『島原の乱』は前ページで書いてきたように島原4万石・松倉重政と跡を継いだ松倉勝家の厳しい年貢の取り立てとキリスト教徒弾圧という圧政に、その発生要因があったと結論づけることができる『島原の乱』について厳しい年貢の取り立てが原因であったと肥後・細川家の古文書『細川家記』にもあるらしい。

松倉豊後守重政は、大和の戦国大名・筒井順慶の家老・松倉重信の長男である。

筒井順慶というのは、豊臣秀吉が明智光秀を追討の折、光秀が順慶に対して援軍の催促に洞ヶ峠(ほらがとうげ)まで向かったが、その去就をなかなか明確にしなかったことから『洞ヶ峠の日和見』としても知られているが、戦国の世にあって秀でた教養人でもあったと言われている。

『洞ヶ峠』というのは現在の大阪府枚方市の辺りで国道1号線が通り、淀川を挟んで天王山を眺望できる位置にあり、古来交通の要衝でもある。

松倉重政の父・重信は右近とも呼ばれ、島左近とともに筒井順慶の両翼『右近左近』と呼ばれるほどの智者であった。

そして、この松倉重政も決して愚者ではなく、大和・五條藩主の頃には紀州街道にある五條の商業と交通発展の基礎作りを行った人物ではあるのだが、これは決して島原の悪政を免罪できるものではない。

『島原の乱』の発端は、南島原でキリスト教の布教活動をしていた者が捕らえられ、彼らは当然処刑されたものと思い込んだ家族らが追悼の儀式を行おうと集まっていたところへ2人の代官がやってきて話し合いとなったが、その過程で代官が『デウスの絵』を破き燃やしたことに激昂した農民が1人の代官を叩き殺してしまったことにあるらしい。

この時の代官の一人が事を島原の城へ伝え、一方農民たちも代官を殺してしまったのだからタダでは済まぬと思った。

前ページでも『これだけの条件が揃えば百姓一揆として『島原の乱』にまで発展しても納得がいく』と書いたように、飢饉が続く中、餓死者が続出するほどの状況下で厳しい年貢の取り立てが行われ、年貢を納められない者たちを『蓑踊り』と称して生きている人間を丸焼きにし、住民の半数以上にのぼるキリシタンに改宗を迫り、応じない者たちを雲仙地獄の噴気孔に投げ込むなどの松倉勝家の圧政のもとで二進も三進も行かなくなった農民たちは結束、一揆を起こす方向に進み出した。

当初、島原藩は一揆のリーダーたちを討ち取ったようだが、一揆の火は消えるどころか有馬村から島原一帯へと広がり、島原藩も一揆鎮圧のために島原城の兵の大軍を差し向けたものの征圧できず、逆に島原城を攻められるに至った。

この動きに呼応したのかどうか知らないが、唐津藩の飛び地である島原の対岸・天草においても唐津藩の軍勢が大挙やってきたことに対して農民たちの怒りが一揆の様相を帯びて広がっていった。
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この天草と島原の合同一揆である『島原の乱』の一揆側の総大将が益田四郎時貞(天草四郎時貞)である。

上は天草四郎の像で原城跡に建てられており、作者は北村西望。

肥後・天草諸島は肥前・唐津藩の飛び地である。

肥前・唐津藩の初代藩主は寺沢志摩守広高で関ヶ原の戦の論功行賞として天草4万石と唐津を領有することとなり、唐津城を築いた。

この築城についても島原の松倉重政と同様であるが、その負担が唐津や天草の人々に掛けられた点で、また、天草でのキリスト教弾圧を厳しく行ったことでも島原と同様であった。

『島原の乱』が起きた当時は寺沢広高に代わって息子の寺沢堅高が藩主を務めていたが、彼が送り込んだ1500名ばかりの軍勢は火に油を注ぐようなもので、圧倒的多数の農民達によって逆に天草・富岡城に籠城せざるを得ない状況に陥ってしまった。

こうした島原・天草の一揆は幕府にも伝えられ、幕府からは板倉重昌を派遣、肥後・細川や肥前・鍋島に援軍を依頼して鎮圧行動に出た。

この情報により島原城攻めの一揆農民集団と天草・富岡城攻めの一揆農民集団が合流して原城跡に立て籠もり幕府軍と決戦を挑むことになるのだが、この一連の農民一揆を『島原の乱』と呼んでいるのである。

板倉重昌が率いる800名の他、幕府・鎮圧軍は松倉の島原藩、広沢の唐津藩に援軍の鍋島・佐賀藩、細川の熊本藩であるが、原城を攻め落とせないばかりか、逆に一揆勢に手ひどい負けを喫するような戦況が続き、幕府は威信と面目をかけ老中・松平伊豆守信綱を総大将とする12万もの大軍勢を原城跡攻略に差し向けた。

これには松平信綱率いる1500名に加えて九州各藩よりの軍勢に広島・福山藩も参戦するという江戸開府以来初めての大軍編成となった。

徳川幕府も3代将軍・家光の世となり、徳川家安泰、幕藩体勢安定化のためには早急に一揆を武力鎮圧することは最重要事項であったわけで、家光の側近中の側近、老中・松平信綱を派遣したこともその証しと言える。

松平信綱が参戦する前段で板倉重昌が討ち死にしているが、信綱は籠城する島原・天草の一揆農民勢約37000名に対し兵糧攻めを行い、海上からはオランダ船に砲撃をさせたり、側衆、忍者などを使い緻密な作戦を展開した上で総攻撃を開始し、原城(跡)を陥落させた。
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上は天草四郎時貞の墓碑であり、彼は原城攻防戦の折に自害し、その首は幕府軍によって城門に晒されたと言われるが、この時、彼は16歳か17歳。

私としては全く不憫でならない。

クリスチャンとしての彼が何を思って死に赴いたか・・・

権力の犠牲になるのは昔も今も変わらない。

だが、『島原の乱』の後、島原藩主・松倉勝家は斬首、天草の領主であった唐津藩の寺沢堅高は天草領を没収され自害。天草領については再度検地が行われるなどして年貢が42000石から21000石へ半減されるなど幕府としての処分が下されていった。

幕府にとっては面目も威信も辛うじて保てたかもしれないが、松倉にしても寺沢にしても一国一城の主(藩主)と言えど所詮中間管理職。

彼らの所行が免罪出来ないものであることは既に指摘しているが、彼ら藩主を封じてきたのは幕府であり将軍である。

現代と似通っているが、彼らは武力で統一を図った言うなれば独裁者としての権力者であるから、自らを自らの手で律さねば律する者もいない。

しかし、現代日本はどうであろうか。

お役人への風当たりが強いが、世のお役人の管理者は市町村長、知事、そして中央では大臣、その大臣の任免権を有しているのは総理大臣であり、彼らは武力で現在の立場を得たのではなく曲がりなりにも法律に基づいて民主的に選ばれた者たちである。

第一線で働く公務員に不都合なことがあるならば当然それらの業務・人事を管理する最高責任者である市町村長、知事、或いは大臣、総理大臣が責任を感じなければならない。が、どうもオカシイのが多い。

自分で職務を放棄するのと責任を感じて辞職するのとは意味が違う。

しかし考えてみればオカシイ連中を選出しているのは自分たちであるということを私達は忘れてしまっているのではないだろうか。

地縁、血縁、人気など、シガラミやテレビで名前を売ったという一時の話題性に左右されて選挙しているということがないだろうか。 

『島原の乱』は悲惨な階級社会における歴史的事実である。

現代日本は格差社会であると表現は異なれど階級社会と同じことである。

首長を選び、地方・国会議員を選ぶ主権者が私たちであることを思い起こさねばならないと原城跡を訪れて感じたものだった。


at 17:18|Permalink

November 29, 2008

九州への旅・・・15 長崎・南島原『原城跡』

島原の城下を離れて国道251号線を南へ走ると雲仙東登山口を過ぎたあたりから国道57号線の高架道路が251号線の海側を走るようになる。

この道路からは1791年(寛政3年)に起きたShimabara Catastropheと呼ばれる『寛政の大変』で有名な眉山を右端に平成新山、普賢岳が眺められ、平成新山から流れ落ちた土石流の跡が扇状地として広がっている様子の全体を見渡すことが出来る。

『寛政の大変』というのは、当初、島原の群発地震から普賢岳の火山活動に移り島原半島全体が揺れるもので、やがて普賢岳から島原の方へ地割れが発生、その後に眉山が大崩落を始め、土石流が島原の町を埋め、更に有明海へ流れ込んだ土砂は津波を起こして対岸の肥後・熊本をも襲ったというものである。

これを『島原大変肥後迷惑』と呼んでいるが、平成新山の場合は当初11989年(昭和64年)の普賢岳西方の橘湾における群発地震に始まり、1990年(平成2年)からの火山活動で翌1991年(平成3年)のドーム形成となった。

『寛政大変』から平成新山まで丁度200年。地震学者ならずとも火山活動の周期に関心が向くのは当然であろう。(これ一例だけなら偶然とも言えるが)

国道57号線の高架部分はさして長くはなく、直ぐに251号線になるのだが島原湾に沿って走る道路は混雑することもなくスムースに走ることができた。

やがて南島原市を走るようになるが、1616年に奈良・五条藩より松倉重政が島原へ来て島原城を築くまで当地の日野江城が島原藩の政庁所在地であった。
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南島原市役所から少し南の原城温泉の案内板を過ぎると直ぐ左手に原城跡の案内板があるが、注意していないと見過ごしてしまうほどの大きさであり、左折するための道路も農道程度、その行く先も農地が認められるだけで特段の目標物もない。

農道(アスファルトの簡易舗装)をグルグル周るように走り、小高い丘の上に上がったところに駐車場(未舗装)があり、上の写真はそこから眺めたもので背の高い山が平成新山。

原城は1496年(明応5年)に先の日野江城の支城として有馬貴純(有馬晴信の五代前の当主)によって築かれた城らしいが、現在は有明海(島原湾)に面する丘陵上に石垣遺構と駐車場横に空堀遺構を残すのみである。

下の写真は駐車場位置から本ノ丸への道であるが、石垣の石積み角度はなだらかであり、積まれた石も大小取り混ぜで石積みの為の成形は余り為されていないように見受けられた。
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原城と言えば『島原の乱』、『島原の乱』と言えば原城と、日本史を学んだ者なら誰しもが思い浮かべる言葉である。

1549年イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島来て以後、一般の人々だけでなくキリシタン大名と呼ばれる者たちの数も増えてきたことは既に書いてきた。

九州では1563年には大村純忠が受洗してキリシタン大名となり、以後、大友宗麟、有馬晴信、小西行長などが続き、島原には神学校も出来るなど肥前(長崎・島原)・肥後(天草諸島)のキリスト教信徒数は相当な数に上った。

やがて関が原の戦(1600年)の後に徳川家康は江戸に幕府を開き(1603年)徳川政権を固め始め、戦の論功行賞として寺沢志摩守広高に天草4万石と合わせた唐津藩12万石を与えた。

その後1616年、大坂攻め(冬の陣1614年・夏の陣1615年)に功績のあった奈良・五條藩主・松倉豊後守重政を有馬氏の旧領である島原4万石の領主に任じた。

松倉重政が島原藩主として国入りした時の藩政庁は現在の南島原市にあった日野江城だが、1618年から6年をかけて1624年に島原城が完成し、一国一城制によって日野江城も原城も廃城にしたと伝えられている。
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写真は原城跡の国指定史跡の案内表示板だが、新村 出博士の歌が書かれていた。(ちょっとオドロキ)

幕府が松倉重政を島原藩主に封じたのは単に論功行賞というだけのことではなかったはずである。 

これには徳川幕政が安定化の方向を辿り始めていたとはいえ、九州には外様大名が多く、徳川譜代の大名と言えば現在の福岡県では小倉藩、小倉新田藩、大分県では中津藩、杵築藩、府内藩(大分市)の3藩、佐賀県では唐津藩、宮崎県では延岡藩だけであり、長崎県や大分県の直轄領を除けば島原藩を加えても徳川譜代大名領地の石高は50万石程度であるのに対し、外様大名である黒田家の福岡藩(478000石)、秋月藩(50000石)、東蓮寺藩(40000石)と福岡県だけで50万石を上回り、肥後・熊本藩だけで54万石、薩摩藩の島津だけで77万石、これに九州諸藩を加えれば外様大名の総石高は300万石にも上り、ひとたび外様大名たちが結束すれば、すり鉢の底にあるちっぽけな島原藩など即座に潰されてしまうような存在。そのため松倉重政は外様大名の監視役と同時に防御面を考慮して僅か4万石には似合わぬ不釣合いな島原城を築いたのではないだろうか。築城については幕府の許可が必要だったはずであり、当然幕府の意図することが伝えられていたと想像するのだが。

島原城に話が飛んでしまったが、『島原の乱』を考える際、その起因の1つとして島原城築城を無視することは出来ない。

また、資料によれば4万石の島原藩に対して幕府は6万石と設定していたらしい。一説には松倉重政が江戸城の公儀普請の際に分不相応な10万石の割普請を求めたためともあるが、各大名を支配する上で幕府の石高設定は実質石高以上に設定していたとの説もある。

当時の税収は玄米であり、武士達の俸給も玄米で算定支給されていた。そして米というものは品種が改良されない限り、一定地で一定量しか収穫出来ないものである。

つまり、台風・旱魃などの天候不順や病虫害などの理由によって凶作となり収量が減ることがあっても増えることは無いのである。

それなのに4万石を6万石とし、或いは築城による負担が加味されたとすれば収量が一定であるものを増量させるには年貢率を高めるしかなく、それはそのまま農民たちの生活を困窮化させることとなり、これは悪政と言う以外にはない。

悪政について付け加えれば、資料の請売りではあるが『蓑踊り』というものが島原ではあったらしい。

1634年から1637年(『島原の乱』は1637~1638年)の頃はひどい凶作に見舞われ、不作の上に年貢が厳しく島原の農民は困窮の極みにあった。その為に年貢を納めることの出来ない者たちが捕えられゴザで体を簀巻きにされて火をかけられた。熱さのあまり狂わんばかりに暴れのたうち焼け死んでいったと。その姿が蓑を着けて踊っているように見えたので『蓑踊り』と呼んだのだそうな。

見せしめとして行ったようだが全く残忍極まりないことである。

同じく見せしめとして、キリシタン弾圧の為に捕えたキリシタンを雲仙地獄へ連れて行き、火山の噴気孔に放り込むという極悪非道なことをやっておったとも。

これだけの条件が揃えば百姓一揆として『島原の乱』にまで発展しても納得がいくことと思う。

次ページでも引き続き『島原の乱』について触れてみたい。


at 13:55|Permalink

九州への旅・・・14 長崎・島原武家屋敷

島原城の西側一帯に武家屋敷群が残っていることを前ページで書いた。

資料によれば一帯を鉄砲町と言い、鉄砲組の徒士たちが住まいしていたとのことである。
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通りに面しては石積みの塀が続き、通りの中央には積み石で仕切られた掘割があって清流が流れている。

この掘割の清流は、ずっと上にある湧水地から引いているらしいが、築城の街づくりの際に造られたもので現在もその当時のままであるとのこと。
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現在は使ってはいないが、江戸時代には生活用水として用いられていたらしい。

島原は雲仙の伏流水が湧出しており、各所に綺麗な湧水が流れている。

武家屋敷群と書いたが、正しくは屋敷跡群であり、石積みの塀や掘割は往時のままだが、建物は現在の居住者用に新しくなっている。

極一部、旧の建物構造を保存・公開しているが、鉄砲組の徒士というのは藩士の中でも下級に属すため住居も然程立派なものではない。

3間か4間に土間の台所という構造であるが、田舎間(江戸間)であるために京間に比べて狭い。 それに少しばかりの庭?がある程度の屋敷である。

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私達は武家屋敷跡を見学するのに島原第一中学校の前、桜門公園の観光者用の無料駐車場に車をおいて見学に出かけたが、一般に城下町というものは道路が狭く、通行するにも駐車するにも不便なところが多いものだからこうした駐車場の配慮は有難いものであった。

また、たまたまであったのか、私達が武家屋敷跡をブラブラ歩いている時、他の観光客が全くいなかったこともあって、清閑な石積み塀に囲まれた武家屋敷跡の通りは古き往時を彷彿とさせる格別の感慨を味わうことが出来て素晴らしいひと時を過ごすことができた。

下の写真は時鐘楼であり領民に時を報せる目的で藩主・松平忠房が1675年に造ったものだが、太平洋戦争時に金属の供出で無くなったものを復元したらしい。
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ただ、行く先々でやたらと黒や緑のヘビに出会ったのは・・・むむむ

石積みの塀を出入りするのがいるかと思えば、ある館の庭に回りこんだところ、黄色い口をあけて緑色のカエルを咥える瞬間のヘビを見てしまった。

「キュッ」という音はカエルが発した最期の声だったのだろうか。ヘビに呑まれたカエルの右手と両足は突っ張るように伸びてはいたがピクリとも動きはしなかった。

ヘビはそのまま建物と踏石の陰へ。

キライなんやなあ、ヘビは。

専門用語ではあるけど、最近マスコミでみ頻繁に用いられるようになってきた言葉にPTSDがあるが、私のヘビ嫌いもPTSDの範疇に入かと言うとそうではない。

昭和28年か29年であったと思うが、夏の間ちょくちょく六甲・芦屋の苦楽園の叔母の家で遊んでいた。

山の上で涼しく、夜には電灯の明かりでカブト虫が飛び込んでくることや、当時は珍しいテニスコートやプールがあったからである。

勿論当時の私は重たいテニスのラケットなど振り回すことは出来なかったが、ボール遊びやプールでの遊びなど兄ちゃん姉ちゃんが相手をしてくれるので楽しい時間を過ごしていた。

ところがプール(子ども用ではない)サイドに大きい岩が突き出しているのだが、そこにいたマムシに噛まれた男の人が一人亡くなったという話を聞かされたのである。

詳しいことは省くが、それ以来マムシが恐ろしく、そのプールへは行かなくなったし、以後、マムシの出そうなところへは極力近付かないようになったばかりでなく、ヘビそのものを嫌うようになった。

これだけのことではあるが、確かに話とは言え私にとっては恐ろしい話であり、記憶という面でも未だに覚えており、その後もマムシをヘビを回避する行動を取ってきた。


真剣に振り返ってみたことはないが、PTSD、つまりpost-traumatic stress disorder、心に傷を受けることによって起きる精神的障害ということで心的障害とか外傷後ストレス障害などと訳されているように、受けたショックを記憶として形成し、そのショックを内在的な傷とした様々な形で出る障害をPTSDと言うのであって、私の場合はヘビに対する恐怖心や嫌悪という感じは持っていても、それが社会的人間的障害としては出ていないので、私の場合はPTSDとは言わない。

何が原因であれ、理屈抜きに生理的にとでも言おうか、ヘビという奴はスカン。


at 11:10|Permalink

November 27, 2008

九州への旅・・・13 長崎・島原

島原半島の東側、島原湾に沿うルートが国道251号線。
水無地区辺りは海側に国道57号線で251号線のバイパスのような高架道路が通っており、251号線の山側に雲仙温泉より下ってくる57号線の3つの道路が並んで通っている。

それら3本の道路が合流する辺りに島原外港があり、島原温泉と諫早を結ぶ島原鉄道の起点になっている。

この辺りから道路は市街地を通るようになり、しばらく251号線を走ると島原城への案内標識が見える。その標識に従って左折し、緩やかな坂道を走ると直ぐ右手に島原城の入口がある。

駐車料金を支払って城郭に入ると、目前に天守閣が聳え、その下一帯が駐車場になっている。
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上の写真が島原城の天守閣。

この天守閣を取り囲むように城壁が設えられ、西櫓、巽櫓、丑寅櫓があるが、全て復元された建造物である。

島原と言えば江戸時代初期に起きた『島原の乱』を思い起こすが、この島原城も戦が起きた要因のひとつとされている。

『島原の乱』は圧政に対する農民一揆のひとつであるが、その背景にはキリスト教弾圧という面もあり、この戦には島原と肥後・天草の農民たちが参加している。

この『島原の乱』については後に書く事にするが、1549年、鹿児島に上陸したイエズス会のフランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝えられたことは周知のことである。

九州から山口、都である京都、大坂・堺と伝道にまわった彼に影響を受けた人々は数多く、戦国大名たちの受洗も多かった。

大伴宗麟、大村純忠、有馬晴信らは天正遣欧少年使節を送り出したことでも知られているが、島原は元は有馬晴信の所領で領民たちのキリスト教信仰の篤い土地。 また天草も関が原の戦以前はキリシタン大名・小西行長の領地であったためキリスト教信仰が熱心に行われていた。

しかし、関が原合戦后、小西行長は西軍・豊臣秀頼側の将の一人として処刑され、天草は佐賀・唐津藩の飛び地として寺沢広高の所領地となっていた。後に子どもの寺沢堅高が受け継ぎ、『島原の乱』に遭うことになる。(寺沢堅高も元はキリシタン大名であったが改宗して弾圧側に組している。)

一方、島原藩の有馬晴信は失態を咎められ切腹、長男・直純(元はキリシタンだが改宗)は宮崎・延岡藩に転封となり、代わって島原藩主となったのが徳川譜代大名・松倉重政である。
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この松倉重政が1618年から6年をかけ、1624年に完成させたのが写真の島原城である。

僅か4万石の大名・松倉重政が築城した城とは考えられないほどの立派な城郭であるが、肥後の細川、薩摩の島津など外様大名たちの動向監視という役目を担っていたであろう松倉としては当然の事業であったかもしれないが、築城事業の負担は必然的に領民への過度な負担として強制されることになる。

このことも『島原の乱』発生の要因のひとつになっている。

1876年(明治9年)に天守閣などの建物全てが壊されて廃城となり、現在は城跡公園として島原文化会館(手前の建物)などが建てられたりしている。

写真は城の北西位置から西堀と天守を撮ったものだが、昔は豊かに水をたくわえていたのであろう。 現在は土と緑に覆われているが、堀の深さや大きさ、石垣の堅牢さにも往時の城の立派さが偲ばれる。

現在、写真撮影位置の北側、二の丸通りを挟んで島原第一小学校、第一中学校、島原高校があり、この西堀沿いの道路を隔てて島原商業高校が建っているが、江戸時代には島原藩の武士たちが住まいしていた地域で武家屋敷が現在も連なっている。

話を城内、天守閣の東側へ戻すことにする。

丑寅(艮)の方角というのは北東方向であり、天守閣の東或いは東南方向に丑寅櫓があるのが解せないのだが・・・何を基に丑寅櫓と名付けているのやら。
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まあそれは良しとして、この丑寅櫓は西望記念館として北村西望(せいぼう・本名=にしも)の作品を展示している。(右手に丑寅櫓)

上の作品テーマは『平和の女神』

北村西望が彫刻家であり、長崎・平和祈念像の作者であることは知っていたが、彼が島原出身であることをこの地に来て初めて知った。 
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上の作品テーマ『星空無限』

屋外に展示されている寄贈作品である。

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上の作品テーマ『日蓮上人』

憤怒の感情を表すような険しく激しい表情、全身に漲る魄力は舌鋒鋭く辻説法を行う日蓮の様子をよく表していると思った。

前に突き出した右手が大きいのは遠近法を利用した視覚的効果を考えてのことか、見る者に強烈なインパクトを与えるものであった。
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上の作品テーマ『人類之危機』
驚愕、不安、恐怖、畏怖、驚怖・・・

どんな言葉を並べても、ひと言では表現出来ないものが作品全体から発せられている。

太陽のように如何なる物質をも瞬間的に溶解してしまう高温の真っ白い光を発しながら急激に接近してくる巨大な隕石を目の当たりにした時、人々はこのような姿をとるのかもしれない。

左手は「待ってくれ」と言っているのかもしれない。

右手は強烈な威圧や恐怖から自らを支えようと自然と後方に伸びたのかもしれない。

歪んだ表情に大きく開いた口からは、どんな音が発せられているのだろうか。

考えさせられる不気味な作品であった。


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November 26, 2008

九州への旅・・・12 長崎・島原(水無地区)

1990年(平成2年)に雲仙・普賢岳の噴火が起きたが、火山の活発な活動は続き、翌1991年(平成3年)には火砕流や土石流が谷に沿って麓の集落に向けて流れ下った。

それらが流れ下った跡は前ページの写真でも分かるが、実際に大野木場地区や水無地区へ行けば、その被害が広範囲にわたることがよく理解できる。

谷を凄いスピードで流れ下った高温の火砕流。 これは火山が噴出するもろもろの物質が溶けてガス状になったもので、単に熱風という程度の代物では無い。 高温高圧のガス、それが高い山から駆け下りてくるのである。

また、土石流というもの、これは火山から噴出された火山灰や火砕流によって運ばれ、山腹の斜面に何メートルにも積もったものが雨水の流れとともに流れ下るものだが、水に溶解することのない性質の物質がほとんどのため、全くの泥流となって流れ下るのであるから被害は甚大である。
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上の写真の山が平成新山であるが、わずかに頂上部の溶岩ドームが雲に隠れている。

この山から流れ下った土石流が、この地の建物をも埋めてしまったのである。

上下の写真とも木の柵に囲まれているのは民家の屋根だが、土石流によって完全に埋もれているのが分かる。
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二階建て民家も全く同様である。
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これらの家々は道の駅『みずなし本陣』の敷地にあり、土石流被災家屋保存公園として被災家屋を保存展示している。また入場料金が必要だが大火砕流体験間や火山学習館も併設されている。

また近くには雲仙災害記念館『がまだすドーム』などもあり、火山や火山噴火による被害などについて学習できる施設がある。

57号線を山側に入れば今も被災農地などが見えるし、平成新山を眺めれば土石流がいかに広範囲に流れ下ったのかを実感できる。

現在では土石流被害を防ぐための堤防が造成され、水の流れていないコンクリート製の川が出来上がっているなど、災害による被害を少しでも小さくとの努力が行われていることが分かる。

 

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