November 2008
November 18, 2008
九州への旅・・・8 長崎 (8) 出島~
中華街で東坡肉(トンポーロウ)と柔らかい皿うどんを食べた私達は満腹で動くのもしんどいほどであり、本日の散策は終了と思ったりしたのであったが、お昼過ぎに本日の観光予定を終了するのも勿体無い気がしたし、少々カロリーの取りすぎの感もあり、出島まで更に歩くことにした。
出島は、1634年(寛永11年)江戸幕府によって長崎湾の一角、約4000坪の埋立地を造成し、ポルトガル商人たちの居留地としたのが始まりである。
その後、幕府のキリスト教禁教・鎖国政策により1639年ポルトガル船の来航を禁止した。そして1641年に長崎県平戸にいたオランダ人を出島に移住させて以来我が国唯一の貿易地となった。
幕府がキリスト教禁教や鎖国政策を採るようになったのには幾つかの要因があるが、そのひとつに島原の乱(1637~1638)があったことは間違いがない。(この島原の乱については後述)
だが、当時の出島というのは将に名前の通りに突き出た島であったのだが、現在は港湾改修の埋め立て事業などのために周囲を完全に埋め立てられて島という地形にはなっていない。
幕府の鎖国政策下の1647年の長崎古地図(正保四年南蛮船渡来ニ付諸侯布陣長崎港図)など(作成者:総合研究博物館 宮崎克則、人文科学府修士課程 本馬晴子 作成2003年)が公開されているので、そのURLを挙げておくので参照されたい。(青色の字の部分をクリックすることでリンク可能)
現在は出島の旧の地割に合わせるように【国指定史跡「出島和蘭商館跡」『出島』】という博物館施設が開設されている。
建物群などは殆どが修復・復元、再現というものの寄せ集め的な感を拭うことはできないが、当時の出島の広さやオランダ人たちの生活の様子などを知るには良いミュージアムであろう。
復元された表門は、出島への出入りがいかに厳しいものであったかをうかがわせる立派な構えである。
上の写真は安政の開国以後に建てられた石倉である。
下の写真は『1878年(明治11年)に建てられた現存するわが国最古のキリスト教(プロテスタント)の神学校。』との説明がパンフレットにあった建物だが、これはヤヤコシイ表現の仕方である。
大浦天主堂に隣接して建てられ重要文化財の指定を受けている旧・羅典神学校は1875年(明治8年)に完成と史料にはあるので、出島のパンフレットは曖昧、もしくは意図的誇張とも考えられ、見学者に誤解を与える事になりかねない表現であることを指摘しておきたい。
つまり、キリスト教史に於いて16世紀の宗教改革以後、ローマ・カトリック、東方教会、プロテスタントと大きく3つの流れに分けることができるが、そのように分離して其々の宗派の歴史として考えるならば『我が国最古』との表現も妥当であろう。
しかし、一般の見学者が出島のパンフレットの表現を見た場合、『現存するわが国最古のキリスト教の神学校』を意識するのではないだろうか。プロテスタントが『()括弧書き』であるために。
宗派として旧・羅典神学校はローマ・カトリックである。
どうしても『わが国最古』と謳いたければ、『キリスト教プロテスタント派の神学校としては我が国最古の建物』といった表現に変えるべきであろうと私は考える。
長崎・出島に関する考古学史料、歴史的遺物・建造物を展示・公開するミュージアムなのだから、パンフレットにおける表現においても誤解を与えないような配慮に努めるべきであると、注意喚起のための黄色信号を点滅させておくことにしよう。
とてもよく歩いた。 出島から市営の松が枝駐車場までも歩いて行けないこともないのだがタクシーに乗ることにした。
下の写真は市営・松が枝駐車場角の交差点であり、手前の白壁の建物が『べっ甲工芸館』、その向こう側の洋館風の建物が旧・香港上海銀行長崎支店記念館、左端のビルが中華料理・チャンポンの四海楼である。
ちなみに市営・松が枝駐車場、9時41分入庫、14時35分出庫、駐車料金が1410円であった。
細かいことを言うつもりはないのだが、観光地における駐車料金が1日1回で600円から1000円であることを考えれば長崎市はガメツイと言わねばならん、かな?
長崎へ行ってみたいと願っていた家内は概ね満足の体であったが、長崎をもっと観光するにはアト1日必要であったと思う。
グラバー邸などの南山手地区の観光からスタートし、寺町から丸山、中華街、出島と歩いたが、当初の私の構想では公会堂近くの慶華園で昼食、そして眼鏡橋を見て、以前来た時に土産を買った「べっ甲店」を覗き・・・などと考えていたのだが、晧台寺で曲がらず崇福寺へ行き、そのまま丸山、中華街へと向かい昼食を摂ってしまったために眼鏡橋のことを失念してしまっていた。
駐車場の車の中でその事を思い出し、もう1泊長崎でと提案したが、家内が「もう充分」と言うので今夜の宿へ電話を入れることにした。
今夜は雲仙温泉『九州ホテル』に決定。
出島は、1634年(寛永11年)江戸幕府によって長崎湾の一角、約4000坪の埋立地を造成し、ポルトガル商人たちの居留地としたのが始まりである。
その後、幕府のキリスト教禁教・鎖国政策により1639年ポルトガル船の来航を禁止した。そして1641年に長崎県平戸にいたオランダ人を出島に移住させて以来我が国唯一の貿易地となった。
幕府がキリスト教禁教や鎖国政策を採るようになったのには幾つかの要因があるが、そのひとつに島原の乱(1637~1638)があったことは間違いがない。(この島原の乱については後述)
だが、当時の出島というのは将に名前の通りに突き出た島であったのだが、現在は港湾改修の埋め立て事業などのために周囲を完全に埋め立てられて島という地形にはなっていない。
幕府の鎖国政策下の1647年の長崎古地図(正保四年南蛮船渡来ニ付諸侯布陣長崎港図)など(作成者:総合研究博物館 宮崎克則、人文科学府修士課程 本馬晴子 作成2003年)が公開されているので、そのURLを挙げておくので参照されたい。(青色の字の部分をクリックすることでリンク可能)
現在は出島の旧の地割に合わせるように【国指定史跡「出島和蘭商館跡」『出島』】という博物館施設が開設されている。
建物群などは殆どが修復・復元、再現というものの寄せ集め的な感を拭うことはできないが、当時の出島の広さやオランダ人たちの生活の様子などを知るには良いミュージアムであろう。
復元された表門は、出島への出入りがいかに厳しいものであったかをうかがわせる立派な構えである。
上の写真は安政の開国以後に建てられた石倉である。
下の写真は『1878年(明治11年)に建てられた現存するわが国最古のキリスト教(プロテスタント)の神学校。』との説明がパンフレットにあった建物だが、これはヤヤコシイ表現の仕方である。
大浦天主堂に隣接して建てられ重要文化財の指定を受けている旧・羅典神学校は1875年(明治8年)に完成と史料にはあるので、出島のパンフレットは曖昧、もしくは意図的誇張とも考えられ、見学者に誤解を与える事になりかねない表現であることを指摘しておきたい。
つまり、キリスト教史に於いて16世紀の宗教改革以後、ローマ・カトリック、東方教会、プロテスタントと大きく3つの流れに分けることができるが、そのように分離して其々の宗派の歴史として考えるならば『我が国最古』との表現も妥当であろう。
しかし、一般の見学者が出島のパンフレットの表現を見た場合、『現存するわが国最古のキリスト教の神学校』を意識するのではないだろうか。プロテスタントが『()括弧書き』であるために。
宗派として旧・羅典神学校はローマ・カトリックである。
どうしても『わが国最古』と謳いたければ、『キリスト教プロテスタント派の神学校としては我が国最古の建物』といった表現に変えるべきであろうと私は考える。
長崎・出島に関する考古学史料、歴史的遺物・建造物を展示・公開するミュージアムなのだから、パンフレットにおける表現においても誤解を与えないような配慮に努めるべきであると、注意喚起のための黄色信号を点滅させておくことにしよう。
とてもよく歩いた。 出島から市営の松が枝駐車場までも歩いて行けないこともないのだがタクシーに乗ることにした。
下の写真は市営・松が枝駐車場角の交差点であり、手前の白壁の建物が『べっ甲工芸館』、その向こう側の洋館風の建物が旧・香港上海銀行長崎支店記念館、左端のビルが中華料理・チャンポンの四海楼である。
ちなみに市営・松が枝駐車場、9時41分入庫、14時35分出庫、駐車料金が1410円であった。
細かいことを言うつもりはないのだが、観光地における駐車料金が1日1回で600円から1000円であることを考えれば長崎市はガメツイと言わねばならん、かな?
長崎へ行ってみたいと願っていた家内は概ね満足の体であったが、長崎をもっと観光するにはアト1日必要であったと思う。
グラバー邸などの南山手地区の観光からスタートし、寺町から丸山、中華街、出島と歩いたが、当初の私の構想では公会堂近くの慶華園で昼食、そして眼鏡橋を見て、以前来た時に土産を買った「べっ甲店」を覗き・・・などと考えていたのだが、晧台寺で曲がらず崇福寺へ行き、そのまま丸山、中華街へと向かい昼食を摂ってしまったために眼鏡橋のことを失念してしまっていた。
駐車場の車の中でその事を思い出し、もう1泊長崎でと提案したが、家内が「もう充分」と言うので今夜の宿へ電話を入れることにした。
今夜は雲仙温泉『九州ホテル』に決定。
at 16:58|Permalink│
November 17, 2008
九州への旅・・・8 長崎 (7) 丸山・中華街
崇福寺から正覚寺下電停に出て、坂道を上って高島秋帆旧宅へ。
長崎の町の至るところに『道しるべ』の石標や表示案内板が設置されているのでタブロイド版の観光マップ(長崎あ・る・こマップ)1枚を持ってさえいれば道に迷うことは先ず無い。
ただ、目的地への距離がハッキリ把握できないので初めて長崎を訪れた者にとっては歩くか路面電車にのるか、或いはタクシーにするか、この選択には迷うことであろう。
私の場合は『長崎駐車場マップ』を併用したので別段困るほどのことは無かった。 これらの地図は観光案内所、各ホテルなどで配布している。
長崎の町は案外小さくこじんまりとしているので歩いて回っても大したことはないようだが、時間を限って巡る場合は目的地間をタクシーで移動するのが便利であると思った。
光壽山正覚寺から丸山オランダ坂の細い道を下って出たところに長崎検番があり、検番横の辻を入って行くと梅園身代わり天満宮、中の茶屋に行く。
丸山オランダ坂というのは、丸山の遊女たちが出島のオランダ人の接待のために向かう際、彼女たちだけが通ることを許された道であったとか・・・
検番というのは芸者置屋の元締めみたいなもので、上の写真・丸山の検番は『山検』と呼ばれていたらしい。
東京の吉原、京都の島原、長崎の丸山と、江戸から明治にかけての日本を代表する遊郭街であった。
遊郭に代表などという言葉はケッタイな感じではあるが、歴史上の事実として述べているのでご容赦願いたい。
この長崎検番の建物は明治12年頃の建物で、元々は松月楼という遊女屋であったらしい。
東京の吉原は知らないが、京都の島原には輪違屋など当時の建物が残っているし、大阪・飛田にも古い建物が残っている。
私は色町のことをよく知らないが、祇園の場合は茶屋があり置屋が別に存在し、茶屋(お茶屋)は客に場所を提供して飲食・遊興をさせる店で、茶屋からの求めに応じて芸妓を送り込むのが置屋、料理を届けるのが仕出屋となっている。
つまり、置屋は少女を抱え、その子を一人前の芸妓に仕立て、その芸妓の芸や器量を商品にする。これは先行投資に金がかかるだけではなく、商品としての芸妓たちの維持・管理にも相当な資金を必要とする。そのために特定の贔屓の旦那という存在も必要となる。
現代的に言えば芸能プロダクションが置屋にあたると考えれば良いのかもしれない。
長崎検番の建物2階には梅奴などと芸妓の名前を書いた赤い提灯が19張掲げられているから、検番で管理している芸妓が19人いるということであろう。
最盛期の丸山遊郭に何人の芸妓がいたのか分からないが、丸山遊郭の跡地の一部を歩いただけだが、その広さから想像すれば何百人かの芸妓と、それに関わる人々の数も入れれば相当な人の数になり、紅灯の巷は夜毎大いに賑わっていたのであろう。
上の写真・料亭花月は1818年(文政元年)の頃に遊女屋引田屋(ひけたや)の庭園内に開業した茶屋であるが、当時の建物は明治12年の大火で焼失したらしい。
昼時で観光バスの団体さんが入っており、残念ながら中へは入れなかったが庭園や坂本龍馬がつけたという刀痕が残る床柱のある建物は残っており、長崎県指定の史跡・料亭花月になっている。
写真、史跡・花月の石碑の横に『い那つまや 登の希い世いと か里萬くら』との石碑が並んで立っているが、去来の銘が入っていた。
去来の号ならば江戸時代・松尾芭蕉の弟子で京都・嵯峨野の落柿舎に住まいした『向井去来』のことであろう。 確かに長崎出身であったと思うが、去来と丸山遊郭の関わりがどのようなものであったかは知らない。
『稲妻や どの傾城と 仮り枕』
旅の途中の夕刻、丸山あたりにやって来たところ曇り空に稲妻が光り雷鳴が轟き始めた。直ぐに夕立が降り始めるだろうから、いずれかの遊女屋で宿を取ろうかと思案するような・・・そんな情景が。
下の写真は『思い切り橋』(柳の木の下に石造の欄干)と『見返りの柳』。左側の建物は老舗のカステラ屋・福砂屋である。
上の写真の向こう側に『思案橋』(現在は欄干のみ)があった。
丸山の遊郭へ参ろうか参るまいか男たちが思案しつつ渡った橋が『思案橋』。
『思案橋』を渡ってきたものの遊郭の入口である『二重門』までは数十メートル。
門を見つめながら交錯する思いを断ち切り遊郭へ向かう決意を定める男たち。
この柳の木の下の橋の名前が『思い切り橋』。
そして、遊女と過ごした思いを抱いて再び戻ってきた柳の木のたもと。
思わず遊郭の方を振り向いた、この場所の柳。『見返りの柳』と呼ぶらしい。
ホンマかいなって、ちょっと眉唾ものやが・・・
下の写真の建物あたりに丸山遊郭の入口である『二重門』があったようだ。
が、この風情ある石造りの建物、長崎警察署・丸山町交番である。
家内が福砂屋でカステラを買っている間にチョット探索したところ、先の。『見返りの柳』を挟んで左右に道が続くのだが、『銅座・思案橋歓楽街』らしい。
いわゆる飲み屋街であるが真昼間に営業している店もなく、閑古鳥鳴く・・・失礼、夜はネオン煌く通りに変貌するのであろう。
思案橋から中華街へは歩いても近い。
日本には横浜、神戸、長崎と中華街があるが、規模としては長崎の中華街が最も小さい。
中華街は道幅も範囲も狭いために少し歩けば広い通りに出てしまい、何度か端から端まで往復しつつ昼食のための店を探した。
昼食には、以前私が長崎へ来た折に観光タクシーの運転手氏に案内してもらった慶華園(公会堂の近く)に家内を連れていってやろうと思っていたのだが、中華街で昼の時間になってしまったものだからココで済まそうとみせを探していたのである。
通りは中学高校の修学旅行生でごった返していたし、昼時であったものだからいずれの店も多く、結局表から一席空席であることが確認できた宝来軒という店に入った。
家内も私もさほどお腹が空いていたわけでもないので、私達が食べてみたい東坡肉(トンポーロウ・豚の角煮)と柔らかい皿うどんを1つずつ注文した。
写真は東坡肉であるが、長崎の豚の角煮は慶華園も宝来軒も黒く煮込まれている。それに蒸したパンを添えて出されるのである。
これが大きかった。
一般に中華料理の一皿の量は多いので、この店でも注文する前に量を尋ねたのだが、やはり多かった。が、美味しく頂いた。
長崎の町の至るところに『道しるべ』の石標や表示案内板が設置されているのでタブロイド版の観光マップ(長崎あ・る・こマップ)1枚を持ってさえいれば道に迷うことは先ず無い。
ただ、目的地への距離がハッキリ把握できないので初めて長崎を訪れた者にとっては歩くか路面電車にのるか、或いはタクシーにするか、この選択には迷うことであろう。
私の場合は『長崎駐車場マップ』を併用したので別段困るほどのことは無かった。 これらの地図は観光案内所、各ホテルなどで配布している。
長崎の町は案外小さくこじんまりとしているので歩いて回っても大したことはないようだが、時間を限って巡る場合は目的地間をタクシーで移動するのが便利であると思った。
光壽山正覚寺から丸山オランダ坂の細い道を下って出たところに長崎検番があり、検番横の辻を入って行くと梅園身代わり天満宮、中の茶屋に行く。
丸山オランダ坂というのは、丸山の遊女たちが出島のオランダ人の接待のために向かう際、彼女たちだけが通ることを許された道であったとか・・・
検番というのは芸者置屋の元締めみたいなもので、上の写真・丸山の検番は『山検』と呼ばれていたらしい。
東京の吉原、京都の島原、長崎の丸山と、江戸から明治にかけての日本を代表する遊郭街であった。
遊郭に代表などという言葉はケッタイな感じではあるが、歴史上の事実として述べているのでご容赦願いたい。
この長崎検番の建物は明治12年頃の建物で、元々は松月楼という遊女屋であったらしい。
東京の吉原は知らないが、京都の島原には輪違屋など当時の建物が残っているし、大阪・飛田にも古い建物が残っている。
私は色町のことをよく知らないが、祇園の場合は茶屋があり置屋が別に存在し、茶屋(お茶屋)は客に場所を提供して飲食・遊興をさせる店で、茶屋からの求めに応じて芸妓を送り込むのが置屋、料理を届けるのが仕出屋となっている。
つまり、置屋は少女を抱え、その子を一人前の芸妓に仕立て、その芸妓の芸や器量を商品にする。これは先行投資に金がかかるだけではなく、商品としての芸妓たちの維持・管理にも相当な資金を必要とする。そのために特定の贔屓の旦那という存在も必要となる。
現代的に言えば芸能プロダクションが置屋にあたると考えれば良いのかもしれない。
長崎検番の建物2階には梅奴などと芸妓の名前を書いた赤い提灯が19張掲げられているから、検番で管理している芸妓が19人いるということであろう。
最盛期の丸山遊郭に何人の芸妓がいたのか分からないが、丸山遊郭の跡地の一部を歩いただけだが、その広さから想像すれば何百人かの芸妓と、それに関わる人々の数も入れれば相当な人の数になり、紅灯の巷は夜毎大いに賑わっていたのであろう。
上の写真・料亭花月は1818年(文政元年)の頃に遊女屋引田屋(ひけたや)の庭園内に開業した茶屋であるが、当時の建物は明治12年の大火で焼失したらしい。
昼時で観光バスの団体さんが入っており、残念ながら中へは入れなかったが庭園や坂本龍馬がつけたという刀痕が残る床柱のある建物は残っており、長崎県指定の史跡・料亭花月になっている。
写真、史跡・花月の石碑の横に『い那つまや 登の希い世いと か里萬くら』との石碑が並んで立っているが、去来の銘が入っていた。
去来の号ならば江戸時代・松尾芭蕉の弟子で京都・嵯峨野の落柿舎に住まいした『向井去来』のことであろう。 確かに長崎出身であったと思うが、去来と丸山遊郭の関わりがどのようなものであったかは知らない。
『稲妻や どの傾城と 仮り枕』
旅の途中の夕刻、丸山あたりにやって来たところ曇り空に稲妻が光り雷鳴が轟き始めた。直ぐに夕立が降り始めるだろうから、いずれかの遊女屋で宿を取ろうかと思案するような・・・そんな情景が。
下の写真は『思い切り橋』(柳の木の下に石造の欄干)と『見返りの柳』。左側の建物は老舗のカステラ屋・福砂屋である。
上の写真の向こう側に『思案橋』(現在は欄干のみ)があった。
丸山の遊郭へ参ろうか参るまいか男たちが思案しつつ渡った橋が『思案橋』。
『思案橋』を渡ってきたものの遊郭の入口である『二重門』までは数十メートル。
門を見つめながら交錯する思いを断ち切り遊郭へ向かう決意を定める男たち。
この柳の木の下の橋の名前が『思い切り橋』。
そして、遊女と過ごした思いを抱いて再び戻ってきた柳の木のたもと。
思わず遊郭の方を振り向いた、この場所の柳。『見返りの柳』と呼ぶらしい。
ホンマかいなって、ちょっと眉唾ものやが・・・
下の写真の建物あたりに丸山遊郭の入口である『二重門』があったようだ。
が、この風情ある石造りの建物、長崎警察署・丸山町交番である。
家内が福砂屋でカステラを買っている間にチョット探索したところ、先の。『見返りの柳』を挟んで左右に道が続くのだが、『銅座・思案橋歓楽街』らしい。
いわゆる飲み屋街であるが真昼間に営業している店もなく、閑古鳥鳴く・・・失礼、夜はネオン煌く通りに変貌するのであろう。
思案橋から中華街へは歩いても近い。
日本には横浜、神戸、長崎と中華街があるが、規模としては長崎の中華街が最も小さい。
中華街は道幅も範囲も狭いために少し歩けば広い通りに出てしまい、何度か端から端まで往復しつつ昼食のための店を探した。
昼食には、以前私が長崎へ来た折に観光タクシーの運転手氏に案内してもらった慶華園(公会堂の近く)に家内を連れていってやろうと思っていたのだが、中華街で昼の時間になってしまったものだからココで済まそうとみせを探していたのである。
通りは中学高校の修学旅行生でごった返していたし、昼時であったものだからいずれの店も多く、結局表から一席空席であることが確認できた宝来軒という店に入った。
家内も私もさほどお腹が空いていたわけでもないので、私達が食べてみたい東坡肉(トンポーロウ・豚の角煮)と柔らかい皿うどんを1つずつ注文した。
写真は東坡肉であるが、長崎の豚の角煮は慶華園も宝来軒も黒く煮込まれている。それに蒸したパンを添えて出されるのである。
これが大きかった。
一般に中華料理の一皿の量は多いので、この店でも注文する前に量を尋ねたのだが、やはり多かった。が、美味しく頂いた。
at 14:31|Permalink│
九州への旅・・・8 長崎 (6) 寺町界隈の2
寺町通りは歩くことにして良かった。
やはり道路が狭く一方通行、駐車場も見当たらない。
寺は全て寺町通りに面してはいるのだが、背後の山に向って境内が広がっているので、通りを車で走って車窓見学という具合にはいかないのだ。
寺町通りには上の写真のように寺と向かい合うように木造3階建の料亭『一力』が建っていた。
料亭『一力』は1813年(文化10年)に大村藩士・山本保助によって創業の老舗。
幕末の頃には坂本竜馬、高杉晋作、井上聞多ら明治維新で活躍した志士たちも通ったそうだ。
『一力』と言えば京都・四条祇園花見小路の『一力』を思い浮かべ「ええっ、ここにも」と一瞬驚いたが、祇園の『一力』は正しくは『一力亭』。
幕末の頃までは屋号が『万』であったと聞く。 その『万』という字は『一』と『力』の組み合わせから『一力(いちりき)』と呼ばれるようになったのだとか。
隠語のようであるが、これについて詳しくは知らない。が、今も格式高く一見客は入れない店で、以前は夜ともなれば黒塗りの高級外車が並んでいた。私が学生の頃は花見小路など通ることすらできない通りであったが・・・
いつの日かY君が連れていってくれることを期待してはいるのだが。
寺町通りの寺は写真のように山を背にしている。
このお寺は1608年(慶長13年)創建の海雲山・晧臺寺。曹洞宗の禅寺である。
このお寺を中島川の方へ下れば日本最古のアーチ型石橋・『眼鏡橋』に至るが後まわしにして『崇福寺』へ向かうことにした。
実は、この聖壽山『崇福寺』も黄檗宗のお寺で1629年(寛永6年)、中国・唐の僧・超然の創建である。
先に紹介した興福寺は中国・南京の出身者が信徒に多く、南京寺とも呼ばれているが、この『崇福寺』は中国・福州の出身者が多いために福州寺と呼ばれたりするそうである。
聖壽山『崇福寺』の三門は龍宮城をイメージするような日本のお寺のものとは全く異なる感じのものであり、この門をくぐって石段を上ると下の写真の『第一峰門』に至る。
『崇福禅寺』と記された『第一峰門』は1644年(正保元年)に建てられ、軒下の複雑な中国様式の木組みなどから国宝に指定されている。
扁額『第一峰』は『黄檗三筆』(隠元、木庵、即非)の一人とされている即非禅師の揮筆らしいが落款を確認出来なかった。
下の写真は国宝である『大雄宝殿』(本堂)。
下の写真は『媽祖』様を祀る『媽祖堂』。
『媽祖堂』には興福寺と同様の鬼が2体立っており、説明によると2体の鬼はそれぞれ『順風耳』『千里眼』という名前だそうで、どちらも『媽祖』様を災害から守る働きをしているらしい。
『順風耳』(じゅんぷうじ)は大きい耳を持ち、あらゆる悪の兆候を聞き分けて、いち早く媽祖様に知らせる役目を果たし、『千里眼』(せんりがん)は3つの目を持ち、媽祖様の進む先や回りを監視して素早く媽祖様に報せる働きをしているのだという。
もともと二つの鬼は悪いことばかりして人びとを困らせていたらしいが、媽祖様が改心させて自らの守護を命じたのだと。
私達は寺町の見学を終えて正覚寺下電停に出て、細い路地や階段の道を辿って高島秋帆旧宅から丸山公園へ向かった。
やはり道路が狭く一方通行、駐車場も見当たらない。
寺は全て寺町通りに面してはいるのだが、背後の山に向って境内が広がっているので、通りを車で走って車窓見学という具合にはいかないのだ。
寺町通りには上の写真のように寺と向かい合うように木造3階建の料亭『一力』が建っていた。
料亭『一力』は1813年(文化10年)に大村藩士・山本保助によって創業の老舗。
幕末の頃には坂本竜馬、高杉晋作、井上聞多ら明治維新で活躍した志士たちも通ったそうだ。
『一力』と言えば京都・四条祇園花見小路の『一力』を思い浮かべ「ええっ、ここにも」と一瞬驚いたが、祇園の『一力』は正しくは『一力亭』。
幕末の頃までは屋号が『万』であったと聞く。 その『万』という字は『一』と『力』の組み合わせから『一力(いちりき)』と呼ばれるようになったのだとか。
隠語のようであるが、これについて詳しくは知らない。が、今も格式高く一見客は入れない店で、以前は夜ともなれば黒塗りの高級外車が並んでいた。私が学生の頃は花見小路など通ることすらできない通りであったが・・・
いつの日かY君が連れていってくれることを期待してはいるのだが。
寺町通りの寺は写真のように山を背にしている。
このお寺は1608年(慶長13年)創建の海雲山・晧臺寺。曹洞宗の禅寺である。
このお寺を中島川の方へ下れば日本最古のアーチ型石橋・『眼鏡橋』に至るが後まわしにして『崇福寺』へ向かうことにした。
実は、この聖壽山『崇福寺』も黄檗宗のお寺で1629年(寛永6年)、中国・唐の僧・超然の創建である。
先に紹介した興福寺は中国・南京の出身者が信徒に多く、南京寺とも呼ばれているが、この『崇福寺』は中国・福州の出身者が多いために福州寺と呼ばれたりするそうである。
聖壽山『崇福寺』の三門は龍宮城をイメージするような日本のお寺のものとは全く異なる感じのものであり、この門をくぐって石段を上ると下の写真の『第一峰門』に至る。
『崇福禅寺』と記された『第一峰門』は1644年(正保元年)に建てられ、軒下の複雑な中国様式の木組みなどから国宝に指定されている。
扁額『第一峰』は『黄檗三筆』(隠元、木庵、即非)の一人とされている即非禅師の揮筆らしいが落款を確認出来なかった。
下の写真は国宝である『大雄宝殿』(本堂)。
下の写真は『媽祖』様を祀る『媽祖堂』。
『媽祖堂』には興福寺と同様の鬼が2体立っており、説明によると2体の鬼はそれぞれ『順風耳』『千里眼』という名前だそうで、どちらも『媽祖』様を災害から守る働きをしているらしい。
『順風耳』(じゅんぷうじ)は大きい耳を持ち、あらゆる悪の兆候を聞き分けて、いち早く媽祖様に知らせる役目を果たし、『千里眼』(せんりがん)は3つの目を持ち、媽祖様の進む先や回りを監視して素早く媽祖様に報せる働きをしているのだという。
もともと二つの鬼は悪いことばかりして人びとを困らせていたらしいが、媽祖様が改心させて自らの守護を命じたのだと。
私達は寺町の見学を終えて正覚寺下電停に出て、細い路地や階段の道を辿って高島秋帆旧宅から丸山公園へ向かった。
at 09:41|Permalink│
November 16, 2008
九州への旅・・・8 長崎 (5) 寺町界隈
長崎の町はV字形と考えれば分かりやすい。
Vの字の左側の線は浦上川で、その左手には稲佐山などの山並みが続く。
Vの字の真ん中上部はホテル『梅松閣』のある立山から浦上地区に続く山並み。
Vの字の右側の線に中島川と、それに沿って寺町通りがあり、寺町通りの右手に山並みがある。
市街地はVの字の真ん中あたりに広がり、Vの字の一番下辺りが中華街や出島の辺りで、そこから更に下がった辺りが大浦地区になる。
つまり、長崎の街はほぼ南北に並ぶ山並みに囲まれ、Vの字の左側下部は長崎港に面しているという地形になる。
寺町通りにある13ばかりの寺はVの字の右手の山並みを背にして並んで建っているということになる。
この寺町通りは道が狭い上に一方通行で駐車場も無いことから、全日空ホテルの前から興福寺までタクシーで行き、そこから歩いて巡ることにした。
上の写真は興福寺の山門内側に架かる『初登宝地』と書かれた扁額で隠元禅師の筆、朱丹塗りの入母屋造りの山門表側には興福寺の山号『東明山』の額が掛けられている。
興福寺は黄檗宗の唐寺としては日本で最初にできた寺であることを私は初めて知った。
黄檗宗と言えば京都・宇治の萬福寺と思っていたのだが、1654年に中国の福州から日本の長崎に来た隠元禅師(黄檗宗開祖)は興福寺の住職となり、徳川将軍・家綱に謁見した後に宇治の萬福寺を開山したのだと言う。
1620年頃、中国・明の商人が貿易のために長崎と中国を行き来していたらしく、航海の安全を祈願して『媽祖』様を祀る小さな祠を建てたことが唐寺の始まりらしいが、幕府のキリスト教禁制は厳しく、中国人にもキリシタンの疑いをかけるようになってきたため、中国人たちは仏教徒であると証明するために崇福寺(寺町通り)、福済寺、聖福寺(長崎駅に近い)などの唐寺を次々と建てていった。
上の写真は興福寺の大雄宝殿(本堂)で1632年に今理由されたが、以後、元禄2年、明治16年に再建されたようだが、中国式建築洋式が珍しく国の重要文化財に指定されている。
下は大雄宝殿のアーチ型の黄檗天井で、窓には氷裂式に桟が組まれた丸窓など、珍しい様式を見ることができる。
下は大雄宝殿のご本尊と瑠璃燈で中国・清朝時代の作で上海から運び込まれて本堂内で組み立てられたらしい。
庫裏の前に吊るされた魚板。
中国・明朝時代の魚板で日本に残る唯一の魚鼓らしい。
通常、食事の合図に魚板の腹の部分をコンコン叩いて報せるものだが、叩く部分が削られて無くなってしまっている。
長い年月叩かれ叩かれしているうちに磨り減ってしまったのであろう。
今は一体どうしているのだろうか。 ちょっと心配。
食事の用意が出来たと魚板を叩いたところで空を打つのみ。
『武士は食わねど高楊枝』、『禅僧は食わねど座禅に托鉢三昧』、なーーんてことがあるわけないか。
上は媽祖堂(まそどう)で航海の安全を守り、安産の守り神でもある女神『媽祖』様を祀る。
佛教寺院では伽藍の守護を司る者として阿吽の金剛力士像を立てるが、『媽祖』様の前にはユーモラスな動作の赤鬼と青鬼がいた。
赤鬼は遠くにあるどれだけ小さなものでも見通せるという格好で、青鬼はどれだけ小さな音でも聞き分けるという、ふたつの鬼。
ひょっとすると『媽祖』様の下僕なのだろうかも・・・
鬼たちについてはよく分からないながらも、中島川に架かる『眼鏡橋』は興福寺2代住職・黙子如定が架設したらしいし、隠元禅師はインゲン豆のほか、もやし、スイカ、レンコン、落花生にナスビまで日本に伝えたとか。
斉藤茂吉の『長崎の昼静かなる唐寺や 思ひいづれば白きさるすべりの花』の歌碑をあとに落ち着いた風情漂う寺町の散策を続けることにした。
Vの字の左側の線は浦上川で、その左手には稲佐山などの山並みが続く。
Vの字の真ん中上部はホテル『梅松閣』のある立山から浦上地区に続く山並み。
Vの字の右側の線に中島川と、それに沿って寺町通りがあり、寺町通りの右手に山並みがある。
市街地はVの字の真ん中あたりに広がり、Vの字の一番下辺りが中華街や出島の辺りで、そこから更に下がった辺りが大浦地区になる。
つまり、長崎の街はほぼ南北に並ぶ山並みに囲まれ、Vの字の左側下部は長崎港に面しているという地形になる。
寺町通りにある13ばかりの寺はVの字の右手の山並みを背にして並んで建っているということになる。
この寺町通りは道が狭い上に一方通行で駐車場も無いことから、全日空ホテルの前から興福寺までタクシーで行き、そこから歩いて巡ることにした。
上の写真は興福寺の山門内側に架かる『初登宝地』と書かれた扁額で隠元禅師の筆、朱丹塗りの入母屋造りの山門表側には興福寺の山号『東明山』の額が掛けられている。
興福寺は黄檗宗の唐寺としては日本で最初にできた寺であることを私は初めて知った。
黄檗宗と言えば京都・宇治の萬福寺と思っていたのだが、1654年に中国の福州から日本の長崎に来た隠元禅師(黄檗宗開祖)は興福寺の住職となり、徳川将軍・家綱に謁見した後に宇治の萬福寺を開山したのだと言う。
1620年頃、中国・明の商人が貿易のために長崎と中国を行き来していたらしく、航海の安全を祈願して『媽祖』様を祀る小さな祠を建てたことが唐寺の始まりらしいが、幕府のキリスト教禁制は厳しく、中国人にもキリシタンの疑いをかけるようになってきたため、中国人たちは仏教徒であると証明するために崇福寺(寺町通り)、福済寺、聖福寺(長崎駅に近い)などの唐寺を次々と建てていった。
上の写真は興福寺の大雄宝殿(本堂)で1632年に今理由されたが、以後、元禄2年、明治16年に再建されたようだが、中国式建築洋式が珍しく国の重要文化財に指定されている。
下は大雄宝殿のアーチ型の黄檗天井で、窓には氷裂式に桟が組まれた丸窓など、珍しい様式を見ることができる。
下は大雄宝殿のご本尊と瑠璃燈で中国・清朝時代の作で上海から運び込まれて本堂内で組み立てられたらしい。
庫裏の前に吊るされた魚板。
中国・明朝時代の魚板で日本に残る唯一の魚鼓らしい。
通常、食事の合図に魚板の腹の部分をコンコン叩いて報せるものだが、叩く部分が削られて無くなってしまっている。
長い年月叩かれ叩かれしているうちに磨り減ってしまったのであろう。
今は一体どうしているのだろうか。 ちょっと心配。
食事の用意が出来たと魚板を叩いたところで空を打つのみ。
『武士は食わねど高楊枝』、『禅僧は食わねど座禅に托鉢三昧』、なーーんてことがあるわけないか。
上は媽祖堂(まそどう)で航海の安全を守り、安産の守り神でもある女神『媽祖』様を祀る。
佛教寺院では伽藍の守護を司る者として阿吽の金剛力士像を立てるが、『媽祖』様の前にはユーモラスな動作の赤鬼と青鬼がいた。
赤鬼は遠くにあるどれだけ小さなものでも見通せるという格好で、青鬼はどれだけ小さな音でも聞き分けるという、ふたつの鬼。
ひょっとすると『媽祖』様の下僕なのだろうかも・・・
鬼たちについてはよく分からないながらも、中島川に架かる『眼鏡橋』は興福寺2代住職・黙子如定が架設したらしいし、隠元禅師はインゲン豆のほか、もやし、スイカ、レンコン、落花生にナスビまで日本に伝えたとか。
斉藤茂吉の『長崎の昼静かなる唐寺や 思ひいづれば白きさるすべりの花』の歌碑をあとに落ち着いた風情漂う寺町の散策を続けることにした。
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九州への旅・・・8 長崎 (4) グラバー園
大浦天主堂の横にある旧・羅典神学校の裏側を抜け、少しばかり階段を上がるとグラバー園の入口があり、そこから動く歩道を乗り継いで階段をしこしあがれば最も高い位置にある旧・三菱第二ドックハウスまで行くことができる。
昔はグラバー邸しか無かったが、いつからか古い建物を移築して『明治村』のような様相を呈している。
私の大学にも明治期の木造やレンガ造の建物(重要文化財)があるが、明治時代に建てられた洋風建物というのは旧・羅典神学校も同様、いずれも雰囲気が似通っているものである。
グラバー園は、旧・三菱第二ドックハウスから順に旧・長崎地裁長官舎、旧・ウォーカー住宅、旧・長崎高商門衛所、旧・リンガー住宅、旧・スチィル記念学校、旧・オルト住宅、旧・自由亭、三浦環の記念像などを回遊式に見て回ることができ、下のグラバー住宅を見学した後に長崎伝統芸能館を経て出口に至るようになっている。
グラバー邸というのは、トーマス・ブレーク・グラバーの住宅のことで、スコットランド人の彼は19歳の時に上海の貿易商社に就職。そして長崎が開港された1859年に来日してグラバー商会を開設、当時21歳の彼は生糸や茶の輸出を手掛けた。
しかし、グラバーの名前が日本で記憶されたのはそれだけが理由ではない。
公武合体派が攘夷派であった長州藩や七卿落ちと呼ばれる三条実美らを京の都から追放した文久の政変(1863年)以後、京都では新撰組の池田屋敷事件、蛤御門の変など幕末の日本の政情は大混乱を来たしていた。
この時期に彼は薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)を中心とする倒幕派に武器や弾薬を納入し、長崎での彼の商業基盤を確かなものにしていった。
薩摩藩士で後に関西経済界の重鎮と称せられた五代友厚や文部大臣を勤めるなど近代教育の基礎を作った森有礼などを英国に留学させる働きをしたり、自らも長崎・高島炭鉱の開発や、三菱財閥の実業家・岩崎弥太郎と組んでの事業展開など、明治期における日本経済界の発展にも寄与するところが大きかった。
彼は日本人女性ツルと結婚して1男1女をもうけ、長崎の町を見下ろせるこの南山手の邸宅に住んでいたらしいが、南山手地区や東山手地区には今も古い外国人の住宅が残っており素敵な街並みになっている。
写真の緑の屋根は大浦天主堂の大司教館であり、その上の山に白く大きく見える建物が私達が宿泊した『梅松閣』である。
ところで、グラバーとツル夫妻についての私の誤解。
私が40数年前に長崎・グラバー邸を訪れたことを書いたが、その時にオペラ『蝶々夫人』のモデルがグラバーの妻女ツルであるとガイドの説明で聞いたように思い、長年そうだと思い続けていた。
しかし、後にグラバーの功績を知る過程で、歌劇『蝶々夫人』のモデルが彼の妻女ツルであるとは思えなくなり、ガイドの説明が違っていたのか私の聞き違いであったのか、ずっと疑問のままにしてきたのである。
それが今回、家内と長崎を旅行する段になってインターネットで調べてみたところ明らかになり、長年の胸のつかえがスッキリ下りた感じがしたのだ。
オペラ『蝶々夫人』の「作曲の経緯」、「作品のあらすじ」、そして「蝶々さんは誰か」ということまで記述してあるページに巡り合えたのである。
以下にそのURLを紹介しておくので興味のある方は『蝶々夫人』をクリックして頂ければ良い。
『蝶々夫人』
戯曲を読んだだけでオペラそのものを未だ観る機会に恵まれてはいないのだが、今の日本に『蝶々夫人』のような女性がどれほどいるのだろうか。
こんな書き方をすると世の女性の皆さんからは大いに叱責を蒙るような気がするものの・・・
所詮、創作は創作、虚構の世界というものか。
昔はグラバー邸しか無かったが、いつからか古い建物を移築して『明治村』のような様相を呈している。
私の大学にも明治期の木造やレンガ造の建物(重要文化財)があるが、明治時代に建てられた洋風建物というのは旧・羅典神学校も同様、いずれも雰囲気が似通っているものである。
グラバー園は、旧・三菱第二ドックハウスから順に旧・長崎地裁長官舎、旧・ウォーカー住宅、旧・長崎高商門衛所、旧・リンガー住宅、旧・スチィル記念学校、旧・オルト住宅、旧・自由亭、三浦環の記念像などを回遊式に見て回ることができ、下のグラバー住宅を見学した後に長崎伝統芸能館を経て出口に至るようになっている。
グラバー邸というのは、トーマス・ブレーク・グラバーの住宅のことで、スコットランド人の彼は19歳の時に上海の貿易商社に就職。そして長崎が開港された1859年に来日してグラバー商会を開設、当時21歳の彼は生糸や茶の輸出を手掛けた。
しかし、グラバーの名前が日本で記憶されたのはそれだけが理由ではない。
公武合体派が攘夷派であった長州藩や七卿落ちと呼ばれる三条実美らを京の都から追放した文久の政変(1863年)以後、京都では新撰組の池田屋敷事件、蛤御門の変など幕末の日本の政情は大混乱を来たしていた。
この時期に彼は薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)を中心とする倒幕派に武器や弾薬を納入し、長崎での彼の商業基盤を確かなものにしていった。
薩摩藩士で後に関西経済界の重鎮と称せられた五代友厚や文部大臣を勤めるなど近代教育の基礎を作った森有礼などを英国に留学させる働きをしたり、自らも長崎・高島炭鉱の開発や、三菱財閥の実業家・岩崎弥太郎と組んでの事業展開など、明治期における日本経済界の発展にも寄与するところが大きかった。
彼は日本人女性ツルと結婚して1男1女をもうけ、長崎の町を見下ろせるこの南山手の邸宅に住んでいたらしいが、南山手地区や東山手地区には今も古い外国人の住宅が残っており素敵な街並みになっている。
写真の緑の屋根は大浦天主堂の大司教館であり、その上の山に白く大きく見える建物が私達が宿泊した『梅松閣』である。
ところで、グラバーとツル夫妻についての私の誤解。
私が40数年前に長崎・グラバー邸を訪れたことを書いたが、その時にオペラ『蝶々夫人』のモデルがグラバーの妻女ツルであるとガイドの説明で聞いたように思い、長年そうだと思い続けていた。
しかし、後にグラバーの功績を知る過程で、歌劇『蝶々夫人』のモデルが彼の妻女ツルであるとは思えなくなり、ガイドの説明が違っていたのか私の聞き違いであったのか、ずっと疑問のままにしてきたのである。
それが今回、家内と長崎を旅行する段になってインターネットで調べてみたところ明らかになり、長年の胸のつかえがスッキリ下りた感じがしたのだ。
オペラ『蝶々夫人』の「作曲の経緯」、「作品のあらすじ」、そして「蝶々さんは誰か」ということまで記述してあるページに巡り合えたのである。
以下にそのURLを紹介しておくので興味のある方は『蝶々夫人』をクリックして頂ければ良い。
『蝶々夫人』
戯曲を読んだだけでオペラそのものを未だ観る機会に恵まれてはいないのだが、今の日本に『蝶々夫人』のような女性がどれほどいるのだろうか。
こんな書き方をすると世の女性の皆さんからは大いに叱責を蒙るような気がするものの・・・
所詮、創作は創作、虚構の世界というものか。
at 08:56|Permalink│