December 2008

December 25, 2008

久し振りにブラついてきた七条大宮から島原。(2)

H君が持ってきてくれた浅田次郎氏の作品『輪違屋糸里』(上下巻)を読んだこともあってブラブラと久し振りに歩いてみる気になったのだが、人の多いところは好かん私にとって七条堀川から大宮通を経て島原口へのコースは割りに好きなのである。

先のページに書いた西本願寺の南側の小路は静かで良い。

堀川通りに面した西本願寺と興正寺の間にある築地塀の小路から西向きに入ると国宝の『唐門』があり、それを過ぎると龍谷大学の大宮キャンパスが左手にある。
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写真右手は西本願寺、左手に龍谷大学の学舎(北黌)、小路の突き当たり大宮通に面して平安高校の校舎が建っている。

西本願寺(『唐門』を含む)をはじめ龍谷大学の建つこの辺りは国宝、重要文化財が多い。
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写真上は龍谷大学の本館と左手に学舎(南黌)。

下は南側の学舎(南黌)で、北側にも本館を挟むように対称的な学舎(北黌)が建っている。

赤レンガの門衛所も建っているのだが門柱の影になっている。

これらいずれの建造物も1879年(明治12)年に竣工したもので国の重要文化財に指定されている。
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大宮キャンパスは重要文化財の本館や学舎(南黌・北黌)を取り囲むように現代的学舎も建てられているが、静寂な環境の中でアカデミックな雰囲気を醸し出しており、散策の途中休憩にも良い所である。

島原の帰りに寄ってみたら重要文化財の建物群がライトアップされており、暗闇に浮かび上がる明治の建物は現代的センスを感じさせる素晴らしいものであった。
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龍谷大学と西本願寺の間の小路を大宮通りに出ると、正面が平安高校で右手角に新しくなった大学図書館があり、塀に沿って北方向へ歩くと丹波街道の花屋町通を越えて島原口に至る。

チンチン電車(路面電車)が走っていた頃は島原口の停留所があったのだが・・・

大学図書館からなら2つ目の信号で大宮通を渡って少し歩くと島原の大門がある。

大門をくぐると、昔ながらの防火用水槽と幾つもの桶が積まれているのを目にする。

そして、その傍には柳の木が植えられている。

確か“見返りの松”であったはずなのだが、長崎の丸山遊郭でも見返りの『柳』であった。 柳の木に何か意味があるのかどうか私は知らない。

輪違屋は大門を入れば右手方向にあり、現在も営業しているらしいが『一見客』は入れないらしい。

H君の知人の老人が輪違屋の客なので私を紹介し連れて行くように言ってあるのだが、これはいつのことになるのやら。

書籍の手配に配達は早くて有難いのだが、他の件に関してはイマイチ。

彼の結婚についても、さんざ尻を引っ叩いて5年もかかってしまったし、鉄道乗車券に関しては2年経ってもダメ。 期限切れのチケットをもらっても仕方がないし・・・そう言えばY君の祗園も・・・

壬生・新徳寺に山田師を訪ねようと歩き始めた。 しかし日も暮れてしまったので元来た道を戻ったのだが、何だか真っ直ぐ家に帰るのもツマラナク、タクシーで祗園花見小路へ。

忘れていたが昼時のデートだったので昼食を抜いていたことをタクシーに乗った途端に思い出してしまった。 忘れていればそのまま過ぎてしまうのだが、一度記憶が甦ると空腹具合に一層拍車がかかってしまうのも不思議である。
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祗園『さか季』の暖簾をくぐるなり、「お腹がすいた」と。

たら白子の葛仕立てのようなものを飲むように頂いたが、その程度ではチョットチョット・・・である。

上の写真はトラフグの身をサイコロ状に切り、アンコウの肝を裏漉して味付けたものと和えた一品。

フグの身はしっかりした歯応えでタンパクな味わいのものだが、それにアン肝の脂分が僅かに絡んでなかなかのもの。

武士は喰わねど高楊枝なんてツマランことを私はしない。

丁度、京芋の煮たのが見えたので「それをくれ」。

調理長は「味を含ませてるとこですねん」と言いながら小鉢に盛り始め、「かなわんなあ」と言いながらもニコニコ顔で出してくれた。

味の染み込んだものは勿論美味いが、『さか季』の京芋は芋そのものが美味しい上物やから冷やさなくても十二分に美味い。

こんなことを書いたら、じゃ調理長の役割が無くなってしまうやないかって言われそうやが、そうやない。 上物の芋であっても調理次第で不味くもなるもんやさかいに誤解せんといてや。

事実、『吉兆』の芋でさえゴリゴリってのがあったんや。

こんなもん下調理の段階で分かろうもんやが・・・
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とにもかくにも、この京芋を食べたことでやっとお腹が落ち着き、熱燗で独りだけの酒宴の開始となった。

上の写真はサワラを炙ってもらったのとタタキ(手前)にしてもらったのを大皿一つに盛り付けてもらった。

写真で見ればこじんまりと盛られているが、このサワラ随分大物であったようで切り身を一口で・・・とはいかなかった。

サワラは鰆と書くように瀬戸内海へは春に乗り込んでくる。 つまり春告げ魚のひとつなのだが水揚げされてからの身持ちがあまり良くなくて直ぐに身が柔らかくなってしまうために刺身で食べられるのは地元だけであった。

今は冷蔵保存・輸送技術が進歩しているから日本中どこでも食べられるが、外洋へ出ている今の時期のサワラは体が大きく脂が乗って美味しい。

しかも同じ魚の脂でもしつこいもので無いところがサワラの美味しさでもあると私は思っている。

このあとクラブ『アリュール』へご挨拶?? 娘のようなママに声援を、そして終電で帰宅。 この日は久し振りに仰山歩いた。


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December 22, 2008

久し振りにブラついてきた七条大宮から島原。(1)

我が師と会うのは4ヶ月ぶり。

先月末であったか、取り寄せを頼んでおいた本をH君が持ってきてくれた。

彼は某書籍卸販売会社に勤めている息子扱いにしている内の一人であり、取り寄せが必要な書籍についてメールを送っておけば勤務帰りに届けてくれるのである。

重い本を何冊も・・・彼には気の毒に思うのだが私にとっては有難いことで、ついつい頼んでしまうのである。

そうした本とは別に文庫本や新書など、ベッドで横になりながら、或いはお風呂に浸かりながら流し読みできるようなものを適当に彼の判断で仕入れて届けてももらうのである。

これは小説の類いが多いのだが、先月末に届けてくれた本の中に『輪違屋糸里』(上下巻)という浅田次郎氏の作品があった。

輪違屋(わちがいや)というのは京都・島原の置屋のひとつで揚屋をも兼ねていた大店。 1800年代後半の建造物が残っている。 また揚屋であった角屋の建物も現存しているが、いずれも格式の高さを感じさせる立派な木造二階建ての建物である。

浅田氏も小説で触れているが、京都・島原の太夫は正五位にて御所に参内できる位を有し、歌舞音曲はもとより高い教養を身に付けた女性であったらしく、辞書によれば太夫を『最上位の遊女』と規定し、遊女を『宿場などで歌舞をなし、枕席に侍るを生業とした女』と記してあり、島原の太夫は別格であったようだ。

傾城としては京・島原に対して江戸・吉原も華やかであったらしいが、江戸文化の研究家で先年亡くなった杉浦日向子女史によれば、太夫・花魁の行列にしても島原・太夫の内八文字に対し吉原の花魁は外八文字に歩みを進めるといった具合に万事において京文化に対抗するものであったらしい。

1956年に売春防止法が公布されて表向き遊郭が消えたが、建物など遺構は各地に残っている。しかし、京都・島原の『輪違屋』や『角屋』の建物は他のそれらとは、やはり格が違う威風堂々としたものである。

薄暮れの時間帯にブラブラ歩いていたので島原の写真は無い。またの機会に撮影し掲載してみよう。
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ブラブラ散策のコース順序が逆になってしまったが、上の写真は西本願寺の南側の築地塀で龍谷大学(大宮キャンパス)や真宗興正派の本山・興正寺との境にある小路である。

大大名の武家屋敷と同様の門構えで、それだけでも本願寺教団の権力の大きさを想像できるが、この門は長く連なる築地塀の中ほどであり、この築地塀は堀川通りから大宮通りまでの間330mばかりあり、他に下の『唐門』(国宝)も並び立っている。
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七条のひとつ北側の小路なのだが人通りが少なく私の好きな散策路であり、40数年前には時代劇の撮影がよく行われていた場所でもある。

当時のアルバイトは日給800円程度(時給ではない)だったが、映画のエキストラのアルバイトは1600円だか1800円だかの高給であったらしい。

しかし映画の撮影というのは拘束される時間帯が不規則であると聞いていたので私は参加したことがない。

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桃山風の四脚門の唐門であり、昔は勅使門としてでも使われていたのだろうか。立派な彫り物が施された見事なものだが詳しくは知らない。
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門扉には獅子の浮彫りが彫られ、門梁には鳳凰、門柱脇には龍が透かし彫りにされており、随分見事な造りである。
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西本願寺へお参りに行く人たちは多いが、こちらへ回って来る人は殆どいずに静かな一画となっている。

JR京都駅を基点として京都の町を考えれば、京都タワーの方向が北であり、京都タワーから東本願寺の門前を結んで伸びる南北の道が烏丸通(からすまどおり)である。

烏丸通の【烏】はカラスであり、【鳥(とり)】の横線が一本が少ない字である。

この烏丸通を北方向へ進むと京都御所があり、御所の東西路が丸太町通りで、御所は丸太町通とひとつ北側の東西路である今出川通の間に位置する。

東西路の大きく広い道を挙げると丸太町通の南に御池通(二条通は丸太町と御池の間くらい)、三条通、四条通、五条通、七条通となる。

南北の通りは烏丸通の東側に河原町通、鴨川に沿う川端通(昔は京阪電車の線路)、そして東山に沿う東大路通となる。

また、烏丸通の西側には南北に堀川通がある。 この堀川通七条には西本願寺があり、この道を北へ進む(上がる)と二条城がある。

堀川通の西側に大宮通、壬生川通、そしてJR山陰本線(嵯峨野線)、更に西側に西大路通がある。

京都の町は碁盤の目のようになっているので、座標軸、つまり交叉する2つの『通り』の名前を挙げることで座標を特定できるのである。

これを用いて私がブラブラ散策した地域は七条堀川から壬生川五条あたりであると言える。

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December 20, 2008

京都でデート (つらつら思ふに・・・)

『京都でデート』なんて表題は何とも落ち着いた・まったりした・艶っぽいというイメージを抱いてしまう。

それは、そもそも『京都』という地名詞に対して私達が‘古都’だとか‘千年の都’だとか‘雅’などといった先入主をもって受け止めるからであろう。

確かに京都の各所にそうした雰囲気を、将に《気》として感じ取れる空間があることは事実であり、一般的表現としてあながち間違っているとは言えない。

が、今や京都はビルが建ち並び主要路は多くの自動車が走り、視界には入らないがメトロも走る大都市のひとつなのである。

そうした『京都でデート』となると、この表題からどのような内容のブログが想像されるだろうか。

古き寺院を訪れ佛顔を拝し、木々が茂る池のある庭を賞美し、或いは細かい砕石を敷き詰められた庭に点在する岩とで構成される小宇宙と対峙、はたまた涼風が吹きぬける嵯峨野の竹林の小路を・・・

師走半ばに涼風でもないが、ひと組の男女が何をか語りつつ歩み、古寺の縁に腰を下ろして庭を眺める・・・・・なかなか良いものである。

しかし、私のデートのお相手は優しく美しき女性ではない。

永遠に追いつき追い抜くことのできない83歳を迎えようとする杖をつく恩師が相手のデートであり、文科省がらみの事業を口実にお呼びを受けたのである。

私信の交信は頻繁であるが師とのデートは年に数度となってしまった。 が、衰えられた足の速さにだけは勝つものの舌鋒鋭く理路整然と語られる知性には年齢同様に差が縮まることはない。

師より依頼を受けた翻訳校正作業も終段階に入り、師は『陣中見舞い』と称してギフトクーポンを私に手渡しするための口実を設けたのである。

私が贈り物をすると「頂く謂れは無い」と頑強に固辞され叱られるのが落ちという潔癖さの持ち主。 そのくせ自分の場合は何が何でも受け取らせてしまうという強引強情さを示す何とも頑固一徹な師である。

激動の昭和の時代とともに平成の今日まで、京都に生まれ京都で学び育った生粋の京都人である。

師は旧制三高から京大へ、師よりも1年後輩であるが義兄は旧制六高から京大へ、愛知県半田飛行機製作所への勤労動員も共に経験している。

愛知県と言えば昨年3月に亡くなった小説家・城山三郎氏も同じ昭和2年(1927年)生まれ。

大正15年(1926年)は昭和元年でもあり、昭和元年は12月25日に始まったから、昭和2年生まれというのは実質的に昭和元年と変わりは無いと言える。

この人たち・・・『同時代性』とでも言えば良いのか、彼らには何か共通するものが私には感じられるのだ。

平和について、戦争に対して、命について、生きるということについて、私もこの人たちと同様の考えを持っているのだが・・・、しかし、何かが違う。

私は戦争を肌で経験したということがなく、戦後のゴタゴタした記憶や知り得た知識で昭和初めの20年間を推量しなければならないが、彼らは現実の社会で実際に体験してきたのである。

この『同時代性』というステージの異なりは置き換え得るものが無く、単に言葉だけという以上に重みがあるものなのだ。

生きてきたステージが異なるから体験経験しないから分からないということではなく、分からないからこそ分かるための努力を、そして同時に分からせるための努力を、これを互いに行い続ける事が共存・共生する人類社会では大切なことなのだが・・・

最近の世の中の傾向はいささか、いや、大いに違ってきているようだ。

分からなければそれまで、間違っていたならば間違っていたことが判明した時点で終わり、結果、結論を急ぎ、成果が見えれば○で成果が見えねば×と、何もかもが短絡化してきているように感じる。

短絡化するということは電気回路ではショートさせることで非常に抵抗の小さい回路を構成することである。 それと同様に人々の思考回路もショート、時には思考するというプロセスそのものが人間の頭脳回路から無くなっているのではないかと思えることがある。

勿論、社会生活上即決即答せねばならないことが多くあることは充分承知しているが、何もかもがそうした風潮に流れ、或いは流されてしまっていることに危うさを感じるのである。

師も義兄も城山氏も原因から結果に至るプロセスを重要視するし、私もモノの見方の根底に据えている。

そうした立場を重視する私から見れば、教育に対する世間の見方も短絡化の傾向にあるのではないかという気がしてならない。

教育の目標や教育内容、教授法や教育施設、設備など、あらゆるものが時代や体制によって変化するものであることは承知している。

そして教育に限らず何か物事を為す過程に於いては『評価する』ということが欠かせない。 企業経営に於いても学校経営に於いても同じで、時点時点に於ける『評価する』という思考行為が無ければ物事の改善は有り得ないのである。

ここでは詳述を省くが、教育現場でも評価は行っており、そのひとつがテストである。 テスト実施の目的は児童・生徒が理解している度合いを知ることと、それをもとに指導を行った教員自身が自らの指導内容や方法に対する評価の資料として指導改善に役立てるものである。

通常テストは◯✕を付し点数で表すという『採点』を行う。

◯✕を付し点数で表すことも『評価する』ことの部分であることに間違いはない。 とりわけ答えがひとつしか無い計算問題や漢字問題については◯✕による『採点』を行うことで良かろう。

しかしながら中等教育に於ける幾何や文学など思考過程や感受性を伴う問題に正答がひとつしかないというものではなく、これらを◯✕による『採点』で優劣をつけることには問題があると言わねばならない。

つまり『採点』をしているだけであって『評価する』ということの僅かな部分を作業していることに過ぎないのではないかと私は思う。

最近話題になっている学力テスト結果の公開・非公開もそのひとつ。

学力の国際比較に端を発したような感のある文科省の学力テストにしても、『学力とは何か』『教育とは何か』、これらのことをキッチリ定義付けてかからねば公開にしろ非公開にしろ上っ面のホコリを右へ払うか左へ払うかの論議の類いと私は考える。

◯✕式学力テストの『採点』結果の数字が“何ぼのもんやねん”って。

決して読み書き計算を行い得る力を否定するものではないし、人が人として生きていくための力であることに違いはないとも思っている。 

しかしながら、“教育”が読み書き計算を行い得る力を伸ばすことであることと等号で結ばれるような論調が一部の政治家やマスメディアの間に見られるのは、やはり何とも危うい感じがするのである。

政治家にしろマスメディアにしろ、一般の人々をリードし、世論を容易に誘導、形づくるプロパガンダとしての側面を持つだけに短絡的ではなく慎重であって欲しいと願うものである。


at 07:22|Permalink

December 11, 2008

九州への旅・・・30 臼杵から四国へ

のんびりと巡った九州北部から中部にかけての旅行もいよいよ終わりに近付いてきた。

一人で旅行する、これはこれで楽しいものがある。 が、夫婦2人での旅行、これはこれで又楽しいものである。

一概に『旅』と言ってもひと括りにできるものではなく様々である。

もっとも『旅』という言葉の定義から始めねばならないが・・・

広辞苑(新村 出・編)によれば、『旅』を【住む土地を離れて、一時他の土地へに行くこと。旅行。古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることをすべて「たび」と言った。】とし、『旅行』については【徒歩または交通機関によって、おもに観光・慰安などの目的で、他の地方に行くこと。たびをすること。たび。】としている。

『旅』『旅行』という言葉は、一時的であれ長期であれ住む土地を離れて他の土地へ行くことを指す言葉として古来より用いられてきた。

ただ、古きにおいて“住居を離れることをすべて「たび」”と言ったということについては一時的に住む土地を離れて他の土地へと言う条件では、人が動き移動することの全てを含めてしまうので表現としては曖昧さが残る。

極端に言えば買い物のために30分ばかり電車に乗ってデパートへ行くことでも一時的に住居を離れることになるので、これも「たび」をしたと言えるのかということになるのだが・・・まあ、これは屁理屈の類いではあるが、「日帰り旅行」などと称するものもあり、英語でも「day trip」と言う。
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臼杵港へ入港してきた宇和島海運のフェリー。

「day trip」は「excursion」とも言うが、学校での遠足とはチョット違う使い方をしてるなあ。

つまり、小旅行と言えるようなものでも距離的、日数的なことで、その『旅』の表現は異なるし、その他『旅』の規模(距離、日数、費用、人数)や目的(観光、研修、視察、慰安)、移動手段(徒歩、鉄道、飛行機、車、船など)などによっても表現は変わる。

英語でも使い分けをしているが、日本語で旅行の意味に該当する言葉「excursion」「trip」「journey」「travel」「tour」「voyage」」「pilgrimage」「expedition]」「cruise」「exploration」など、思いつく言葉が幾つかある。もっとも、私は2つの言葉を使い分けしているだけだが・・・

「trip」と「travel」だけ。 つまり短い旅行の場合はトリップ、少し長い旅行はトラベルと。
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臼杵港でフェリーは後部ハッチ(正しくは何と呼ぶか知らない)を開けて航送車両の乗降をさせるが、四国・八幡浜港では前部の舳先部分を開いて航送車両の乗降をさせた。

『旅』を上述のように定義すれば、人類が地上に出現した時点で既に『旅』するという行動が始まっていたと言える。

食料を求める行動、つまり定住せずに生活を支えるため行う日々の移動、これは『旅』であったと言えよう。

やがて定住生活を始めた人類にあっても、その勢力の拡大には『旅』が伴ったであろうし、そうした脅威から逃れるにも『旅』するという行動が必要であったはずである。
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フェリーは臼杵港のフェリー埠頭を離れて港外へ、海路を四国・八幡浜港へ向かう。

初期の人類は食料を携帯しない徒歩の『旅』が主であったろうが、やがて食料を携帯し、陸上では動物を利用した『旅』となり、水上では葦や丸太を利用した『旅』となっていったであろう。

更に車輪のついた牛車や馬車などによって移動人数も移動距離も増す『旅』へと発展していったことであろう。

きっと、その『旅』の目的も変化し、大きく広がってきたに違いない。

大阪に生まれ育った私には“いなか”(両親の実家のある所)というものが田舎になかった(両親ともに実家は大阪のど真ん中)ため、友人達と同じように“いなか”=田舎へ連れて行って欲しいと両親にせがんだものだった。

今にして思えば両親も困っていたのであろうと思う。

六甲・芦屋の叔母の家や大和・御所の従兄弟の家などへ連れて行ってくれたが、私の旅行という意味では小学校の修学旅行での伊勢行きが最初のものであった。

たったの一泊旅行であったが、何もかも友人達と共に行動したことが最大にして最高の喜びであり、そして思い出でもあり、神社も自然景観も二の次であって、この修学旅行の目的は友人達と楽しい時間を過ごすということに終始したように記憶している。
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フェリーは佐賀関の関崎と高島を見て、いよいよ速吸瀬戸(豊予海峡)に入ろうとしている。 写真左手の島が高島で、右手に伸びている陸地が佐田岬半島である。

この海峡付近で獲られ、左手の大分・佐賀関に水揚げされたモノが関アジ、関サバとして、右手の愛媛・佐田岬の三崎漁港へ揚げられたモノが岬アジ(はなアジ)・岬サバ(はなサバ)として市場に出るのである。

潮の干満の差によって太平洋から瀬戸内海へ、そして瀬戸内海から太平洋へと流れる豊予海峡の潮流は速く、その潮の流れに揉まれた魚は身が引き締まり美味とされ、1匹のサバに何千円もの値段が付く。

広域流通が可能となった現代ゆえに高値が付くようになったが、昭和20年代や30年代には、こうしたブランドものなど無かったのだが、これが良いのか悪いのか。

地元振興という観点からは素晴らしいことだが、サバもアジも庶民の魚であったはずなのだが・・・
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フェリーは、いよいよ佐田岬の根元に位置する八幡浜港に入港しようとしている。

先ほどの話に戻すが、私が『旅』を意識した最初の旅行は中学1年生の夏休みのことであった。

随分以前に少し触れたことがあったが、当時既に大学生であり、私の従兄弟であり、私の兄のような存在であったYが山陽本線を走る汽車で広島を観光し、小郡から阿武郡阿東町の叔父の家へ、そして秋吉台、秋芳洞と案内して回ってくれた数日にわたる旅行であった。

広島に原爆が落とされて10年ばかり。 50年間は草木が生えないと言われていた広島であるが、それでも広島駅前には赤茶けたトタン屋根のバラックが建ち並び、旧式の路面電車が荒れた町をガタゴト走る。 植えられて間もないような木がポツリポツリと立つだけで日かげもなく照り返しばかりで眩しく暑い平和公園を歩きながら戦争についてYが語ってくれた。

原子が何であるか、核分裂がどうして起こるか、放射能とは・・・工学が専門であるYの話は分かりやすくストンと腹に落ちる。
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フェリーは2時間25分で八幡浜港のフェリー埠頭に接岸。

開かれた船首部分から下船した先頭の車に続いて私の車も続く。

山口の叔父は石灰石の採掘とセメント製造の工場を経営していたが、秋芳洞を巡り秋吉台を歩くことによって、セメントの原料である石灰岩の山とセメント製造工場が同じ場所にあるという生きた社会科学習をさせてもらえた。

この広島と言い山口と言い、この時の私の『旅』に後付けながら目的を与えてくれたのである。

つまり『旅』というものは、それを終えてから、その『旅』の過程で経験し学んだことが自らの血肉になるという面と、何らかの目的を持ち、それを達成するための手段としての『旅』があるということである。

は知らないが無目的、無感動という『旅』もあるかもしれない。

この山陽への『旅』以来、私の『旅』には必ず目的があり、『旅』を終えてからの財産は有形無形計り知れないものとなって身に付いてきた。

今回の家内と2人での九州への旅行も満足のうちに終え、帰宅してからも更にもっと知りたいという欲求を掻き立ててくれるものがあり、『旅』というものが人間に対してあらゆる面で与えてくれる無限とも言える効果の大きさに今更ながら感じ入っているのである。

四国・八幡浜に上陸してから若干の寄り道をしたが、夜の四国道を松山から坂出、そして瀬戸大橋を渡り大阪へ戻ってきた。

手暇な時間に駆け足で旅行記を仕上げたために書き足りなかった部分もあるし、写真にしても主要な部分をピックアップしただけなので私の思いを全て書いたわけではないが、これにて一応の完了としておきたい。

旅行中いろいろとお世話になった方たちにはこのブログページでお礼を申し上げることとしたい。



at 05:44|Permalink

December 10, 2008

九州への旅・・・29 臼杵の町を歩く

臼杵石仏群のある場所から臼杵市街地までは5~6kmあるので、タクシー移動が便利である。

私達は買い物があったので『コープうすき』の駐車場に車をとめて買い物をしてから臼杵城跡に向かった。

臼杵城は1562年にキリシタン大名・大友宗麟によって臼杵湾に浮かぶ小さな島・丹生島に建立された海城である。
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写真は現代の臼杵城で城の周りは埋め立てられて完全な市街地となっており、写真撮影場所の左手が『コープうすき』で右手が駐車場。

正面の臼杵城跡の左手に少しばかり城の駐車場もあるのだが、『コープうすき』の駐車場が空いているので止めさせてもらって城跡に向かうことにした。

正面に鳥居があるが、それをくぐってから鐙坂を上り畳櫓(右側)から正面に写っている大門櫓(復元)を入れば二の丸跡、本丸跡となり南東側に卯寅口門脇櫓があるくらいで、当時のものは櫓と石垣が遺構として残っているのみで、現在は臼杵公園として開放されている。

下は大門櫓である。
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大友宗麟は大分城(府内城)から臼杵城に本拠を移して南蛮貿易の基地にしていたが、薩摩の島津との戦に破れ、その後に宗麟が亡くなり、関ヶ原の合戦以後、臼杵城は郡上八幡から稲葉貞通が入封・藩主となり、代々稲葉氏の藩政が明治まで続くことになった。

下は本丸跡に建てられている大友宗麟のリリーフだが、彼の足元に描かれているのが島津との戦いで日本で初めて使用された青銅砲『国崩』である。

その音と威力は人々に大きい驚きを与えたことから、国を崩してしまう大砲ということから名付けられたらしいが、宗麟が南蛮人より買い入れたものだという。

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下は『二王座歴史の道』と名付けられた通りであるが、旧稲葉家の土蔵や長屋門がある『臼杵市ふれあい情報センター』など武家屋敷から、寺町かと思えるほどに立派な寺が建ち並ぶ落ち着いた風情のある、なだらかな坂道である。

この『二王座歴史の道』と平行するように八町大路があり、この通りには昔風な店が軒を連ね、土産物を仕入れるにも良い通りであり、『二王座歴史の道』とも3つの小道でつながっており、それぞれに趣きのある通りとなっている。
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『二王座歴史の道』を西へ上りきって下って行くと下の塔がある自動車の通る道に出る。

『萩に塔』・・・私が気に入っている写真であるが、1858年の江戸時代に建立された龍原寺の三重塔でなかなか素晴らしいものである。
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塔には聖徳太子を祀っているとかで三重太子塔とも呼ばれている。

この龍原寺の前に大橋寺や光蓮寺があり、それらの裏手に流れる臼杵川を越えれば吉丸一昌記念館がある。

吉丸という名前は記憶に薄いかもしれないが、東京帝大を出て東京音楽学校の教授を務め、『早春賦』の作詩をした人でもある。

以前、信州安曇野のワサビ園を訪れた折りに『早春賦』の歌碑が建っているのを見たことがあったが、安曇野を何度か訪れた吉丸一昌が穂高の雪解けの水が流れる早春の情景に心惹かれて詩を作ったのだとか。

         早春賦

               作詞:吉丸 一昌
               作曲:中田  章
1.春は名のみの 風の寒さや
  谷の鶯    歌は思えど
  時にあらずと 声も立てず  
  時にあらずと 声も立てず

2.氷解け去り 葦は角ぐむ  
  さては時ぞと 思うあやにく
  今日もきのうも 雪の空
  今日もきのうも 雪の空

3.春と聞かねば 知らでありしを
  聞けば急かるる 胸の思いを
  いかにせよとの この頃か
  いかにせよとの この頃か

いやあ、いい歌である。

ついでだが作曲の中田 章は作曲家・中田喜直の父君である。

吉丸一昌記念館から臼杵川を少し下ると中洲があるのだが、ここにフンドーキン醤油の大きい工場がある。

そしてフンドーキン醤油の工場と川を挟んで野上弥生子文学記念館がある。

野上弥生子文学記念館というのは小手川酒造の敷地にある木造二階建ての建物に直筆原稿などを展示して彼女の生い立ちや業績を紹介しているものである。

私が野上弥生子という名前に出会ったのは中学生の時であった。 書名は忘れたが岩波文庫のギリシア・ローマ神話に関する本であった。

私は当時よりずっと、野上弥生子という人は東京の人であると、その出身も含めて何故か思い込んでいたのだが、数年前に臼杵を訪れた折に臼杵の出身であることを初めて知ったのである。

彼女は明治18年(1885年)に臼杵市の代屋(現在の小手川酒造)の長女として生まれ、15歳で単身上京して明治女学校に入学したということだ。

明治18年と言えば伊藤博文が初代の内閣総理大臣になった年であり、明治10年(1877年)に起きた西南戦争では西郷軍が官軍・臼杵隊と戦って臼杵城を陥落させ、多くの死傷者を出しており、その8年後と言えば維新後の新体勢が漸く軌道に乗り出したと言える頃である。

交通機関も充分ではないこの頃に、しかも臼杵という辺鄙な田舎町から女一人単身上京というのであるから、余程の金持ちのお嬢さんであったと想像できる。
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そのようなことをつらつら思いながら歩いて戻ってくると、写真のように、呉服屋さんであるが赤穂屋さんの店先に赤い毛氈を敷いた床机に座布団を2つと煙草盆を置いてくれてあった。

これは有難いことであった。

いかに狭い町とは言え、これだけグルッと歩いて回ってくると流石に疲れるものである。

我慢していたタバコもゆっくりと吸わせて頂けた。

赤穂屋さんに感謝、感謝である。


書き漏らしたことがあった。

フンドーキン醤油(株)の会長さんは野上弥生子の甥っ子にあたるらしいし、フンドーキン醤油は昔、小手川商会と言っていたらしい。

詳しい間柄は分からないが、要は身内の関係。 かな?

九州では有名だし、大阪で育った私も使ったことのあるフンドーキン醤油。

つまり、野上弥生子はやはり私とは違う大金持ちのお嬢さんであったということ。  以上。


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