December 2008
December 09, 2008
九州への旅・・・28 臼杵を歩く(石仏)
臼杵と言えば石仏、野上弥生子、フンドーキンかなあ。
そして臼杵城跡に大友宗麟、私としてはここまで。
勿論、吉丸一昌に二王座の寺院・武家屋敷通り、それに魚のフグにアジ・サバかなあ・・・
別府の花菱ホテルで朝湯に朝食を済ませて出発。
ここもバイキングスタイルの朝食だが品数が多いのが楽しい。 もっとも温泉玉子であるが私の大好物ゆえ文句の『も』の字も言わない。
別府の山手にあるインターから大分自動車道に入り臼杵へ向かう。
ところが例によってカーナビの頭が古いものだから大分米良インターで降ろされ、その後も新しい道が出来ていたりでカーナビが大混乱。
最近は地図帳など積んでいないため道路標示板と、太陽の高さと方向から我が針路を決定するという何とも原始的な方法で予定よりも1時間近く遅れて臼杵石仏群のある市営駐車場に到着。
上は平安時代後期の作・阿弥陀如来像であるが傷みが激しい。
下の石佛も平安時代後期の阿弥陀如来像。
下は大日如来像(右端で欠けている)と左右に居並ぶ石佛、写真に写っているのは大日如来像に向かって左側の石佛。 いずれも平安時代後期の作だが写真でも湿気が多い状態であることが分かるであろう。
下が古園石仏の大日如来像であり、臼杵の石仏群を代表するものである。
以前は如来頭部が崩れ落ちて台座の前に置かれていたが、現在は同体部分に載せられている。
これらの石佛はいずれも国宝に指定され、現在は覆屋で雨からは保護されているが背面の山から染み出る地下水の影響を受け、自然な状態での保存管理に難しい面があるように思われた。
臼杵磨崖仏群は現在59体が国宝の指定を受けているが、これらを完全に保存管理するには石仏が彫られている岩体の背後と地下底部で断裁分離して完全な覆屋で空調設備を施さない限りは無理である。
臼杵の石仏群を私は2度見学したが、いずれも溶結凝灰岩を削ったものと想像している。
多分、30万年から9万年前という大昔に巨大カルデラを造りだす活発な火山活動を続けていた阿蘇山のいずれかの火口から噴出した火山砕屑物が高温・高圧の火砕流となって現在の臼杵あたりに流れ下り一気に冷え固まったものが石仏群の基体となる岩体であろうと想像する。
これら臼杵の石仏群の場所に落ちている石を触って見たところ、多孔性でザラつきのある凝灰岩であった。
一般的に凝灰岩は角閃石や斜長石などを主成分とする組成の粗いもので、石仏を彫るという作業はしやすいが、その反面吸水性が高く、その含水率が高くなると強度低下を推し進めるという脆さも併せ持つ。 そうしたことからも地下水の浸潤というのは石仏を保存するという観点からみれば最大の課題であると私は思うのである。
上の写真は大日如来像の頭部を拡大撮影したものだが、彩色の具合がよく分かる。 いずれの石仏も彩色してあったものかどうか分からないが、一部の石仏には彩色されていたことが見てとれるので、他の石仏は長い年月の間に剥落してしまったのかもしれない。
ところで、以前に豊後・国東半島のところで磨崖仏について書いてきたが、大分県地方にはとりわけ磨崖仏が多いように思われる。
思われるというのは正確に調べたわけではないからなのだが、磨崖仏は日本各地に存在し、朝鮮半島にも存在する。
磨崖仏とは言わずに石窟寺院として仏像を刻んだ例は実物を見たことは無いが中国にもあるし、タリバーンによって破壊されたバーミヤーンの大石仏がアフガニスタンにもある。
石仏が存在するということは佛教が広まっていたことを示すことでもあるが、佛教伝播史という点では大正時代に行われた龍谷大学大谷探検隊の西域学術調査で多くの成果が挙げられている。
これまで佛教伝播という意味ではアフガニスタンのバーミヤーン遺跡が西方の限界かと思われていたが、最近の新聞などの報道によれば龍谷大学の学術調査研究プロジェクトが、トルクメニスタン、そして更に西のイラン北西部・マラゲー郊外にあるヴァルジュヴィ遺跡でも仏教遺跡を発見したという。
詳しい調査を更に進めるのであろうが、イスラーム文化圏にまで佛教が伝播されていたことは大変興味深いことである。
インドで紀元前5世紀頃に仏陀釈迦牟尼の説法に基づいて興った仏教であるが、本家本元のインドでは13世紀初頭には佛教信仰は無くなっている。
ところがイスラーム文化圏における佛教遺跡も、我が国における佛教信仰、とりわけ大分県国東半島における石仏や臼杵の石仏群などが11世紀から12世紀頃に造られたことを考え合わせると更に一層興味深いものを感じる。
そして臼杵城跡に大友宗麟、私としてはここまで。
勿論、吉丸一昌に二王座の寺院・武家屋敷通り、それに魚のフグにアジ・サバかなあ・・・
別府の花菱ホテルで朝湯に朝食を済ませて出発。
ここもバイキングスタイルの朝食だが品数が多いのが楽しい。 もっとも温泉玉子であるが私の大好物ゆえ文句の『も』の字も言わない。
別府の山手にあるインターから大分自動車道に入り臼杵へ向かう。
ところが例によってカーナビの頭が古いものだから大分米良インターで降ろされ、その後も新しい道が出来ていたりでカーナビが大混乱。
最近は地図帳など積んでいないため道路標示板と、太陽の高さと方向から我が針路を決定するという何とも原始的な方法で予定よりも1時間近く遅れて臼杵石仏群のある市営駐車場に到着。
上は平安時代後期の作・阿弥陀如来像であるが傷みが激しい。
下の石佛も平安時代後期の阿弥陀如来像。
下は大日如来像(右端で欠けている)と左右に居並ぶ石佛、写真に写っているのは大日如来像に向かって左側の石佛。 いずれも平安時代後期の作だが写真でも湿気が多い状態であることが分かるであろう。
下が古園石仏の大日如来像であり、臼杵の石仏群を代表するものである。
以前は如来頭部が崩れ落ちて台座の前に置かれていたが、現在は同体部分に載せられている。
これらの石佛はいずれも国宝に指定され、現在は覆屋で雨からは保護されているが背面の山から染み出る地下水の影響を受け、自然な状態での保存管理に難しい面があるように思われた。
臼杵磨崖仏群は現在59体が国宝の指定を受けているが、これらを完全に保存管理するには石仏が彫られている岩体の背後と地下底部で断裁分離して完全な覆屋で空調設備を施さない限りは無理である。
臼杵の石仏群を私は2度見学したが、いずれも溶結凝灰岩を削ったものと想像している。
多分、30万年から9万年前という大昔に巨大カルデラを造りだす活発な火山活動を続けていた阿蘇山のいずれかの火口から噴出した火山砕屑物が高温・高圧の火砕流となって現在の臼杵あたりに流れ下り一気に冷え固まったものが石仏群の基体となる岩体であろうと想像する。
これら臼杵の石仏群の場所に落ちている石を触って見たところ、多孔性でザラつきのある凝灰岩であった。
一般的に凝灰岩は角閃石や斜長石などを主成分とする組成の粗いもので、石仏を彫るという作業はしやすいが、その反面吸水性が高く、その含水率が高くなると強度低下を推し進めるという脆さも併せ持つ。 そうしたことからも地下水の浸潤というのは石仏を保存するという観点からみれば最大の課題であると私は思うのである。
上の写真は大日如来像の頭部を拡大撮影したものだが、彩色の具合がよく分かる。 いずれの石仏も彩色してあったものかどうか分からないが、一部の石仏には彩色されていたことが見てとれるので、他の石仏は長い年月の間に剥落してしまったのかもしれない。
ところで、以前に豊後・国東半島のところで磨崖仏について書いてきたが、大分県地方にはとりわけ磨崖仏が多いように思われる。
思われるというのは正確に調べたわけではないからなのだが、磨崖仏は日本各地に存在し、朝鮮半島にも存在する。
磨崖仏とは言わずに石窟寺院として仏像を刻んだ例は実物を見たことは無いが中国にもあるし、タリバーンによって破壊されたバーミヤーンの大石仏がアフガニスタンにもある。
石仏が存在するということは佛教が広まっていたことを示すことでもあるが、佛教伝播史という点では大正時代に行われた龍谷大学大谷探検隊の西域学術調査で多くの成果が挙げられている。
これまで佛教伝播という意味ではアフガニスタンのバーミヤーン遺跡が西方の限界かと思われていたが、最近の新聞などの報道によれば龍谷大学の学術調査研究プロジェクトが、トルクメニスタン、そして更に西のイラン北西部・マラゲー郊外にあるヴァルジュヴィ遺跡でも仏教遺跡を発見したという。
詳しい調査を更に進めるのであろうが、イスラーム文化圏にまで佛教が伝播されていたことは大変興味深いことである。
インドで紀元前5世紀頃に仏陀釈迦牟尼の説法に基づいて興った仏教であるが、本家本元のインドでは13世紀初頭には佛教信仰は無くなっている。
ところがイスラーム文化圏における佛教遺跡も、我が国における佛教信仰、とりわけ大分県国東半島における石仏や臼杵の石仏群などが11世紀から12世紀頃に造られたことを考え合わせると更に一層興味深いものを感じる。
at 15:39|Permalink│
九州への旅・・・27 竹田から別府へ
小雨の中、しっとりと落ち着いた竹田の町を散策して歩いた後、市立歴史博物館に止めていた車で竹田城址へ向かい、西の丸への登城の坂道を上り始めた頃より、またまたどしゃ降りの雨。
一通りの見学(竹田城址の項)を終えて車で臼杵へ移動を開始した。
今夜の宿を臼杵に求めようとも思ったのだが、以前来た時にビジネスホテルのようなものしか見なかったので、いっそ別府まで行ってみようかということになった。
家内と地獄巡りをしたことはあるのだが、家内は別府温泉に浸かったことが無いので急遽行く先変更となった。
このあたりが自由旅行の良いところで、滞在時間や日程、コースを自由に変えることが出来る素晴らしい部分である。
大分米良インターから大分自動車道に入ったが雨は一層ひどくなり高速運転が出来ない状況であった。
別府インターで降り、そこから花菱ホテルへ電話を入れて食事と部屋を確保。
このホテルは今年5月初めに利用した所で勝手を知っていたということもあり、以前指摘したことがどのように変わったかという興味もあったからなのだ。
部屋は以前一人で泊まったためにシングル仕様であったが、今回は家内と2人なので比較は出来ないが、和洋2間で、まあこんなものかという程度。
特段に素晴らしいということも極端に悪いということもない。 つまり、私の気を惹き付けるほどのものは無かったということ。
夕食は、まずまず頑張っていたかなあと思う。 何より担当の若いお嬢さんがタイミングよく料理を運んできてくれたこと、これは一番。
私達は広い別室で会席料理をいただいたのだが、部屋は隔離されているので私達の食事の進行状況は彼女にも厨房にも分からないはずであった。
熊本での一件があったので、若いお嬢さんにはお酒を楽しみながらの食事だから時間をゆっくり取ってくれるように前もって言っておいたことも作用していたのかもしれないが、それにしてもタイミングの良い料理提供には驚いたものだった。
若いから、年配だからというだけでは当たらない。 接待の係の女性と厨房の連携がうまく取れていなければ出来ないし、接待の係の女性の感性が大いにモノを言うものなのである。
温泉については勿論満足であった。
この日の前後は大分国体のヨット競技が開催されていたため、別府の各ホテルは分宿する各都道府県の選手、役員で盛況であったようだ。 写真は朝、順にヨットハーバーを出航して行く各県の艇。
それらを総合して宿泊料金がどうであったかと言えば、これもまあまあというところではなかったろうか。
個人でダイレクトに、つまり飛び込みならば未だ下げることは出来たはず。
なぜなら、同じ程度の内容で『楽天トラベル』を経由する方が安いということを私は知っているからである。 『楽天トラベル』を推奨するのではなく、比較できる資料があったからである。
宿として旅行代理店に対して奉仕値を設定するのは分かる。
また、宿として旅行代理店に紹介料としてキックバックするというシステムになっていることも承知している。
ならば、ダイレクトに当該宿を指定して宿泊する客については紹介料を支払う必要が無いので、そのあたりを考慮した値段設定ができるはずなのだが・・・
素人にはワカランことがあるのかもしれないが、それを客に見せるということも経営宣伝上の効果として大きいように思うのだが、ようワカランさかいにここまで。
一通りの見学(竹田城址の項)を終えて車で臼杵へ移動を開始した。
今夜の宿を臼杵に求めようとも思ったのだが、以前来た時にビジネスホテルのようなものしか見なかったので、いっそ別府まで行ってみようかということになった。
家内と地獄巡りをしたことはあるのだが、家内は別府温泉に浸かったことが無いので急遽行く先変更となった。
このあたりが自由旅行の良いところで、滞在時間や日程、コースを自由に変えることが出来る素晴らしい部分である。
大分米良インターから大分自動車道に入ったが雨は一層ひどくなり高速運転が出来ない状況であった。
別府インターで降り、そこから花菱ホテルへ電話を入れて食事と部屋を確保。
このホテルは今年5月初めに利用した所で勝手を知っていたということもあり、以前指摘したことがどのように変わったかという興味もあったからなのだ。
部屋は以前一人で泊まったためにシングル仕様であったが、今回は家内と2人なので比較は出来ないが、和洋2間で、まあこんなものかという程度。
特段に素晴らしいということも極端に悪いということもない。 つまり、私の気を惹き付けるほどのものは無かったということ。
夕食は、まずまず頑張っていたかなあと思う。 何より担当の若いお嬢さんがタイミングよく料理を運んできてくれたこと、これは一番。
私達は広い別室で会席料理をいただいたのだが、部屋は隔離されているので私達の食事の進行状況は彼女にも厨房にも分からないはずであった。
熊本での一件があったので、若いお嬢さんにはお酒を楽しみながらの食事だから時間をゆっくり取ってくれるように前もって言っておいたことも作用していたのかもしれないが、それにしてもタイミングの良い料理提供には驚いたものだった。
若いから、年配だからというだけでは当たらない。 接待の係の女性と厨房の連携がうまく取れていなければ出来ないし、接待の係の女性の感性が大いにモノを言うものなのである。
温泉については勿論満足であった。
この日の前後は大分国体のヨット競技が開催されていたため、別府の各ホテルは分宿する各都道府県の選手、役員で盛況であったようだ。 写真は朝、順にヨットハーバーを出航して行く各県の艇。
それらを総合して宿泊料金がどうであったかと言えば、これもまあまあというところではなかったろうか。
個人でダイレクトに、つまり飛び込みならば未だ下げることは出来たはず。
なぜなら、同じ程度の内容で『楽天トラベル』を経由する方が安いということを私は知っているからである。 『楽天トラベル』を推奨するのではなく、比較できる資料があったからである。
宿として旅行代理店に対して奉仕値を設定するのは分かる。
また、宿として旅行代理店に紹介料としてキックバックするというシステムになっていることも承知している。
ならば、ダイレクトに当該宿を指定して宿泊する客については紹介料を支払う必要が無いので、そのあたりを考慮した値段設定ができるはずなのだが・・・
素人にはワカランことがあるのかもしれないが、それを客に見せるということも経営宣伝上の効果として大きいように思うのだが、ようワカランさかいにここまで。
at 09:02|Permalink│
December 08, 2008
九州への旅・・・26 竹田の町
竹田の町へ入って最初に着いたところが竹田市立歴史資料館であった。
記述が竹田城址とあと先になってしまったが、竹田の町の散策は歴史資料館から始まったのである。
館には駐車場も設置されていたので旧の街中散策は車を駐車させてもらって巡る事にした。(他に観光する人たちがいなかったため駐車場がガラ空きだったから)
昼時であったためか資料館にスタッフもいず、私達だけでじっくり観覧させて頂いた。
1階は竹田市の縄文弥生期よりの説明と展示、岡城に関する説明や岡城の立体模型や武具の展示、キリシタンに関する展示と説明、2階には田能村竹田らの書画などが展示されており、竹田市の歴史的概観を知るには良い施設である。
事前に調べたところでは入館料が必要だったように思うが、受付スタッフも学芸員もいず、入場料を支払うシステムを発見出来ずにタダで見せて頂いたのが少々気がかりのままでいるが、貴重な展示品を無人の状態で置いておくのはどうも・・・これも気になったことである。
私が心配するようなことのない日本の世の中であれば良いのだが・・・
それはそうと竹田市の竹田は通常『たけだ』とよむが、ここの場合は『たけた』なのだ。今回訪れて竹田市(たけたし)であることを初めて知った。
竹田の町は四方を山に囲まれた小さな盆地であり、旧の城下町は北側に大野川が流れ、その向こうに山並みが、東側の山に岡城、西側と南側も山並みがつづくが、この市立歴史資料館は南側の山に接した位置にある。
上の写真は歴史資料館の駐車場南側の山に接して建つ旧竹田荘で、江戸時代の南画の画家・田能村竹田(たのむらちくでん)の住居である。
田能村竹田は岡藩の藩医の家に生まれ、藩校・由学館の学頭を務めたほどの教養家で、各地を巡ってその土地の文人たちと交流しつつ南画を描いてきた。
南画、南宗画とも言うが、北宗画と合わせて中国山水画の二大流派のひとつであり、日本では江戸時代中期頃より描く人が出てきている。
池大雅や与謝蕪村などは南宗画を描いたし、雪舟や狩野派の山水画は北宗画に分類される。例となる絵を見比べれば特徴がハッキリするが、文人画とも呼ばれる池大雅の画風と山水画の雪舟の絵を想起すれば違いは分かるかと思う。 歴史資料館に田能村竹田の作品が沢山展示されていたのだが写真撮影が原則的に禁止なので撮影していない。
この旧竹田荘も武家屋敷群のひとつである。そして、この写真の道は城下の町を見下ろすように山の斜面の小高い場所を縫うように続き、やがて下の写真のような武家屋敷の塀が連なる道に至る。
表構えが武家屋敷然としているだけで塀内の住居は現代様であるが、行き交う人もなく雨に濡れた通りはしっとりと落ち着いた風情を醸し出していた。
この武家屋敷跡の道を少しばかり山手に上っていくと山の崖面を削って造られたキリシタン洞窟礼拝堂(写真下)が樹々の陰に見えてくる。
凝灰岩をくり抜かれた洞窟で照明もなく湿気が多いのか内部は白いガスがかかり、よくは見えなかったが正面に十字架が彫られ、その手前に木製の結界のような横木がある2坪有るか無いかといった程度の礼拝堂であった。
窓扉のようなものは白い塗料が塗られているが、明治以前には無かったものであろうし、石段も設置されていたが、多分昔は石段も白色の窓扉も、この礼拝堂に至る道なども無く木々が生い茂っていたのではないだろうか。
写真の礼拝堂右手に白い棒が立っている辺り、礼拝堂程度でドームを半分にしたように崖面が窪んだ所がある。 やっと雨を防げるといった程度の場所であるが、そこに神父が寝起きしていたらしい。
まるで石器時代の穴居生活に等しいものであったように思える。
豊後・岡藩もキリスト教信仰が盛んであったらしいが、島原の乱以降各地でキリスト教弾圧が行われた二百数十年ばかり、当然岡藩でも幕命により厳しくキリシタン取締りが行われたはずだが、この洞窟礼拝堂が武家屋敷の通りからそう遠くない場所にあったことは何とも不思議なことである。
ここから下るように郵便局へ歩いて行くと右手に広瀬神社と岡城址へ向かうトンネルがある。
岡城址までは上り坂で少々距離があるので後に車で行くことにした。
広瀬神社というのは、日露戦争における旅順港封鎖に水雷艇で活躍し、行方不明の部下を探しに行って敵弾により戦死した広瀬武夫少佐(死後、中佐に)を祀る神社である。
以前、長崎県千々石海岸のところで書いた橘中佐も日露戦争の遼東半島・首山堡で戦死して軍神となっている。
乃木大将、東郷元帥などから真珠湾攻撃における特殊潜航艇(人間魚雷)の兵士など、一体何人の軍神がいるのか知らないが、日本人の『神観』、旧日本軍の『神観』というもの、イマイチ理解できないものが含まれる。
いずれゆっくり考えてみることにしよう。
広瀬神社から竹田の町を西へ向かうと、大正公園という小高い山の麓に苔むした長い石段のある場所に出る。(上の写真)
長い石段は自然の岩盤の上に敷かれたものらしく、右手に高く積み上げられた石段の上に観音寺がある。
上の写真の右手前に石積みの部分があるが、それの右手にあるのが下の写真の十六羅漢である。
自然の岩盤の上に16人の石造羅漢が、それぞれの表情と姿勢で座っているのである。
雨でよく滑る不揃いになった石段を上りきったところに観音寺があり、そこに石積みの上に木造の円通閣という祈念所(と聞いたが)が参詣道に沿って建っている。
中国の寒山寺を模して建てられたというが、蘇州・寒山寺のことであろう。
唐の時代の張継・作『楓橋夜泊』
月落烏啼霜満天
江楓漁火対愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘声到客船
私は蘇州・寒山寺へ行ったことがないので分からないが、竹田の町を姑蘇、つまり蘇州の町に見立てるということなのだろうか。 黒っぽい石の間に白い石灰で目詰めをした石垣の上に、まだ新しい板木を打ち付けただけのような円通閣からは漢詩にイメージされるような寒山寺は思い浮かんでこなかった。
この参詣道を更に進むとUターンをするようにして円通閣の上にあたる平地に出る。
そこに建っているのが下の愛染堂である。
岡藩2代藩主・中川久盛が1635年(寛永12)に建立し、本尊として愛染明王を祀ったことから愛染堂と呼ばれている。
中川久盛が日光東照宮の造営奉行をしていた時の飛騨の匠を連れ帰り建てさせたもので、軒下で四方に張った垂木の先には飛騨の職人の技により天邪鬼などが見事に彫り込まれている。
濡れた石段を滑らないように下りて戻ったのだが、力が入っていたのであろうか、通常でも負担が大きい下りの石段の途中から膝がガクガク笑い始めて困ってしまった。
観音寺の石段を下りて直ぐのところに『茶房御客屋』という白い漆くい塀に囲まれた古い建物があるが、これは岡藩の迎賓館であったらしい。
そこを過ぎて暫く行くと豊音寺の古めかしい二層の楼門 を見ることができる。 これは江戸末期の1849年に建てられたものらしい。
豊音寺の前の辻を折れて進んだ小路に沿って昔は武家屋敷であったらしい建物が並び、そのうちの1軒が滝廉太郎の旧宅で記念館として公開されている。
この記念館から少しのところで左手への小道があり、道路の下をくぐる短いトンネルに続いているが、このトンネルの名前が滝廉太郎トンネル。
名士の名前を冠することはよくあるが、これはチョット興ざめ。ミーちゃんハーちゃんは喜ぶかもしれないが・・・
もっとも、ミーちゃんハーちゃんが滝廉太郎を知っているかどうか。
以前、九州・柳川へ若いお嬢さんたちを連れて行ったことがあった。
勿論、どこぞの現役女子大生というお馬鹿さんではなく20代の社会人であったが、「柳川は北原白秋の生家があり、彼はこの地で育ったんだ」と私が言っても、「えっ?誰、そんな人知らん」だと。
そこで『からたちの花』『待ちぼうけ』『この道』『城ヶ島の雨』と歌って聞かせても、「えーー、そんなん知らん」と、この時は驚き、呆れ、怒ることも忘れて何とも侘しい気持ちになり暫くショックから立ち直れずにいたことがあった。
それはともかく、このトンネルでは私が歌うこともなく誰かが通れば滝廉太郎作曲のメロディーが流れる仕組みになっている。
もともとは酒蔵だったらしいが、このトンネルを抜けると市立歴史博物館である。
竹田・いい町である。
記述が竹田城址とあと先になってしまったが、竹田の町の散策は歴史資料館から始まったのである。
館には駐車場も設置されていたので旧の街中散策は車を駐車させてもらって巡る事にした。(他に観光する人たちがいなかったため駐車場がガラ空きだったから)
昼時であったためか資料館にスタッフもいず、私達だけでじっくり観覧させて頂いた。
1階は竹田市の縄文弥生期よりの説明と展示、岡城に関する説明や岡城の立体模型や武具の展示、キリシタンに関する展示と説明、2階には田能村竹田らの書画などが展示されており、竹田市の歴史的概観を知るには良い施設である。
事前に調べたところでは入館料が必要だったように思うが、受付スタッフも学芸員もいず、入場料を支払うシステムを発見出来ずにタダで見せて頂いたのが少々気がかりのままでいるが、貴重な展示品を無人の状態で置いておくのはどうも・・・これも気になったことである。
私が心配するようなことのない日本の世の中であれば良いのだが・・・
それはそうと竹田市の竹田は通常『たけだ』とよむが、ここの場合は『たけた』なのだ。今回訪れて竹田市(たけたし)であることを初めて知った。
竹田の町は四方を山に囲まれた小さな盆地であり、旧の城下町は北側に大野川が流れ、その向こうに山並みが、東側の山に岡城、西側と南側も山並みがつづくが、この市立歴史資料館は南側の山に接した位置にある。
上の写真は歴史資料館の駐車場南側の山に接して建つ旧竹田荘で、江戸時代の南画の画家・田能村竹田(たのむらちくでん)の住居である。
田能村竹田は岡藩の藩医の家に生まれ、藩校・由学館の学頭を務めたほどの教養家で、各地を巡ってその土地の文人たちと交流しつつ南画を描いてきた。
南画、南宗画とも言うが、北宗画と合わせて中国山水画の二大流派のひとつであり、日本では江戸時代中期頃より描く人が出てきている。
池大雅や与謝蕪村などは南宗画を描いたし、雪舟や狩野派の山水画は北宗画に分類される。例となる絵を見比べれば特徴がハッキリするが、文人画とも呼ばれる池大雅の画風と山水画の雪舟の絵を想起すれば違いは分かるかと思う。 歴史資料館に田能村竹田の作品が沢山展示されていたのだが写真撮影が原則的に禁止なので撮影していない。
この旧竹田荘も武家屋敷群のひとつである。そして、この写真の道は城下の町を見下ろすように山の斜面の小高い場所を縫うように続き、やがて下の写真のような武家屋敷の塀が連なる道に至る。
表構えが武家屋敷然としているだけで塀内の住居は現代様であるが、行き交う人もなく雨に濡れた通りはしっとりと落ち着いた風情を醸し出していた。
この武家屋敷跡の道を少しばかり山手に上っていくと山の崖面を削って造られたキリシタン洞窟礼拝堂(写真下)が樹々の陰に見えてくる。
凝灰岩をくり抜かれた洞窟で照明もなく湿気が多いのか内部は白いガスがかかり、よくは見えなかったが正面に十字架が彫られ、その手前に木製の結界のような横木がある2坪有るか無いかといった程度の礼拝堂であった。
窓扉のようなものは白い塗料が塗られているが、明治以前には無かったものであろうし、石段も設置されていたが、多分昔は石段も白色の窓扉も、この礼拝堂に至る道なども無く木々が生い茂っていたのではないだろうか。
写真の礼拝堂右手に白い棒が立っている辺り、礼拝堂程度でドームを半分にしたように崖面が窪んだ所がある。 やっと雨を防げるといった程度の場所であるが、そこに神父が寝起きしていたらしい。
まるで石器時代の穴居生活に等しいものであったように思える。
豊後・岡藩もキリスト教信仰が盛んであったらしいが、島原の乱以降各地でキリスト教弾圧が行われた二百数十年ばかり、当然岡藩でも幕命により厳しくキリシタン取締りが行われたはずだが、この洞窟礼拝堂が武家屋敷の通りからそう遠くない場所にあったことは何とも不思議なことである。
ここから下るように郵便局へ歩いて行くと右手に広瀬神社と岡城址へ向かうトンネルがある。
岡城址までは上り坂で少々距離があるので後に車で行くことにした。
広瀬神社というのは、日露戦争における旅順港封鎖に水雷艇で活躍し、行方不明の部下を探しに行って敵弾により戦死した広瀬武夫少佐(死後、中佐に)を祀る神社である。
以前、長崎県千々石海岸のところで書いた橘中佐も日露戦争の遼東半島・首山堡で戦死して軍神となっている。
乃木大将、東郷元帥などから真珠湾攻撃における特殊潜航艇(人間魚雷)の兵士など、一体何人の軍神がいるのか知らないが、日本人の『神観』、旧日本軍の『神観』というもの、イマイチ理解できないものが含まれる。
いずれゆっくり考えてみることにしよう。
広瀬神社から竹田の町を西へ向かうと、大正公園という小高い山の麓に苔むした長い石段のある場所に出る。(上の写真)
長い石段は自然の岩盤の上に敷かれたものらしく、右手に高く積み上げられた石段の上に観音寺がある。
上の写真の右手前に石積みの部分があるが、それの右手にあるのが下の写真の十六羅漢である。
自然の岩盤の上に16人の石造羅漢が、それぞれの表情と姿勢で座っているのである。
雨でよく滑る不揃いになった石段を上りきったところに観音寺があり、そこに石積みの上に木造の円通閣という祈念所(と聞いたが)が参詣道に沿って建っている。
中国の寒山寺を模して建てられたというが、蘇州・寒山寺のことであろう。
唐の時代の張継・作『楓橋夜泊』
月落烏啼霜満天
江楓漁火対愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘声到客船
私は蘇州・寒山寺へ行ったことがないので分からないが、竹田の町を姑蘇、つまり蘇州の町に見立てるということなのだろうか。 黒っぽい石の間に白い石灰で目詰めをした石垣の上に、まだ新しい板木を打ち付けただけのような円通閣からは漢詩にイメージされるような寒山寺は思い浮かんでこなかった。
この参詣道を更に進むとUターンをするようにして円通閣の上にあたる平地に出る。
そこに建っているのが下の愛染堂である。
岡藩2代藩主・中川久盛が1635年(寛永12)に建立し、本尊として愛染明王を祀ったことから愛染堂と呼ばれている。
中川久盛が日光東照宮の造営奉行をしていた時の飛騨の匠を連れ帰り建てさせたもので、軒下で四方に張った垂木の先には飛騨の職人の技により天邪鬼などが見事に彫り込まれている。
濡れた石段を滑らないように下りて戻ったのだが、力が入っていたのであろうか、通常でも負担が大きい下りの石段の途中から膝がガクガク笑い始めて困ってしまった。
観音寺の石段を下りて直ぐのところに『茶房御客屋』という白い漆くい塀に囲まれた古い建物があるが、これは岡藩の迎賓館であったらしい。
そこを過ぎて暫く行くと豊音寺の古めかしい二層の楼門 を見ることができる。 これは江戸末期の1849年に建てられたものらしい。
豊音寺の前の辻を折れて進んだ小路に沿って昔は武家屋敷であったらしい建物が並び、そのうちの1軒が滝廉太郎の旧宅で記念館として公開されている。
この記念館から少しのところで左手への小道があり、道路の下をくぐる短いトンネルに続いているが、このトンネルの名前が滝廉太郎トンネル。
名士の名前を冠することはよくあるが、これはチョット興ざめ。ミーちゃんハーちゃんは喜ぶかもしれないが・・・
もっとも、ミーちゃんハーちゃんが滝廉太郎を知っているかどうか。
以前、九州・柳川へ若いお嬢さんたちを連れて行ったことがあった。
勿論、どこぞの現役女子大生というお馬鹿さんではなく20代の社会人であったが、「柳川は北原白秋の生家があり、彼はこの地で育ったんだ」と私が言っても、「えっ?誰、そんな人知らん」だと。
そこで『からたちの花』『待ちぼうけ』『この道』『城ヶ島の雨』と歌って聞かせても、「えーー、そんなん知らん」と、この時は驚き、呆れ、怒ることも忘れて何とも侘しい気持ちになり暫くショックから立ち直れずにいたことがあった。
それはともかく、このトンネルでは私が歌うこともなく誰かが通れば滝廉太郎作曲のメロディーが流れる仕組みになっている。
もともとは酒蔵だったらしいが、このトンネルを抜けると市立歴史博物館である。
竹田・いい町である。
at 20:20|Permalink│
December 06, 2008
九州への旅・・・25 竹田城址
阿蘇山一帯ではもっと時間を取りたかったのだが、雨がひどくて仕方なく急ぎ、阿蘇神社に立ち寄っただけで国道57号線を竹田盆地へ下って行くことにした。
40数年前に観光バス、確か『亀の井』だったと記憶するが、時間と旅程の都合で通過するだけに終わった竹田城址。 今回は私自身が立ち寄りたかったし、家内も希望していたので楽しみにしていた訪問地である。 豊後竹田は『荒城の月』を作曲した滝廉太郎の出身地である。
春高楼の花の宴
巡る盃かげさして
千代の松が枝わけ出でし
昔の光いまいずこ
秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照りそいし
昔の光いまいずこ
やったかなあ・・・
土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲『荒城の月』やが、あとの歌詞は忘れてしもうた。
詩に詠まれ、メロディーを添えられた『荒城の月』の舞台となった城が岡城址であると教わったのは中学生の時であった。
が、後に土井晩翠の出自、業績を知るに及び、中学時代の音楽の先生の説明は不充分であったと思い至った。
土井晩翠は仙台の出身であり、第二高等学校から東京帝大に学び、その後に母校である二高の教授を務めており大分県竹田の岡城址との結び付きが無かったのである。
『荒城の月』の詩は東京・上野の東京音楽学校(現・東京芸大)が土井晩翠に作詩を依頼し、それに滝廉太郎が曲をつけたもので、この2人に共通するものを発見出来なかったという記憶がある。
強いて言えば土井晩翠は仙台・青葉城址、滝廉太郎が大分・竹田城址を知っていたというだけであった。 更に後のことになるが、土井晩翠は福島県・会津の鶴ヶ城をイメージして書いたということを知り、2人の共通項がこれらの城跡にあると理解したのは随分後になってのことであった。
石垣だけの朽ち果てた城に往時の武士(もののふ)達の気概に思いを致しながら『荒城の月』を諳んじてみれば、土井晩翠の滝廉太郎の、彼らの思いと何か通じ合うような雨に煙る岡城址であった。
『荒城の月』・・・
七五調の素晴らしい詩であると思う。
七五調と言えば旧制の寮歌にも多い。
私は新制なので旧制時代は知らないが、先生達の多くが旧制高校から帝大(新制の大学も)時代の方達だったのでコンパなどでは共によく歌った。
よく聞かされたのは、♪紅萌ゆる 岡の花 早緑匂う 岸の色 都の空に うそぶけば 月こそかかれ 吉田山♪ だが、これも韻文詩。
私が好んで歌っていたのは、
妻を娶らば 才たけて
みめ麗しく 情あり
友を選ばば 書を読みて
六分の侠気 四分の熱
恋の命を 尋ぬれば
名を惜しむかな 男の子ゆえ
友の情けを 尋ぬれば
義のあるところ 火をも踏む
噫我ダンテの 奇才なく
バイロン、ハイネの 熱なきも
石を抱きて 野にうたう
芭蕉の寂を 喜ばず
こんな歌詞だったろうか、何十年も歌わなかったら忘れてしまった。
思い出せた歌詞も好い加減だが、それも気に入っていた部分だけ。 確かもっと長く書かれた詩であったが・・・、与謝野鉄幹についてはあまり好みの人ではないが、『人を恋うる歌』だったか、この詩はメロディーに馴染みがあったこともあってよく歌った。
石垣に囲まれた岡城址の鄙びた石段を上りつめた本丸跡に写真の滝廉太郎の像が建てられている。
この像は彫刻家・朝倉文夫の作品である。 以前に東京音楽学校奏楽堂に建つ滝廉太郎の像を紹介したが、この本丸跡のものと同じ塑像による作品であると思う。
また、大分市の府内城址の近くにある遊歩公園に朝倉文夫や北村西望の彫刻作品が建てられているが、そこにある滝廉太郎像も同じ塑像による作品であると思う。
これら以外にもあるのかもしれないが、私が知る限り3体ということになる。
終わりに付け加えて一言。
岡城址は国指定史跡であるが、所有・管理者は竹田市なのだろうか、観覧料(300円)の領収書として竹田市教育委員会発行の登城手形(紙製の荷札のような)を頂いた。
が、これはいずれの施設でも発行するべき領収書と見れば良い。
だが、私が書きたいのは、この領収書以外に『岡城址』という“巻物”を頂いたことである。
説明のパンフレットの代わりに“巻物”。
この“巻物”は岡城の築城、登城、歴史の説明に加え、土井晩翠揮毫の『荒城の月』歌詞入りの岡城宝暦の絵図、岡城の等高線図と概観図が印刷され、丸木に巻かれた小さな掛け軸状になったものなのである。
これの内容は勿論、発想がユニークで大変良いと思った。
手間と費用がかかるものと思うが、是非継続されるよう期待をもってひと言書き加えておきたい。
40数年前に観光バス、確か『亀の井』だったと記憶するが、時間と旅程の都合で通過するだけに終わった竹田城址。 今回は私自身が立ち寄りたかったし、家内も希望していたので楽しみにしていた訪問地である。 豊後竹田は『荒城の月』を作曲した滝廉太郎の出身地である。
春高楼の花の宴
巡る盃かげさして
千代の松が枝わけ出でし
昔の光いまいずこ
秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照りそいし
昔の光いまいずこ
やったかなあ・・・
土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲『荒城の月』やが、あとの歌詞は忘れてしもうた。
詩に詠まれ、メロディーを添えられた『荒城の月』の舞台となった城が岡城址であると教わったのは中学生の時であった。
が、後に土井晩翠の出自、業績を知るに及び、中学時代の音楽の先生の説明は不充分であったと思い至った。
土井晩翠は仙台の出身であり、第二高等学校から東京帝大に学び、その後に母校である二高の教授を務めており大分県竹田の岡城址との結び付きが無かったのである。
『荒城の月』の詩は東京・上野の東京音楽学校(現・東京芸大)が土井晩翠に作詩を依頼し、それに滝廉太郎が曲をつけたもので、この2人に共通するものを発見出来なかったという記憶がある。
強いて言えば土井晩翠は仙台・青葉城址、滝廉太郎が大分・竹田城址を知っていたというだけであった。 更に後のことになるが、土井晩翠は福島県・会津の鶴ヶ城をイメージして書いたということを知り、2人の共通項がこれらの城跡にあると理解したのは随分後になってのことであった。
石垣だけの朽ち果てた城に往時の武士(もののふ)達の気概に思いを致しながら『荒城の月』を諳んじてみれば、土井晩翠の滝廉太郎の、彼らの思いと何か通じ合うような雨に煙る岡城址であった。
『荒城の月』・・・
七五調の素晴らしい詩であると思う。
七五調と言えば旧制の寮歌にも多い。
私は新制なので旧制時代は知らないが、先生達の多くが旧制高校から帝大(新制の大学も)時代の方達だったのでコンパなどでは共によく歌った。
よく聞かされたのは、♪紅萌ゆる 岡の花 早緑匂う 岸の色 都の空に うそぶけば 月こそかかれ 吉田山♪ だが、これも韻文詩。
私が好んで歌っていたのは、
妻を娶らば 才たけて
みめ麗しく 情あり
友を選ばば 書を読みて
六分の侠気 四分の熱
恋の命を 尋ぬれば
名を惜しむかな 男の子ゆえ
友の情けを 尋ぬれば
義のあるところ 火をも踏む
噫我ダンテの 奇才なく
バイロン、ハイネの 熱なきも
石を抱きて 野にうたう
芭蕉の寂を 喜ばず
こんな歌詞だったろうか、何十年も歌わなかったら忘れてしまった。
思い出せた歌詞も好い加減だが、それも気に入っていた部分だけ。 確かもっと長く書かれた詩であったが・・・、与謝野鉄幹についてはあまり好みの人ではないが、『人を恋うる歌』だったか、この詩はメロディーに馴染みがあったこともあってよく歌った。
石垣に囲まれた岡城址の鄙びた石段を上りつめた本丸跡に写真の滝廉太郎の像が建てられている。
この像は彫刻家・朝倉文夫の作品である。 以前に東京音楽学校奏楽堂に建つ滝廉太郎の像を紹介したが、この本丸跡のものと同じ塑像による作品であると思う。
また、大分市の府内城址の近くにある遊歩公園に朝倉文夫や北村西望の彫刻作品が建てられているが、そこにある滝廉太郎像も同じ塑像による作品であると思う。
これら以外にもあるのかもしれないが、私が知る限り3体ということになる。
終わりに付け加えて一言。
岡城址は国指定史跡であるが、所有・管理者は竹田市なのだろうか、観覧料(300円)の領収書として竹田市教育委員会発行の登城手形(紙製の荷札のような)を頂いた。
が、これはいずれの施設でも発行するべき領収書と見れば良い。
だが、私が書きたいのは、この領収書以外に『岡城址』という“巻物”を頂いたことである。
説明のパンフレットの代わりに“巻物”。
この“巻物”は岡城の築城、登城、歴史の説明に加え、土井晩翠揮毫の『荒城の月』歌詞入りの岡城宝暦の絵図、岡城の等高線図と概観図が印刷され、丸木に巻かれた小さな掛け軸状になったものなのである。
これの内容は勿論、発想がユニークで大変良いと思った。
手間と費用がかかるものと思うが、是非継続されるよう期待をもってひと言書き加えておきたい。
at 10:13|Permalink│
December 05, 2008
九州への旅・・・24 阿蘇神社
阿蘇中岳火口を見ている途中から吹き降りになってきたので慌てて車に戻る事にした。
10月初めとは言え1000mの高さで雨に濡れ強風に吹かれるとやはり寒い。
車の中で温まってから山を下りて行ったが、ガスが一層ひどく運転がしずらい状況が続いた。
国道57号線に出ても雨が降り続いていたが、折角なので肥後一の宮の阿蘇神社にお参りして行く
事にした。
阿蘇神社は肥後一の宮と呼ばれるように肥後の国では第一位の由緒ある神社である。
上の写真は日本三大楼門のひとつに数えられているものらしいが、楼門が2階建てになっている大きいものだ。
二層楼山門式と呼ぶ様式であるが、私は阿蘇神社に来たのにお寺と間違えたかと思いつつ楼門手前の駐車場に車を止めた。
日本三大楼門というのは、この阿蘇神社の楼門のほか、福岡県の箱崎宮と茨城県の鹿島神社のものを入れるらしい。 私は鹿島神社の楼門を知らないが、箱崎宮の楼門は確かに立派なものであった。
この楼門は1849年(弘化2)に建てられたものらしいが、アメリカやイギリスの船が日本沿岸にしきりとやって来ていた幕末のころのことである。
遠景の写真では大きさも分かりにくいが、下の写真は楼門下部を撮ったもので、身長160cmばかりの家内をスケールとして見れば大きさが想像できよう。
楼門の高さは21mもあるらしい。
それだけに阿蘇神社の扁額も大きいものであった。
有栖川熾仁親王御染筆とあるので親王も参拝されたのであろう。
熾仁(たるひと)親王と言えば、NHKのドラマ『篤姫』に出て来る将軍・徳川家茂に降嫁した皇女・和宮(後に静寛院)の許婚で、江戸攻めの官軍の総大将を務めた人物である。
楼門をくぐると正面に阿蘇式と呼ばれる建築様式で総欅の白木造りの社殿がある。
阿蘇神社は孝霊天皇の9年に健磐龍命の子で、初代の阿蘇国造となった国造速瓶玉命(阿蘇都比古命)が両親を祀ったことに由来すると資料にはある。
ただ、このことを否定するつもりは無いが、孝霊(こうれい)天皇は古事記に挙げられている第七代天皇。
古事記というのは天武天皇(673~686)が稗田阿礼に誦習させたものを元明天皇(708~714)の指示によって太安万侶が撰録し、712年に作業を終えた天皇中心の日本統一の物語である。
私が小さかった頃、『神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神、垂仁、景行・・・』などと歴代天皇の名前を暗誦していたのが今でも口をついて出てくるが、古事記上巻は『天地開闢から以後』、中巻が『神武天皇から応神天皇まで』、下巻が『仁徳天皇から推古天皇まで』のことについて稗田阿礼が暗誦したことについて記載されているのである。
文字文化の無かった上古時代にあって口づてに伝承されてきたことは仕方のないことであるが、当然間違いも多かろうし、政権の安定していなかった時期でもあり、立場の違いで180度観点の違うことを口承することも可能であったことも考え合わせれば、古事記を歴史書とするには難しく、やはり神話、物語とするのが妥当であると私は考える。
勿論、古事記の全てを否定するものではなく、中国の史書にも記載されている事柄については、その客観性という面での信頼性はあるものと考えている。
ただ、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代については、欠史八代としてその拠り所、客観的証明ということも難しく架空の天皇ではと考えられている。
孝霊天皇は第7代天皇にあたるので、阿蘇神社の創建が孝霊天皇の9年というのには、そのまま受け止めることは出来ないと考えるのである。
しかしながら、平安時代の927年に完成した延喜式には肥後の国三座として阿蘇神社が記録されているので、当然それ以前に神社としての性格を備えたものはあったはずで、歴史的には古い由緒ある神社であることに違いはない。
祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)を主祭神に、妃である阿蘇都媛命(あそつひめのみこと)など12神が祀られている。
健磐龍命は、神武天皇の子・神八井命(かむやいみみのみこと)の子どもであり、神武天皇の死後、綏靖天皇が承継即位するまでの権力争いのお話はオモロイものである。
漢文表記の古事記はシンドサが先に立つが、自分が実際に訪れ見聞したことに関わる記述はお話として読むに楽しいものである。
どしゃ降りの雨の中での阿蘇神社、勿論キチンと参拝させて頂いたことは書いておかねばならない。
10月初めとは言え1000mの高さで雨に濡れ強風に吹かれるとやはり寒い。
車の中で温まってから山を下りて行ったが、ガスが一層ひどく運転がしずらい状況が続いた。
国道57号線に出ても雨が降り続いていたが、折角なので肥後一の宮の阿蘇神社にお参りして行く
事にした。
阿蘇神社は肥後一の宮と呼ばれるように肥後の国では第一位の由緒ある神社である。
上の写真は日本三大楼門のひとつに数えられているものらしいが、楼門が2階建てになっている大きいものだ。
二層楼山門式と呼ぶ様式であるが、私は阿蘇神社に来たのにお寺と間違えたかと思いつつ楼門手前の駐車場に車を止めた。
日本三大楼門というのは、この阿蘇神社の楼門のほか、福岡県の箱崎宮と茨城県の鹿島神社のものを入れるらしい。 私は鹿島神社の楼門を知らないが、箱崎宮の楼門は確かに立派なものであった。
この楼門は1849年(弘化2)に建てられたものらしいが、アメリカやイギリスの船が日本沿岸にしきりとやって来ていた幕末のころのことである。
遠景の写真では大きさも分かりにくいが、下の写真は楼門下部を撮ったもので、身長160cmばかりの家内をスケールとして見れば大きさが想像できよう。
楼門の高さは21mもあるらしい。
それだけに阿蘇神社の扁額も大きいものであった。
有栖川熾仁親王御染筆とあるので親王も参拝されたのであろう。
熾仁(たるひと)親王と言えば、NHKのドラマ『篤姫』に出て来る将軍・徳川家茂に降嫁した皇女・和宮(後に静寛院)の許婚で、江戸攻めの官軍の総大将を務めた人物である。
楼門をくぐると正面に阿蘇式と呼ばれる建築様式で総欅の白木造りの社殿がある。
阿蘇神社は孝霊天皇の9年に健磐龍命の子で、初代の阿蘇国造となった国造速瓶玉命(阿蘇都比古命)が両親を祀ったことに由来すると資料にはある。
ただ、このことを否定するつもりは無いが、孝霊(こうれい)天皇は古事記に挙げられている第七代天皇。
古事記というのは天武天皇(673~686)が稗田阿礼に誦習させたものを元明天皇(708~714)の指示によって太安万侶が撰録し、712年に作業を終えた天皇中心の日本統一の物語である。
私が小さかった頃、『神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神、垂仁、景行・・・』などと歴代天皇の名前を暗誦していたのが今でも口をついて出てくるが、古事記上巻は『天地開闢から以後』、中巻が『神武天皇から応神天皇まで』、下巻が『仁徳天皇から推古天皇まで』のことについて稗田阿礼が暗誦したことについて記載されているのである。
文字文化の無かった上古時代にあって口づてに伝承されてきたことは仕方のないことであるが、当然間違いも多かろうし、政権の安定していなかった時期でもあり、立場の違いで180度観点の違うことを口承することも可能であったことも考え合わせれば、古事記を歴史書とするには難しく、やはり神話、物語とするのが妥当であると私は考える。
勿論、古事記の全てを否定するものではなく、中国の史書にも記載されている事柄については、その客観性という面での信頼性はあるものと考えている。
ただ、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代については、欠史八代としてその拠り所、客観的証明ということも難しく架空の天皇ではと考えられている。
孝霊天皇は第7代天皇にあたるので、阿蘇神社の創建が孝霊天皇の9年というのには、そのまま受け止めることは出来ないと考えるのである。
しかしながら、平安時代の927年に完成した延喜式には肥後の国三座として阿蘇神社が記録されているので、当然それ以前に神社としての性格を備えたものはあったはずで、歴史的には古い由緒ある神社であることに違いはない。
祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)を主祭神に、妃である阿蘇都媛命(あそつひめのみこと)など12神が祀られている。
健磐龍命は、神武天皇の子・神八井命(かむやいみみのみこと)の子どもであり、神武天皇の死後、綏靖天皇が承継即位するまでの権力争いのお話はオモロイものである。
漢文表記の古事記はシンドサが先に立つが、自分が実際に訪れ見聞したことに関わる記述はお話として読むに楽しいものである。
どしゃ降りの雨の中での阿蘇神社、勿論キチンと参拝させて頂いたことは書いておかねばならない。
at 14:09|Permalink│