March 2009

March 31, 2009

久し振りの『博多・紀行』 続き【10】 福岡市史刊行への期待

私が博多を訪れる目的については既に書いてきたが、目的とは言えないまでも知りたい見たいという願望を幾つか持っている。

人間が知りたいとか見たいといった欲求を抱くには、その前段で不思議だと思ったり、どうして、何故といったモチベーションが必要である。

旅行するという行為そのものが目的となる場合もあろうが、一般的には旅行するという行為はオブジェクトではなく、それを得る、或いは欲求を満足させるための手段であることが通常であるように私は考える。

つまり、どこそこの素晴らしい景色を見たいという欲求、勿論こうした欲求が起こるには様々な動機や誘因といったものが先行条件としてあるのだが、そうした欲求を満足させるための方法であり手段というのが旅行であるというわけだ。

私について言えば、博多を訪れたのは20回や30回ではきかない。

その度毎に新しい発見をし、新しい知識を得、それらが過去に学習した様々な知識と結び合い絡み合って記憶され、それらが新たな疑問を生じさせて見てみよう調べてみようというように発展的に新たな意欲につながっていくものである。

私の場合そうした意欲に基づいて、博多の町で、或いは博多を基点にして他の町へと行動してきた。

ここで他の町へ行くということは、そこに目的が発生したわけであり、その目的の解を得る手段として博多からの旅行という手段をとったということになるのである。

例えば、江戸時代の鎖国下にあった日本では長崎の出島が外国との交渉における唯一の窓口であったが、現代のように交通機関が発達していなかった当時、江戸を中心に五街道が整備されていたことは小学生でも知っている。

だから、江戸・京の間を東海道が整備されていたが、では、京から長崎・出島まではどうなっていたのかという疑問については残念ながら中学、高校でも詳しくは指導しない。

地方史や郷土史といった部分で、当該地域の学校では取り上げているところも多いと聞いてはいるが・・・

つまり五街道に連結、連絡する道路があり、京・大坂間には京街道があり、大坂から下関へは海路と陸路、その陸路は山陽道であり、現在の福岡県・小倉から長崎県の出島へは長崎街道があった。

長崎街道は脇往還(脇街道)と呼ばれる重要な道で、小倉から黒崎、飯塚など筑前六宿を結び、佐賀から出島に至るのだが、いったいどのような道なのか疑問に思ったので往時の風情を残す場所を探して歩いたことがある。

その他にも沢山あるのだが、博多の町中を例に取れば、いつも訪れる中洲はいつ頃から現在のような中島として形成されたのか、地理的にも地学的にも興味が湧き、那珂川や他の博多へ流れ込んでいる川や地層に興味を抱いて文献を調べてた時に『福岡県西方沖地震』が起きた。

4年ほど前やったかなあ、確か3月やった。

玄海島の人たちが避難して来て、気の毒に長浜のプレハブに長いこと住んではった。

しかし、この地震によって以前より存在が推定されていた断層が警固断層と命名され、天神凹地の数本にわたる地溝や更なる断層の存在がほぼ確定されてきている。

それに博多は大陸との交流の歴史も古い。

邪馬台国論争に参加しようとは思わないが、それよりも遥かに古い中国の後漢時代に奴国より後漢へ使者を派遣したことについて『漢倭奴國王』の金印が授けられたことが後漢書に出ているし、その金印が志賀島で発見されてもいる。

現在の地名にも『那の津』があるが、これは日本書紀にも記述されている。

こうしたことを結び付けながら考えていくと、古い歴史を持つ博多の歴史はなかなか面白く、博多を訪れる目的とまで言わないにしても博多を訪れたついでに見てみよう訪ねてみようという欲求が湧いてくる。

今年は福岡市史が刊行されるらしい。

どのような配本計画なのかは知らないが多大なる興味と関心を持って待っているのだ。

きっと、更なる欲求を生み出させてくれるであろうと・・・。


at 08:37|Permalink

March 30, 2009

久し振りの『博多・紀行』 続き【9】 春吉『久岡家『と『花』

まったく楽しい食事であった。

魚の刺身には日本酒がピッタリだが、脂っ気の多いクジラには芋焼酎『佐藤黒』がよく合った。

飲めば飲むほどに酔えば酔うほどに、カチンコチンに固まっていた息子も娘も上気し、舌が滑らかになっていった。

博多に住んでいても食べたことがなかったというアラ(クエ)やクジラを口にして、娘2人もどんどん饒舌になり、もっとも緊張していたAちゃんも打ち解けて下の写真のようにピース・ポーズをとるまでになった。
4c863ae5.jpg

写真の料理は八寸として出されたものだが、海のもの山のものを取り混ぜ料理人としての遊び心を上手に盛り合わせてあった。

春を感じさせるものとしてアゲマキ(揚巻貝)も盛られていた。
a9e27b01.jpg

アゲマキというのは長さにして8cmから10cm程度の二枚貝であり、比較的塩分の少ない有明海のような海底の泥の中に生息するもので、特徴としては2つの水管を持っている。

5月頃まで有明海産のアゲマキが博多の料理屋や屋台でよく出される。

私は形の上からアゲマキをマテガイだと思っていたのだが、どうも違うものらしい。
a80a0925.jpg

上は図鑑の写真のようであるが、銀寿司のヤン坊が送ってくれたアゲマキの身と貝殻の写真であり、貝殻の表面の色や二裂した水管もよく分かる。

食べるのに飲むのに、そして、おしゃべりするのに夢中になって写真を撮るのを忘れてしまっていたが、メインのアラ(クエ)鍋となった。

かなり大きいアラ(クエ)であったろう。 

初めに大きい土鍋で煮立った出し汁の中に店の女性(若い人達ばかり)がブツ切りにしたアラの頭部を入れてくれたが、多分10kg程度はあったと思う。

アラ、和歌山ではクエと呼ぶが、海底が磯(岩礁)になっている深い海に住むハタ科の魚である。

随分昔、30数年前になるが友人の実家がある日高郡由良町へ寄せてもらった折に、ひと抱えもある馬鹿でかいクエを見たことがあった。

当時、私が知っている大きい魚は12kgのブリであったが、それの3倍ほどもあるクエで、50人が食べても充分であると聞かされていた。

今回の鍋に入れられたアラの唇の部分の一部を見ただけでも、その大きさを想像出来るのは何度かアラの全体像を見てきているので記憶の中で比較出来るからなのである。

アラの身は脂が乗っていても白身で案外アッサリとしたものであり、分厚い口唇部分はゼラチン状、つまり女性に人気のコラーゲンがたっぷり含まれて美味しいのである。

それに、アラはヒレ以外、内臓までほとんど全てを食べることのできる魚であり、大相撲九州場所が開催される時期には相撲取りたちが好んで食べるので一般の私達に回るものが無くなる魚でもある。

何より漁獲数が少なく『幻の魚』と呼ばれる所以である。
19c7562e.jpg

満腹感に溢れるY子と私をT君が撮ってくれたが、もともと満腹の私の腹部を撮らなかったところはT君の気配り優しさと言うべきか。

芋焼酎『佐藤黒』も2本目を少し残すまで飲んだ。

祝いの席、祝いの酒というのは良いものだ。

T君とAちゃんが、互いに互いを認め合って一緒に暮らそうと決めたのだから、これに勝ることはない。

バカな芸能人たちの轍を踏むことの無いようにな。

先ずは2人に「おめでとう」。

Y子も早く嫁に行かさないと。 四十路を歩むようになると難しいさかいにな。
9db6afc2.jpg

久岡家(写真右手の暖簾の店)を出て筋向いの『花』に寄る。

ここのママは私のお気に入り。

ママと私が入れ替われば嬉しいが・・・ぶっはははは。 なかなか素敵な女性でTさんという。

ここも銀寿司のヤン坊が紹介してくれたのだが、落ち着いて飲める雰囲気の店である。

2階はグループの客たちがワイワイ勝手に飲む場所になっているようだが私は上がったことがないので知らない。

1階はL字型のバーカウンター。

カラオケがセッティングされているので歌う客もいるが、客層は大人しいように思う。

うるさく感じられる時には、どんな店でも私は退散することにしているが、これまでのところ、そうした状況はない。

ここにも芋焼酎『佐藤黒』が置いてある。 この酒はロックが旨い。

この夜も気持ち良く酔い、那珂川の川面を吹く風が頬に心地良かった。


at 16:16|Permalink

久し振りの『博多・紀行』 続き【8】 春吉『久岡家『と『花』

博多行きのもうひとつの目的は食べることと飲むことであった。

前ページでも書いた通り、長浜の屋台・『安さん』の所からホテルのベッドで目覚めるまでの間の記憶が欠落しているのである。

しかし別に悪いことをしてきたわけでないのは昨夜着ていた服が汚れも無くキチンとハンガーに掛けられていることや、必ず飲まねばならない薬も服用したことが証拠として包装部分が残っていたことでハッキリしていた。

ところがT君と食事をしようと約束していたことを忘れていたのだろう、この日、Y子とのデートを昼過ぎに約束してしまっていた。

前に書いたビクトリアに勤めるY子のことである。

何とも恥ずかしいことであるが、今更取り消すことも出来ずにダブルデートすることにした。

食事場所は春吉の『隠(かくれ)・台所 久岡家』。

以前より『銀寿司』のヤン坊から聞いていた店だが、いくらお腹が大きいと言ってもお腹が2つも3つもあれば別だが、午後6時から午後11時の間に何軒も食べ歩くなんてことは不可能なことであり、これまで『久岡家』までは回れなかったのである。

『久岡家』の主人・久岡氏は中洲『銀寿司』の山村氏の義弟であり、後で分かったことだが随分以前に第三共進丸にいたこともあり、船長もよく知っているとのこと。

私は雑誌『大人のウォーカー』で久岡氏を見ているので店で会った瞬間「ああっ」と分かって、初対面のご挨拶をした。
f5910398.jpg

上は雑誌『大人のウォーカー』にアラを持って写った久岡氏である。

1階はカウンターで2階に4間あり、私達4人は2階の座敷に座った。

ヤン坊が連絡しておいてくれたので料理は“おまかせ”としておいた。

酒は、とりあえずビールとし、私としては日本酒をと思ったのだが芋焼酎『佐藤黒』があったのでコレに決定。

息子に娘みたいな連中だから遠慮したのか、私が芋焼酎『佐藤黒』と言えば皆が「同じで」と応えおった。

T君もAちゃんも固い固い。コチコチになっておった。

別に私は面接官ではないのだが。

むしろ、2人が決めたことを祝ってやろうとしているのだが、2人は緊張しまくり。

その2人の様子に影響されたのか、Y子までが余所よそしい。

私とY子の関係に気を回していたのか、T君もAちゃんもY子も予期した顔ぶれでなかったことに驚いていたのか理由は分からない。
db751424.jpg

ちょっと食べ始めたところで写真を撮ったのだが、鯨と魚の刺身の盛り合わせである。

何が盛られていたか忘れてしまったが、アラ、ブリ、イサキ、イカなどの刺身のほか、クジラのベーコン、うね、さえずり、百ひろ等々。

美味いものであった。

とりわけクジラは大好物である私は、同じく最も好きな芋焼酎『佐藤黒』を頂きながら最高にご機嫌であった。

しかも、前には幸せいっぱいの2人、隣にはベッピンの娘を侍らせて文句のあろうはずが無い。

次へ続く・・・

at 15:02|Permalink

久し振りの『博多・紀行』 続き【7】 T君の目出度きこと

博多行きの2つの目的については書いた。

1つは友人達の元気な顔を見ることであった。

今夜の登場人物は香椎の料理屋で調理長を務めるT君と、お相手のAちゃん。

T君は私の博多における息子みたいな者。

京都で調理修行をして博多に戻り、現在は香椎の借景が素晴らしい座敷を擁する料理屋で料理の創作をしている。

彼には実の父親がいるが、第三共進丸の船長も父親のような存在であり、焼肉・玄風館の大将も同様である。

しかも私までいる。

父親が4人と、とてもややこしい関係のようだが、それだけ彼は可愛がられる存在であって、それだけ彼も年寄りオジンたちを大切にしてきているというわけでもある。

そのT君がお付き合いしている女がいると言っていたものだから、是非そのお相手に会っておかねばならないと思っていたのだ。

その機会は私が博多に到着した夜に訪れた。

多分、船長が連絡したのであろう。T君とお相手の女性が居酒屋・第三共進丸へ連れ立ってやってきた。

Aちゃんと言うのだが、2人の間では既に結婚しようと約束まで交わしたそうな。

まだ学生かと思うような可愛い若々しいお嬢さんであるが、そもそも2人を引き合わせたのは焼肉・玄風館の大将らしい。

「ふん、ツマランことしやがって。」などとは言わん。

よう世話してくれよったと感謝、感謝である。

が、一度会って話したからって、人間っちゅうもんは簡単に分かるもんでもない。

T君とAちゃんを相手にオジン3人で話し合っていたのだが、未だ話し足りないと感じたので第三共進丸の店を閉めて長浜・屋台の『安さん』の店へ移動した。

T君は36、やったかなあ、Aちゃんは若くは見えるが、むむむむむ、年齢はどうでもええか。

福岡市で某広告紙の編集をやっているとか。

2人が共に生活していくためには互いの人柄は勿論のことやが、生活を支える経済的基盤がしっかりしとらんといかんので、私は初対面のAちゃんではあったがズケズケと問い質してしまった。

この辺はオジンゆえに出来る芸当と言えるかもしれない。

博多での夜はいつも遅いのだが、この日も同じであった。

酔いが回ってくると電話魔の船長が携帯のボタンを押しまくるのである。

「Yが出よらんと、何しよると。」

仕方なく次を「おっ、Hか。お父さんが来とらっしゃると。」「・・・」。

可愛そうに夜中の電話で関西にいる息子あつかいにしている者たちが起こされるのである。

この夜、私もどのように帰ったのか・・・

タクシーに乗るまではハッキリと記憶にあるのだが、朝、ホテルの部屋で目覚めるまでの記憶が定かではない。

ただ、T君とAちゃんに対し、お祝いに食事を共にしようと誘ったことは間違いがない。

しかし、何日の何時に何処でとまでは決めていなかったように思うのだが、その日が翌日であることをT君からの電話で知った。

うーーん、何と。ホテルや列車のダブル・ブッキングなら文句のひとつぐらい言うところだが、私自身が二重に約束していたのでは、これは何ともはや申し訳ない。ということで急遽ふた組のデートとなってしまった。

続きを次ページに。

つまり、博多行きのもう1つの目的とともに。

at 12:06|Permalink

March 29, 2009

久し振りの『博多・紀行』 続き【6】第三共進丸ほか

博多へ行くことの楽しみが2つあると書いた。

友人達と会うこと。それに食べて飲むことである。

食べて飲むことなどと偉そうに書いてはいるが、確かに食べることを楽しみにはしているが、油脂分やデンプン質は極力制限しているので博多へ行っているにも関わらずラーメンを食べることも無かった。

それに、大概焼酎の湯割りを飲むが、みなさん気を遣って頂いて、勿論自分からも言うが薄い薄い、つまり白湯に近いものを飲んでいるのである。

それでも友人達の元気な姿を見れば、それだけで楽しく嬉しいものだ。

長浜・第三共進丸の船長ことM氏は最も近しい友人である。

いわゆる偏固、偏屈、大阪ではヘンコツとも言う部類の人物ではあるが、真っ正直すぎるところが、そのように評価されたりするのであろうが、よくよく知れば人間味のあるエエ人物である。

親友とも心友とも言える男であり、博多へ出向く私の一番の目的は彼の元気な姿を見ることであると言っても言い過ぎでは無い。

それに、焼肉・玄風館の大将、I氏。長浜屋台・とん吉の安さん。

いずれも年齢的には私より若いが人間味溢れる人たちである。

ところで、私の好きなものに剣先イカ(ヤリイカ)の姿造りがある。

船長の店では水槽に泳がせているのだが、海が荒れていて入荷が無かったため、今回は『かじ天』のイカにした。

どちらも玄界灘に面した鐘崎漁港に揚がるものであるが、『かじ天』も博多駅地下のデイトスの店には水槽が無いので新鮮なイカであっても身は少し白くなっている。

水槽から上げたイカの身は透き通っているのだが・・・

f31ca637.jpg

カメラが無かったのでイカの姿造りの写真は無い。以前にも載せているので省いておく。

刺身として食べた後、耳と足は塩焼きか天ぷらにしてくれるのだが、『かじ天』の天ぷらは美味しいので私はいつも揚げてもらうことにしている。上の写真左上。

この日、立派な太刀魚が入っていたので刺身にしてもらった。
b18a92c6.jpg

流通が良くなったので大阪でも食べることが出来るようになったが、昔は太刀魚など生で食べることなど出来なかった。

冷泉閣川端ホテルからは博多駅まで歩いてもそう遠くはない。

天神まで散歩するつもりで歩けば方向が異なるだけのこと。もっともしんどいと思えば中洲川端駅から地下鉄に乗れば良いのだが、たった二駅のことである。

3時には仕込みに入るヤン坊と昼間に『かじ天』で飲み、酔い覚ましにデイトスのシャンポールでコーヒーを飲んだ。
26f897ca.jpg

ここのコーヒーは美味いだけでなく、砂糖無しの生クリームを添えてくれるのとタバコを吸えるので3拍子揃っていて私にとっては有難い店なのである。

JR西日本が関西圏の全駅で禁煙にするんだと。

何んでもかでも禁煙禁煙。プラットホームの端っこの吹きさらしの場所まで禁煙かい。

愛煙家が黙っているのはタバコを吸わない人たちへの遠慮と配慮ゆえのこと。

声が大きければ、発言が多ければ支持されていると・・・

それは違うやろ。


at 16:24|Permalink
記事検索
月別アーカイブ