March 2009
March 29, 2009
久し振りの『博多・紀行』 続き【5】釜めしビクトリア
博多での楽しみ方はいろいろとある。
私は一人でいても退屈することは殆ど無い。
天気が悪ければホテルの部屋で本を読んだりテレビを見たり、時に向かいの喫茶店に出かけてコーヒーを飲んでボンヤリ時を過ごすこともある。
しかし今回は荷物が重たくなるので本を持たずに出たが、これは失敗であった。天気が崩れることを予想できなかったのだ。
それで、天気の良い時に天神まで散歩がてら本屋に向かった。
ゆっくり歩いても30分あれば良い。
丸善とジュンク堂があるので覗いてみたが、私にとって本屋というのはアリ地獄と同じで入店したら出ることを忘れてしまいそうになるのである。
博多滞在中の暇な折に読む本であるから、せいぜい文庫本で2冊もあれば充分なのだが、ついつい余分に買い込んでしまった。 (結局荷物になるのでクロネコ便で我が家へ送ってしまったのだが)
この日は市役所横の公園で銀寿司のヤン坊と会う約束をしていたのでアリ地獄から這い出すことができた。
以前は別な場所にいたテナーサックスのオジサンだが、久し振りに腹回りを比べて少しだけ良い気分に。
博多での最大の楽しみは友人に会うことである。
同じような年齢の者たちもおれば、30半ばの息子や娘のような者たち、20歳そこそこの若いピチピチした者たちといろいろである。
今ひとつは、やはり食べて飲む楽しみ、これら2つの楽しみのために博多へ来ていると言っても良い。
ヤン坊とは昼ご飯を食べにビクトリアへ行くことにした。
知らない人が聞けば喫茶店かケーキ屋のような名前だが、博多の人なら知らない人はいないくらいに有名な釜めし屋なのである。
西鉄福岡駅から西鉄グランドホテルへ向かう新天町商店街にあるのだが、Y子ちゃんが働いているのでご機嫌伺いを兼ねて行ったのである。
写真上は『山菜釜めし』。下は『あさり釜めし』。
赤出汁と吸い物(すまし汁)をとり、勿論相手がヤン坊なのでビールも。
一昨年の夏、壱岐からの帰りに寄ったのだが、午後8時の閉店間際で食べられなかったので今回が初めて。
聞けば時々来るヤン坊も釜めしは初めてなのだとか。
釜めし屋へ来て釜めしを食べないとは、何とも変わった奴である。
私は『あさり釜めし』を食べたが、味はなかなかのもの。
値段も手頃で、お店は創業50年と少しと聞いたが、長い年月の間、釜めしだけで店を維持してきているのは美味しさという味と値段が博多の人たちに支持されてきたからであろう。
Y子ちゃんの元気な顔も見ることが出来たので、とても嬉しい気分になってしまった。
その上、娘みたいなY子ちゃんにご馳走になってしまい何と言って良いのか。
店主の男性からは「Y子ちゃんが世話になっていますので」なんて丁寧にご挨拶を頂いたけれど、パトロンでもない私は何とご挨拶すれば良かったのか・・・。
ありがとう、Y子ちゃん。
私は一人でいても退屈することは殆ど無い。
天気が悪ければホテルの部屋で本を読んだりテレビを見たり、時に向かいの喫茶店に出かけてコーヒーを飲んでボンヤリ時を過ごすこともある。
しかし今回は荷物が重たくなるので本を持たずに出たが、これは失敗であった。天気が崩れることを予想できなかったのだ。
それで、天気の良い時に天神まで散歩がてら本屋に向かった。
ゆっくり歩いても30分あれば良い。
丸善とジュンク堂があるので覗いてみたが、私にとって本屋というのはアリ地獄と同じで入店したら出ることを忘れてしまいそうになるのである。
博多滞在中の暇な折に読む本であるから、せいぜい文庫本で2冊もあれば充分なのだが、ついつい余分に買い込んでしまった。 (結局荷物になるのでクロネコ便で我が家へ送ってしまったのだが)
この日は市役所横の公園で銀寿司のヤン坊と会う約束をしていたのでアリ地獄から這い出すことができた。
以前は別な場所にいたテナーサックスのオジサンだが、久し振りに腹回りを比べて少しだけ良い気分に。
博多での最大の楽しみは友人に会うことである。
同じような年齢の者たちもおれば、30半ばの息子や娘のような者たち、20歳そこそこの若いピチピチした者たちといろいろである。
今ひとつは、やはり食べて飲む楽しみ、これら2つの楽しみのために博多へ来ていると言っても良い。
ヤン坊とは昼ご飯を食べにビクトリアへ行くことにした。
知らない人が聞けば喫茶店かケーキ屋のような名前だが、博多の人なら知らない人はいないくらいに有名な釜めし屋なのである。
西鉄福岡駅から西鉄グランドホテルへ向かう新天町商店街にあるのだが、Y子ちゃんが働いているのでご機嫌伺いを兼ねて行ったのである。
写真上は『山菜釜めし』。下は『あさり釜めし』。
赤出汁と吸い物(すまし汁)をとり、勿論相手がヤン坊なのでビールも。
一昨年の夏、壱岐からの帰りに寄ったのだが、午後8時の閉店間際で食べられなかったので今回が初めて。
聞けば時々来るヤン坊も釜めしは初めてなのだとか。
釜めし屋へ来て釜めしを食べないとは、何とも変わった奴である。
私は『あさり釜めし』を食べたが、味はなかなかのもの。
値段も手頃で、お店は創業50年と少しと聞いたが、長い年月の間、釜めしだけで店を維持してきているのは美味しさという味と値段が博多の人たちに支持されてきたからであろう。
Y子ちゃんの元気な顔も見ることが出来たので、とても嬉しい気分になってしまった。
その上、娘みたいなY子ちゃんにご馳走になってしまい何と言って良いのか。
店主の男性からは「Y子ちゃんが世話になっていますので」なんて丁寧にご挨拶を頂いたけれど、パトロンでもない私は何とご挨拶すれば良かったのか・・・。
ありがとう、Y子ちゃん。
at 13:38|Permalink│
March 28, 2009
久し振りの『博多・紀行』 続き【4】花魁
博多で花魁というのもオカシイとは思いつつ・・・
故・市川房江女史や故・神近市子女史ら女性運動家たちが奔走した結果、1956年(昭和31年)に売春防止法が公布され、翌年に施行、1年間の猶予期間をおいて1958年(昭和33年)に全国の赤線地帯が廃止となった。
はずである。
この売防法では売春行為そのことの他、その勧誘、周旋から、その場所の提供、それに管理売春をも対象としており、この法律が効力を発するようになってからは日本に色町は無くなったはずなのである。
が、しかし・・・である。
確かに完全に紅灯を落として閉業してしまった所もあるが、さすがに公然とと言うわけにはいかなかったものの私が高校へ通うようになっても営業?していた町もあり、法施行以来半世紀を経た現在もなお営業を続けている所がある。
大阪では飛田に今里、松島もである。
昨年だったか、大阪大空襲ですっかり焼け野原になり、何もかも変わってしまった我が町であった西区靱公園から川口、本田、九条と家内と共に歩いてみた。
道幅が広くなったり建物が変わってしまっていたりはしたものの、松島は残っていた。
歩く人はまばらであったが、夕刻を迎えた各建物の戸口は開けられ、入口の中は紅灯が点され、婆さんが丸椅子に腰掛けているのも半世紀前と同じ様相であった。
大阪万博の前年だったから1969年(昭和44年)のことだった。売防法が施行されて、ほぼ10年。親しくしていた同志社の法科を出た女傑が売防法に反対する論文を書いたことについて激論を交わしたことがあった。
ソクラテスが言ったかどうか出典は知らないが『悪法も又法なり』とヘーゲル的観念論でもって対抗したが、この時、こいつの幅広い実証的論展開にバカ頭をガツンとやられたことを未だに記憶している。
私の青い時代であった。
京に島原、大坂に新町、江戸に吉原と遊郭があったことは名高い。
とりわけ、これら3つの遊郭には太夫が存在し、傾城町としても別格のものであったらしい。
これら遊郭のうち、京の島原については輪違屋のことで以前に触れているが、花魁(太夫)の写真が手に入ったので紹介することにする。
と言っても真正の花魁ではない。
博多・中洲の某クラブのママであるが、花魁の衣装で写真を撮ったというので貰ったものである。
ブログに載せても良いかと尋ねたら構わないということだったので修正無しで掲載することにした。
歌舞音曲に秀でた能力を持ち、知性豊かな美しい女性が太夫という格式ある身分に位置づけられていたのは公娼制度のあった時代のこと。
吉野太夫に夕霧、高尾と名前ぐらいは知ってはいても実際に太夫を見たことも無い私には仮装写真であっても珍しく思えたのである。
太夫は参内できる五位の身分に列せられる女郎の最高位であり、太夫を名乗れる者は極々僅かであった。
公娼制度のあった江戸時代にあっては京を始め城下町、宿場町、港町、門前町と数多くの色町があったことは史書、物語本にも明らかである。
江戸時代の博多にも柳町なる色町があったようで、近松門左衛門の浄瑠璃に『博多小女郎浪枕』というのがある。
近松得意の悲恋話で、柳町の女郎である小女郎(こじょろう)と恋人である惣七が抜け荷に関わってしまう話であるが、相愛の2人が心中するのではなく、惣七は自害して小女郎も共に殺して欲しいと願うものの叶わぬという結末となるものである。
この柳町という色町は江戸時代から明治にかけて、現在の御笠川に架かる石動大橋の北にある恵比須橋の西詰あたりにあったらしいが、明治期になって那珂川にかかる柳橋の南、清川のあたりに移ったのだそうだ。
柳橋の市場から川沿いをブラブラ歩くと立派な料亭や旅館があったが、多分これらの建物が遊郭であったのであろう。
昭和33年以降、これらの旧・赤線や、もぐりの青線などは無くなったはずなのだが、見かけを変え、手を変え品を変えて現在も性産業は盛んであるようだ。
博多でも中州の南端にある清流公園の北側、博多川と那珂川に挟まれた一画はファッションヘルスと称する店が建ち並んでいる。
ここは昼間でもちょっと歩きづらい通りである。
この女性は先の花魁の写真の女性であり、色町とも売防法とも全く関係が無い。
いつも着物を愛用している女性で、私が博多へ行けばお相手をしてくれるし、博多の情報発信者の1人でもある。
とりわけ博多・祇園祭の山笠については、その年々の記念の品を送ってくれるので常々感謝している女性である。
花魁の写真はドーラン(Dohran)を塗っており公開の許可を得たが、この写真については得ていないので目隠しを施した。
故・市川房江女史や故・神近市子女史ら女性運動家たちが奔走した結果、1956年(昭和31年)に売春防止法が公布され、翌年に施行、1年間の猶予期間をおいて1958年(昭和33年)に全国の赤線地帯が廃止となった。
はずである。
この売防法では売春行為そのことの他、その勧誘、周旋から、その場所の提供、それに管理売春をも対象としており、この法律が効力を発するようになってからは日本に色町は無くなったはずなのである。
が、しかし・・・である。
確かに完全に紅灯を落として閉業してしまった所もあるが、さすがに公然とと言うわけにはいかなかったものの私が高校へ通うようになっても営業?していた町もあり、法施行以来半世紀を経た現在もなお営業を続けている所がある。
大阪では飛田に今里、松島もである。
昨年だったか、大阪大空襲ですっかり焼け野原になり、何もかも変わってしまった我が町であった西区靱公園から川口、本田、九条と家内と共に歩いてみた。
道幅が広くなったり建物が変わってしまっていたりはしたものの、松島は残っていた。
歩く人はまばらであったが、夕刻を迎えた各建物の戸口は開けられ、入口の中は紅灯が点され、婆さんが丸椅子に腰掛けているのも半世紀前と同じ様相であった。
大阪万博の前年だったから1969年(昭和44年)のことだった。売防法が施行されて、ほぼ10年。親しくしていた同志社の法科を出た女傑が売防法に反対する論文を書いたことについて激論を交わしたことがあった。
ソクラテスが言ったかどうか出典は知らないが『悪法も又法なり』とヘーゲル的観念論でもって対抗したが、この時、こいつの幅広い実証的論展開にバカ頭をガツンとやられたことを未だに記憶している。
私の青い時代であった。
京に島原、大坂に新町、江戸に吉原と遊郭があったことは名高い。
とりわけ、これら3つの遊郭には太夫が存在し、傾城町としても別格のものであったらしい。
これら遊郭のうち、京の島原については輪違屋のことで以前に触れているが、花魁(太夫)の写真が手に入ったので紹介することにする。
と言っても真正の花魁ではない。
博多・中洲の某クラブのママであるが、花魁の衣装で写真を撮ったというので貰ったものである。
ブログに載せても良いかと尋ねたら構わないということだったので修正無しで掲載することにした。
歌舞音曲に秀でた能力を持ち、知性豊かな美しい女性が太夫という格式ある身分に位置づけられていたのは公娼制度のあった時代のこと。
吉野太夫に夕霧、高尾と名前ぐらいは知ってはいても実際に太夫を見たことも無い私には仮装写真であっても珍しく思えたのである。
太夫は参内できる五位の身分に列せられる女郎の最高位であり、太夫を名乗れる者は極々僅かであった。
公娼制度のあった江戸時代にあっては京を始め城下町、宿場町、港町、門前町と数多くの色町があったことは史書、物語本にも明らかである。
江戸時代の博多にも柳町なる色町があったようで、近松門左衛門の浄瑠璃に『博多小女郎浪枕』というのがある。
近松得意の悲恋話で、柳町の女郎である小女郎(こじょろう)と恋人である惣七が抜け荷に関わってしまう話であるが、相愛の2人が心中するのではなく、惣七は自害して小女郎も共に殺して欲しいと願うものの叶わぬという結末となるものである。
この柳町という色町は江戸時代から明治にかけて、現在の御笠川に架かる石動大橋の北にある恵比須橋の西詰あたりにあったらしいが、明治期になって那珂川にかかる柳橋の南、清川のあたりに移ったのだそうだ。
柳橋の市場から川沿いをブラブラ歩くと立派な料亭や旅館があったが、多分これらの建物が遊郭であったのであろう。
昭和33年以降、これらの旧・赤線や、もぐりの青線などは無くなったはずなのだが、見かけを変え、手を変え品を変えて現在も性産業は盛んであるようだ。
博多でも中州の南端にある清流公園の北側、博多川と那珂川に挟まれた一画はファッションヘルスと称する店が建ち並んでいる。
ここは昼間でもちょっと歩きづらい通りである。
この女性は先の花魁の写真の女性であり、色町とも売防法とも全く関係が無い。
いつも着物を愛用している女性で、私が博多へ行けばお相手をしてくれるし、博多の情報発信者の1人でもある。
とりわけ博多・祇園祭の山笠については、その年々の記念の品を送ってくれるので常々感謝している女性である。
花魁の写真はドーラン(Dohran)を塗っており公開の許可を得たが、この写真については得ていないので目隠しを施した。
at 17:41|Permalink│
久し振りの『博多・紀行』 続き【3】春を味わう 博多・中州・銀寿司
忙しかったけん、なかなか書ききれんと。
博多の言葉に似せて書いてみたが、博多の人に笑われるかもしれない。
狭い日本ではあるが、それでも旅先で方言を耳にすると、やはり違う土地へ来ているのだということをしみじみ感じるものである。
イントネーションの違い、アクセントの違い、言葉そのものの違いと、言葉というものは、その土地土地の文化そのものであると私は考えている。
これは友人にも語ったことであるが、博多の若いネーチャンに「今度、いつ遊びに来てくれると」と、語尾の『と』を上げる調子で言われると、もうこれはメロメロ状態になるのである。
それはそれとして、今回博多滞在中に福岡気象台が基準木の花が咲いたというので開花宣言を出していた。
3月13日のことである。
それで清流公園から那珂川沿いの桜の枝に注意を払いながらブラブラ歩いてみたのである。
確かに数本だけではあったが柔らかな陽射しを受けた枝先に白い花を数個咲かせていたのである。
基準木というのは気象台のある大濠公園の桜なのだろうが、花が幾つ咲いたら開花宣言を行うのかは知らない。
しかし確実に春がやってきているのは確かなことだった。
前夜、中洲の『銀寿司』で素魚(しろうお)の小鉢を出してもらった。
春の便りである。
北陸の方では『いさざ』と呼ぶが、海岸に近い海草に守られて生息し、春、産卵のために川を上って来るのを目の細かい網で掬い取るのである。
体長はせいぜい5cm程度で前腹部に赤色の浮袋が見えるのが特徴である。
この小鉢に酢醤油を入れ、チョロチョロ泳ぎ回る素魚を呑み込むように頂くのである。
噛めば骨や苦味を感じるが、呑み込む時の喉越しを楽しむものである。
しかし敵も然るものにしてピンピンするものだから、スンナリと口に入れるのも難しく、呑み込もうとしても口の中に残ったりと、残酷なようではあるが食事の中の変化を楽しむものと思えば良い。
ちなみに、この日の素魚は佐賀県唐津市の松浦川に上ってきたものらしい。
この日の酒肴はホタルイカの沖漬け(手前)。
ホタルイカ漁で有名なのは富山湾であるが、日本海各地でも獲られている。
やはり春を告げてくれるものであるが、5月頃までである。
写真左手はマサバ。
真鯖は、ぼちぼち終わりの時期に入るが、なかなか美味しいものであった。
銀寿司のマグロは、これまでハズレに当たったことが無い。
私は天身(赤身)が好きで、せいぜい中トロまでしか食べないが、仕入れが難しいマグロを100%外れ無しで食べさせてくれる店はそうそう無い。
菜の花を添えてもらったりと、春を楽しませて頂いた。
同じ魚をオーダーしても、その日その日で盛り付けや味わいを微妙に変化させて楽しませてくれる。
金さんと交代した梅ちゃんの細やかな心遣いに感謝。
裏方のヤン坊にも感謝してまんねんでえ。
博多の言葉に似せて書いてみたが、博多の人に笑われるかもしれない。
狭い日本ではあるが、それでも旅先で方言を耳にすると、やはり違う土地へ来ているのだということをしみじみ感じるものである。
イントネーションの違い、アクセントの違い、言葉そのものの違いと、言葉というものは、その土地土地の文化そのものであると私は考えている。
これは友人にも語ったことであるが、博多の若いネーチャンに「今度、いつ遊びに来てくれると」と、語尾の『と』を上げる調子で言われると、もうこれはメロメロ状態になるのである。
それはそれとして、今回博多滞在中に福岡気象台が基準木の花が咲いたというので開花宣言を出していた。
3月13日のことである。
それで清流公園から那珂川沿いの桜の枝に注意を払いながらブラブラ歩いてみたのである。
確かに数本だけではあったが柔らかな陽射しを受けた枝先に白い花を数個咲かせていたのである。
基準木というのは気象台のある大濠公園の桜なのだろうが、花が幾つ咲いたら開花宣言を行うのかは知らない。
しかし確実に春がやってきているのは確かなことだった。
前夜、中洲の『銀寿司』で素魚(しろうお)の小鉢を出してもらった。
春の便りである。
北陸の方では『いさざ』と呼ぶが、海岸に近い海草に守られて生息し、春、産卵のために川を上って来るのを目の細かい網で掬い取るのである。
体長はせいぜい5cm程度で前腹部に赤色の浮袋が見えるのが特徴である。
この小鉢に酢醤油を入れ、チョロチョロ泳ぎ回る素魚を呑み込むように頂くのである。
噛めば骨や苦味を感じるが、呑み込む時の喉越しを楽しむものである。
しかし敵も然るものにしてピンピンするものだから、スンナリと口に入れるのも難しく、呑み込もうとしても口の中に残ったりと、残酷なようではあるが食事の中の変化を楽しむものと思えば良い。
ちなみに、この日の素魚は佐賀県唐津市の松浦川に上ってきたものらしい。
この日の酒肴はホタルイカの沖漬け(手前)。
ホタルイカ漁で有名なのは富山湾であるが、日本海各地でも獲られている。
やはり春を告げてくれるものであるが、5月頃までである。
写真左手はマサバ。
真鯖は、ぼちぼち終わりの時期に入るが、なかなか美味しいものであった。
銀寿司のマグロは、これまでハズレに当たったことが無い。
私は天身(赤身)が好きで、せいぜい中トロまでしか食べないが、仕入れが難しいマグロを100%外れ無しで食べさせてくれる店はそうそう無い。
菜の花を添えてもらったりと、春を楽しませて頂いた。
同じ魚をオーダーしても、その日その日で盛り付けや味わいを微妙に変化させて楽しませてくれる。
金さんと交代した梅ちゃんの細やかな心遣いに感謝。
裏方のヤン坊にも感謝してまんねんでえ。
at 15:30|Permalink│
March 20, 2009
都市伝説とやら・・・
私はヘビースモーカーではないが煙草を吸う。
30数年前、或る事をきっかけに一度禁煙し、13年間全くタバコと縁を切った。
しかし、これは私に『タバコを吸わそう会』のメンバー達による13年間にわたる辛抱強い計略によって泡沫の如く消え去ることとなり、それ以来再び私はタバコと仲良くしている。
昨年、当時の『吸わそう会』のメンバーの1人とバーで顔を合わせた。
彼は昔っからバーボンを飲み、私はスコッチ。
私はショットグラスでワンフィンガーをチビリチビリ、或いはソーダで割るハイボール程度で酒量としてはしれているが、彼はロックグラスでガブガブ飲み、バーボンのボトルも3日と持たなかった。
その当時、彼も私もバーテンダーを含む『吸わそう会』のメンバー全てが両切りピースを吸っていたが、昨年会った時、彼の酒量は減りタバコも吸わなかった。
酒は止められんが、タバコは止めたのだと。
なんとも勝手な奴だが70歳という年齢を迎えて決心したそうな。
ピーポーピーポーと鳴る緊急自動車の音とクルクル回る灯を開発した電子機器のオーソリティーで、彼の奥さんは私の中学時代の1年先輩。
文句のひとつも言ってやりたいところだったが、後ろに怖ーい奥方が控えているので『体を労わるように』と、だけ・・・。
優しいと言うのか、それとも・・・
それはそれとして、タバコの銀箔を集めると車椅子寄贈の一助になると娘の一人が言っていたので、どうせ捨てるものだからと新しい箱を開けるたびに銀箔を集めてきた。
『塵も積もれば山となる』
僅かなように見えるが、ざっと2000枚。
よく貯めたものだ。
しかし、車椅子寄贈に役立つというのはガセであった。
以前、アルミ製の缶入り飲料のプルトップが車椅子寄贈の一助になるというので集めたことがあったが、全くその時と同じことだった。
もっと早くに自分自身で情報の確かさを調べるべきであったと2度目の空振り。
騙した騙されたというのではなく、情報を鵜呑みにしていた自分の甘さ加減に呆れているのである。
こういう類いの話を『都市伝説』と呼んでいるらしい。
以前『口裂け女』の話があったが、これも都市伝説と言えるようだ。
伝説というものは単なる風説・噂話から昔話などの口承文学までをも含む広い意味を持つ言葉ではあるが、人をダマすような無責任極まりない伝説というものは流さないでほしいものだ。
伝説は多少とも夢があったり楽しみを覚えるような話に限定し、骨折り損でくたびれるようなものは御免蒙りたい。
エイプリルフールも近い。
春から三振するようなことが無いようにしなければ。
30数年前、或る事をきっかけに一度禁煙し、13年間全くタバコと縁を切った。
しかし、これは私に『タバコを吸わそう会』のメンバー達による13年間にわたる辛抱強い計略によって泡沫の如く消え去ることとなり、それ以来再び私はタバコと仲良くしている。
昨年、当時の『吸わそう会』のメンバーの1人とバーで顔を合わせた。
彼は昔っからバーボンを飲み、私はスコッチ。
私はショットグラスでワンフィンガーをチビリチビリ、或いはソーダで割るハイボール程度で酒量としてはしれているが、彼はロックグラスでガブガブ飲み、バーボンのボトルも3日と持たなかった。
その当時、彼も私もバーテンダーを含む『吸わそう会』のメンバー全てが両切りピースを吸っていたが、昨年会った時、彼の酒量は減りタバコも吸わなかった。
酒は止められんが、タバコは止めたのだと。
なんとも勝手な奴だが70歳という年齢を迎えて決心したそうな。
ピーポーピーポーと鳴る緊急自動車の音とクルクル回る灯を開発した電子機器のオーソリティーで、彼の奥さんは私の中学時代の1年先輩。
文句のひとつも言ってやりたいところだったが、後ろに怖ーい奥方が控えているので『体を労わるように』と、だけ・・・。
優しいと言うのか、それとも・・・
それはそれとして、タバコの銀箔を集めると車椅子寄贈の一助になると娘の一人が言っていたので、どうせ捨てるものだからと新しい箱を開けるたびに銀箔を集めてきた。
『塵も積もれば山となる』
僅かなように見えるが、ざっと2000枚。
よく貯めたものだ。
しかし、車椅子寄贈に役立つというのはガセであった。
以前、アルミ製の缶入り飲料のプルトップが車椅子寄贈の一助になるというので集めたことがあったが、全くその時と同じことだった。
もっと早くに自分自身で情報の確かさを調べるべきであったと2度目の空振り。
騙した騙されたというのではなく、情報を鵜呑みにしていた自分の甘さ加減に呆れているのである。
こういう類いの話を『都市伝説』と呼んでいるらしい。
以前『口裂け女』の話があったが、これも都市伝説と言えるようだ。
伝説というものは単なる風説・噂話から昔話などの口承文学までをも含む広い意味を持つ言葉ではあるが、人をダマすような無責任極まりない伝説というものは流さないでほしいものだ。
伝説は多少とも夢があったり楽しみを覚えるような話に限定し、骨折り損でくたびれるようなものは御免蒙りたい。
エイプリルフールも近い。
春から三振するようなことが無いようにしなければ。
at 17:32|Permalink│
久し振りの『博多・紀行』 続き【2】 ホテルの選択B
先のページで『冷泉閣川端ホテル』を利用したことを書き、インターネットによる某ツーリストから予約すれば宿泊料金が随分安いことも書いた。
ホテル業界も不況の煽りをくっているためだろうか、通常の宿泊料金は維持したままで期間を設定して安い特別プランを提示しているところが多い。
前ページで『居住性やホテル自体が有する品位の優劣は比ぶるべくもないが』と書いた。これはネームバリューと言うか一般によく名前を知られたホテルのことであり、イコール宿泊基本料金が高いのが通常であり、部屋は広く防音など建築上の配慮もさることながら、設備品においても優れているものである。
しかし、間違ってはいけないので書き足しておくが、ホテル自体が有する品位というのは施設・設備・備品などを含めた居住性を言っているのであって、ホテルスタッフという人間を含めているわけではない。
スタッフに対する教育はいずれのホテルでも行われ、彼らに対する接客などの研修義務化も当然のこととされているはずであるが、施設・設備・備品などの維持管理、そして直接接客に携わるのは『ヒト』としてのスタッフであり、時に『仏作って魂入れず』といった有名ホテルもある。
安いホテルだから当然などと言うつもりはないが、この『冷泉閣川端ホテル』のスタッフも全てが良いと、つまり一人一人のスタッフが『冷泉閣川端ホテル』を代表する1人であるとの自覚を体現していると私には思えない者もいる。
殊更に媚びを売る必要は無いが、以前より所謂愛想の悪い感じの悪いのがいるにはいる。が、常に顔を合わせるわけでも無いので私は気付かぬ風を装っているだけである。
宿泊料金が安いからという点について挙げれば、防音と部屋の広さの2点であろう。
ホテルの建物外との防音は良いのだが、隣室や廊下との防音についてはイマイチの感有り。
部屋の広さについては構造上仕方が無いだろうと思いつつも、ユニットタイプのバス・トイレはいただけない。
でも、博多の簡易ホテルでは、未だひと回り狭いタイプのものを設置しているところも私は知っている。長浜の『天神SBホテル』であり、ここは2度と泊まるつもりは無い。
つまり、いずれもユニットタイプのドアを開ければ洋式便器と洗面台、それに底面が三角形状のバスタブが一体となっており、『天神SBホテル』の場合は洋式便器の直ぐ後ろに洗面台、その便器と洗面台の直ぐ横にバスタブがあり、ドアを開けてユニットに入れば、その立っている位置以外には極端に狭いバスタブに入って立つ以外に立錐の余地が無いという狭さなのである。
『冷泉閣川端ホテル』の場合は狭いながらも洗面台の前に立てるスペースがあるにはあるが、“おにぎり”の如き三角形を底面とするバスタブに浸かろうとすれば誰しもが皆同じ方向でなければならず、浸かっても半身浴状態で立ち上がろうとするのに相当苦心するバスタブなのだ。
『天神SBホテル』の場合など私のような肥満体ではスッポリ嵌まり込んで抜くに抜けない状態であったことを思い出す。
気になる部分を先に挙げたが『冷泉閣川端ホテル』の悪口を言うつもりはなく、事実を事実として書いただけであり、私が『冷泉閣川端ホテル』を何度も利用し、同行者を連れて行ったり更に宿泊先として他の者たちに紹介したりしていることで分かることであろう。
何よりも気に入っているのは宿泊料金が安いことであるが、立地条件に優れていることも、そのひとつである。
福岡空港からも博多駅からも地下鉄・中洲川端駅で降り、5番出口から川端通り商店街のアーケードを歩いてくれば例え雨天であっても殆ど濡れることは無い。しかも中洲は徒歩2分と近く、那珂川沿いの春吉橋の屋台群までも7~8分程度の距離である。
ホテルの前は冷泉公園であり、櫛田(くしだ)神社へも4~5分である。
櫛田神社には伊勢松阪の櫛田神社の祭神・大幡主神を勧請、併せて天照大神と素盞嗚神の三神が祀られているが、創建が757年とされているので奈良時代となる。(上は櫛田神社の北側の門である)
下の写真の奥に社殿がある。
櫛田神社は博多の総鎮守ではあるが、一般には『祇園山笠』(櫛田神社祇園例大祭)の名前の方が広く知られているのではないだろうか。
上は神社東側にある正門鳥居であり、正面の奥に社殿・拝殿がある。
祗園山笠のヤマ(山車)は写真左手の境内を一周して早朝の博多の町を駆け巡る。
上は櫛田神社の東側にある『博多町家ふるさと館』で明治期の町家を移築、復元保存している。
町家では博多の伝統工芸や伝統芸能、歳時記など民俗に関する紹介をし、実演したり体験学習の場として提供している。
上は櫛田神社の直ぐ南側、国体道路に面して位置する萬行寺(まんぎょうじ)の山門である。
萬行寺は山号を普賢山と称する浄土真宗のお寺で1529年に空性(くうしょう)が開基とされ、真宗の寺らしく境内には『お念仏しなされや・釈恒順』の碑がある。
萬行寺が建つ祇園町の一画には覚永寺、順正寺、善照寺なども建ち、キャナルシティから那珂川の堤へ出て天神中央公園を巡ってホテルに戻るというように、朝の散歩道として良いコースがあるのだ。
散歩を終えてホテルの小さなレストランではあるが、そこで朝食を摂るのが私の朝の行動。
和定食と洋定食があるが勿論私は和食。価格は840円だが、ご飯、味噌汁、焼き魚、小さなザル豆腐、海苔に漬物、それに少しずつだが明太子と塩昆布に玉子焼が小皿に盛られているもので朝ご飯としては充分である。
この玉子焼というのは親指の先ほどのものを2切れだから、玉子焼が大好きな私には量的に不足であるし、甘味のあるお菓子のようなものだから私に言わせれば玉子焼には非ずということになるのだが・・・
しかし、コーヒーなども自由に飲めるので良しというところか。
気に入らなければホテルのすぐ横の川端通り商店街の角に向かい合って24時間営業の博多ラーメンの店とうどん店があるので、500円程度の定食を食べるのも良いのではなかろうか。
2000円の朝ご飯を食べるつもりならハイヤットへ行くなりエクセル東急の『梅の花』へでも行けば良いのであって、寝るということだけを考えるならば『冷泉閣川端ホテル』は料金的にも充分満足出来るホテルであると私は考えているのである。
博多のホテル選択についてはこれにて終了。
ホテル業界も不況の煽りをくっているためだろうか、通常の宿泊料金は維持したままで期間を設定して安い特別プランを提示しているところが多い。
前ページで『居住性やホテル自体が有する品位の優劣は比ぶるべくもないが』と書いた。これはネームバリューと言うか一般によく名前を知られたホテルのことであり、イコール宿泊基本料金が高いのが通常であり、部屋は広く防音など建築上の配慮もさることながら、設備品においても優れているものである。
しかし、間違ってはいけないので書き足しておくが、ホテル自体が有する品位というのは施設・設備・備品などを含めた居住性を言っているのであって、ホテルスタッフという人間を含めているわけではない。
スタッフに対する教育はいずれのホテルでも行われ、彼らに対する接客などの研修義務化も当然のこととされているはずであるが、施設・設備・備品などの維持管理、そして直接接客に携わるのは『ヒト』としてのスタッフであり、時に『仏作って魂入れず』といった有名ホテルもある。
安いホテルだから当然などと言うつもりはないが、この『冷泉閣川端ホテル』のスタッフも全てが良いと、つまり一人一人のスタッフが『冷泉閣川端ホテル』を代表する1人であるとの自覚を体現していると私には思えない者もいる。
殊更に媚びを売る必要は無いが、以前より所謂愛想の悪い感じの悪いのがいるにはいる。が、常に顔を合わせるわけでも無いので私は気付かぬ風を装っているだけである。
宿泊料金が安いからという点について挙げれば、防音と部屋の広さの2点であろう。
ホテルの建物外との防音は良いのだが、隣室や廊下との防音についてはイマイチの感有り。
部屋の広さについては構造上仕方が無いだろうと思いつつも、ユニットタイプのバス・トイレはいただけない。
でも、博多の簡易ホテルでは、未だひと回り狭いタイプのものを設置しているところも私は知っている。長浜の『天神SBホテル』であり、ここは2度と泊まるつもりは無い。
つまり、いずれもユニットタイプのドアを開ければ洋式便器と洗面台、それに底面が三角形状のバスタブが一体となっており、『天神SBホテル』の場合は洋式便器の直ぐ後ろに洗面台、その便器と洗面台の直ぐ横にバスタブがあり、ドアを開けてユニットに入れば、その立っている位置以外には極端に狭いバスタブに入って立つ以外に立錐の余地が無いという狭さなのである。
『冷泉閣川端ホテル』の場合は狭いながらも洗面台の前に立てるスペースがあるにはあるが、“おにぎり”の如き三角形を底面とするバスタブに浸かろうとすれば誰しもが皆同じ方向でなければならず、浸かっても半身浴状態で立ち上がろうとするのに相当苦心するバスタブなのだ。
『天神SBホテル』の場合など私のような肥満体ではスッポリ嵌まり込んで抜くに抜けない状態であったことを思い出す。
気になる部分を先に挙げたが『冷泉閣川端ホテル』の悪口を言うつもりはなく、事実を事実として書いただけであり、私が『冷泉閣川端ホテル』を何度も利用し、同行者を連れて行ったり更に宿泊先として他の者たちに紹介したりしていることで分かることであろう。
何よりも気に入っているのは宿泊料金が安いことであるが、立地条件に優れていることも、そのひとつである。
福岡空港からも博多駅からも地下鉄・中洲川端駅で降り、5番出口から川端通り商店街のアーケードを歩いてくれば例え雨天であっても殆ど濡れることは無い。しかも中洲は徒歩2分と近く、那珂川沿いの春吉橋の屋台群までも7~8分程度の距離である。
ホテルの前は冷泉公園であり、櫛田(くしだ)神社へも4~5分である。
櫛田神社には伊勢松阪の櫛田神社の祭神・大幡主神を勧請、併せて天照大神と素盞嗚神の三神が祀られているが、創建が757年とされているので奈良時代となる。(上は櫛田神社の北側の門である)
下の写真の奥に社殿がある。
櫛田神社は博多の総鎮守ではあるが、一般には『祇園山笠』(櫛田神社祇園例大祭)の名前の方が広く知られているのではないだろうか。
上は神社東側にある正門鳥居であり、正面の奥に社殿・拝殿がある。
祗園山笠のヤマ(山車)は写真左手の境内を一周して早朝の博多の町を駆け巡る。
上は櫛田神社の東側にある『博多町家ふるさと館』で明治期の町家を移築、復元保存している。
町家では博多の伝統工芸や伝統芸能、歳時記など民俗に関する紹介をし、実演したり体験学習の場として提供している。
上は櫛田神社の直ぐ南側、国体道路に面して位置する萬行寺(まんぎょうじ)の山門である。
萬行寺は山号を普賢山と称する浄土真宗のお寺で1529年に空性(くうしょう)が開基とされ、真宗の寺らしく境内には『お念仏しなされや・釈恒順』の碑がある。
萬行寺が建つ祇園町の一画には覚永寺、順正寺、善照寺なども建ち、キャナルシティから那珂川の堤へ出て天神中央公園を巡ってホテルに戻るというように、朝の散歩道として良いコースがあるのだ。
散歩を終えてホテルの小さなレストランではあるが、そこで朝食を摂るのが私の朝の行動。
和定食と洋定食があるが勿論私は和食。価格は840円だが、ご飯、味噌汁、焼き魚、小さなザル豆腐、海苔に漬物、それに少しずつだが明太子と塩昆布に玉子焼が小皿に盛られているもので朝ご飯としては充分である。
この玉子焼というのは親指の先ほどのものを2切れだから、玉子焼が大好きな私には量的に不足であるし、甘味のあるお菓子のようなものだから私に言わせれば玉子焼には非ずということになるのだが・・・
しかし、コーヒーなども自由に飲めるので良しというところか。
気に入らなければホテルのすぐ横の川端通り商店街の角に向かい合って24時間営業の博多ラーメンの店とうどん店があるので、500円程度の定食を食べるのも良いのではなかろうか。
2000円の朝ご飯を食べるつもりならハイヤットへ行くなりエクセル東急の『梅の花』へでも行けば良いのであって、寝るということだけを考えるならば『冷泉閣川端ホテル』は料金的にも充分満足出来るホテルであると私は考えているのである。
博多のホテル選択についてはこれにて終了。
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