April 2009

April 26, 2009

九州・博多散策 (7) 志賀島の続き 2

この日はマッコト暑かった。

天気が良いのは嬉しいことだがカンカン照りというのはイマイチである。

やがて『蒙古軍供養塔』のあるところに着いた。

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1274年、1281年の文永・弘安の役で亡くなった元軍兵士の御霊を供養するために建てられた碑である。

広大な帝国を築いていた元のフビライが日本に対して入貢を求めてきたのに対して鎌倉幕府が拒否したことによって元の大軍が日本に向けて攻撃をしかけてきた。

元軍は対馬、壱岐を攻め、玄界灘に面した九州北部で戦闘を開始したが、この戦で対馬、壱岐の島民のかなりの人達が殺されたらしく、壊滅状態であったという資料を見たことがある。

また、この戦のために海岸に築かれた防塁が各所に残っているが、全国より馳せ参じた鎌倉武士たちにも戦死者が多く出ている。

この『蒙古軍供養塔』の場所には一基だけではなく幾塔も建立されており、中には中国側が建てたものも混じり、日本側が蒙古軍兵士の供養をしてきてくれたことに対する感謝の言葉が刻まれているものもあった。

これらの供養塔建立や供養についての詳しい経緯は知らないが、上の写真の左手に蒙古塚参拝口と言う碑と地蔵さんが立つところに階段があって登って参れるようになっている。

文永の役の際に元軍の船が座礁し、120名の元軍兵士が捕えられて斬首、埋葬された所で蒙古塚と呼ぶらしい。

写真の場所は先の地震で碑が倒壊したために新しく造られた場所らしいが、幾つかの碑には歴史的に名高い人物の名前が刻まれていたが説明するものが無かったので詳しくは分からない。

この後、更に島の北部にある国民休暇村まで歩いて行った。

眺望の良い所で休暇村の宿舎のほか旅館も3軒あり、ここは結構来客があったように見受けられた。

写真をと思ったのだがバッテリー切れ。

飲まず食わずであったため私のバッテリーも切れ掛かっており、ここの勝馬口から潮見台という展望地への登り道のコースもあったのだが、とても暑かったこともあって島の周遊路の平坦な道を歩むことにした。

志賀島の船乗り場まで4km程度だったろうか、少し休憩を取ったので歩みは快調、40分程度で志賀海神社の下へ到着したが、カメラのバッテリーを買うために船乗り場まで行き、再び数分の距離を後戻り。
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上の写真が志賀海(しかうみ)神社(一の鳥居は船乗り場前にある)。

写真右手への道が周遊道路で国民休暇村の方へ行き、左手の道を登ると潮見台展望地から国民休暇村へ出る。写真撮影位置の背面に進むと船乗り場へ向かう。

この鳥居の前には砂が置いてあり、その砂を体にかけてからお参りするように書かれていた。 清めの塩の代わりであろうか。

石段を上がると左手に古そうで立派な宝篋印塔があり貞和3年と記されていた。貞和3年と言えば1347年、南北朝時代にあたり楠木正行が大坂や紀州で足利勢と戦っていた頃である。
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少し離れて『ちはやぶる 鐘の岬を過ぎぬとも われは忘れじ 志賀の皇神』と刻まれた碑があったが、万葉集巻七では『ちはやぶる 金之三崎を過ぎぬとも 吾は忘れじ 牝鹿の須売神』とある。

『ちはやぶる』の『ち』は風の意味であり、『はやぶる』は勢いが強いと解する。 『金之三崎』は博多の東方『鐘崎』のことであり、『牝鹿の須売神』は『志賀の辺りを統べる神様』という意味であるから、『とても勢いの強い風が吹いているので船足速く、あっと言う間に志賀島を過ぎて鐘崎の岬をも過ぎてしまおうとしているけれど、志賀島の神様のお陰であることを私は忘れてはいませんよ。』とでもいう歌なのであろう。

更に参道を進むと楼門が見えてきた。なかなか立派な神社である。
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石段を上がった所の楼門の前に写真のような石橋が架かっていた。
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石橋は渡れないように柵が施してあったが、石橋築造技術が分かりやすいので写真に撮ってみた。

こうしたアーチは横方向に押し合う力を利用して石橋を造るのだが、工法としては先史時代からあり、ヨーロッパでは古い建築物として残っているものが多い。

この石橋築造の年代は分からないが、我が国では『肥後の石工』が有名であるように石橋築造技術が我が国で広まったのは秀吉の朝鮮侵略以後のことであるから、この小さな石橋も作られた年代は古いものではないだろう。

楼門を入って右方向に拝殿と本殿があるのだが、祭神は阿曇連(あずみのむらじ)の祖神である三柱の神を祀っている。

三柱の神というのは綿津見神(わたつみのかみ)三神で、底津(そこつ)綿津見神、仲津(なかつ)綿津見神、表津(うはつ)綿津見神のことである。

綿津見の三柱の神は、それぞれ海の底、中、表を統べる神で『海の守り神』と言え、海上交通の安全、海産物の恵みといった働きをするものとされている。


神社の始まりがいつなのか不明であるが、神功皇后の征韓の際、船の舵を担当したのが阿曇の一族であり、その帰路神功皇后が立ち寄ったとされているので、その時に祭祀されたものかもしれない。

本殿の横には遥拝所があり、亀石が置かれ鳥居が建てられていた。

方向が曖昧であったのだが、写真でも分かるように『海の中道』の砂嘴が鳥居の右手前方に伸びていることから東方向を遥拝するようになっていたのだと思う。
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結局日照りの厳しい中、僅かに10km程度ではあるが飲まず食わずで歩き通してきた。

船乗り場である旅客待合所に辿り着いて無糖の缶コーヒーを口にしたが美味しかったこと。

夜の食事・・・いや、夜のイッパイが楽しいものとなってきた。

しかし、次回再び来る機会があればレンタカーを借りて来ることにしよう。


at 06:14|Permalink

April 25, 2009

九州・博多散策 (6) 志賀島の続き

志賀島の『金印公園』は島の周遊道路から直ぐ山に向って階段が設けられており、この山の斜面を整備したようなもので殆ど平地のような場所は無い。

図を描けば分かりやすいが、言葉で表すと、海の波打ち際から砂浜が少し見えたが、その距離僅かに3~4mといったところだろうか。

そこからコンクリート壁?が垂直に5~6mばかり立ち上がり島の周遊道路面となる。 この路幅が5~6mだろうか。

そこからコンクリートの階段で5~6m(垂直高)上がったところに山の斜面を削ったような平地がある。

その高台の平地の部分に上の写真のような『漢委奴國王』の金印を拡大したレリーフが据えられている。 向かいの島は能古島。
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『なるほど。 ここで金印が発見されたんだ。』

小学生の頃に『へえーっ』と感心し、以来どんなところで発見されたのだろうかと、ずうーっと気になっていたことが、これでやっと納得。

この平地部分から山の斜面を踏み固めたような道を少し上る(垂直高3m程度)と同様に山の斜面を切り開いた20坪程度の見晴台のような場もあり、公園らしい雰囲気は一応備えているのだ。

公園というのは、この山肌の一角を削ったようなところだけで周囲は雑木が茂る山なのである。

金印が発見されたのは1784年のことで天明の飢饉が続いた頃のことであり、発見者が志賀島の農民・甚兵衛であることと『百姓甚兵衛口上書』を先の『(4)志賀島へ』の項で紹介した。

金印はその印刻文字『漢委奴國王』から『後漢書』の「倭伝」に記載されるものであるとされた。

建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印授

つまり、『建武(光武)中元の2年に倭奴國が貢ぎ物を持って(奉貢)挨拶に来た(朝賀)。使は自ら大夫(位が高い者の意味)と称した。倭奴國は倭國の最も南の端の国である。よって光武帝が印授を与えた』といった意味である。

後漢というのは中国を統一した前漢に対するもので西暦25年に光武帝が洛陽を都に定めてから西暦220年までの中国のことである。

ついでに書けば、後漢が220年に滅び、後に魏が中国北部を統一して魏蜀呉の三国時代が始まるのだが、三国志で名高い蜀の劉備、関羽、張飛が活躍するのがこの三国時代である。

ところで後漢の建武中元の2年というのは西暦57年のことであり、日本史の上では弥生時代中期にあたる。

光武帝が印授を授けて1700年あまりも後に志賀島の田んぼで『漢委奴國王』の金印が発見されたのである。

この間に一体どのような物語があったのか、歴史学的証明とは別にいろいろと想像することは面白いことである。

私は金印発見の場所(碑には『漢委奴國王金印発光之處』と刻字)が海岸からかなりの勾配の傾斜地を削ってできた猫の額のような広さで水利便が悪く生産効率の甚だ悪い田んぼを耕していたということが少々信じれない思いで見学していたのであった。

同時に、そのような場所に何故光武帝が授けた『漢委奴國王』の金印が埋められていたのか、一旦納得した思いがグラグラっと崩れる思いがしたものだった。

当然専門家たちにより各方面からの調査が為されてきたのであろうが、金印発見の場所を訪れたということについては満足したものの、何故その場所であったのかという点については納得出来ないものを感じたものであった。

先の後漢書が『東夷の倭の奴國王、使いを遣わして奉献す』と記しているが、当時の日本には文字による記録が無かった(発見されていない)ために中国の文字記録(中国の正史)によるほか日本の様子を知ることが出来ない。

中国の正史において日本について記述している書の最初が後漢書の『東夷』伝であり、これには『倭』と記されている。

以後、三国志、晋書、宋書、南斉書、梁書、南史、北史、隋書、旧唐書、新唐書と続くが、後漢書(西暦398年~445年)から隋書(580年~643年)までは日本のことを『倭』『倭人』『倭國』などと記しているが、旧唐書(887年~946年)において『倭國』『日本』と初めて日本という文字が出てくるのである。

『日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと【略】』(旧唐書)

後漢書によれば西暦107年に倭國王が奴隷160人を献じているし、147年の項には“倭国大いに乱れ、たがいに攻伐しあい、暦年主なし”“遂に共に卑弥呼を立てて王とする。邪馬台国の女王卑弥呼は鬼道につかえ、よく衆を惑わし、夫壻なく男弟が国の統治を助け、婢1000人を侍らすという”と記されているように『倭奴國』『倭国』『邪馬台国』『卑弥呼』『日本』というものを一連のものと見たならば、後漢の光武帝が授けた金印、それを授けられた側の日本の国家(?)がどのようなものであったか、授けられた側の日本が日本と名乗りを挙げるまで何百年かの年月を経ているが、それまでの間、請見する立場であった日本にとって中国は言わば主上国であり、その目上の国の帝王から授かった価値あるはずの金印が何故に志賀島の田んぼのような所に埋められていたのか、納得出来ない謎が深まるばかりである。

頭の中にもやもやしたものを抱えながらも時折海上を吹き抜けてくる風を帽子を取って受け、汗が引くのを心地良く感じながら島の周遊道路を歩いて行った。


at 11:11|Permalink

April 23, 2009

九州・博多散策 (5) 志賀島

双胴船『きんいん』の乗り心地が良いことは書いた。

下の写真は船内を撮影したものだが、舷側の大きいガラス窓に沿って青色のシートが並び、船の真ん中に沿ってピンク色のシートがテーブルを囲むように設置され、船からの景色を眺めたければ窓側へ、グループで歓談するなら中央へと、人数構成や目的によって席を選ぶことができる。
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私が乗船した『きんいん』の船室は写真の通りガラガラの状態。

往路では10人ばかりが乗ったが途中の西戸崎(さいとざき)、海の中道海浜公園に近い港であるが、ここで多くが降りて志賀島では私も入れて3人が下船。 帰路は私を入れて3人、途中、大岳と西戸崎からの乗船者があって博多港では20人くらいになっていたろうか。

朝夕の通勤時や休日には利用者が多いのかもしれない。
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写真は志賀島旅客待合所で、船の乗下船はこの建物の改札口を通ることになる。

この待合所は『海の中道』と呼ばれる砂嘴が伸びてきた突端部と志賀島が結ばれるところに位置し、言うなれば志賀島の入口部分にあたる。

待合所から10mばかりの所に道路があり、『海の中道』から来る道路と志賀島を一周する道路の起点が交差し、三叉路になっている。が、信号機は無い。
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上の写真・右手の集落が志賀島漁港と旅客待合所がある所で、集落の端から左手の方に砂嘴が伸びているのが分かる。

この砂嘴の中央上を写真に写っているような道路が1本通っているのだが、道路の両側は写真のような砂浜になっており、途中1ヶ所だけ橋が架けられたような箇所がある。

砂嘴なのか砂洲なのか地理学上での分類は分からない。

『海の中道』が砂嘴として発達してきたことは地形上明らかであるが陸地と陸地が結ばれた地形を砂洲と呼ぶなら博多湾を完全に取り囲むようになっていなければ砂洲とは言えない。 と思う。

しかし、志賀島とつながっている状態だけを見れば砂洲とも言えるのだが、これは専門の人たちに任せておこう。

この日は4月初めだったのだが真夏のように暑い日であった。

しかし志賀島の周囲は僅か10km程度であるし、タクシーもレンタカーも無く、乗り合いバスも走ってはいるのだが本数は少ないというよりも殆ど無いに等しい状態であったため、自分の足を信じて歩くことにした。

旅客待合所からしばらくは道路に沿って家並みが続くのだが、志賀島小学校を過ぎると建物は無くなって海岸沿いの対向2車線の道路をひたすら歩くことになった。

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岩がゴロゴロするような海岸もあれば、僅かだが砂浜のある海岸もある。青々とした海には時折大きい船が走っていったり、釜山からの便であるジェットホイルが白波を上げて走る姿も見えた。
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島の西南部の海岸からは福岡タワーやドームなど百道あたりのビル群が春霞の中にぼんやりと蜃気楼のように眺めることができ、西側には能古島や唐泊三崎から西浦崎への丘陵の起伏、それに先の地震で壊滅的被害を蒙った玄海島も望めた。

眺めは良く潮の香りを嗅ぎながらハイキング気分の島歩きは楽しいものであったが、僅かな距離であっても陽射しは強く、かぶっていた帽子の周縁が汗で色が変わり始めていた。

島を周遊する道路は時々観光客の自動車などが行き交い、レンタカーを借りて来たほうが良かったろうかと思いつつも既に後戻りも出来ないところまで来ていたので、そうした思いを振りきり海の眺めを楽しみながら歩を進めた。

島を周遊する道路はほぼ平坦であり歩くことに負担を感じるような道ではない。

前方右手に3台の車と単車が1台止まっているのが見えた。

多分『金印公園』なのだろう。


at 15:53|Permalink

April 22, 2009

九州・博多散策 (4) 志賀島へ

博多のお寺について書いてきたが、家内を連れて案内して回る時間に限りがあってなかなか回りきることができない。

聖福寺もと思っていたのだが家内の新幹線乗車券をホテルに預けたラッゲージに入れていたことを思い出し、仕方なくホテルまで戻る事にして改めて博多駅まで送ることにした為に今回の案内は承天寺までで終了となった。

翌日、私は以前より興味を持っていた志賀島(しかのしま)へ行くことにした。

志賀島というのは日本人誰もが知っている(多分)金印が発見された島である。 写真は志賀島旅客待合所(船の)に設置されているもの。
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1784年(天明4年)、当時の福岡藩志賀島の農民・甚兵衛が、
私の所有地、叶の崎という所の、田んぼの境の溝の水はけが悪かったので、先月23日、溝の形を修理しようと岸を切り落としていたところ、小さい石がだんだん出て来て、そのうち2人持ちほどの石にぶつかりました。この石をかなてこで取りのぞいたら、石の間に光るものがあり、取り上げて水ですすぎ洗いしてみたところ、金の印判のようなものでした。(後略)」
と、那珂郡役所に口述報告したことが『百姓甚兵衛口上書』として記録に残っているそうな。

その金印は百道(ももち)の福岡市博物館に展示(レプリカであったかも)されているが、どのような場所で発見されたものなのか、その場所を見てみたいと思っていたのである。

現在は博多湾の埋め立てが進み、博多港の岸壁が整備されて大型船舶の停泊が可能になっているが、昔の博多湾はもっと奥深くまで入り込んでいた。 それを西側の能古島と真ん中の志賀島、更に東側の和白あたりから伸びた砂嘴が志賀島と結ぶように囲い込んで博多湾を自然の良港にしている。

博多から志賀島へ行くには大きく分ければ2つのルートになる。

1つは香椎、和白を経由して砂嘴である『海の中道』を通って行くルートだが、このルートはグルッと遠回りになるし、交通便が良くないのでレンタカーを借りるのが得策と考えられ、自分の思う時間に行動できる。

もう1つはベイサイドプレイスから博多湾を船で向かうルートである。 博多湾を船で突っ切るのは経費的には安いし、途中でお酒が入っても大丈夫。 しかも自分の足で回るのだから駐車場の心配も必要ない。

このように良い面悪い面を考慮して、結局船で博多湾を突っ切ることにした。

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写真はベイサイドプレイスとポートタワー。 白色の2艘の双胴船が『海の中道』『志賀島』航路に就航している船。

博多から志賀島への船は途中『海の中道』の西戸崎、大岳に寄港するのだが所要33分と時間的には良いのだが、船の発着がほぼ1時間に1便と便数が少ないのが私にとっては都合が悪かった。

しかし、立派なボートなのだが乗客が少なくガラガラの状態で運行していのだから、便数が少ないのも止むを得ないことかと福岡市に対して同情的になってしまった。

この立派な双胴船だが福岡市営渡船なのだと。

私が乗船したのは『きんいん』。 『きんいん』には1号と2号があったようだが、どちらに乗ったのかは分からないが走行、乗り心地とも素晴らしいものであった。 これで往復1300円。

ベイサイドプレイス博多を出航した『きんいん』はマリンメッセ福岡の博多港国際旅客ターミナルに停泊中の釜山航路フェリー『ニューカメリア』やジェットフォイルの『コビー』を眺めながら進んでいった。
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上は釜山航路フェリー『ニューカメリア』

下はジェットフォイルの『コビー』
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『コビー』は韓国側が運行するボートであり、日本側、JR九州が運航するのは『ビートル』。  ボートは同じ形をしていたように記憶する。

このボートで釜山まで3時間の航海である。

志賀島行きの双胴船は、やがて『海の中道』の砂嘴を眺めながら進むことになる。

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写真の白い建築物はマリンワールド『海の中道』である。

at 10:08|Permalink

April 21, 2009

九州・博多散策 (3) 承天寺・万行寺

博多の祇園町、御供所町、呉服町界隈は寺町と呼べるくらいにお寺が多い。

先に書いた東長寺もそうだが歴史のある寺々が集まっている。

この承天寺(じょうてんじ)は萬松山承天寺と言い、中国の宋において修学した円爾弁円(えんにべんえん)が博多へ帰り着いた折に開山した2つの寺の内のひとつである。

円爾弁円は三井園城寺で天台教学を学んだ後に当時の中国『宋』へ渡り、帰国後、萬松山承天寺と太宰府に崇福寺(現在・跡)を開山し、京に出て東福寺開山の祖となった。

関西在住の者としては京都・慧日山東福寺開山の祖・聖一国師の方が親しみ深い。

承天寺の境内は道路を挟んで覚皇殿(仏殿)側と方丈側に分断されたような格好になっているが、この寺もビル、道路に囲まれている割には静かな佇まいである。

下は覚皇殿。
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覚皇殿の前にも元寇の折に沈没した元の船の碇石が置かれていた。
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下は覚皇殿(仏殿)側から道路を渡った方にある方丈。
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上の写真では方丈の前(左手)に白色の石庭・洗濤庭が見えるのだが写真は撮れなかった。

方丈へ続く寺務所(庫裏になるのだろうか)を訪れてみたが、磨き上げられて黒々と光る広い床板の玄関は物音ひとつせずに静まり返っており、「御用の方は・・・」と書いてあり木鐸を叩けば良いのだが、あまりの静寂さのために私も臆してしまい、とうとう木槌を握ることなく失礼することとなった。

コースがあと先になってしまったが、下は浄土真宗本願寺派・普賢山萬行寺の山門と奥にある本堂。 開基は空性(くうしょう)で1529年のこと。
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随分大きいお寺で山門も立派であるが金色の紋章が分かるだろうか。 本堂の屋根瓦にも寺紋が掲げられている。

この寺紋は『澤潟(おもだか)』である。

『澤潟』というのは湖沼などの湿地帯に生える多年草で夏に白い花を咲かせ、これの変種に食用のクワイ(慈姑)がある。

だが、先に記したようにこの萬行寺は浄土真宗の寺院であり、通常浄土真宗の寺院の紋は『下がり藤』(九条藤紋)を用いるのだが、寺紋が異なっていることが不思議であったので寺務所で尋ねてみた。
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この『澤潟』紋の歴史は古く、その謂れは1570年にまで遡る。            
写真は門前に建てられている『親鸞』伝道布教の姿像。

1496年、浄土真宗中興の祖と謳われる本願寺8世・蓮如が京都に山科本願寺を開創し本山としたが、各地の一向一揆などによって本願寺の勢力増大を怖れた管領・細川晴元は日蓮宗宗徒らと結託して1532年に山科本願寺を焼き討ちにした。

応仁の乱(1467~77)で京都の町は壊滅状態になり、室町幕府の権威は失墜、下克上の戦乱に明け暮れる世相を呈するようになっていった。(戦国時代と総称)

本願寺(10世・証如)は大坂・石山の地に大坂御坊(石山本願寺)を築き、ここを本山とした。

石山本願寺は現在の大阪城が建つ位置にあり、当時は大阪湾と幾筋にも分かれた淀川の流れに囲まれた上町台地という高台にあって、交通至便且つ自然要害の堅固な城塞であった。

やがて、天下布武を目指す織田信長は本願寺の勢力を潰しにかかり、1570年石山本願寺(10世・証如)は織田信長と合戦状態に入ることとなった(石山合戦)。

この石山合戦では毛利水軍、村上水軍らが海側から本願寺への物資支援に入り、信長側は信長の指示によって九鬼水軍が鉄甲船を建造して海上封鎖を行うなど、戦における新しい戦闘方法が生み出されたことでも有名である。

結果的には講和に進み、石山本願寺の出火・消滅で合戦の幕が閉じられたのだが、この石山合戦において目覚しい活躍をした萬行寺の5世・正海に対して本願寺11世・顕如により毛利侯の紋『澤潟(おもだか)』を授けられ、以来この紋を寺紋としているとのことであった。
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上の写真中央は『名娼明月墓』と刻まれている明月信尼の墓所で鐘楼の前にある。

備中の郷士・窪屋與次郎一秋と一人娘『お秋』は石山本願寺の合戦の折に浄土真宗の法燈を守るべく11世・顕如上人に仕え働いていた。

この石山合戦の時、『お秋』は萬行寺の5世・正海と知り合い信仰を得た。

当時の『お秋』は15歳の頃、聡明な美人であり国元の備中には許婚者である郷士・伏岡金吾がいたが、同藩の矢倉監物の横恋慕を受けていた。

この矢倉は『お秋』を我がものとせんがため伏岡金吾殺害を謀るが間違って金吾の父親を殺めてしまったために九州へ逃亡した。

一方、石山本願寺での熾烈な戦いの中で『お秋』の父親・與次郎一秋が戦死し、その遺骨を抱えて『お秋』が国元へ帰ると許婚者・伏岡金吾は父親の仇討ちのために九州へ旅立ったあとだった。

『お秋』は金吾に会いたい一心で九州へ向かうが、筑前・早良で野盗に成り下がっていた矢倉監物を倒したものの金吾も命果てたことを知り、『お秋』は悲しみのどん底に落ち込み入水を図った。

その『お秋』を助けた男は博多・柳町の妓楼『薩摩屋』へ『お秋』を遊女として売り飛ばしてしまった。

『お秋』は『名月』と名前を変えさせられ苦界での生活を余儀なくさせられることとなったが、数年を経て(多分)、亡き父母と許婚者・伏岡金吾の菩提を弔いたいと楼主の許しを得て萬行寺に詣でることとなった。

そこで萬行寺の5世・正海と再会。 住職・正海によって弥陀本願の教えに導かれた『名月』は爾後早朝の日参を続け『南無阿弥陀仏』の名号を唱え続けた。

過酷で厳しい日々を送るうち『名月』は病み衰え床に臥すようになった或る日の夜、楼の近くを通りかかった正海の目に病床に臥す『名月』の姿影が普賢菩薩となっているのが見え、正海は『名月』が今まさに普賢菩薩に迎えられようとしているのだと彼女の最期を悟ったというのである。

『名月』22歳。 彼女の願いによって萬行寺に葬ったのであるが、七七日、つまり四十九日の日、『名月』を埋葬した所に1茎の蓮華が伸び白い蓮の花が咲いていたのを寺男が発見したのだそうだ。

そこで、寺社奉行立会いのもと、正海、薩摩屋楼主ら人々が集まる中で墓を掘り返してみたところ、『名月』は生きているかの如き肌合いにして、その淡紅の唇から浅緑の蓮華の茎が真っ直ぐに伸び、その先端に純白の蓮華の花が開いていたということなのである。

毎年5月15日の名月追悼法要の際に宝物『名月尼の口蓮華』の拝観が出来るようで、400余年を経た現在でも口蓮華は浅緑の色を保っているらしい。

科学的には有り得ないこと。 信じる信じないは自由である。 しかし、現実に起こる全ての事象について科学でもって説明しきることが出来ないことも事実。

説明出来ない時に私達は『偶然』とか『不思議』といった言葉で片付け納得してしまう。 科学は因果関係が明確でなければならず、言わば『必然』であるわけだが・・・


at 12:23|Permalink
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