June 2009

June 30, 2009

北欧の旅 (18) リレハンメル~ゲイランゲル 

リレハンメルからE6(欧州自動車道)でオッタへ。

オッタからA15道路でロム(Lom)へ出る

未だ新緑と呼べる木々の葉が茂る山間路であったり流れの速い川に沿った道であったり、道路に沿った斜面ではヤギやヒツジ、それに牛などが草を食んでいるといった具合にノルウェーの道路は自然豊かである。 

道路が起伏に富んでいるのは比較的地表の浅い部分まで岩盤が出ているためであろうか。

オスロからは既に相当な距離を走行し、ロムで暫く休憩を取った。
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ノルウェーにはスターヴ教会(Stav Kirke=Stave Church)が多く保存されている。

上はロムのスターヴ教会であるが、1100年後期の建造で、1600年代に十字型に増築され、内陣の装飾は1608年、内陣の木彫り囲いが1702年に造られたものだという。(内陣の写真は無い)

ノルウェイ語のスターヴStavは英語のStaveにあたる言葉なので日本語で言えば板とか棒などの意味があるので木造の教会と解して良いだろう。

ノルウェーにキリスト教が伝えられたのが1000年頃のことであるとされ、その後キリスト教が急速に広まり、伝道100年後には少なくとも750の教会が建造されたとされている。

現在28のスターヴ教会が保存されているが、外見上はキリスト教会ながら、下の写真に見られるように切妻部分に獣態装飾が施されているなどキリスト教会とは異質な装飾が施されていることから、古代ノルド人、バイキング時代の人々の信仰と後世になって伝えられたキリスト教が融合した結果ではないかという指摘がある。
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木造教会の原材料が木材であり、バイキング時代の船の建造に関わる優れた木造技術が教会の建築構造や技術に生かされ、中世の北欧各地にあった木造教会がノルウェー以外ひとつとして残されていないことからも、彼らの木造技術が秀でていたことが理解できる。

写真でも分かるように、スターヴ教会は支柱となる柱、梁、壁、床から瓦に至るまで全て木材で出来ているのである。

このロムの町からの道も山間を流れる清流に沿っている。

もともと道路の歴史を辿れば人々が歩き固めたものか獣たちが通った道であり、それらは当然のこと、出来る限り平坦で歩行移動が容易いルートが選ばれたはずである。 木材を伐り出し運搬する杣(道)にしてもルートは同じように選ばれたことだろう。

その道路、乗用車も走るがキャンピングカーがノロノロ走行するのが目立つ。 天気の良いうちに私は先を急ぎたいのだが・・・

ノルウェーでの宗教祭日、つまりキリスト教の祝祭日である復活祭、聖霊降臨日、クリスマス、この3つが大きいものである。

復活祭はイースター(Easter)とも呼ばれてイエス・キリストの復活を記念して春分の後の満月直後の日曜日に行われ、この日をイースター・サンデーとも言う。 4月12日が日曜だったので、『最後の晩餐』は4月10日であったということに。

十字架に架けられて死んだキリストは3日後に復活、30日間人々に姿をみせて復活の証(あかし)を示した後に天に昇ったとされる日が復活祭後40日目の木曜日であり、この日を昇天の日(Ascension Day)と言い、5月21日がその日であった。

聖霊降臨日は磔刑に処せられたキリストに聖霊が降りてきた日で、これは復活祭の50日後で5月31日。この日はウイット・サンデーと呼ばれ、翌日はウイット・マンデーで祝日となる。 つまり週末から月曜日にかけて3~4連休となっており多くの人たちが出掛けるのと重なっていたのである。
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ともあれノロノロ運転のキャンピング・カーの後塵を拝しつつも徐々に道路の高度が上がっていった。(舗装路なので塵が舞い上がることは無かったが)

やがて上の写真のように既に森林限界線を越えた道路を走るようになる。

森林限界線と言うのは植生上の特徴を表す言葉であり、これまで走行していたあたりはトドマツなどのマツ科針葉樹やシラカバのような広葉樹の高木が森林を構成していたのであるが、高度の上昇とともに高木類が生育しにくい環境となって森林が無くなる。 この植生上の限界を表す言葉である。

この限界線を越えると低木が疎らに分布する地帯から更に高度が上がると、やがてコケ植物や地衣類しか育たない地帯に至る。


ノルウェーは高緯度に位置するので日本の高山における植物の垂直分布を尺度にすることはできない。
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上の写真のように残雪の残る山々は岩ばかり。 窪みになった広い池のような湿地帯の氷は完全に溶けてはいず、若干の地衣類が見られた程度だが、この場所でも高度はせいぜい1000m前後である。

こうした地帯をしばらく走り続けた後、ダレスニッパ展望台(Dalsnibba)へ大型バスで路幅がいっぱいの未舗装でヘアピンカーブ続きの道を急勾配で登っていった。

ガードレールも無い岩山を切り崩して設営した道路は上りであっても恐ろしい。

以前にこのあたりを走ったのは6月の夏至前であったように思うが、この展望台への道は無かったように思う。

通常は残雪量や除雪の状況から6月に入って開通、走行許可が出るらしいが、今年は5月30日の本日走行可となっていた。

山の天気は娘心同様に変わりやすいもの。

ノロノロ運転のキャンピング・カーにイライラしていたのは、私が初めて訪れるダレスニッパ展望台は、そこからの眺望が命。 天候が崩れれば価値なし。しかも夏の一時期だけ通行が許可される所だからだ。
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雪山に夏服の普段着。 しかも通常の革靴。 こんなことはしないのだが旅行中でありバスで登ることが出来るからのこと。

ともあれ絶好の天候に恵まれた。

ドライバーのステインも珍しいことだと言う。
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ステインの薦めもあり、バスの冷蔵庫のビールでスコール。

天候に恵まれ最高の眺望を満喫したこと。 それをさせてもらえた健康に感謝。 勿論、ステインにも君の安全運転のお陰だと感謝の言葉を伝えておいた。

ちなみに缶ビールは『GULD』。スウェーデンのビールらしい。『GULD』は英語で『GOLD』にあたる。

将に『金』の価値を得たわけだ。
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上の写真中央、山が切れ込んだあたりの紺色の部分がゲイランゲル・フィヨルド(Geiranger Fjord)の最奥部にあたり、今夜のホテルのある場所である。

フィヨルドは海水が入ってきた奥深い入り江であるから、フィヨルドの水面は海抜ゼロメートルであり、海抜1500mのダレスニッパ展望台からクネクネと曲がる道を1500m下ることになる。
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ダレスニッパ展望台から下る途中、ユーヴェ展望台からゲイランゲル・フィヨルドを眺めた写真が上である。

写真では白くたなびく靄のようなものが写っている。これは翌朝に分かったのだがゲイランゲル・フィヨルドの観光船が吐き出す煙が漂っているのである。

漂っている煙が一定の高さと場所をほとんど変えていないのは山間のあの場所辺りの空気移動がない。 つまり気温変化がほとんど無いために風が吹いていないということ。 それと、一般的に(山間地は異なるが)空気の対流現象は500~600m程度の高さまでで起きるとされているので、煙の辺りの高度が園程度の高さになるのだろうか。

つまり、ダレスニッパ展望台が1500mであったから、このユーヴェ展望台の高度は7~800mの高さなのかと想像。 実際の高度は聞いていないので分からない。



at 16:06|Permalink

June 29, 2009

北欧の旅 (17) オスロ~リレハンメル 

オスロ・フィヨルドの最奥部にあるオスロ港に定刻接岸したパール・スカンジナビアから下船。

船に預けてあったラッゲージがチャーターしたバスに運ばれてきた。

オスロ港を出発点としてスウェーデン・ストックホルムまでの間、私達の足になってくれるチャーターしたバスとPearl of Scandinaviaの写真である。
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運転手はMr.SteinかStainか。 スタインと呼んでいたが名前のつづりを聞かなかったので分からない。 が、なかなかエエ男やった。

オスロからはE6(欧州自動車道路)でリレハンメル(Lillehammer)を経てオッタ(Otta)へ。 ここからA15(ノルウェーの国道のようなもの)でゲイランゲル・フィヨルドへ向かう。

ヨーロッパは幾つもの国家として分かれてはいるが、英国やアイスランドなどを除いて全て陸続きである。 そのため幾つもの国家間を道路がまたいでおり、それらの主要な道路を欧州経済委員会(Economic Commission for Europe)=UNECEがヨーロッパ道路網の幹線道路に指定し、各国共通の道路としてアルファベットの『E』と数字を組み合わせて道路標示を為している。 

途中エスパ(Espa)の近くで休憩を取った。
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上の写真はミョーサ湖(Lake Mjosa)。 この湖は湖面海抜が123m、最大幅でも15km、北西から南西方向に細長くその全長は117kmにも及び、最大深度468mとノルウェー最大にして最深の湖である。 

お天気は上々、陽射しは強いが湿気がなくカラッとしていて気持ちが良い。

素晴らしい景色を眺めながら、てんこ盛りのアイスクリームは美味いものであった。

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リレハンメルのレストランで昼食。

初めにパンを持ってきてくれ、その後にボールに入れた野菜(細長く切ったレタス?だけ)、同じようなボールにご飯を入れたもの。 そして、白いお皿に蒸した大きい切り身のサーモン。 このサーモンには写真のようなオレンジ色のソースがかけられていた。

サラダもご飯も好きなように勝手に自分の皿に盛れというわけ。

贅沢を言うつもりではないが、サーモンは塩鮭を焼くのが一番美味い。 それも昔ながらの塩辛いのが。

贅沢と言うよりも私の好みである。

レタスのような菜っ葉は美味かった。 これも単に私の好みか。

しかし、ご飯はハッキリ言って不味かった。

ご飯の味がしないご飯って分かるだろうか。 まあ付け合せとして出されたものだからご飯を主食とする私とは違うのだが。 香りもモチモチ感も無く、蒸した米を水で洗い、それを再び蒸して冷ましたような全くツマランものであった。

1993年から1994年にかけてタイ米を緊急輸入、米屋がタイ米と抱き合わせでないと日本産米を売らないというメチャクチャなことをしよったことがあった。

もともと外米は美味しいと言えるものは少なかったが、この時ほどタイ米が不味いと日本人の多くが思った時は無かったのではないだろうか。

しかし、そんなことはないのである。日本産米と言えど、しかも低温倉庫でいかに品質管理が行われていようと2年3年と年数を経れば経年による品質劣化は避けようも無く香りも味わいも落ちるのが当然。 緊急輸入されたタイ米が経年劣化を起こしている古米なら当然のことだったのである。

外国産米の名誉のために敢えて書いておこう。

実際に何度も食べた私の感想だが、タイ米、オーストラリア米、アメリカ(カリフォルニア)米、イタリア米と、好みは別にしていずれも美味しいものであった。

しかし、いろんな経験をもとに考えても、このレストランの米は品質も調理法もマズイと言わざるを得ない代物であった。

それでも『もったいない』と、食事を頂けることだけでも『ありがたい』と思う私はオレンジ色のソースさえパンで拭き取るように頂き、お皿を元通り綺麗な白色にしておいた。

食の文化が違うのである。 条件の異なるものを同じステージで比較することがそもそも間違いであって、優劣をつけることはすべきではない。

私の『好み』を書いてみたのである。
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レストランを出てからリレハンメルの町を少し歩いてみた。

せいぜい数百メートルの山からなだらかな斜面がミョーサ湖(Lake Mjosa)に連なる中腹から湖岸あたりにリレハンメルの町が広がり、ヨーロッパの旧市街の多くがそうであるように町のメインストリートと思われる道はこぶし大の石が埋め込まれていた。

リレハンメルは決して大きい町ではなく軽井沢のような高原避暑地といった感じで、初夏の太陽を受けて町の公園(上の写真)では人々がシートを敷いて日光浴を楽しんでいた。
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リレハンメルは1994年の冬季オリンピックが開催された町で、スキー・ジャンプ団体で最終ジャンパーの原田の記録が100mにも満たず、日本が2位に終わったという残念な記憶がある。

リレハンメルの町並みを抜け、なだらかな草地の斜面を登って行くとジャンプ台の下に至る。

ジャンプ台は各地で見てきてはいるが、間近に見上げると改めてその高低差に怖れを抱く。

原田の記録が100mにも満たなかったなどと書いたが、確かに日本が2位に終わったことは残念だった。 しかし、真上に見上げる程の高さのジャンプ台の下に立ち、眼下に広がる広大な景色を実際に目にし、それが遥かに高いジャンプ台の上からならばどのような情景として映るか、しかも急斜面を高速で滑り降りスキー板と我が体だけで飛行することを思えば自分には不可能なことと思い知る。

全く何と無責任で軽々しい表現なのであろうかと、当時メディアが報じた記事表現をそのままに未だ記憶していた自分が恥ずかしくなった。
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ジャンプ台の下にはリレハンメルの町がミョーサ湖畔に広がる。

南北に117kmと細長く伸びるノルウェー最大のミョーサ湖であるが、このリレハンメルの町が湖の北端(右端方向)となっている。


at 15:52|Permalink

June 28, 2009

北欧の旅 (16) コペンハーゲン~オスロ DFDS Seaways (2)

午後5時に出航のPearl of Scandinaviaであるが実にデカイのである。

DFDS Seawaysの資料によれば全長176.8m、全幅29.6m、乗用車365台と乗客2100人を積載できるという総トン数4万12トンの巨大船なのだ。
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上の写真はPearl of Scandinaviaが岸壁を離れた時に上甲板で撮ったものだが、港の施設(ビル群)とカメラの目線を比べてみれば分かる通り、左手の白いビルが11階建てなのだから、この船の高さがどれだけのものか想像がつくであろう。

写真中央よりやや右にドームが見えるが、コペンハーゲン港からは南方に位置するフレデリクス教会(大理石教会)で、甲板からはコペンハーゲンの街を一望できる。

この船はフェリーなのでカーデッキが3階と4階。

客室は5階、6階と9階、10階にある。
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客室はインサイドとシービューに分かれる。 これはインサイド、つまり窓がなくて海が見えない部屋が並ぶ廊下であるがシービューの廊下も同じこと。 カーペットが敷き詰められた長い長い廊下が続く。

5階が船の出入り口になっており、6階にはサウナやスイミングプールも設置されている。

7階フロアはレストラン、免税店、両替所、レストランやカフェが占める。

私たちが夕食、朝食を摂ったブッフェレストラン『Seven Seas-Terrace』もこのフロアにある。

8階にはレストラン、バー、ナイトクラブなどがあり、10階には客室のほか、プールと屋上デッキが広がる。

11階は会議室と屋上デッキがある。

私たちの部屋はインサイドルームで外の景色を眺めることはできなかったが、4人部屋をツイン仕立てにした部屋で、小さいながらもシャワーブースにトイレットも設置され特段不自由を感じることもなかった。
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ただ、もっとも心配だったのは船旅を弱い弱いと心配していた家内のことであった。

もう40年近く昔のことであるが、関西汽船の客船で大阪・天保山から別府まで瀬戸内海航路を利用した時、その帰りに宮崎・日向港から高知県沖を通って大阪へ戻るサンフラワーを利用した時の船酔いがひどくて、その時のことをいつまでも覚えていたのである。

そのため船に乗ることが無かったのだが、2年前であったか、短い時間ではあるが青函フェリーや利尻島・礼文島へのフェリーに乗せて慣れるようにしてきた。

昔の数千トンクラスの船ではなく、現在は大型化していて揺れも少なくなっている。

昨年は小型のフェリーだが九州への旅行で2度経験させ、当人も大丈夫みたいと語っていた。

今回乗船する船は4万トンクラス。 これまでに乗ったどの船よりも何倍も大きいから大丈夫と家内には何度も刷り込みを行ってきた。
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それでも若干の不安を持ってはいたのだが、ズンド海峡(エーレスンド海峡)は穏やかでベッドに横になった時に船のエンジン音をわずかに感じはするものの船に乗っているという感じはほとんどせず、家内の調子は頗る良港であった。

乗船する前にも、乗船してから船のパンフレットでも、スウェーデンとデンマークの最も狭い海峡に位置するクロンボー城のあたりを19時に通過するとの情報を得ていたので、是非ともクロンボー城を海から見てみたいと思っていたのである。
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左は朝食時のブッフェレストラン『Seven Seas-Terrace』の写真であるが、私達の夕食は17時であるから食事を終えてからクロンボー城を見にデッキへ出るつもりにしていた。

船のブッフェレストランは日本でのバイキング形式になっており、好きなものを好きなだけ取って食べるという北欧ではスモーガスボードと呼ばれているものである。

料理の種類は多く、サーモン、ニシン、エビ、ハム、ソーセージ、チーズなどからデザートに至るまで大変に豪華であり、とても全種類を食べれるものではない。

ストックホルムとヘルシンキ間はビールも飲み放題だが、この船では注文しなければ出てこない。 それでもサービスなのかツボー(Tuborg・デンマークのビール)が1人に1本付いていた。 もっとも私の腹には2本分入ってしまったが。

で、食事もそこそこにしてデッキに上がったのだが、むむむむむ。

狭い海峡は既に船尾のずっとずっと後方。

ひょっとして見間違えか? 記憶違いか? 情報の間違いだったのだろうかと考えてみたが、定刻に出航しており海は凪、自分の間違いということもあるから強い潮風を受けながらも暫くデッキで眺め続けていた。

しかし、やはり通り過ぎていた。

残念。

もっと早く見に出てこなければ・・・と思うが、そうそう何度も来れるところではない。

残念。

仕方なく船室へ入り早めに眠ることにした。

午前4時。 私にすればいつものことなのだが、静まり返った船内から屋上デッキへ出てタバコを一服。

既に空は明るくオスロ・フィヨルドが前方に口を開けている。
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上の写真は朝食を終えてからだったろうか・ 既にオスロ・フィヨルドの奥深くまで船が入ってきていた。

オスロの町はフィヨルドの最奥に位置しているのである。

ノルウェーの海岸線が入り組んでいるのは、このようなフィヨルドが幾つも幾つもあるからである。


at 10:50|Permalink

北欧の旅 (15) コペンハーゲン~オスロ DFDS Seaways (1)

のんびり、ゆったり、このような旅行スタイルが好きな私たちにとっては少々慌しい移動にはなるが、添乗員付きガイド付きのパッケージツアーというのはそれぞれの旅行会社が他社としのぎを削り、熾烈なまでの競争の結果としての商品であるだけに先ず間違いのないものになっている。

と、私は思っている。

思うというような曖昧な表現を付け加えたのは、私達が常にパッケージツアーを利用しているわけでもなく、沢山ある旅行会社の商品について熟知しているわけではないからで、少しばかりパッケージツアーに参加したからといって全てを知っているかのように言うのは適切ではないと考えるからである。

だが、旅行の参加費用、日数、コース、訪れる場所、ホテル、食事、利用交通機関など総合して考えてみれば、個人で同じ行程の旅行をする場合に比べて3分の1程度は安く、場合によっては半分の費用で旅行することが可能である。

しかも、旅程上に生じるロスタイムが少なく、煩わしい手続きも要らず、訪問先の名物料理も組み込まれていると何かと便利なのである。
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今回の行程中、デンマークのコペンハーゲンからノルウェーのオスロまでDFDS Seawaysの大型フェリーを利用するのだが、この間を船で移動するのは初めてなので私は随分楽しみにしていたのである。

今回乗船したフェリー客船はPearl Of Scandinavia(写真)であるが、総トン数40012tという巨大な船のため写真に収めきれずDFDS Seaways社のホームページのものを借用した。

Pearl Of Scandinaviaの全景写真Fred Claessen氏のWWW.Maritime Memoriesに掲載されているので紹介しておく。

コペンハーゲン・オスロ間にはPearl Of ScandinaviaとCrown Of Scandinaviaの2隻が就航しており、両船は2つの港から各々17時に出航して翌朝の9時30分に到着するスケジュールになっている。

個人旅行ならば乗船手続きから荷物の預け入れなどをしなければならないのだが、こうした面でもパッケージツアーの場合には添乗員が代行してくれるため手荷物を持っただけでブラブラしておれるので楽である。

もっとも乗船ゲートで若干トラブルが発生したが・・・

このフェリーは国内移動ではなく国際線フェリーなので、乗船ゲートではパスポートと乗船券に記載された氏名との照合が行われる。

ゲートでのチェックは2列で行われたのだが参加者の先頭と後部とでは随分の距離が生じた。 しかしチェックインの残りが僅かと判断したのであろう添乗員のMs.Nが先に船へのタラップを渡って行ってしまった。

その後、私がチェックインを済ませて家内を待っていたのだが女性担当者に何やら言われチェックがストップしてしまっていた。

何事かとゲートまで戻って確かめたところ、家内が持っていた乗船券には別人女性の名前が記されてあり、そのためゲートを通れないでいたのである。

その名前の女性が誰であるのか私が知るよしもなく、仕方がないので女性担当者に「団体旅行の者だが間違いが何故起きたのか分からない。添乗員が先に行っているので呼んでくるから、ここで少し待たせてくれ。」と言って私がタラップの方へ走っていった。

そこでPearl Of Scandinaviaのクルーの服を着た若い日本人女性(ゲートに並ぶ前に日本語を話していた)と出会ったので添乗員のMs.Nを呼んできてほしいと依頼してゲートに戻った。

そこで乗船券の名前がどうして違ったのかと話していたら、列の後ろの女性が自分の乗船券の名前が違うと言ってくれたので確かめると、家内の乗船券とその女性のものが入れ替わっていることが判明。

これでトラブルは解消したのだが、多分、添乗員のMs.Nが乗船券を配布した時に手違いがあったのであろう。 それしか考えられないが、受け取った者も受け取った時点で確認しておけば起こり得なかったトラブルである。

が、敢えて言えば、誰でも彼でもが海外旅行ができる結構な時代になったとは言え、誰もが横文字の並ぶ乗船券の中のアルファベットに自分の名前を見つけることが出来るとは言い切れない。 横文字に弱いという人もいるかもしれないし、小さな字で刻印してあるために老眼で見えないという人もいるかもしれない。

旅行開始当日、初めて顔を合わせた40人もの人を一度に覚えるなんてことは神業に近く、しかも、そんな彼らをまとめつつ旅行案内業務を遂行するのには私たちに想像出来ない苦労があることと思う。

保育所、幼稚園、義務教育諸学校でも顔合わせして直ぐに校園外への団体引率行事を設定することは先ず無い。

パッケージツアーの場合、唯一救われるのは対象参加者が大人であるという点である。 一応常識を踏まえている者たちと想定して。

それでも尚、添乗は業務であり、添乗員はプロである。 同時に添乗員を雇用している旅行会社は客が満足できる商品を販売しているのであり、客が満足するための添乗員への教育指導や研修に対しては細心の注意を払って実施しなければならない。

こんなことは言うまでもないことだが、更に確かなものとして頂くことを期待して敢えて紹介することとした。


at 05:56|Permalink

June 27, 2009

北欧の旅 (14) コペンハーゲン フレデリクスボー城 (2)

前ページでも少し触れているが、クリスチャン4世はデンマーク東インド会社を設立して海外交易を活発に行った。

当時のヨーロッパ各国は重商主義をとり、オランダ、スペイン、イングランドなどが海外交易を活発化させ植民地化を進めていたためクリスチャン4世もそれらと歩調を合わせる政策を展開していた。

そのため艦船の増強にも力を入れていたが、隣国スウェーデンとはズンド海峡(エーレスンド海峡)を挟んで隔たっているとは言え、その距離は最短部分で7kmであり地形的には常に緊張を孕むものであった。
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               上はフレデリクスボー城である。

地形という意味においてデンマークは北海とバルト海を分ける位置にあり、バルト海より北海へと外海との出入りのために船は必ずズンド海峡(エーレスンド海峡)を航行しなければならず、デンマークではエーリック7世の頃(15世紀半ば)より海上(海峡)通行税を徴収していた。

クリスチャン4世が要塞化したクロンボー城はズンド海峡(エーレスンド海峡)の最も狭い場所に面しており、海上航行艦船に対して、また隣国スウェーデンに対して防衛的要素をも兼ね備えた城塞であったと言える。


今回はクロンボー城へ寄らなかったので参考までに以前の写真を掲載する。
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               上がクロンボー城(Kronborg Slot)。

下の写真、デンマーク国旗の下には大砲が並び、向こうの青い部分が海峡であり、彼方の水平線上に並ぶ白っぽい部分が対岸スウェーデンのヘルシンボリの町である。
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ちなみにクロンボー城は世界遺産に指定され、シェークスピア(William Shakespeare)のハムレット(Hamlet)の舞台になったということでも知られている。

ハムレットの正式な題名はThe Tragedy of Hamlet,Prince of Denmarkであるがハムレットだけで通用するし、何と言っても『To be, or not to be: that is the question.』が余りにも有名である。

戯曲におけるエルシノア(Helsinger)城はクロンボー城のこと。 デンマークの王子ハムレットを主人公に実在する町・エルシノアを舞台にしたシェークスピアだが、彼はデンマークを訪れてはいないと思うのだが実際には知らない。


さて、フレデリクスボー城に話を戻すが、写真は礼拝場。
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立派な身廊の正面にはパイプオルガンが設えられ左右には側廊がある。

下の絵はスウェーデン王・ギュルヴィより一晩中に耕した土地を譲り受けることを約束したゲフィオンが、息子たちを四頭の牛に変えて土地を耕させているデンマーク国産みに因んだものである。
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フレデリクスボー城を駐車場のある正面入口から入って何枚かの写真で紹介してきたが、裏手の方には樹木を綺麗な模様に刈り込んだフランス風の庭があるし、今回は時間が無くて回りきれなかったが、下の写真のように城の一面は広い池になっているので写真の奥の方から城を眺めてみることを薦めたい。
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フレデリクスボー城の全体を眺めるならばお薦めのポイントである。


at 10:34|Permalink
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