July 2009
July 14, 2009
北欧の旅 (31) ノルウェーからスウェーデンへ
個人で手配する旅行の場合、大概は訪れる町の中心部のホテルをとるようにしている。
移動するにせよ、観光、食事、買い物など何をするにも便利であり、大きく重いラッゲージをコロコロ転がせるにせよバスや電車に乗り降りすることは大変な労力を伴うからである。
今回のオスロのホテルはオスロ市内中心部より12kmばかり離れた近郊の町ラスタ(Rasta)のトーン・トリアデン(Thon Triaden)であった。
チャーターしたバスでホテル着、ホテル発であるためにラッゲージの持ち運びの労がなく、少々市内中心部より離れた場所にあるホテルであっても、そこそこ居住性の良いホテルなら概ね良しとしなければならない。
ところでノルウェー最後の夜となるので『落ち穂拾い』のようだが3、4点ばかり書いておこう。
10年前の北欧と今回を比べ、変わってしまったことの中にクレジットカードでの買い物の際、サインではなく暗証番号を押す方式になっていたことがある。 現在は日本でも他の国でも多くの店が用いている方式である。
そのカードを使用する際、個人を認証するために暗証番号を必要とするが、多くの人たちは防犯上カードごとに異なった暗証番号を設定していることが多い。
かく言う私もそうなのだが、番号を押し間違えることがよくある。 それで慌ててアレだったかコレだったかと迷い、またまた違った暗証番号を押してしまうことになる。
クレジットカード会社は不正使用を防ぐという理由で異なった暗証番号を2度だか3度だか送信されてきた段階で当該カードを無効扱いにしてしまう。
つまりカードプリンターによる買い上げ票にサインするシステムを採っている店舗が無い(知る限り)のでカードによる買い物が出来なくなってしまうのである。
町のスーパーやコンビニ、レストランやデパートでも一切使用出来ずに弱ってしまった。
下はオスロのホテルを出発。 欧州自動車道(E6,E18)をスウェーデンに向けて走っているのであるが、オスロ市近辺の道路も日本の朝と同じように車の渋滞の列が長く連なっている。
オスロの中心、王宮とオスロ中央駅の間がカール・ヨハン通りと呼ばれていると書いてきた。
カール・ヨハンだから人名であろう、勿論、ご存知の方もおられるであろうが、いったい誰やねんという疑問を私は抱いていた。
これはノルウェーの歴史を見なければならない。 私達は旅行に出発する前に一通り訪問先の国や都市、人物や歴史などについて学習してから出掛けるのだが、カール・ヨハンについては見落としていたらしい。
紀元前12000年頃にはノルウェーに人が住みつき、時代は飛ぶがヴァイキング時代(9~11世紀頃)にハーラル1世によって国家としての形が成り立ち始めたようで、12世紀にはスウェーデンとの連合国家体制となった。 しかし14世紀後半にペスト(黒死病)などによってノルウェー王家が断絶。 母后がデンマーク王家出身であったことから、その後400年余りの長い間デンマークの支配を受けることになった。
1800年代当時のスウェーデン王はカール13世(ノルウェー王のカール2世)であったが、先王の時にナポレオン戦争に巻き込まれ、以後ロシア帝国に敗れて支配下にあったフィンランドの領有権を失っていた。 その上ナポレオンからはロシアを封鎖するように指示を受け困り果てていた。 その彼に世継ぎがいなかったためにフランス革命・ナポレオン戦争期のフランスの軍人ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(Jean-Baptiste Jules Bernadotte)を王位継承者として迎えた。
1810年、ベルナドットはカール13世の養子としてカール・ヨハンと改名、スウェーデン王太子兼摂政となったベルナドットは1813年ロシア・プロイセン、スウェーデン連合軍を指揮してナポレオン軍を撃破し、デンマークからノルウェーの支配権を得た。
カール・ヨハン(Karl Johan)というのはベルナドット、すなわちスウェーデン王カール14世ヨハン(Karl XIV Johan)・ノルウェー王カール3世ヨハン(Karl ? Johan)しかおらず、カール・ヨハン通りは彼の名前にちなんだものと思われる。
通常、通りなどの名前に人名が冠せられる場合には、その人物の功績が大きい場合などが考えられるが、ノルウェー王カール3世ヨハンはスウェーデン国王との兼務であり、当時のノルウェーの人たちは独立を望み、それはデンマークからだけではなくスウェーデンからの独立も希望していたのではなかろうかと想像すると、1905年になって、やっと独立したノルウェーが彼の名前を冠した名前の通りを大事にしている意味がワカランということに。
1905年、ノルウェーがスウェーデンとの同君連合を果たした時のスウェーデン王はオスカル2世(Oskar II・Oscar Fredrik Bernadotte)で、この時にノルウェー国会が満場一致で国王に迎え入れたのがデンマーク王フレデリク8世の次男であるクリスチャン・フレゼリク・カール・ゲオルク・ヴァルデマー・アクセル(Christian Frederik Carl Georg Valdemar Axel)で、当時カール王子と呼ばれてはいたがカール・ヨハンではない。
彼はノルウェーの首都クリスチャニア(現オスロ)で即位し、ノルウェー風にホーコン7世(Haakon VII)と名乗ることとなったが、ノルウェー独立時の王の名前を冠したわけでもなかったのだ。
上はトロル(Troll)とかトロールなどと呼ばれている森の妖精の人形。
ノルウェーでは鼻が長くて大きく、奇怪な姿形をしたイタズラ好きな妖精であるとされているが、トロルはスウェーデン、デンマーク、アイスランドなどでも人々の生活とともに生きており、フィンランドのトーベ・ヤンソンが書いたムーミントロールもトロルの一種かな?
朝鮮民話には『トッケビ』。日本の『座敷わらし』も良く似た妖精と言えるんじゃないだろうか。
下はノルウェーとスウェーデンの国境の碑。
碑の上部には王冠と、その下には1887と彫ってあった。
碑のいわれは分からないが、1887年の頃はスウェーデンとノルウェーは同君連合の時代。 つまりノルウェーの君主(王)をスウェーデン王が兼ねていた時代であるが、ノルウェーの独立気運が徐々に高まり始めていた頃であり、それと何らかの関係があるのかもしれないし、まったく関係なくただの国境の碑なのかもしれない。
上は国境(スウェーデン側)のキオスク。
国境食堂というか国境売店というか場末の商店の感じであった。
見たところスウェーデン側にはキオスクが1軒、ノルウェー側に道路管理事務所のような建物があるだけの国境。
ヨーロッパはイギリスとアイルランドを除くほとんどの国がシェンゲン協定(Schengen agreement)に調印しており、自由に国境を越えて行き来出来るようになっており、ノルウェーとスウェーデンの間も国境の検問所がない。
この場末のキオスクのような店であるが、店内での仕事は両替を始め飲食品やちょっとした土産物の販売も行っている。
店にはアラブ系かと思えるベッピンのお嬢さんとスウェーデン女性らしい婆さんが店を守っていた。
スウェーデン貨への両替を頼み、ノルウェーで最もポピュラーなタバコを仕入れたが、ノルウェーの物価は高かった。 その上タバコは更に高い買い物であった。 物価が高いのは税率が高いのである。
のどかな田舎道と言っても欧州自動車道だから日本の国道のようなもので、乗用車は勿論大型トラックも通るのだが、そんな道路をひた走り、スウェーデンのカールスタッドの町へ入った。
カールスタッドはスウェーデン最大のベーネルン湖に注ぐクラール川の三角州にヴァイキング時代から開けた古い町である。
ヨットハーバーに近いレストランで昼食を摂ったが、水面を吹き抜けてくる風は冷たく、寒さには強いはずの私も流石に寒いと思ったほどだった。
静かで落ち着いた綺麗な町。
ドライバーのMr.スタインが住む町なんだそうな。
お世辞、べんちゃら抜きで素敵な町である。
レストランで最後に出されたアイスクリームとコーヒー。
このコーヒーの香りがよくて美味しく頂いたのだが、このレストランの直ぐ近くにコーヒーの製造会社と工場があるのだと。
1906年創立のスウェーデンでは有名なコーヒー焙煎会社でレフベルグ・リラ(Lofbergs Lila) と言うらしいが私は勿論知らない。
アイスホッケーのアリーナも持っているというヨーロッパでのコーヒー豆の最大輸入会社でもあるらしい。
Lofbergs Lila の『O』は上に点が2つ付くドイツ文字のウムラウトのオーである。
移動するにせよ、観光、食事、買い物など何をするにも便利であり、大きく重いラッゲージをコロコロ転がせるにせよバスや電車に乗り降りすることは大変な労力を伴うからである。
今回のオスロのホテルはオスロ市内中心部より12kmばかり離れた近郊の町ラスタ(Rasta)のトーン・トリアデン(Thon Triaden)であった。
チャーターしたバスでホテル着、ホテル発であるためにラッゲージの持ち運びの労がなく、少々市内中心部より離れた場所にあるホテルであっても、そこそこ居住性の良いホテルなら概ね良しとしなければならない。
ところでノルウェー最後の夜となるので『落ち穂拾い』のようだが3、4点ばかり書いておこう。
10年前の北欧と今回を比べ、変わってしまったことの中にクレジットカードでの買い物の際、サインではなく暗証番号を押す方式になっていたことがある。 現在は日本でも他の国でも多くの店が用いている方式である。
そのカードを使用する際、個人を認証するために暗証番号を必要とするが、多くの人たちは防犯上カードごとに異なった暗証番号を設定していることが多い。
かく言う私もそうなのだが、番号を押し間違えることがよくある。 それで慌ててアレだったかコレだったかと迷い、またまた違った暗証番号を押してしまうことになる。
クレジットカード会社は不正使用を防ぐという理由で異なった暗証番号を2度だか3度だか送信されてきた段階で当該カードを無効扱いにしてしまう。
つまりカードプリンターによる買い上げ票にサインするシステムを採っている店舗が無い(知る限り)のでカードによる買い物が出来なくなってしまうのである。
町のスーパーやコンビニ、レストランやデパートでも一切使用出来ずに弱ってしまった。
下はオスロのホテルを出発。 欧州自動車道(E6,E18)をスウェーデンに向けて走っているのであるが、オスロ市近辺の道路も日本の朝と同じように車の渋滞の列が長く連なっている。
オスロの中心、王宮とオスロ中央駅の間がカール・ヨハン通りと呼ばれていると書いてきた。
カール・ヨハンだから人名であろう、勿論、ご存知の方もおられるであろうが、いったい誰やねんという疑問を私は抱いていた。
これはノルウェーの歴史を見なければならない。 私達は旅行に出発する前に一通り訪問先の国や都市、人物や歴史などについて学習してから出掛けるのだが、カール・ヨハンについては見落としていたらしい。
紀元前12000年頃にはノルウェーに人が住みつき、時代は飛ぶがヴァイキング時代(9~11世紀頃)にハーラル1世によって国家としての形が成り立ち始めたようで、12世紀にはスウェーデンとの連合国家体制となった。 しかし14世紀後半にペスト(黒死病)などによってノルウェー王家が断絶。 母后がデンマーク王家出身であったことから、その後400年余りの長い間デンマークの支配を受けることになった。
1800年代当時のスウェーデン王はカール13世(ノルウェー王のカール2世)であったが、先王の時にナポレオン戦争に巻き込まれ、以後ロシア帝国に敗れて支配下にあったフィンランドの領有権を失っていた。 その上ナポレオンからはロシアを封鎖するように指示を受け困り果てていた。 その彼に世継ぎがいなかったためにフランス革命・ナポレオン戦争期のフランスの軍人ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(Jean-Baptiste Jules Bernadotte)を王位継承者として迎えた。
1810年、ベルナドットはカール13世の養子としてカール・ヨハンと改名、スウェーデン王太子兼摂政となったベルナドットは1813年ロシア・プロイセン、スウェーデン連合軍を指揮してナポレオン軍を撃破し、デンマークからノルウェーの支配権を得た。
カール・ヨハン(Karl Johan)というのはベルナドット、すなわちスウェーデン王カール14世ヨハン(Karl XIV Johan)・ノルウェー王カール3世ヨハン(Karl ? Johan)しかおらず、カール・ヨハン通りは彼の名前にちなんだものと思われる。
通常、通りなどの名前に人名が冠せられる場合には、その人物の功績が大きい場合などが考えられるが、ノルウェー王カール3世ヨハンはスウェーデン国王との兼務であり、当時のノルウェーの人たちは独立を望み、それはデンマークからだけではなくスウェーデンからの独立も希望していたのではなかろうかと想像すると、1905年になって、やっと独立したノルウェーが彼の名前を冠した名前の通りを大事にしている意味がワカランということに。
1905年、ノルウェーがスウェーデンとの同君連合を果たした時のスウェーデン王はオスカル2世(Oskar II・Oscar Fredrik Bernadotte)で、この時にノルウェー国会が満場一致で国王に迎え入れたのがデンマーク王フレデリク8世の次男であるクリスチャン・フレゼリク・カール・ゲオルク・ヴァルデマー・アクセル(Christian Frederik Carl Georg Valdemar Axel)で、当時カール王子と呼ばれてはいたがカール・ヨハンではない。
彼はノルウェーの首都クリスチャニア(現オスロ)で即位し、ノルウェー風にホーコン7世(Haakon VII)と名乗ることとなったが、ノルウェー独立時の王の名前を冠したわけでもなかったのだ。
上はトロル(Troll)とかトロールなどと呼ばれている森の妖精の人形。
ノルウェーでは鼻が長くて大きく、奇怪な姿形をしたイタズラ好きな妖精であるとされているが、トロルはスウェーデン、デンマーク、アイスランドなどでも人々の生活とともに生きており、フィンランドのトーベ・ヤンソンが書いたムーミントロールもトロルの一種かな?
朝鮮民話には『トッケビ』。日本の『座敷わらし』も良く似た妖精と言えるんじゃないだろうか。
下はノルウェーとスウェーデンの国境の碑。
碑の上部には王冠と、その下には1887と彫ってあった。
碑のいわれは分からないが、1887年の頃はスウェーデンとノルウェーは同君連合の時代。 つまりノルウェーの君主(王)をスウェーデン王が兼ねていた時代であるが、ノルウェーの独立気運が徐々に高まり始めていた頃であり、それと何らかの関係があるのかもしれないし、まったく関係なくただの国境の碑なのかもしれない。
上は国境(スウェーデン側)のキオスク。
国境食堂というか国境売店というか場末の商店の感じであった。
見たところスウェーデン側にはキオスクが1軒、ノルウェー側に道路管理事務所のような建物があるだけの国境。
ヨーロッパはイギリスとアイルランドを除くほとんどの国がシェンゲン協定(Schengen agreement)に調印しており、自由に国境を越えて行き来出来るようになっており、ノルウェーとスウェーデンの間も国境の検問所がない。
この場末のキオスクのような店であるが、店内での仕事は両替を始め飲食品やちょっとした土産物の販売も行っている。
店にはアラブ系かと思えるベッピンのお嬢さんとスウェーデン女性らしい婆さんが店を守っていた。
スウェーデン貨への両替を頼み、ノルウェーで最もポピュラーなタバコを仕入れたが、ノルウェーの物価は高かった。 その上タバコは更に高い買い物であった。 物価が高いのは税率が高いのである。
のどかな田舎道と言っても欧州自動車道だから日本の国道のようなもので、乗用車は勿論大型トラックも通るのだが、そんな道路をひた走り、スウェーデンのカールスタッドの町へ入った。
カールスタッドはスウェーデン最大のベーネルン湖に注ぐクラール川の三角州にヴァイキング時代から開けた古い町である。
ヨットハーバーに近いレストランで昼食を摂ったが、水面を吹き抜けてくる風は冷たく、寒さには強いはずの私も流石に寒いと思ったほどだった。
静かで落ち着いた綺麗な町。
ドライバーのMr.スタインが住む町なんだそうな。
お世辞、べんちゃら抜きで素敵な町である。
レストランで最後に出されたアイスクリームとコーヒー。
このコーヒーの香りがよくて美味しく頂いたのだが、このレストランの直ぐ近くにコーヒーの製造会社と工場があるのだと。
1906年創立のスウェーデンでは有名なコーヒー焙煎会社でレフベルグ・リラ(Lofbergs Lila) と言うらしいが私は勿論知らない。
アイスホッケーのアリーナも持っているというヨーロッパでのコーヒー豆の最大輸入会社でもあるらしい。
Lofbergs Lila の『O』は上に点が2つ付くドイツ文字のウムラウトのオーである。
at 09:56|Permalink│
July 12, 2009
北欧の旅 (30) ノルウェー (オスロ・4)
今回是非家内を連れて行きたかった所、フログネル公園(Frognerparken)を写真で紹介してみよう。
フログネル公園はヴィーゲラン公園(Vigelandparken)とも呼ばれるようにグスタフ・ヴィーゲラン(Gustav Vigeland)の彫刻を集めた公園である。
グスタフ・ヴィーゲランはノルウェーの著名な彫刻家であり、ノーベル平和賞のメダルのデザインをしたことでも知られているが、オスロ市がヴィーゲランの全ての作品のパトロンになると契約してフログネル公園ができたらしい。
公園の門から彼の作品群の野外展示が始まるのだが、広大な公園の作品群は『人と人生・・・輪廻』といったテーマで構成され、人間が生まれ、育ち、恋人を見つけて結婚し、子育てをし、やがて老いていく。 が、一方、新たに生命を与えられた者はその人としての人生を歩むという生命の輪廻を表現している。
私が数えたわけではないが190数体の彫刻があるらしく、門扉や台座の彫刻も含めると600数十体の数にのぼるらしい。
背丈のある菩提樹が並ぶ緑多い公園には芝生の広場や池なども配置され市民たちの憩いの場として利用されており、写真のように日光浴を楽しむ女性や子どもたちと散歩する母親など多くの人たちが訪れていた。
オスロ市はヴィーゲランの生活全ての面倒を見ることになり、当然彼の制作に必要な資金提供も行ったが、同時に彼の全作品はオスロ市に寄贈する形となり今日に至っている。
フログネル公園はヴィーゲランのデザインによるもので、公園が彼の作品制作と展示の場となった。
野外での彫刻展示は世界各地に見られ、日本でも箱根に彫刻の森美術館があるが、このフログネル公園ほどの規模で彫刻の集合展示を他には知らない。
しかも展示作品全体でひとつのテーマを表現しているのであるから凄いと言うか立派と言うか、ここは一見の価値ある場所であるとおもう。
この公園のヴィーゲランの作品は公園外への持ち出しは出来ないが、札幌の芸術の森野外美術館には彼の作品を展示してある。
写真は『おこりんぼう』というテーマの子ども像だが表情を出している作品として有名である。
随分以前に、この子ども像も足を切って持ち去られるという事件があったらしい。 後に発見され接合されたそうだが、ムンクの絵画にしろ、コペンハーゲンの人魚姫にしろ困った輩がいるものである。
足を切り取られた時は本当のAngry boyになっていたのだろう。
公園のほぼ中央部にある噴水。
公園におけるヴィーゲランの作品素材は鉄、ブロンズ、花崗岩がある。
子育て中の母と子のいろいろな場面が花崗岩で彫り上げられている。
上は日時計。
下は17メートルの高さのモノリス(monolith)。
花崗岩の石柱には多くの人間が複雑に絡み合うように彫られている。
一説には、幼き者、より善良なる者を高き位置へと押し上げようとしている人間の善性を表現したものだとか・・・
10年前に聞いたように思うが正確ではない。
どのように見ようと、どのように感じようと、作家の手を離れた作品は鑑賞によって受ける印象は個々人の自由である。
作品が遠すぎて子細には見えないが・・・
フログネル公園はヴィーゲラン公園(Vigelandparken)とも呼ばれるようにグスタフ・ヴィーゲラン(Gustav Vigeland)の彫刻を集めた公園である。
グスタフ・ヴィーゲランはノルウェーの著名な彫刻家であり、ノーベル平和賞のメダルのデザインをしたことでも知られているが、オスロ市がヴィーゲランの全ての作品のパトロンになると契約してフログネル公園ができたらしい。
公園の門から彼の作品群の野外展示が始まるのだが、広大な公園の作品群は『人と人生・・・輪廻』といったテーマで構成され、人間が生まれ、育ち、恋人を見つけて結婚し、子育てをし、やがて老いていく。 が、一方、新たに生命を与えられた者はその人としての人生を歩むという生命の輪廻を表現している。
私が数えたわけではないが190数体の彫刻があるらしく、門扉や台座の彫刻も含めると600数十体の数にのぼるらしい。
背丈のある菩提樹が並ぶ緑多い公園には芝生の広場や池なども配置され市民たちの憩いの場として利用されており、写真のように日光浴を楽しむ女性や子どもたちと散歩する母親など多くの人たちが訪れていた。
オスロ市はヴィーゲランの生活全ての面倒を見ることになり、当然彼の制作に必要な資金提供も行ったが、同時に彼の全作品はオスロ市に寄贈する形となり今日に至っている。
フログネル公園はヴィーゲランのデザインによるもので、公園が彼の作品制作と展示の場となった。
野外での彫刻展示は世界各地に見られ、日本でも箱根に彫刻の森美術館があるが、このフログネル公園ほどの規模で彫刻の集合展示を他には知らない。
しかも展示作品全体でひとつのテーマを表現しているのであるから凄いと言うか立派と言うか、ここは一見の価値ある場所であるとおもう。
この公園のヴィーゲランの作品は公園外への持ち出しは出来ないが、札幌の芸術の森野外美術館には彼の作品を展示してある。
写真は『おこりんぼう』というテーマの子ども像だが表情を出している作品として有名である。
随分以前に、この子ども像も足を切って持ち去られるという事件があったらしい。 後に発見され接合されたそうだが、ムンクの絵画にしろ、コペンハーゲンの人魚姫にしろ困った輩がいるものである。
足を切り取られた時は本当のAngry boyになっていたのだろう。
公園のほぼ中央部にある噴水。
公園におけるヴィーゲランの作品素材は鉄、ブロンズ、花崗岩がある。
子育て中の母と子のいろいろな場面が花崗岩で彫り上げられている。
上は日時計。
下は17メートルの高さのモノリス(monolith)。
花崗岩の石柱には多くの人間が複雑に絡み合うように彫られている。
一説には、幼き者、より善良なる者を高き位置へと押し上げようとしている人間の善性を表現したものだとか・・・
10年前に聞いたように思うが正確ではない。
どのように見ようと、どのように感じようと、作家の手を離れた作品は鑑賞によって受ける印象は個々人の自由である。
作品が遠すぎて子細には見えないが・・・
at 10:39|Permalink│
July 11, 2009
北欧の旅 (29) ノルウェー (オスロ・3)
先に書いた国立美術館とオスロ大学の横を通る大学通り(Universitetsgata)がカール・ヨハン通りと交差するのだが、この大学通りを海の方、つまり南に歩けばオスロ市庁舎に出る。
それも大層な距離ではなく、直ぐフリチョフ・ナンセン広場(Fridtjof Nansen Plass)〔写真市庁舎の左向こう側〕に着き、目前に市庁舎を見ることとなる。
フリチョフ・ナンセンはノルウェーの神経生理学者でグリーンランドの探検家、そして第一次大戦後の人道援助活動を評価されノーベル平和賞を受賞している。
私たちが訪れた時、市庁舎は工事中で白いシートに覆われていたため、オスロ船着場の方から写真を撮った。
この市庁舎と船着場の間にも市庁舎前広場があり、ゆったりした空間の中に彫刻などがさりげなく建てられ、オスロの町の芸術文化が自然と根付いているのを感じたものだ。
芸術文化というものは種を蒔いたからといって直ぐに花が咲くものではないし、綺麗に咲かせた花の株を持ってきて寄せ植えにしたところで、美しいと感じるのは見掛け上だけのこと。
目に見えるイルミネーションにはお金をかけるが、効果が目に見えにくい芸術文化への予算を切り捨てるという町では文化芸術が根付き定着するような発展は期待できそうにない。
この大理石の大広間は市庁舎の中にあるのだが、ここでノーベル平和賞の授賞式が行われる。
えっ? ノーベル賞の授賞式ってストックホルムじゃなかったかな?
実は私も同様で、ノーベル賞そのものに対してマスコミが騒ぐほどの関心を持っていないのである。
当初、物理学、化学、生理学医学、文学、平和事業の5分野を対象にし、1969年から経済学が加えられた。
確かに個人的遺産とも言うべき財を公的基金として5分野の功労者に対する賞を設定したことは私には真似の出来ない素晴らしいことであると思う。
しかし、私個人としては哲学、教育学、心理学、社会学などなど、人類の共存と発展に寄与してきた他の多くの学問分野が含まれていない事に充分な条件を備えているとは思えないし、これまでの受賞者が果たしてマトモであったかどうかという疑念を抱いていることもあって授賞式の会場の地まで気に留めなかったのである。
写真はノーベル平和賞の受賞式典の様子であり、市庁舎に掲げられていたものだ。
「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という日本の非核三原則を提唱したことを評価された佐藤栄作・元首相もこの会場で平和賞を受賞したのである。
ところが、ところがである。
元・在日駐米大使であったライシャワー氏のほか、ラロック元国防情報センター長らの発言が、日本への核持ち込みがあり得るとし、事実アメリカ国立公文書記録管理局で書類の存在が確認されているにも関わらず、日本政府は「事前協議が無いのだから、核もないはず」などと未だに「核兵器持ち込み密約」など無かったものとしている。
こんな馬鹿げた政府答弁を信じる人などいない。 モノを買ったら領収書が出るのが普通。 まして国家と国家の取り決めごとで、アメリカ合衆国には書類が保管されており、それが日本には無いということなどあり得ないことである。
こんなに好い加減な非核三原則を政府・自民党の方針としてきた人物がノーベル平和賞を受賞したと・・・絶句!
平和賞の推薦はノルウェー国会が行うのだそうだ。
口八丁手八丁・海千山千の政治家は国民どころか外国の国会をも欺く手練手管に長けているらしい。
市庁舎広場からは目前の船着場、右手に旧オスロ西駅、左手にヨットハーバーとアーケシュフース城(Akershus slott og festning)を眺めることができる。
上の写真は旧オスロ西駅の建物で現在はノーベル平和センターとして平和賞や受賞者の紹介展示などが行われている。
下はアーケシュフース城(Akershus slott og festning)。
13世紀の後半に築城され海防の役割を果たしていた。
その後、17世紀初めにクリスチャン4世により現在のようなルネサンス様式の宮殿に改築された。
1940年、ドイツ・ナチ占領軍によって城は接収され、終戦までの間、ノルウェー人の対独抵抗運動者らの処刑の場となっていた。
現在はノルウェー国防省の管轄施設となっており、抵抗運動博物館や陸軍博物館なども近くにある。
それも大層な距離ではなく、直ぐフリチョフ・ナンセン広場(Fridtjof Nansen Plass)〔写真市庁舎の左向こう側〕に着き、目前に市庁舎を見ることとなる。
フリチョフ・ナンセンはノルウェーの神経生理学者でグリーンランドの探検家、そして第一次大戦後の人道援助活動を評価されノーベル平和賞を受賞している。
私たちが訪れた時、市庁舎は工事中で白いシートに覆われていたため、オスロ船着場の方から写真を撮った。
この市庁舎と船着場の間にも市庁舎前広場があり、ゆったりした空間の中に彫刻などがさりげなく建てられ、オスロの町の芸術文化が自然と根付いているのを感じたものだ。
芸術文化というものは種を蒔いたからといって直ぐに花が咲くものではないし、綺麗に咲かせた花の株を持ってきて寄せ植えにしたところで、美しいと感じるのは見掛け上だけのこと。
目に見えるイルミネーションにはお金をかけるが、効果が目に見えにくい芸術文化への予算を切り捨てるという町では文化芸術が根付き定着するような発展は期待できそうにない。
この大理石の大広間は市庁舎の中にあるのだが、ここでノーベル平和賞の授賞式が行われる。
えっ? ノーベル賞の授賞式ってストックホルムじゃなかったかな?
実は私も同様で、ノーベル賞そのものに対してマスコミが騒ぐほどの関心を持っていないのである。
当初、物理学、化学、生理学医学、文学、平和事業の5分野を対象にし、1969年から経済学が加えられた。
確かに個人的遺産とも言うべき財を公的基金として5分野の功労者に対する賞を設定したことは私には真似の出来ない素晴らしいことであると思う。
しかし、私個人としては哲学、教育学、心理学、社会学などなど、人類の共存と発展に寄与してきた他の多くの学問分野が含まれていない事に充分な条件を備えているとは思えないし、これまでの受賞者が果たしてマトモであったかどうかという疑念を抱いていることもあって授賞式の会場の地まで気に留めなかったのである。
写真はノーベル平和賞の受賞式典の様子であり、市庁舎に掲げられていたものだ。
「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という日本の非核三原則を提唱したことを評価された佐藤栄作・元首相もこの会場で平和賞を受賞したのである。
ところが、ところがである。
元・在日駐米大使であったライシャワー氏のほか、ラロック元国防情報センター長らの発言が、日本への核持ち込みがあり得るとし、事実アメリカ国立公文書記録管理局で書類の存在が確認されているにも関わらず、日本政府は「事前協議が無いのだから、核もないはず」などと未だに「核兵器持ち込み密約」など無かったものとしている。
こんな馬鹿げた政府答弁を信じる人などいない。 モノを買ったら領収書が出るのが普通。 まして国家と国家の取り決めごとで、アメリカ合衆国には書類が保管されており、それが日本には無いということなどあり得ないことである。
こんなに好い加減な非核三原則を政府・自民党の方針としてきた人物がノーベル平和賞を受賞したと・・・絶句!
平和賞の推薦はノルウェー国会が行うのだそうだ。
口八丁手八丁・海千山千の政治家は国民どころか外国の国会をも欺く手練手管に長けているらしい。
市庁舎広場からは目前の船着場、右手に旧オスロ西駅、左手にヨットハーバーとアーケシュフース城(Akershus slott og festning)を眺めることができる。
上の写真は旧オスロ西駅の建物で現在はノーベル平和センターとして平和賞や受賞者の紹介展示などが行われている。
下はアーケシュフース城(Akershus slott og festning)。
13世紀の後半に築城され海防の役割を果たしていた。
その後、17世紀初めにクリスチャン4世により現在のようなルネサンス様式の宮殿に改築された。
1940年、ドイツ・ナチ占領軍によって城は接収され、終戦までの間、ノルウェー人の対独抵抗運動者らの処刑の場となっていた。
現在はノルウェー国防省の管轄施設となっており、抵抗運動博物館や陸軍博物館なども近くにある。
at 08:25|Permalink│
北欧の旅 (28) ノルウェー (オスロ・2)
前ページでムンクの作品と国立美術館(Nasjonalgalleriet)について書いたが、今回は写真を撮ることができなかった。
よく知られた作品であるが、下がエドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)の『マドンナ』。
この作品は盗まれて、それが発見された時には確か傷つけられていたと記憶しているが、よく修復されており素人の私などにはとても判別がつかなかった。
下は国立美術館所蔵の『叫び』である。
解説では、ムンクがフィヨルド付近で地上世界の滅亡を暗示するがごとき深く沈うつで、どこまでも不気味に響き渡るような叫びを聞いたことがこの絵画制作発想の根源であるように書いていた。
フィヨルドまではイメージできなかったが、恐怖、不安、絶望、不気味などといった言葉がもたらす感情は、この絵から充分感じ取ることができる、分かりやすい作品と言えるように私には思える。
※ 上記2点については、国立美術館で買い入れたカタログ写真を複写したものである。
再びオスロ大学と国立劇場(下の写真)の前に出る。
遠くから見れば花の色からライラックかと思ったのだが、近付いて葉っぱや枝ぶりなどを見るとシャクナゲのようであった。
カール・ヨハン通りを写真奥の方へ歩くとショッピング・ビルのPaleetやグランドホテル、下の写真の国会議事堂などがあり、オスロ大聖堂を経てオスロ中央駅に至る。
下がオスロ中央駅だが、正面ではなくて裏側から見た駅。
つまり、オスロ中央駅のビルの向こうにカール・ヨハン通りが真っ直ぐ王宮に向って伸びているということになる。
中央駅の写真左手方向がオスロ港。 オスロフィヨルドの最奥部でDFDSシーウェイズの発着埠頭にもなっている。
この埠頭の西側に市庁舎前船着場があり、この2つの船着場を分けるように岬が出張っているのだが、そこにアーケシュフース城がある。
これらについては次ページで。
よく知られた作品であるが、下がエドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)の『マドンナ』。
この作品は盗まれて、それが発見された時には確か傷つけられていたと記憶しているが、よく修復されており素人の私などにはとても判別がつかなかった。
下は国立美術館所蔵の『叫び』である。
解説では、ムンクがフィヨルド付近で地上世界の滅亡を暗示するがごとき深く沈うつで、どこまでも不気味に響き渡るような叫びを聞いたことがこの絵画制作発想の根源であるように書いていた。
フィヨルドまではイメージできなかったが、恐怖、不安、絶望、不気味などといった言葉がもたらす感情は、この絵から充分感じ取ることができる、分かりやすい作品と言えるように私には思える。
※ 上記2点については、国立美術館で買い入れたカタログ写真を複写したものである。
再びオスロ大学と国立劇場(下の写真)の前に出る。
遠くから見れば花の色からライラックかと思ったのだが、近付いて葉っぱや枝ぶりなどを見るとシャクナゲのようであった。
カール・ヨハン通りを写真奥の方へ歩くとショッピング・ビルのPaleetやグランドホテル、下の写真の国会議事堂などがあり、オスロ大聖堂を経てオスロ中央駅に至る。
下がオスロ中央駅だが、正面ではなくて裏側から見た駅。
つまり、オスロ中央駅のビルの向こうにカール・ヨハン通りが真っ直ぐ王宮に向って伸びているということになる。
中央駅の写真左手方向がオスロ港。 オスロフィヨルドの最奥部でDFDSシーウェイズの発着埠頭にもなっている。
この埠頭の西側に市庁舎前船着場があり、この2つの船着場を分けるように岬が出張っているのだが、そこにアーケシュフース城がある。
これらについては次ページで。
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July 10, 2009
北欧の旅 (27) ノルウェー (オスロ)
毎日バタバタ、何やかやと用事に追われて旅行記を書く時間も取れず、旅行の記憶も徐々に危なっかしいものになってきつつあるる。
オスロで訪れたかった所は国立美術館とフログネル公園。
観光を目的にオスロの町を巡るなら2日もあれば一通り回ることができる。
オスロの町の観光の中心はオスロ中央駅と王宮を結ぶカール・ヨハン通り周辺に集まっていると考えて良く、このあたりがノルウェーの、或いはオスロの政治的にも商業的にも中心と考えて良い地域である。
これをA地区とすれば、B地区はビィグドイ地区でA地区からは地下鉄での移動となり20分程度の距離だろうか。 C地区はフログネル公園で、ここもA地区からは地下鉄を利用して20分程度。 D地区がムンク美術館で、ここは地下鉄で2駅と近い。
私達が昼食をとったレストランがオスロ・コンサートホール(Oslo Konserthus)の近くだったので、このあたりからオスロの町を歩くことにする。
このホールではオスロ・フィルハーモニー管弦楽団やオスロ交響楽団などの演奏会が開かれているのであろう。
演奏会を巡る旅も良いとは思うが、そのための服を持参というのも面倒なので当分予定は無い。
下はコンサートホールの敷地に建てられていたヨハン・スヴェンセン(Johan Svendsen)の碑(顕彰碑だろうか)。
ヨハン・スヴェンセンはノルウェーの作曲家であり指揮者でもあった。
詳しいことは知らないがデンマーク・コペンハーゲンに住んでいたということは聞いたことがある。
下は、地下鉄・国立劇場駅(Nationaltheatret Station)の入口。
写真の左手奥方向に王宮があり、写真直ぐ右手に国立劇場がある。更にカール・ヨハン通りに沿って国会議事堂前駅(Stortinget Station)、その次が地下鉄オスロ中央駅(Jernbanetorget Station)となっており、前述のA地区にあたる地区である。
下は1880年代の建物でヴィクトリア・テラッセ(Victoria terrasse)。 現在は外務省となっている。
1940年、ドイツ・ナチ占領軍による政治が行われるようになってからヴィクトリア・テラッセ(Victoria terrasse)はナチの治安警察(Sicherheits Polizei)の本部として使用され、捕虜の尋問、拷問の場所とされてきた。
ノルウェーでもユダヤ人の強制連行が行われ、アウシュヴィッツやビルケナウ強制収容所で犠牲になった人たちが700人近くもいることをポーランドの強制収容所博物館を訪れた時に学んだが、この立派な歴史的建造物であるヴィクトリア・テラッセも戦争犯罪の一翼を担う施設であったことを思うと考えさせられるものがある。
下は国立劇場(Nationaltheatret)で1899年に建てられた。 それ以前のクリスチャニア王立劇場の伝統を受け継ぐ施設である。
19世紀のノルウェーの劇作家ヨハン・ヘンリック・イプセン( Henrik Johan Ibsen)の戯曲を上演することで有名な劇場である。
イプセンと言えば1867年に発表されたむ『ペール・ギュント(Peer Gynt )』や1879年に発表された『人形の家(Et dukkehjem)』が有名である。
『ペール・ギュント』はエドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ(Edvard Hagerup Grieg)が作曲したもので音楽としてもよく知られているが、イプセンが自分の戯曲『ペール・ギュント』のために作曲してもらった劇用の組曲である。
ペール・ギュントが恋人のソルヴェイグを放ったらかしにして魔王の娘と遊び、魔王に脅され逃げ帰ったところ母親オーゼの死を見とる。やがて朝を迎えると再び遊び心が生じてモロッコ、アラビア、エジプト、アメリカと渡り歩く。アメリカで富を築いたペール・ギュントは故郷ノルウェーが懐かしくなり帰国し、昔の恋人ソルヴェイグを尋ね、彼女がずっとペール・ギュントを待っていてくれたことを知る。彼は後悔し謝罪し、彼女の優しい歌声を聴きながら死を迎える。
こんなストーリーであったが、まだ演劇は見た事がない。
上はオスロ大学。
国立劇場とはカール・ヨハン通りを挟んで向かい合せの位置になる。
そのカール・ヨハン通りの突き当たりに位置するのが王宮(下の写真)である。
右手の建物はオスロ大学。
オスロ大学本館の裏側に位置するのが下の国立美術館。
この国立美術館にエドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)の作品が多数所蔵・展示されている。
『叫び』や『マドンナ』はあまりにも有名だが、他にも多数の作品が展示されている。
『叫び』は国立美術館に1点、2点はムンク美術館で展示されている。
解説によれば『叫び』は4点制作されたらしいが、1点は個人が所蔵しているらしい。
『叫び』も『マドンナ』も過去に盗難にあっており、今回の鑑賞では絵を保護するようにアクリル板だかでカバーしてあった。 しかもカメラ持込厳禁、勿論シャッターを切ることなどできない。
以前に訪れた時は写真撮影オーケーで、アクリル保護板もなかったのに、馬鹿げたツマランことをするアホウがおるさかい、美術館としても監視と保護の手立てを講じなあかんようになってしもうたというわけ。
ツマランこっちゃ。
この写真の作品がツマランのと違いまっせ。
ノルウェーにも馬鹿な奴がおるということです。
上の作品はアドルフ・グスタフ・ヴィーゲラン(Adolf Gustav Vigeland)k『男性と女性』(Mann og Kvinne)。
以前来た時には無かったように思うのだが・・・
アドルフ・グスタフ・ヴィーゲランの作品はフログネル公園に200近くあるので別項で扱うことにする。
オスロで訪れたかった所は国立美術館とフログネル公園。
観光を目的にオスロの町を巡るなら2日もあれば一通り回ることができる。
オスロの町の観光の中心はオスロ中央駅と王宮を結ぶカール・ヨハン通り周辺に集まっていると考えて良く、このあたりがノルウェーの、或いはオスロの政治的にも商業的にも中心と考えて良い地域である。
これをA地区とすれば、B地区はビィグドイ地区でA地区からは地下鉄での移動となり20分程度の距離だろうか。 C地区はフログネル公園で、ここもA地区からは地下鉄を利用して20分程度。 D地区がムンク美術館で、ここは地下鉄で2駅と近い。
私達が昼食をとったレストランがオスロ・コンサートホール(Oslo Konserthus)の近くだったので、このあたりからオスロの町を歩くことにする。
このホールではオスロ・フィルハーモニー管弦楽団やオスロ交響楽団などの演奏会が開かれているのであろう。
演奏会を巡る旅も良いとは思うが、そのための服を持参というのも面倒なので当分予定は無い。
下はコンサートホールの敷地に建てられていたヨハン・スヴェンセン(Johan Svendsen)の碑(顕彰碑だろうか)。
ヨハン・スヴェンセンはノルウェーの作曲家であり指揮者でもあった。
詳しいことは知らないがデンマーク・コペンハーゲンに住んでいたということは聞いたことがある。
下は、地下鉄・国立劇場駅(Nationaltheatret Station)の入口。
写真の左手奥方向に王宮があり、写真直ぐ右手に国立劇場がある。更にカール・ヨハン通りに沿って国会議事堂前駅(Stortinget Station)、その次が地下鉄オスロ中央駅(Jernbanetorget Station)となっており、前述のA地区にあたる地区である。
下は1880年代の建物でヴィクトリア・テラッセ(Victoria terrasse)。 現在は外務省となっている。
1940年、ドイツ・ナチ占領軍による政治が行われるようになってからヴィクトリア・テラッセ(Victoria terrasse)はナチの治安警察(Sicherheits Polizei)の本部として使用され、捕虜の尋問、拷問の場所とされてきた。
ノルウェーでもユダヤ人の強制連行が行われ、アウシュヴィッツやビルケナウ強制収容所で犠牲になった人たちが700人近くもいることをポーランドの強制収容所博物館を訪れた時に学んだが、この立派な歴史的建造物であるヴィクトリア・テラッセも戦争犯罪の一翼を担う施設であったことを思うと考えさせられるものがある。
下は国立劇場(Nationaltheatret)で1899年に建てられた。 それ以前のクリスチャニア王立劇場の伝統を受け継ぐ施設である。
19世紀のノルウェーの劇作家ヨハン・ヘンリック・イプセン( Henrik Johan Ibsen)の戯曲を上演することで有名な劇場である。
イプセンと言えば1867年に発表されたむ『ペール・ギュント(Peer Gynt )』や1879年に発表された『人形の家(Et dukkehjem)』が有名である。
『ペール・ギュント』はエドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ(Edvard Hagerup Grieg)が作曲したもので音楽としてもよく知られているが、イプセンが自分の戯曲『ペール・ギュント』のために作曲してもらった劇用の組曲である。
ペール・ギュントが恋人のソルヴェイグを放ったらかしにして魔王の娘と遊び、魔王に脅され逃げ帰ったところ母親オーゼの死を見とる。やがて朝を迎えると再び遊び心が生じてモロッコ、アラビア、エジプト、アメリカと渡り歩く。アメリカで富を築いたペール・ギュントは故郷ノルウェーが懐かしくなり帰国し、昔の恋人ソルヴェイグを尋ね、彼女がずっとペール・ギュントを待っていてくれたことを知る。彼は後悔し謝罪し、彼女の優しい歌声を聴きながら死を迎える。
こんなストーリーであったが、まだ演劇は見た事がない。
上はオスロ大学。
国立劇場とはカール・ヨハン通りを挟んで向かい合せの位置になる。
そのカール・ヨハン通りの突き当たりに位置するのが王宮(下の写真)である。
右手の建物はオスロ大学。
オスロ大学本館の裏側に位置するのが下の国立美術館。
この国立美術館にエドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)の作品が多数所蔵・展示されている。
『叫び』や『マドンナ』はあまりにも有名だが、他にも多数の作品が展示されている。
『叫び』は国立美術館に1点、2点はムンク美術館で展示されている。
解説によれば『叫び』は4点制作されたらしいが、1点は個人が所蔵しているらしい。
『叫び』も『マドンナ』も過去に盗難にあっており、今回の鑑賞では絵を保護するようにアクリル板だかでカバーしてあった。 しかもカメラ持込厳禁、勿論シャッターを切ることなどできない。
以前に訪れた時は写真撮影オーケーで、アクリル保護板もなかったのに、馬鹿げたツマランことをするアホウがおるさかい、美術館としても監視と保護の手立てを講じなあかんようになってしもうたというわけ。
ツマランこっちゃ。
この写真の作品がツマランのと違いまっせ。
ノルウェーにも馬鹿な奴がおるということです。
上の作品はアドルフ・グスタフ・ヴィーゲラン(Adolf Gustav Vigeland)k『男性と女性』(Mann og Kvinne)。
以前来た時には無かったように思うのだが・・・
アドルフ・グスタフ・ヴィーゲランの作品はフログネル公園に200近くあるので別項で扱うことにする。
at 04:59|Permalink│