August 2009
August 29, 2009
北欧の旅 (43) SILJA LINE・ヘルシンキ入港【スオメンリンナ】
体調が完全に回復したわけではないが、沢山の汗をかき、前日までに比べれば随分と楽になってきたので早朝の散歩に屋上のデッキへ上がったが未だ小雨が降り続いていたので船内を歩いてまわることにした。
サウナもレストランも免税店も両替窓口も深夜から午前9時までは閉店しているようで船内は静まり返っている。
前夜、夕食らしい夕食を食べなかったのでお腹が空いていた。 2時間ばかり部屋でゴロゴロして、午前7時過ぎに予約していたレストラン・マキシムへ朝食をとりに出かけた。
料理は美味しかったけれど、お腹が空いていた割には食べる事ができなかった。
ヘルシンキ湾を航行してきたシリヤ・セレナーデ号の前方遠くにヘルシンキの町が見え始めてきた。
僅かばかり海面に出た岩場に灯台とラジオ塔、それに監視所であろうか、コンクリート造りの建物が建てられている。
見かけだけで断定は出来ないが、岩場の基盤岩石は多分花崗岩であろう。 その赤みがかった色合いからスウェーデン・フィンランド一帯のバルト盾状地に広く露出する基盤岩であるラパキビ花崗岩であろうと想像する。
バルト盾状地のラパキビ花崗岩の生成は先カンブリア時代、つまり三葉虫などの生物が発生する以前の地質時代(地球が誕生した46億年前~5億4千万年前)の19億年前~16億年前に出来た岩石であるとされている。
磨かれた状態は日本産の御影石と似ているが、日本産のものには黒っぽいもの、白っぽいもののほかに肌色っぽいものがあるが一見しての違いは岩石面の赤い色である。この赤い色の花崗岩は。
私のエエ加減な記憶では、この赤い色は熱変成によるもので、確か日本では産出しなかったと・・・。 ビルディングの壁材や床材、碑などに使われるために輸入していると聞いている。
写真はヘルシンキ港の前面に位置するスオメンリンナ(SUOMENLINNA)である。
フィンランド語でSUOMIはフィンランドを、LINNAは城とか要塞を言うのでフィンランドの要塞ということになろうか。
フィンランドの歴史をたどれば既に紀元前3千年の頃にはフィンランド人の祖先にあたるフィン人とサーミ人が生活していたと言われている。
しかし、国家としての成り立ちは遅く、スウェーデン、デンマーク、ロシアとの関係の中で複雑な歴史を歩んできた。
スオメンリンナは1700年代に建設が始まったらしいが、当時はスウェーデンとロシアがバルト海の制海をめぐって合い争う関係にあった。
難攻不落と言われたスオメンリンナも1808年に陥落。フィンランドはスウェーデンから帝政ロシアに割譲され、これによって帝政ロシアはヨーロッパにおいて大きい位置を占めるようになった。
要塞は写真のように近代西洋式城塞の形態で、函館の五稜郭と同じような形をしている。
スオメンリンナは4つの島(saari)から成っており、最も大きい狼の島(Susi-saari)には初代の司令官で要塞の建造主任であったエーレンスヴァールドの記念館や税関記念館、それに潜水艦『ヴェシッコ』があり、突き出した先【上の写真の部分】のクスターンミエッカ(KUSTAANMIEKKAグスタフの剣)の堤には帝政ロシアに併合されていた頃の名残りとして6門の大砲がスウェーデンに向けて据えられている。《写真では左手になるのだが・・・》
シリヤ・セレナーデ号は狼の島(Susi-saari)の東側を回り、更に狼の島とは狭い水道で向かい合う大きい黒い島(Iso musta-saari)の東側を通ってヘルシンキ・オリンピアターミナルへ向かう。
上の写真は狼の島の東側と連絡船の出てきた水道と大きい黒い島(向こう側)。
下は狼の島の出島のような部分・クスターンミエッカ(KUSTAANMIEKKAグスタフの剣)で、右の方に大砲が何門か見える。
城塞が星のような稜形であることがよく分かる。
下の半円形の部分はクスターンミエッカの東側にあるキングス・ゲートである。
下は狼の島(左)と連絡船。それに水道と大きい黒い島(右手)。塔は島の教会。
下の写真はセレナーデ号がスオメンリンナの大きい黒い島の東を通過し、オリンピアターミナルの方向である北西に向きを変えた後、同じ航路を航行してきたヴァイキング・ラインの船が顔を出してきた。
写真の塔は大きい黒い島の教会。
スオメンリンナは海上要塞としてフィンランドの世界遺産であり、改めて訪れることにする。
サウナもレストランも免税店も両替窓口も深夜から午前9時までは閉店しているようで船内は静まり返っている。
前夜、夕食らしい夕食を食べなかったのでお腹が空いていた。 2時間ばかり部屋でゴロゴロして、午前7時過ぎに予約していたレストラン・マキシムへ朝食をとりに出かけた。
料理は美味しかったけれど、お腹が空いていた割には食べる事ができなかった。
ヘルシンキ湾を航行してきたシリヤ・セレナーデ号の前方遠くにヘルシンキの町が見え始めてきた。
僅かばかり海面に出た岩場に灯台とラジオ塔、それに監視所であろうか、コンクリート造りの建物が建てられている。
見かけだけで断定は出来ないが、岩場の基盤岩石は多分花崗岩であろう。 その赤みがかった色合いからスウェーデン・フィンランド一帯のバルト盾状地に広く露出する基盤岩であるラパキビ花崗岩であろうと想像する。
バルト盾状地のラパキビ花崗岩の生成は先カンブリア時代、つまり三葉虫などの生物が発生する以前の地質時代(地球が誕生した46億年前~5億4千万年前)の19億年前~16億年前に出来た岩石であるとされている。
磨かれた状態は日本産の御影石と似ているが、日本産のものには黒っぽいもの、白っぽいもののほかに肌色っぽいものがあるが一見しての違いは岩石面の赤い色である。この赤い色の花崗岩は。
私のエエ加減な記憶では、この赤い色は熱変成によるもので、確か日本では産出しなかったと・・・。 ビルディングの壁材や床材、碑などに使われるために輸入していると聞いている。
写真はヘルシンキ港の前面に位置するスオメンリンナ(SUOMENLINNA)である。
フィンランド語でSUOMIはフィンランドを、LINNAは城とか要塞を言うのでフィンランドの要塞ということになろうか。
フィンランドの歴史をたどれば既に紀元前3千年の頃にはフィンランド人の祖先にあたるフィン人とサーミ人が生活していたと言われている。
しかし、国家としての成り立ちは遅く、スウェーデン、デンマーク、ロシアとの関係の中で複雑な歴史を歩んできた。
スオメンリンナは1700年代に建設が始まったらしいが、当時はスウェーデンとロシアがバルト海の制海をめぐって合い争う関係にあった。
難攻不落と言われたスオメンリンナも1808年に陥落。フィンランドはスウェーデンから帝政ロシアに割譲され、これによって帝政ロシアはヨーロッパにおいて大きい位置を占めるようになった。
要塞は写真のように近代西洋式城塞の形態で、函館の五稜郭と同じような形をしている。
スオメンリンナは4つの島(saari)から成っており、最も大きい狼の島(Susi-saari)には初代の司令官で要塞の建造主任であったエーレンスヴァールドの記念館や税関記念館、それに潜水艦『ヴェシッコ』があり、突き出した先【上の写真の部分】のクスターンミエッカ(KUSTAANMIEKKAグスタフの剣)の堤には帝政ロシアに併合されていた頃の名残りとして6門の大砲がスウェーデンに向けて据えられている。《写真では左手になるのだが・・・》
シリヤ・セレナーデ号は狼の島(Susi-saari)の東側を回り、更に狼の島とは狭い水道で向かい合う大きい黒い島(Iso musta-saari)の東側を通ってヘルシンキ・オリンピアターミナルへ向かう。
上の写真は狼の島の東側と連絡船の出てきた水道と大きい黒い島(向こう側)。
下は狼の島の出島のような部分・クスターンミエッカ(KUSTAANMIEKKAグスタフの剣)で、右の方に大砲が何門か見える。
城塞が星のような稜形であることがよく分かる。
下の半円形の部分はクスターンミエッカの東側にあるキングス・ゲートである。
下は狼の島(左)と連絡船。それに水道と大きい黒い島(右手)。塔は島の教会。
下の写真はセレナーデ号がスオメンリンナの大きい黒い島の東を通過し、オリンピアターミナルの方向である北西に向きを変えた後、同じ航路を航行してきたヴァイキング・ラインの船が顔を出してきた。
写真の塔は大きい黒い島の教会。
スオメンリンナは海上要塞としてフィンランドの世界遺産であり、改めて訪れることにする。
at 10:02|Permalink│
北欧の旅 (42) SILJA LINE・ヘルシンキ入港を前に【甘露の話】
海上からのヘルシンキ入りは初めてである。
前夜遅くになっても太陽が沈まず、キャビンの窓のカーテンを閉じて部屋の照明も消したが発熱と咽頭・気管支の炎症のためになかなか寝付かれなかった。
しかし、雨模様の天候であったが海上は白波が立つこともなく、船体が大きいだけに揺れることもなく機関の音がベッドに伝わってくることもなかったためか3時間ばかり熟睡できたようだ。
体中、とりわけ上半身にかいた汗の量は相当なもので、それが気色悪くて目覚めたのだが、被っていた毛布を除けると気化熱で体温が急速に奪われていくのが分かった。咽頭の痛みと腫れは引いてはいないが、体調が回復傾向にあることは実感できた。
冷蔵庫にあった冷えた缶入りの天然水が実にうまかった。
子どもの頃、某教会の教会長が「水を飲めば水の味がするんや。」と教えの一端を説いてくれたことがあった。
教理を説く話の流れの中の言葉であるから、それの意味合いという点においては頭の中では当時も理解できていた。
しかし、この言葉の意味を実際に感得できたのは40歳を越えてからであった。
開腹手術を受けて丸2日間ICUで眠りこけ、暗い照明の光源がぼんやりと焦点も定まらずに数本の揺れるローソクの炎に見えた時のことであった。
静寂な中、切られたはずの腹の痛みも無く、ただローソクの炎が揺れている。
この時、私は祀られていると、つまり、自分は死んだのだと思ったものだった。
それが緩慢ではあるが何度か瞬くうちに目の焦点が合い、ローソクの炎であると思っていたものが豆球ほどの光量に落とした1個の電燈で、ガラス窓で仕切られた暗い部屋に自分が寝かされていると分かるまで随分の時間を要したように思う。
それから直ぐに看護婦がやってきて、「目が覚めた?○○さん。お水を飲む?」と尋ねられ、唇も口の中もカラカラに乾いていることに気付いたものだった。
それで返事をしたつもりであったのだが声にはなっていなかったみたいで、看護婦が私の手を握り、彼女の問い掛けに対して『イエス』なら瞬きするか手を握り返すように指示したように思う。
で、看護婦がお水をコップに入れて持ってきてくれたのだが、そのまま飲んだわけではない。 彼女がティースプーンに、そのスプーンもいっぱいに水を入れてくれたわけでもない。 スプーンの先に乗る程度の水。 将に雀の涙ほどの水を口につけてくれたのである。
これはとても『飲む』と言えるほどのものではなく、唇を湿らせる程度のことであったが、ただの水がこれ程に美味しいと感じたことは無かった。
『水を飲めば水の味がする』
何のこっちゃと思える言葉ではあるが、僅か11文字が綴られた言葉の奥には深ーい深ーい意味が秘められていたことを身をもって知り得た時であった。
ヘルシンキ入港を前に『美味しい水』を飲むことができ、私は幸せな感じにしばらく浸っていた。
カルキ(さらし粉)臭い水道水ではない森と湖の国フィンランドの天然水だから美味しかったのだろうと思う人もいるかもしれない。
確かにそれもあるかもしれない。 別に押し付けるつもりはないが、水を飲めるということだけでも私は幸せを感じるのである。
前夜遅くになっても太陽が沈まず、キャビンの窓のカーテンを閉じて部屋の照明も消したが発熱と咽頭・気管支の炎症のためになかなか寝付かれなかった。
しかし、雨模様の天候であったが海上は白波が立つこともなく、船体が大きいだけに揺れることもなく機関の音がベッドに伝わってくることもなかったためか3時間ばかり熟睡できたようだ。
体中、とりわけ上半身にかいた汗の量は相当なもので、それが気色悪くて目覚めたのだが、被っていた毛布を除けると気化熱で体温が急速に奪われていくのが分かった。咽頭の痛みと腫れは引いてはいないが、体調が回復傾向にあることは実感できた。
冷蔵庫にあった冷えた缶入りの天然水が実にうまかった。
子どもの頃、某教会の教会長が「水を飲めば水の味がするんや。」と教えの一端を説いてくれたことがあった。
教理を説く話の流れの中の言葉であるから、それの意味合いという点においては頭の中では当時も理解できていた。
しかし、この言葉の意味を実際に感得できたのは40歳を越えてからであった。
開腹手術を受けて丸2日間ICUで眠りこけ、暗い照明の光源がぼんやりと焦点も定まらずに数本の揺れるローソクの炎に見えた時のことであった。
静寂な中、切られたはずの腹の痛みも無く、ただローソクの炎が揺れている。
この時、私は祀られていると、つまり、自分は死んだのだと思ったものだった。
それが緩慢ではあるが何度か瞬くうちに目の焦点が合い、ローソクの炎であると思っていたものが豆球ほどの光量に落とした1個の電燈で、ガラス窓で仕切られた暗い部屋に自分が寝かされていると分かるまで随分の時間を要したように思う。
それから直ぐに看護婦がやってきて、「目が覚めた?○○さん。お水を飲む?」と尋ねられ、唇も口の中もカラカラに乾いていることに気付いたものだった。
それで返事をしたつもりであったのだが声にはなっていなかったみたいで、看護婦が私の手を握り、彼女の問い掛けに対して『イエス』なら瞬きするか手を握り返すように指示したように思う。
で、看護婦がお水をコップに入れて持ってきてくれたのだが、そのまま飲んだわけではない。 彼女がティースプーンに、そのスプーンもいっぱいに水を入れてくれたわけでもない。 スプーンの先に乗る程度の水。 将に雀の涙ほどの水を口につけてくれたのである。
これはとても『飲む』と言えるほどのものではなく、唇を湿らせる程度のことであったが、ただの水がこれ程に美味しいと感じたことは無かった。
『水を飲めば水の味がする』
何のこっちゃと思える言葉ではあるが、僅か11文字が綴られた言葉の奥には深ーい深ーい意味が秘められていたことを身をもって知り得た時であった。
ヘルシンキ入港を前に『美味しい水』を飲むことができ、私は幸せな感じにしばらく浸っていた。
カルキ(さらし粉)臭い水道水ではない森と湖の国フィンランドの天然水だから美味しかったのだろうと思う人もいるかもしれない。
確かにそれもあるかもしれない。 別に押し付けるつもりはないが、水を飲めるということだけでも私は幸せを感じるのである。
at 06:27|Permalink│
August 27, 2009
北欧の旅 (41) SILJA LINE・ストックホルム~ヘルシンキ【つづき】
この16時間ばかりの船旅を楽しみにしていたと書いたが、乗船してからも風邪の症状は改善せず扁桃は益々腫れ熱も上がりゼェゼェと炎症が気管支にまで広がってきていることが分かった。
下はシリヤ・セレナーデ号の隣に接岸していたバルチック・オーシャン号。 我が船室からの写真である。
この船も結構大きく、ロシアから独立を果たしたバルト三国のひとつ、エストニアのタリン()へ向かうのである。
タリンは中世の頃にはハンザ同盟に加わっていた都市で旧称をレーヴェリと言い、フィンランドのヘルシンキとはヘルシンキ湾を挟んで南側に位置している。
バルト海(Baltic Sea)はヨーロッパ本土とスウェーデン、フィンランド、ロシア、エストニアに囲まれた海で、ボスニア湾やフィンランド湾と呼ぶ広い海域を含んでいる。
この一帯をなぜバルトと呼んでいるのか長いこと不思議に思うことがなかった。
日露戦争における日本海海戦にロシアのバルチック艦隊が対馬海峡にやって来たことも分かっている。
では何故バルトなのか。 ツマランことかも知れないが名前というものには必ずと言って良いほどに謂れがあるもので、このバルトについて調べてはみたが残念ながらコレという解答を見つけることが出来なかった。
私に分かったことは、中世以来ラテン語でバルト海を意味するマーレ・バルティクム(Mare Balticum)がバルト海沿岸地域全体を示す言葉として用いられて来たということだけであり、それ以前に遡ることが出来なかった。
ストックホルムのバッタハムン埠頭を離岸し、多くの島の間を抜けてバルト海に向かうところである。
以前に地図で示した(リンク)ようにストックホルムの町とバルト海の間には数え切れないほどの島々があるのだが、シリヤ・セレナーデ号は揺れも無く静かに海上を進んで行った。
屋上階のデッキに出ると冷たい風に当たり景色が変わっていくので辛うじて船が進んでいると分かるくらいに静かなのである。
下は7階フロアのプロムナードで幾つものショップが並び、143メートルもの長さがある。
ガラス窓が見えているのはインサイドキャビンの出窓である。
下は軽食のレストランMUNDで、サンドイッチ、バーガー、サラダ、果物などを売っており、店のテーブルを利用しても良いし持ち帰っても良い。
パンもハム、ソーセージの種類も多くとても美味しそうであったが、この船の食事の楽しみは何と言ってもヴァイキング料理。 北欧ではスモーガスボードと呼ぶが、肉料理、海鮮料理、チーズにサラダに果物などなど、いったい何種類の料理が並べられているのか数え切れない。
ワインなどの種類もあるが、とりわけビールはラピンクルタ《ラパンクルタとも》(Lapin kulta)、これはフィンランド産のビールだがサーバーから各自自由に注いで飲み放題なのである。
ラピンクルタ《ラパンクルタとも》はやや薄い黄金色のピルスナー。 いわゆるサッパリ系で軽い感じで飲める。 コクのあるサッポロ黒ラベルやヱビスとは異なり、キリンラガーのような苦味も朝日スーパードライのようなキレ味もない。 良く言えば優しくフルーティーなビールであり、厳しく言えば独特な主張をしないビールとでも言えるだろうか。
私は、このスモーガスボードを楽しみにしていたし、家内も楽しめるものと日本を発つ前から話ていたのである。
ところが、いよいよ扁桃の腫れがひどくなり、扁桃腺炎独特の高熱症状が出てきたのである。
子どもの頃とは違って高熱にも耐えられるし、咽頭の腫れが少々ひどくても我慢出来るようになってはいるがゼェゼェと気管支に炎症を来たしてきているので流石に目も熱くトロンとしてきていた。
学生時代から社会人になってからはルゴール液を脱脂綿に沁み込ませて鏡を見ながら自分でグルグルっと塗りたくったものであった。
しかし、そうした私の特効薬もなく、まだ医者にかかるほどでもないと自己診断・・・新インフルエンザの心配を全くしなかったわけではないが、これまでの経験上から扁桃腺炎以外には考えられなかったのである。
結局、サーモンのマリネを少量と白ワイン、それにビールを2杯飲んだだけで夕食を終えた。
これは何とも残念なことであったが、よく冷えたビールは熱く腫れた咽頭には気持ちが良かった。
写真上下は部屋の冷蔵庫のものでフリーになっていた。
上は水とファンタ、それにビール『KOFF』。
下はスペイン産、CAVAのスパークリングワイン。
『KOFF』は『Lapin kulta』とともにフィンランドでよく売れているビールである。
下はシリヤ・セレナーデ号の隣に接岸していたバルチック・オーシャン号。 我が船室からの写真である。
この船も結構大きく、ロシアから独立を果たしたバルト三国のひとつ、エストニアのタリン()へ向かうのである。
タリンは中世の頃にはハンザ同盟に加わっていた都市で旧称をレーヴェリと言い、フィンランドのヘルシンキとはヘルシンキ湾を挟んで南側に位置している。
バルト海(Baltic Sea)はヨーロッパ本土とスウェーデン、フィンランド、ロシア、エストニアに囲まれた海で、ボスニア湾やフィンランド湾と呼ぶ広い海域を含んでいる。
この一帯をなぜバルトと呼んでいるのか長いこと不思議に思うことがなかった。
日露戦争における日本海海戦にロシアのバルチック艦隊が対馬海峡にやって来たことも分かっている。
では何故バルトなのか。 ツマランことかも知れないが名前というものには必ずと言って良いほどに謂れがあるもので、このバルトについて調べてはみたが残念ながらコレという解答を見つけることが出来なかった。
私に分かったことは、中世以来ラテン語でバルト海を意味するマーレ・バルティクム(Mare Balticum)がバルト海沿岸地域全体を示す言葉として用いられて来たということだけであり、それ以前に遡ることが出来なかった。
ストックホルムのバッタハムン埠頭を離岸し、多くの島の間を抜けてバルト海に向かうところである。
以前に地図で示した(リンク)ようにストックホルムの町とバルト海の間には数え切れないほどの島々があるのだが、シリヤ・セレナーデ号は揺れも無く静かに海上を進んで行った。
屋上階のデッキに出ると冷たい風に当たり景色が変わっていくので辛うじて船が進んでいると分かるくらいに静かなのである。
下は7階フロアのプロムナードで幾つものショップが並び、143メートルもの長さがある。
ガラス窓が見えているのはインサイドキャビンの出窓である。
下は軽食のレストランMUNDで、サンドイッチ、バーガー、サラダ、果物などを売っており、店のテーブルを利用しても良いし持ち帰っても良い。
パンもハム、ソーセージの種類も多くとても美味しそうであったが、この船の食事の楽しみは何と言ってもヴァイキング料理。 北欧ではスモーガスボードと呼ぶが、肉料理、海鮮料理、チーズにサラダに果物などなど、いったい何種類の料理が並べられているのか数え切れない。
ワインなどの種類もあるが、とりわけビールはラピンクルタ《ラパンクルタとも》(Lapin kulta)、これはフィンランド産のビールだがサーバーから各自自由に注いで飲み放題なのである。
ラピンクルタ《ラパンクルタとも》はやや薄い黄金色のピルスナー。 いわゆるサッパリ系で軽い感じで飲める。 コクのあるサッポロ黒ラベルやヱビスとは異なり、キリンラガーのような苦味も朝日スーパードライのようなキレ味もない。 良く言えば優しくフルーティーなビールであり、厳しく言えば独特な主張をしないビールとでも言えるだろうか。
私は、このスモーガスボードを楽しみにしていたし、家内も楽しめるものと日本を発つ前から話ていたのである。
ところが、いよいよ扁桃の腫れがひどくなり、扁桃腺炎独特の高熱症状が出てきたのである。
子どもの頃とは違って高熱にも耐えられるし、咽頭の腫れが少々ひどくても我慢出来るようになってはいるがゼェゼェと気管支に炎症を来たしてきているので流石に目も熱くトロンとしてきていた。
学生時代から社会人になってからはルゴール液を脱脂綿に沁み込ませて鏡を見ながら自分でグルグルっと塗りたくったものであった。
しかし、そうした私の特効薬もなく、まだ医者にかかるほどでもないと自己診断・・・新インフルエンザの心配を全くしなかったわけではないが、これまでの経験上から扁桃腺炎以外には考えられなかったのである。
結局、サーモンのマリネを少量と白ワイン、それにビールを2杯飲んだだけで夕食を終えた。
これは何とも残念なことであったが、よく冷えたビールは熱く腫れた咽頭には気持ちが良かった。
写真上下は部屋の冷蔵庫のものでフリーになっていた。
上は水とファンタ、それにビール『KOFF』。
下はスペイン産、CAVAのスパークリングワイン。
『KOFF』は『Lapin kulta』とともにフィンランドでよく売れているビールである。
at 10:22|Permalink│
August 26, 2009
北欧の旅 (40) SILJA LINE・ストックホルム~ヘルシンキ
ストックホルムでは心配していた風邪気味の症状がいよいよひどくなってしまった。
これから乗船するバルト海クルーズの船はとても素敵なので、家内には前もって多いに褒め語り、私も楽しみのひとつにしていたのであるが乗船前からとても残念な思いであった。
以前はフィンランドの旧都トゥルクからストックホルムへの航海であった。
何時になっても日が暮れず、白夜を初めて経験した時でもあったし、40数年の時を経てヘルシンキでペンフレンドと初めて会い、初めて語り合った興奮冷め遣らない時の船旅であったので、深い記憶として今も尚昨日のことのように思い出されるのである。
写真はストックホルム・バッタハムン港(Vartahamnen)
のシリヤライン(SILJA LINE)のゲートである。
ストックホルムからバルト海を航行する国際船会社で大きいのはシリヤライン(SILJA LINE)とヴァイキングライン(Viking Line)を挙げることができる。
スウェーデン・フィンランド間、そしてスウェーデン・バルト三国〔エストニア、ラトビア、リトアニア〕間を頻繁に運行している。
ヴァイキングライン(Viking Line)はストックホルム市街を眺望できるファイアルガータン展望台の下が発着場になっているが、シリヤライン(SILJA LINE)はストックホルム中央駅から地下鉄で3つ目のGardet駅に近いバッタハムンの埠頭が発着場となっている。Gardetの『a』はウムラウトの『a』である。
私たちが乗船したのはミズ・シリヤ・セレナーデ(Ms. SILJA SERENADE)。
フィンランド国旗と同じ白色と青色の船体で全長 203m、幅 31.5m、総トン数 58,376トン、乗用車 350台、乗客を2,852人積載できる大型船である。
シリヤラインは同型船ミズ・シリヤ・シンフォニー(Ms. SILJA SYMPHONY)の2隻をストックホルム~ヘルシンキ間に就航させている。
ストックホルム・バッタハムン港(Vartahamnen)とヘルシンキ・オリンピアターミナル (Olympia Terminal)の双方から毎日17時(16時)に出航し、翌日の9時55分(10時55分)に到着するのである。
写真は船内掲示の時計であるが、ストックホルムとフィンランド(ヘルシンキ・トゥルク)間は時差が1時間ある。
現在、世界最大の客船は米カーニバル社の『クイーン・メリー?』で15万1400トンであるが、今年の秋には米ロイヤル・カリビアン・クルーズ社の新造船で総トン数22万トン、全長360m、幅47mの『オアシスオブザシーズ』がカリブ海で就航するという。
『クイーン・メリー?』は乗客2620人に対して乗員1250人と乗客2人に対して乗員1人が配置(数的に)されているという超豪華客船であり、『オアシスオブザシーズ』の乗客数は5400人だが船体は21階建てのビルに相当すると言い、船と言うより将に巨大ビルディングと言った方が良いかもしれない。
こうした巨大船に比べれば6万トン弱のセレナーデ号は子どもみたいなものだが、喫水ラインまででも7m、その上に2層の車両デッキを含めて最上階のクラブまで入れれば13階建てのビルディングが海上を移動するわけで、日本海や太平洋に就航している日本のフェリーなど、そのまた子どもということになってしまう。
乗船客のゲートは7階のプロムナードデッキなのだが、乗船口ではクルースタッフやパフォーマー達が出迎えてくれる。
この階にはインフォーメーションデスクの他、多くの店が並び、レストランも何軒だかあり、6階にもレストランや免税店、その他の階にもバー、クラブ、カジノ、シアター、サウナ、プール、マッサージ、美容などなど、ホテルとデパートが海上を移動しているようなものなのである。
私達の部屋は11階のシーサイドルーム。
家内がカードキーで部屋に入るところだが、以前シリヤラインを利用した頃、日本ではカードキーが普及する前で私はカードキーの扱い方が分からず困っていたのを通りかかった外国人が助けてくれたことがあった。
今ではカードキーも普及してきたが、カードキーと言っても開錠の仕方は一律ではない。 磁気式のものもあれば穴あき式のものがあったり、スライド式のものがあれば差し込み式のものもある。 差し込み式といっても、サッと差し込んで素早く抜かないとダメな方式もあれば、差し込んだ状態でドアノブを回転しなければならないものもありヤヤコシイ。
部屋は落ち着いた色調で、ベッドにライティングデスク、それに洗面とシャワールームが設置されている。
テレビ、冷蔵庫、電源もあり、広いガラス窓からは海を眺められ、居住性という点でも悪くはない。
下の写真は誰が見ても分かるムーミンとサンタクロースであり、それぞれのオフィシャル・シーキャリヤーとしてシリヤラインのボートに描かれているものである。
ムーミンはトーヴェ・ヤンソン(Tove Jansson)女史の作品であり我が国でも絵本やアニメで紹介されて良く知られている。
ムーミンが住むのはムーミン谷だが、それはフィンランドの旧都トゥルクに近いナーンタリの町の島にあり、その島全体がムーミンのテーマパークのようになっている。
また、サンタクロース(Santa Claus=St.Nicholass)の故郷はフィンランドのラップランド、ロバニエミ(Rovaniemi)のサンタクロース村(Santa Claus Village)だと言う。
勿論作られたものではあるが、トナカイに乗ったサンタさんのイメージとしてはピッタリの土地柄ではある。
サンタクロースの起源や謂れについては幾つもの説があり、いずれが真実であるとは決め難いが、人物は4世紀頃のキリスト教司教セント・ニコラウスにほぼ間違いはないようで、新大陸アメリカに渡ったオランダ人新教徒たちによってSante Klaasの話が伝播され、それが世界各地に広まったものらしい。
北欧諸国は宗教改革の影響を受けてプロテスタントの信徒が多いが、サンタクロースとクリスマス・イブのお話がアメリカから伝わってきたものか、ヨーロッパ(オランダから)において伝わったものか定かではない。
しかし、フィンランドでのクリスマスとサンタクロースの話はしっかりと定着している。
ロバニエミのサンタクロース村では随分以前よりサンタさんからの手紙(クリスマスカード)を世界各地へ発送する事業を行っており、何十年前だったか、私もペンフレンドが依頼してくれて、そのカードを頂いたことがあった。
キリスト教の信徒であろうとなかろうと、とりわけ日本では八百万の神々を信仰?し、世界の宗教行事を真似る国民性であるから、サンタの手紙がサンタクロース村から送られてくることを嬉しく思う人たち・子ども達も多いのではなかろうか。
そんな方たちにはサンタクロース村のページを開いてサンタからの手紙の送付を依頼すればクリスマス前にカードを郵送してくれる。 もっとも、カード+郵便代を支払わねばならないが。 しかし、E-MAILは無料だったかな?
サンタクロース村のページのアドレスはココ(この行をクリックする)である。
そしてSANTA CLAUS GREETING CENTERをクリックすれば各国語ページの表示が国旗をクリックすることで出来る。
次のページでLetter orderかSend your friendをクリックすれば良いのである。
これから乗船するバルト海クルーズの船はとても素敵なので、家内には前もって多いに褒め語り、私も楽しみのひとつにしていたのであるが乗船前からとても残念な思いであった。
以前はフィンランドの旧都トゥルクからストックホルムへの航海であった。
何時になっても日が暮れず、白夜を初めて経験した時でもあったし、40数年の時を経てヘルシンキでペンフレンドと初めて会い、初めて語り合った興奮冷め遣らない時の船旅であったので、深い記憶として今も尚昨日のことのように思い出されるのである。
写真はストックホルム・バッタハムン港(Vartahamnen)
のシリヤライン(SILJA LINE)のゲートである。
ストックホルムからバルト海を航行する国際船会社で大きいのはシリヤライン(SILJA LINE)とヴァイキングライン(Viking Line)を挙げることができる。
スウェーデン・フィンランド間、そしてスウェーデン・バルト三国〔エストニア、ラトビア、リトアニア〕間を頻繁に運行している。
ヴァイキングライン(Viking Line)はストックホルム市街を眺望できるファイアルガータン展望台の下が発着場になっているが、シリヤライン(SILJA LINE)はストックホルム中央駅から地下鉄で3つ目のGardet駅に近いバッタハムンの埠頭が発着場となっている。Gardetの『a』はウムラウトの『a』である。
私たちが乗船したのはミズ・シリヤ・セレナーデ(Ms. SILJA SERENADE)。
フィンランド国旗と同じ白色と青色の船体で全長 203m、幅 31.5m、総トン数 58,376トン、乗用車 350台、乗客を2,852人積載できる大型船である。
シリヤラインは同型船ミズ・シリヤ・シンフォニー(Ms. SILJA SYMPHONY)の2隻をストックホルム~ヘルシンキ間に就航させている。
ストックホルム・バッタハムン港(Vartahamnen)とヘルシンキ・オリンピアターミナル (Olympia Terminal)の双方から毎日17時(16時)に出航し、翌日の9時55分(10時55分)に到着するのである。
写真は船内掲示の時計であるが、ストックホルムとフィンランド(ヘルシンキ・トゥルク)間は時差が1時間ある。
現在、世界最大の客船は米カーニバル社の『クイーン・メリー?』で15万1400トンであるが、今年の秋には米ロイヤル・カリビアン・クルーズ社の新造船で総トン数22万トン、全長360m、幅47mの『オアシスオブザシーズ』がカリブ海で就航するという。
『クイーン・メリー?』は乗客2620人に対して乗員1250人と乗客2人に対して乗員1人が配置(数的に)されているという超豪華客船であり、『オアシスオブザシーズ』の乗客数は5400人だが船体は21階建てのビルに相当すると言い、船と言うより将に巨大ビルディングと言った方が良いかもしれない。
こうした巨大船に比べれば6万トン弱のセレナーデ号は子どもみたいなものだが、喫水ラインまででも7m、その上に2層の車両デッキを含めて最上階のクラブまで入れれば13階建てのビルディングが海上を移動するわけで、日本海や太平洋に就航している日本のフェリーなど、そのまた子どもということになってしまう。
乗船客のゲートは7階のプロムナードデッキなのだが、乗船口ではクルースタッフやパフォーマー達が出迎えてくれる。
この階にはインフォーメーションデスクの他、多くの店が並び、レストランも何軒だかあり、6階にもレストランや免税店、その他の階にもバー、クラブ、カジノ、シアター、サウナ、プール、マッサージ、美容などなど、ホテルとデパートが海上を移動しているようなものなのである。
私達の部屋は11階のシーサイドルーム。
家内がカードキーで部屋に入るところだが、以前シリヤラインを利用した頃、日本ではカードキーが普及する前で私はカードキーの扱い方が分からず困っていたのを通りかかった外国人が助けてくれたことがあった。
今ではカードキーも普及してきたが、カードキーと言っても開錠の仕方は一律ではない。 磁気式のものもあれば穴あき式のものがあったり、スライド式のものがあれば差し込み式のものもある。 差し込み式といっても、サッと差し込んで素早く抜かないとダメな方式もあれば、差し込んだ状態でドアノブを回転しなければならないものもありヤヤコシイ。
部屋は落ち着いた色調で、ベッドにライティングデスク、それに洗面とシャワールームが設置されている。
テレビ、冷蔵庫、電源もあり、広いガラス窓からは海を眺められ、居住性という点でも悪くはない。
下の写真は誰が見ても分かるムーミンとサンタクロースであり、それぞれのオフィシャル・シーキャリヤーとしてシリヤラインのボートに描かれているものである。
ムーミンはトーヴェ・ヤンソン(Tove Jansson)女史の作品であり我が国でも絵本やアニメで紹介されて良く知られている。
ムーミンが住むのはムーミン谷だが、それはフィンランドの旧都トゥルクに近いナーンタリの町の島にあり、その島全体がムーミンのテーマパークのようになっている。
また、サンタクロース(Santa Claus=St.Nicholass)の故郷はフィンランドのラップランド、ロバニエミ(Rovaniemi)のサンタクロース村(Santa Claus Village)だと言う。
勿論作られたものではあるが、トナカイに乗ったサンタさんのイメージとしてはピッタリの土地柄ではある。
サンタクロースの起源や謂れについては幾つもの説があり、いずれが真実であるとは決め難いが、人物は4世紀頃のキリスト教司教セント・ニコラウスにほぼ間違いはないようで、新大陸アメリカに渡ったオランダ人新教徒たちによってSante Klaasの話が伝播され、それが世界各地に広まったものらしい。
北欧諸国は宗教改革の影響を受けてプロテスタントの信徒が多いが、サンタクロースとクリスマス・イブのお話がアメリカから伝わってきたものか、ヨーロッパ(オランダから)において伝わったものか定かではない。
しかし、フィンランドでのクリスマスとサンタクロースの話はしっかりと定着している。
ロバニエミのサンタクロース村では随分以前よりサンタさんからの手紙(クリスマスカード)を世界各地へ発送する事業を行っており、何十年前だったか、私もペンフレンドが依頼してくれて、そのカードを頂いたことがあった。
キリスト教の信徒であろうとなかろうと、とりわけ日本では八百万の神々を信仰?し、世界の宗教行事を真似る国民性であるから、サンタの手紙がサンタクロース村から送られてくることを嬉しく思う人たち・子ども達も多いのではなかろうか。
そんな方たちにはサンタクロース村のページを開いてサンタからの手紙の送付を依頼すればクリスマス前にカードを郵送してくれる。 もっとも、カード+郵便代を支払わねばならないが。 しかし、E-MAILは無料だったかな?
サンタクロース村のページのアドレスはココ(この行をクリックする)である。
そしてSANTA CLAUS GREETING CENTERをクリックすれば各国語ページの表示が国旗をクリックすることで出来る。
次のページでLetter orderかSend your friendをクリックすれば良いのである。
at 14:50|Permalink│
August 22, 2009
北欧の旅 (39) スウェーデン・ストックホルム、ドロットニングホルム宮殿
旧市街・ガムラ・スタン(スターズホルメン島)の王宮横の岸壁通りから新市街方向に向かう場所からの写真である。
下の写真の右側、緑青色の屋根に各国国旗が揚げられている建物がグランド・ホテル。
1872年創業の老舗5ツ星ホテルであり、歴代のノーベル賞受賞者とその家族の宿泊施設とされてきた建物である。
1872年というのは明治5年、日本の学校制度『学制』が公布された年である。
グランドホテルの写真右手の方には国立美術館もあり、新市街側と言っても王宮や国会議事堂と向かい合う一帯には古い建物も多く落ち着いた雰囲気を醸し出している。
下は王立オペラ座と16世紀後半に建てられた聖ヤコブ教会(右側)。
王立オペラ座は1782年に開設、杮落とし公演が行われたが、これの創設はスウェーデン王グスタフ3世(Gustav ?・Carl Fredrik Adelcrantz)であった。
グスタフ3世の治世についての評価は分かれる。
しかし、隣国デンマークにロシア(エカテリーナ女帝時代)、プロイセンにイギリス、フランスとヨーロッパ列強の狭間にあってスウェーデン王国を強大国と比肩できる地位に高め維持させた功績は大きいと言わねばならないだろう。
王位を継承した後、グスタフ3世は政治上の実質的権力を握っていた貴族たちから軍事力をもってそれを奪い、政治権力を国王のもとに集中させるという専制的絶対君主国家を造り上げた。
絶対君主制というのは君主の考え方や姿勢がまともな時は良いのであるが、歴史上専横政治になりがちであった。
後世、グスタフ3世は啓蒙的専制君主と呼ばれているが、フランス文化を好み、ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)やヴォルテール(Voltaire)ら当時を代表する啓蒙主義者と親しく交流していたようなので、彼の治世について細かくは知らないけれど、当時としては『マシ』な政治を行っていたのではないかと推測する。
フランス文化に傾倒していたグスタフ3世は下の写真にあるドロットニングホルム宮殿(Drottningholmsslott)で舞踏会を開いたり、オペラハウスでの演劇も大いに楽しんでいたようであるが、1792年、オペラハウスで鑑賞中に背後よりピストルで撃たれ暗殺されている。《この暗殺事件は実行犯はともかくとして、権力を奪われた貴族たちによる反乱と見るのが正しい》
一方、グスタフ3世が親しい友好関係にあったのはフランス・ブルボン王朝のルイ16世(Louis XVI de France)であった。
ルイ16世は、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンと皇后マリア・テレジアの娘マリア・アントーニア(Maria Antonia)、つまりオーストリア・ハプスブルク家の娘を妃としていたことでも知られ、浪費家でスキャンダルまみれのマリー・アントワネット(Marie Antoinette)とともに暗愚の王・ルイ16世として知られ、1792年のフランス革命において二人は捕えられ、翌1793年に二人ともパリに於いて断頭台の露と消えている。
しかし、後世の史料研究の中でルイ16世は暗愚な国王ではなく積極的に治世の改革を進めてきたが、ことごとく貴族達の反対にあって潰れていたことが明らかになってきたし、マリー・アントワネットのスキャンダルも多くが意図的に捏造されたものであったことも分かってきている。
グスタフ3世もルイ16世も貴族達の私欲との関係で命を捨てる結果となったが、1792年という年は何か因縁めいたものを感じる年である。
上の写真が『北欧のヴェルサイユ宮殿』と呼ばれるドロットニングホルム宮殿(Drottningholmsslott)である。
現在のスウェーデン国王は、カール16世グスタフ(Carl XVI Gustaf)。
王妃は、シルヴィア(Drottning Silvia)。
子ども達は、
ヴィクトリア王女(Kronprinsessan Victoria )、カール・フィリップ王子(Prins Carl Philip)、マデレーン王女(Prinsessan Madeleine)。
スウェーデン王国が正式名称であるが、現在のスウェーデン憲法では国王に統治権限はなく儀礼的国家元首と言え、日本国憲法における象徴としての天皇と立場上は似ている。
日本の美智子皇后は民間出身であり、雅子皇太子妃も民間出身である。
スウェーデンのシルヴィア王妃はドイツ人の民間人。ヴィクトリア王女(法定王位継承者でありヴィクトリア王太子)の婚約者は民間人のダニエル。
オロフ・ダニエル・ベストリング(Olof Daniel Westling)
何かと似た共通部分が多い。
スウェーデンでは男女に限定することなく第一子を王位継承者とする法律が制定されているので、ヴィクトリア王女が次期王位を継承することになり、グスタフ国王の次はヴィクトリア女王ということになり、ダニエルはその夫と言う立場になるのである。
日本の場合はどうなるのか万世一系の皇統云々と喧しいが、そもそも万世一系などということがあるのだろうか。このようなことを書けば、戦前なら忽ちにして不敬罪で拘引されてしまったであろろう。
有史以降、つまり文献資料として明確な証拠がある部分においては一系を認めないこともないが、有史以前は・・・。万世とは有史以前をも含めるものであるし、有史以降も皇統に全くの作為が無かったと言いきれるだけの確証もないし、あまりガチガチに考えることもないのではないかと思うのである。
スウェーデン王室一家が日常生活をおくっているのがこの宮殿であるが、2階と3階部分が公開されており私たちが見学に訪れたところである。
スウェーデン王室が王宮や宮殿を開放する姿勢、それに一般民間人との交際も特段の制限を加えることもなく、国民もそうしたことを温かく見守っている姿など、私は今後の日本の皇室と国民の在り方について大きく参考になるものだと感じたのだが、果たしてどのような展開になっていくものやら。
下の写真の右側、緑青色の屋根に各国国旗が揚げられている建物がグランド・ホテル。
1872年創業の老舗5ツ星ホテルであり、歴代のノーベル賞受賞者とその家族の宿泊施設とされてきた建物である。
1872年というのは明治5年、日本の学校制度『学制』が公布された年である。
グランドホテルの写真右手の方には国立美術館もあり、新市街側と言っても王宮や国会議事堂と向かい合う一帯には古い建物も多く落ち着いた雰囲気を醸し出している。
下は王立オペラ座と16世紀後半に建てられた聖ヤコブ教会(右側)。
王立オペラ座は1782年に開設、杮落とし公演が行われたが、これの創設はスウェーデン王グスタフ3世(Gustav ?・Carl Fredrik Adelcrantz)であった。
グスタフ3世の治世についての評価は分かれる。
しかし、隣国デンマークにロシア(エカテリーナ女帝時代)、プロイセンにイギリス、フランスとヨーロッパ列強の狭間にあってスウェーデン王国を強大国と比肩できる地位に高め維持させた功績は大きいと言わねばならないだろう。
王位を継承した後、グスタフ3世は政治上の実質的権力を握っていた貴族たちから軍事力をもってそれを奪い、政治権力を国王のもとに集中させるという専制的絶対君主国家を造り上げた。
絶対君主制というのは君主の考え方や姿勢がまともな時は良いのであるが、歴史上専横政治になりがちであった。
後世、グスタフ3世は啓蒙的専制君主と呼ばれているが、フランス文化を好み、ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)やヴォルテール(Voltaire)ら当時を代表する啓蒙主義者と親しく交流していたようなので、彼の治世について細かくは知らないけれど、当時としては『マシ』な政治を行っていたのではないかと推測する。
フランス文化に傾倒していたグスタフ3世は下の写真にあるドロットニングホルム宮殿(Drottningholmsslott)で舞踏会を開いたり、オペラハウスでの演劇も大いに楽しんでいたようであるが、1792年、オペラハウスで鑑賞中に背後よりピストルで撃たれ暗殺されている。《この暗殺事件は実行犯はともかくとして、権力を奪われた貴族たちによる反乱と見るのが正しい》
一方、グスタフ3世が親しい友好関係にあったのはフランス・ブルボン王朝のルイ16世(Louis XVI de France)であった。
ルイ16世は、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンと皇后マリア・テレジアの娘マリア・アントーニア(Maria Antonia)、つまりオーストリア・ハプスブルク家の娘を妃としていたことでも知られ、浪費家でスキャンダルまみれのマリー・アントワネット(Marie Antoinette)とともに暗愚の王・ルイ16世として知られ、1792年のフランス革命において二人は捕えられ、翌1793年に二人ともパリに於いて断頭台の露と消えている。
しかし、後世の史料研究の中でルイ16世は暗愚な国王ではなく積極的に治世の改革を進めてきたが、ことごとく貴族達の反対にあって潰れていたことが明らかになってきたし、マリー・アントワネットのスキャンダルも多くが意図的に捏造されたものであったことも分かってきている。
グスタフ3世もルイ16世も貴族達の私欲との関係で命を捨てる結果となったが、1792年という年は何か因縁めいたものを感じる年である。
上の写真が『北欧のヴェルサイユ宮殿』と呼ばれるドロットニングホルム宮殿(Drottningholmsslott)である。
現在のスウェーデン国王は、カール16世グスタフ(Carl XVI Gustaf)。
王妃は、シルヴィア(Drottning Silvia)。
子ども達は、
ヴィクトリア王女(Kronprinsessan Victoria )、カール・フィリップ王子(Prins Carl Philip)、マデレーン王女(Prinsessan Madeleine)。
スウェーデン王国が正式名称であるが、現在のスウェーデン憲法では国王に統治権限はなく儀礼的国家元首と言え、日本国憲法における象徴としての天皇と立場上は似ている。
日本の美智子皇后は民間出身であり、雅子皇太子妃も民間出身である。
スウェーデンのシルヴィア王妃はドイツ人の民間人。ヴィクトリア王女(法定王位継承者でありヴィクトリア王太子)の婚約者は民間人のダニエル。
オロフ・ダニエル・ベストリング(Olof Daniel Westling)
何かと似た共通部分が多い。
スウェーデンでは男女に限定することなく第一子を王位継承者とする法律が制定されているので、ヴィクトリア王女が次期王位を継承することになり、グスタフ国王の次はヴィクトリア女王ということになり、ダニエルはその夫と言う立場になるのである。
日本の場合はどうなるのか万世一系の皇統云々と喧しいが、そもそも万世一系などということがあるのだろうか。このようなことを書けば、戦前なら忽ちにして不敬罪で拘引されてしまったであろろう。
有史以降、つまり文献資料として明確な証拠がある部分においては一系を認めないこともないが、有史以前は・・・。万世とは有史以前をも含めるものであるし、有史以降も皇統に全くの作為が無かったと言いきれるだけの確証もないし、あまりガチガチに考えることもないのではないかと思うのである。
スウェーデン王室一家が日常生活をおくっているのがこの宮殿であるが、2階と3階部分が公開されており私たちが見学に訪れたところである。
スウェーデン王室が王宮や宮殿を開放する姿勢、それに一般民間人との交際も特段の制限を加えることもなく、国民もそうしたことを温かく見守っている姿など、私は今後の日本の皇室と国民の在り方について大きく参考になるものだと感じたのだが、果たしてどのような展開になっていくものやら。
at 18:12|Permalink│