September 2009

September 30, 2009

博多を巡る【6】香椎宮へ (下)

香椎宮の祭神が仲哀天皇と神功皇后の二座であることは先のページで書いた。

仲哀天皇と神功皇后については古事記(中巻)、日本書紀(巻第八)に記されている。

天皇が実在したかどうかははなはだ疑問に思うが、それについては研究者に任せるとして『お話』として読むのは面白い。

仲哀天皇(帯中津日子天皇・足仲彦天皇・たらしなかつひこのすめらみこと)は倭建命(日本武尊・やまとたけるのみこと)の第二子である。
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楼門を入った所で撮影。 皇統二座を祀る香椎宮ゆえ楼門の門扉に十六弁八重菊の紋章が彫られ、幔幕にも入れられているのであろう。

この楼門は 1909年(明治36年)に再建されたとのことなので菊の紋章に何の不思議もない。 つまり太政官布告(1869年・明治2年)によって皇室は十六弁八重表菊、皇族は十四弁一重裏菊と決められたのだから。

しかし、皇室の紋章が菊花にと・・・明治以前に使っていたのだろうか。 ツマラン疑問が湧いてくる。

『宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな トコトンヤレトンヤレナ~ あーれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレトンヤレナ~』と、私が幼かった頃、母親に教えてもらった歌を思い出してしまった。

明治維新の戦で官軍が掲げた錦の御旗が日月旗であったことは絵図でも明らかで、皇室を表わすものは金銀の太陽と月であった。

1867年当時、まだ年若い天皇が王政復古を宣し、何もかも新しい装いで天皇中心の国家体制を急遽確立する過程で、新政府高官となった者たちが鳩首凝議の末、菊花紋を皇室の紋章に制定したのかもしれない。

この狛犬は楼門を入ったところに献じられたものだが、すこぶる頭が小さい。
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参拝者が見上げた場合の効果、つまり遠近法を用いて彫られたのかもしれないが何とも妙な狛犬であった。

香椎宮の創建が724年であることは先に書いたが、この地に宮が造営されることになったのは記紀の記述内容がその理由となる。

仲哀天皇の后が神功皇后であるが、その仲哀天皇が橿日宮(訶志比宮・かしひのみや・香椎宮)で熊曾國(熊襲国)を討とうと建内宿禰(武内宿禰・たけのうちのすくね)に相談した時、神功皇后に神託がおりた。

その託宣は、「西方有國。金銀爲本、目之炎耀、種種珍寳、多在其國、吾今歸賜其國。」(西の方に国あり。金銀をはじめとして、目の輝くくさぐさの珍しき宝、さはにその国に在り。われ今其の国をよせ賜はむ。)というものであったが、仲哀天皇は信じなかった。この国というのが新羅であったのだが・・・

このことに神が怒り、翌年に仲哀天皇が急死してまった。

そこで、神功皇后がこの地に祠を建てて仲哀天皇の御霊を祀ったというのが起源とされ、その後、神功皇后は妊娠(のちの応神天皇)したまま朝鮮に出兵、新羅、高句麗、百済を従えさせた(三韓征伐)という。

が、200年に亡くなったという仲哀天皇の実在性が疑問視され、神功皇后が執政したとされる201年から269年という時期は中国の魏の史書である魏志の東夷の条、つまり魏志倭人伝に記される倭の国と卑弥呼、卑弥呼が亡くなった後の壱与に関する記述があるだけで神功皇后の三韓征伐についての傍証が無いことから、現時点では記紀の物語(神話)と言う以外にない。

712年に古事記、720年に日本書紀がまとめられ、724年に当時の朝廷が香椎宮を造営し、仲哀天皇、神功皇后を祀った。

話が飛び飛びになってしまうが、写真の樹木は『綾杉』と言う。
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写真の通りの大木で、幹分かれした方はクネクネと天に昇らんとする龍の如くにも見えた。

新古今和歌集の『千早振る香椎の宮の綾杉は神の禊に立てるなりけり』との歌があるように、神木として神事に使われるようであるが詳しくは知らない。

下の写真は本殿に詣でるための中門である。
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中門をくぐった正面に拝殿と本殿がある。
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下の写真は拝殿と本殿の全景で、これは第10代福岡藩主・黒田斉清(くろだ なりきよ)が1801年に再建したものである。
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本殿は香椎造と言われ重要文化財に指定されている。

正面奥の本殿を拡大した写真が下のものだが、香椎造と呼ばれているのは屋根は入母屋造で、その左右に切妻造の翼廊(左手は隠れているが)が出ており、正面に車寄せが設けられている造りらしい。
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神社の建築様式にもいろいろあるが、確かにこれまで見てきたものとは異なっている。

この社殿から下って東北方向に進むと不老水と呼ばれる霊泉が湧いているらしい。 仲哀天皇の遺体を海路で豊浦宮(山口県)へ移送し葬ったとされる武内宿禰の家の井戸だという。 武内宿禰が300歳もの長寿だったとされていることから不老水と呼ばれているのだろうが、日本の名水百選にも選ばれているらしい。

近くに蕎麦屋の看板も見つけていたので霊水を戴いて昼ご飯とも思ったのだが、T君の旬菜『和くら』も割りに近い所にあるので、のぞいてみようかと。

一人旅に予定など必要ない。


at 15:43|Permalink

博多を巡る【5】香椎宮へ (上)

香椎宮へはこれまでにも行ったことがあるが、車で行くことが多かった。

今回は中洲川端のホテルから電車で行ってみることにした。

地下鉄・中洲川端駅から箱崎線に乗って終点の貝塚まで行く。

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福岡の地下鉄は現在3路線。

地下鉄・箱崎線が中洲川端~貝塚。 貝塚から西鉄・貝塚線に接続。

地下鉄・空港線は福岡空港~博多駅~中洲川端~天神~姪浜。 姪浜から唐津へは筑肥線相互乗り入れ。

地下鉄・七隈線が天神~橋本

地下鉄は運転手が一人乗務のため、各駅のプラットホームは下の写真のように金属製フェンスと可動式ゲートで仕切られ、電車が到着してドアの開閉が行われるのに合わせてプラットホームの可動式ゲートも開閉する仕組みになっている。 上下の写真とも地下鉄・貝塚駅。
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下は西鉄・貝塚線の貝塚駅ホーム。

線路は単線であり香椎宮前駅まで乗車。

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高架の西鉄・香椎宮前駅の改札を出て東へ少し行くとJR鹿児島本線の踏切り。 踏切りを越えた所に建っているのが下の石柱。 
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この道路が県道24号線で、あとは県道に沿ってゆるやかな上り坂を進むことになる。

香椎宮は724年創建と歴史が古く、明治の太政官布告での社格が官幣大社で勅祭社、つまり神社としては最高格で皇室より幣帛を頂いていたほどだから勅使道(県道)の並木(樟)も古く、樹木の幹は太く枝葉は道路を覆い尽くしている。

そんな勅使道を進むと、やがてJR香椎線の踏切りを越え、更にしばらく進むと香椎宮の鳥居の前に出る。
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石造の鳥居の横に『ご祭神・仲哀天皇・神功皇后』と書かれている。

以前には応神天皇と住吉大神も祀られていたはずだが、どうして省かれたのか、疑問が脳裏をかすめた。

上の石造りの鳥居と石橋を渡ると左手に弁財天を祭る池が広がっているが、更に真っ直ぐ進むと、石段上に立派な楼門が見えてくる。
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at 10:53|Permalink

博多を巡る【4】筥崎宮『放生会』(下)

醍醐天皇の『敵国降伏』の意味は分からなかったが、元寇の役の折、蒙古の大軍が九州北部一帯に攻め寄せた際に亀山天皇も書を寄せたというが、これは神頼みという理由で理解できた。

筥崎宮の祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫の三神で、筥崎宮は筥崎八幡宮ともよばれているのである。

その三神を祀る本殿と拝殿が下の写真であるが、どちらも檜皮葺の屋根で本殿は朱色の漆塗り。 秀吉によって筑前・筑後・肥前などを与えられ、名島城主となった小早川隆景によって1546年に建立されたもので、いずれも重要文化財に指定されている。

隆景は毛利元就の『3本の矢』の逸話の一人。 長男は毛利隆元・次男は吉川元春・三男が、この小早川隆景である。
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ところで日本三大八幡宮という呼び方を耳にするが、どうも人々は三大だの十大だのと枠にはめて固定的に物を見ようとする傾向があるようだ。

八幡宮は八幡大神として応神天皇(誉田別命)、神功皇后(息長帯姫命)、それに比売神(比咩大神)という宗像三神或いは玉依姫という海や水に関わる神を祀っているが、その八幡宮を三大などと格付けするような表現で分けるのはいかがなものだろうか。

宇佐神宮(宇佐八幡)は託宣を受けて725年に社が建立され、その宇佐に詣でた僧・行教が神託を受けて860年に石清水八幡宮の社を建立。 また、筥崎宮は「筑前国穂浪郡の大分宮を筥崎松原に移しまつれ」との託宣によって923年に筥崎八幡宮として造営された(『筥崎宮縁起』石清水八幡宮記録)とされている。
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ところで、この大分宮(だいぶきゅう)であるが、『八幡宇佐宮託宣集』によれば「大分宮は我本宮なり」と記されているそうで、由緒ある宮らしい。

大分八幡宮の社伝によれば神功皇后が三韓征伐の帰途、一時逗留した地であるともいう。

勿論伝説神話上のことで、後に文章化されたものであるから丸々信じるわけではないが、なかなか面白いとは思う。

鶴岡八幡宮は1063年になって源頼義が石清水八幡を鎌倉の地に勧請したことに始まるらしいから、八幡神もなかなか多忙であるようだ。

日本三大八幡宮という言葉から挙げられている宇佐八幡・石清水八幡・筥崎八幡・鶴岡八幡の4社の創建・由緒、系譜・関わり、社格などを大雑把に調べてみたが互いに複雑な絡みあいがあるものだ。

2,3年前、国のエネルギー産業転換政策によって閉山せざるを得なくなった筑豊炭田の中心地であった飯塚の町が、昭和30年代以降ほぼ半世紀を経てどのようになっているのか気になって訪れたことがあった。

その時は江戸時代の脇街道であった長崎街道もあわせて見学してまわったのだが、街道の面影はほとんどなく、国の基幹産業であった筑豊地域の採炭地ではボタ山に多くの木々が茂って自然の山と化し、坑道の巻き上げ機が道路際にポツンと残っているだけで何とも侘しい気持ちを抱いただけであった。

しかし、次回博多を訪れる時には新たな気持ちで大分八幡宮を訪れてみよう。

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上の写真は筥崎宮の本殿と拝殿を囲む回廊に掛けられた献灯と生け花である。

献灯の信念は王貞治氏の書である。

九州の文化人、財界人らのものが掲げられていたが、一部を合成してみた。

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和敬は茶道裏千家・千玄室氏、松涛は茶道裏千家・千宗室氏、○は博多・承天寺の神保至雲氏、花は第26世観世流宗家・観世清和氏の書である。
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回廊には左の写真のような絵馬や大筒も展示されていた。

大筒は青銅製のように思ったが、説明が無かったので何のことやら・・・

この大筒と本殿の間に重文指定の石灯籠があったのだが写真を撮るのを忘れていた。

秀吉が肥前・名護屋城に出陣した時、随行してきた千利休が寄進したものらしい。


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左は本殿を囲む回廊の外裏側に鎮座する西末社。

樹陰濃きところであるが、ここでブト(ブヨとも)に腕の内側を刺され、痒いの痛いの。 彼奴の口針はヤブ蚊の比では無い。 刺された白き柔肌は円丘状に赤く腫れ、その頂きは真っ赤な血が滲み出て、まるで火山の噴火口のような穴が開いていた。

くそっ。

放生会にやってきて・・・むむむ。

がまん、我慢。

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左は東末社。

ところで筥崎宮では2年に1度『御神幸』(ごじんこう)と呼ばれるお神輿の行列が組まれて箱崎の町を巡行する。

ご神霊が神輿に鎮座され、その行列が筥崎宮を出て頓宮に到着。そこで2日間休息された後に帰られるのだ。

天神祭で言えば鉾流しの神事を行い、鉾が流れ着いた所が御旅所となり、その御旅所への天神さんの御霊が巡幸されるのが船渡御であるのと同じである。

神様は明るい所が嫌いで賑やかなのが大好きである。

だから天神祭の船渡御の際はドンドコ船で、陸渡御は神輿と太鼓山でドドンドン、ダンジリは鉦鼓や太鼓でチキチンチキチンチキチンコンコンと賑やかに囃し立てる。
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筥崎宮の『御神幸』でも鐘や太鼓、それに楽人も出るらしいが、この『御神幸』は見れなかった。

筥崎宮の八幡神も明るいのはダメなようで、巡幸は夜の6時から9時近くまでらしい。

夜の筥崎宮の模様はテレビで見たが、大変な人出で露店も照明が入って賑やかな様子であった。

しかし、神様が巡幸される時間帯は私が長浜か赤坂か中洲かで腰を下ろしている時間帯と重なるので・・・再来年、博多に行く機会に恵まれれば、初めから予定に組み込むことにしておこう。 八幡神とのデートのために。


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September 28, 2009

博多を巡る【3】筥崎宮『放生会』(上)

博多三大祭と言われているものがある。

5月の『博多どんたく港まつり』、7月の『博多祇園山笠』、そして9月に行われる『筥崎宮(はこざきぐう)の「放生会」』である。

いずれも古き由来を持つ行事であるが、『博多どんたく港まつり』の名称について、『博多どんたく』として知ってはいたが『港まつり』が付いていることには昨年の5月に初めて知った。

昨年4月にY君とHさんが挙式、5月にHさんの実家(大分県)での披露宴を終えて博多に立ち寄った時のことであった。

櫛田神社の『祇園山笠』は何年前になるだろうか、船長M氏とS君の世話で神社に特設された席で見学させてもらった。

一番山車が櫛田神社の境内をスタートするのが午前4時59分なので、S君が午前3時に車でホテルまで迎えに来てくれ案内してもらったことは忘れられないことである。

今回は博多の遺跡巡りを目的に行ったところ、『筥崎宮の「放生会」』に当たっており、偶然にも見学する機会を得たのである。
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川端の消防署前にある喫茶店『LANVIN』(ランバン)。 以前より時折寄っていた店なのだが、冷泉閣川端ホテルを常宿にするようになってからちょくちょく行くようになった。

なかなかコーヒーがうまいのである。 主、大阪流に言えば“おばはん”が一人で切り盛りをしている気さくな店なのだが、サイフォンでコーヒーをたてて其々に異なった器で出してくれる。

水にも凝っていて、以前は熊本県・黒川温泉近くの湧水を、最近は大分県・日田、湯布院近くの湧水を毎週汲みに行っているそうな。

1回で200リットルの水を持ち帰るらしいから労力も大変なものと思うが、ご当人は気楽なもの。 お店は、月・火・木・金のみ開け、営業時間は午前9時すぎ頃から3時頃まで。 夕刻5時過ぎより11時までだが、夜の部は2000円で飲み放題。 いわゆる常連さん中心の店であるが儲け度外視、“おばはん”が趣味で開いているような店である。

博多弁丸出しで飾らない“おばはん”ゆえに何となく落ち着け、我が家にいるような気分でおれるのである。

川端商店街のアーケードを少し歩けば地下鉄・中洲川端駅。ここから貝塚方面行きの電車に乗って箱崎宮前駅で下車。

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地下鉄・箱崎宮前駅は上の絵図の参道の中ほどにあり、地上へ出た所が筥崎宮の参道(下の写真)である。

この写真は筥崎宮の本殿の方向に向かって撮ったものだが、参道両側に並ぶ露店は国道3号線にまで続き、その数700軒にものぼり、筥崎宮放生会の名物のひとつに数えられている。
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ところで『放生会』だが、一般的には仏教における不殺生の教えから捕えられた生き物を元の生息場所に放してやろうと、秋・九月(陰暦8月15日)に神社やお寺で行われてきた祭事を言う。

これを『ほうじょうえ』と呼ぶのだが、筥崎宮放生会の場合は『ほうじょうや』と『会』を『え』ではなく『や』と言うのである。

この放生会の名物として露店の数の多さを紹介したが、お化け屋敷も人気が高いらしい。 もっとも怖いのは嫌いな私は近寄りもしなかったが。

そのほか、土を焼いて作った“おはじき”や“チャンポン”も名物なんだと。

“チャンポン”と言えば私が知っているものは2つ。

九州のことだから博多でも長崎チャンポンか、それとも神具や楽器のシンバルのようなものかと思っていたのであるが、“放生会チャンポン”というのはビードロのことなのだそうだ。
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ビードロというのは切手にもなった喜多川歌麿の“ビードロを吹く女”に描かれているガラス製の小さな楽器というか玩具である。 ピープーと鳴る。

それに分からなかった名物の一つが“放生会生姜”である。

露店と言えば、イカ焼き、たこ焼き、お面、お菓子などの店を思い浮かべるのであるが、そのような店に混じって“放生会生姜”の店も出ていたのである。

瑞々しい緑の葉っぱごと新生姜が露店に並べて売られていたのである。

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筥崎宮とショウガの関係は? 放生会とショウガの関係は?

大阪でなら『えべっさん(戎さん)と福笹』とか『道修町の神農さんの張子の虎』など神社とのつながりもあるのだが、『筥崎宮放生会と生姜』の関わりが分からなかったので露店の若い男前の可愛いニイチャンに尋ねてみた。

3つも形容の言葉を重ねたが、大学生のアルバイトなのか、ホンマに“かわゆい”ニイチャンで、私らが幼かった頃に抱いていた香具師のイメージとは全くかけ離れた風貌であった。

余談はさて置き、放生会(ほうじょうや)の時期に新生姜が旬の時期を迎えるので売られているのだと聞かされている。他に特別な意味合いはないと言葉づかいも丁寧に応えてくれた。

近頃めずらしい好青年であった。

下は『一の鳥居』と『楼門』。
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この『一の鳥居』も上の写真の鳥居も筥崎宮の鳥居は石造であるが、三段に積まれた台石は随分太く上段の石が台石に比して細すぎる感を受ける。

見ようによっては安定しているとも言えるが、他の神社の鳥居を思い浮かべると下部と上部の太さの比率が・・・。 それに、鳥居の冠木(笠木)とその下の貫の長さが同じで何やら不思議な感じを受ける。

一般の神社の鳥居は冠木が長くて貫は短く造ってあるものなのだが、筥崎宮の鳥居には何か意味があるのかもしれない。

ちなみにこの『一の鳥居』は福岡藩主黒田長政が1609年(慶長14年)に建立したもので国の重要文化財に指定されている。
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写真に写る檜皮茸きの入母屋造りで立派な楼門も国の重要文化財に指定されている。 

これは秀吉の命を受けて筑前領主となり名島城に入った小早川隆景が建立したものである。

この楼門に向かって右手に神木『箱松』と『絵馬殿』がある。

神木『箱松』と言うのは筥崎宮の三祭神【応神天皇(八幡大神)・神功皇后・玉依姫命】の応神天皇が生まれた時の胞衣(えな・胎盤など)を葦津ヶ浦と呼ばれたこの地へ箱に納めて埋めた“しるしの松”という意味らしい。

その箱を埋めた海辺の先ということから箱崎という地名になったとも言われているが、実証に乏しい時代のことゆえ伝聞表現以上には書けない。
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絵馬殿には時代的に古いものもあるが、写真のような大きい戦記物の絵馬(神功皇后、壇ノ浦合戦、川中島合戦など)が掛けられていた。

神木『箱松』を囲む朱塗りの木柵には多くの祈願絵馬が掛けられており、写真の大きい絵馬はソフトバンク・ホークスとアビスパ福岡の優勝を祈願したものである。

また、この楼門に掲げられた扁額には『敵国降伏』の文字。

神社の楼門に何とも不釣合いな・・・と思うのは私の神社観のためかも。
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この『敵国降伏』は醍醐天皇の宸筆とか。

その文字を拡大、扁額として掲げたのは小早川隆景だそうだが、醍醐天皇の治世に外国との諍いがあったかどうかを思い出そうとするのだが無かったような・・・

醍醐天皇と言えば思い浮かぶのは『昌泰の変』であり、菅原道真を大宰権帥として左遷した事件である。 が、醍醐天皇は『延喜の治世』と評されるほど当時としてはまともな政治を行ったとされる人物。 延喜格式の制定、古今和歌集を紀貫之に選集させたりもした人物。

その天皇が敵国と仮想したのは一体・・・


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September 24, 2009

博多を巡る【2】名島城跡ほか

以前にも書いたかもしれないが福岡県福岡市はあっても福岡県博多市という行政区は無く、福岡市は東区、博多区、中央区、早良区、西区、南区、城南区の7区に分けられ、そのひとつに博多区として博多という名前が存在する。

他の人たちにとってどうなのかは知らないが、私には福岡と言えば博多の音と文字が頭に浮かぶ。 何故なのか子細に考えたことは無いが、福岡市と博多は同義として私は感じているということである。

歴史的には筑前の博多として広範囲な土地の総称として用いられてきており、福岡という地名は黒田長政が慶長6年(1601年)より福崎の地に築いた福岡城に由来するものだと聞いている。

以来、那珂川を境に城下町・福岡と町人の町・博多として発展、明治期に市の名前を決定する際の経緯も知らないわけではないし、福岡市なり市民の皆さんを侮辱するつもりなど全く無いのだが、公的には福岡市であっても私的には博多で納得しているのである。
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上は福岡市の部分地図だが、中央区、博多区あたりの海岸線は埋め立てによるもので、昔の海岸線は赤色の点で示した名島城址から中央区あたりまで弧を描くように切り取れば、ほぼそれに近いものになる。

博多(福岡市)は、西に糸島半島、東に志賀島へ続く海の中道という全長約8kmの砂州で囲われたお椀のような博多湾に面し、湾の入口には玄海島、湾内にも能古島があり天然の良港と呼ぶに相応しい地形となっている。

下は名島城址に建つ名島神社の社殿で、後ろの樹木が茂る方向に坂道がほんの少しあり、展望所?らしき所があるのだが、展望台公園を造るとかで坂道にコンクリートが打たれて立入り禁止になっていた。
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名島神社の祭神は宗像三女神と書いてあったので、この神社も宗像大社の流れを汲むものであろう。

宗像大社は博多から北東方向に30kmばかりの所にあるが、『延喜式』(927年)における延喜式神名帳の式内社であり、明治4年(1871年)の太政官布告による官幣大社であるから歴史は古く格の高い神社である。

宗像三女神については記紀にも記されているが、宗像大社では沖津宮に田心姫神(たごりひめ)、中津宮に湍津姫神(たぎつひめ)、辺津宮に市杵島姫神(いちきしまひめ)を祀っている。

いずれも海、或いは海上交通の神であり、広島県の宮島・厳島神社の祭神も同じである。

名島神社の祭神が海の神様であるからなのかどうか知らないが、狛犬(こまいぬ)ならぬ『狛魚』が奉納されていた。
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この社殿のある丘一帯が名島城であったらしい。

名島城は平山城の形態で天文年間(1531~1554)に東方に位置する立花城主・立花鑑載(あきとし)が、その支城として築造したものであり、絵図によれば名島神社の社殿のあたりに本丸と天守曲輪などがあったらしい。

城は本丸の他、二の丸や三の丸も擁し、三方を海水を引き込んだ堀で囲い、一面のみ空堀で防御していたという堅固な城であったらしい。
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写真、朱の鳥居は名島豊川稲荷神社で名島神社社殿の直ぐ横に並び建っている。

戦国の世は支配・被支配の関係が一定ではなくややこしいが、立花鑑載も元々九州・豊後・大友氏の傍系で鎌倉時代以来の武家である。

南北朝時代に立花姓を名乗った立花貞載(さだとし)が筑前・立花山城を築いたが、名島城を築いた鑑載(あきとし)は立花家7代目の当主で豊後の大友宗麟に従っていた。

名島城は立花城の支城としてこの頃に築かれたようだが、鑑載は大友宗麟に対して謀反(1565)を起し、この時は鎮圧されて逃亡するが赦免されて立花城主に戻った。 しかし、1568年に毛利元就の策略に乗り、同じ大友の家臣であった高橋鑑種(あきたね)と共に再び宗麟に対して謀反を起した。

この時、大友宗麟は家臣・戸次鑑連(べっき あきつら)らに攻撃を命じて征圧、彼らを捕え処刑した。 これによって立花家は滅びたのであるが、立花の名跡を大事にするということで戸次鑑連が立花姓を継ぐことになった。

この立花鑑連は名を道雪と号し、同じ大友家傍系にあたる高橋紹運(しょううん)の子である高橋統虎(むねとら)を養子として迎えた。
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写真は名島神社に並ぶ丘上に建つ弁財天。 本丸や天守曲輪に並んであった弁天曲輪の位置になると思われる。

豊後、筑前、肥前で勢力を誇っていた大友宗麟が日向・耳川の戦(1578)で薩摩の島津義久に破れ、豊臣秀吉の介入によって大友と島津の関係は一端安定したものの九州における支配構造は揺るぎ始めた。

九州での覇権を狙う島津勢は、秀吉の九州征討を前に力が弱まった大友氏の筑前へ侵攻。 筑前支配の拠点である太宰府にあった岩屋城、博多・立花城、宝満城を大軍で攻めた。

岩屋城は智者で勇将・高橋紹運(しょううん)が、立花城は長男・統虎(むねとら=立花道雪の養子・立花宗茂)、宝満城は次男・統増(むねます)が守った。

岩屋城の籠城兵士僅か763人。 それに対して5万の島津軍。 まさに多勢に無勢ながら14日間も島津軍を岩屋城に釘付けの戦闘を行い、紹運は立ち腹を切り、足軽雑兵全員が玉砕したという。

一方、立花山城の宗茂は秋月勢8千の兵に攻められたが撃破。 立花山城の支城である名島城での戦の模様は分からないが、秀吉の命を受けた毛利勢らの援軍が到着、戦の形勢は逆転して島津も秀吉に降伏した。(九州征伐)

名島城は九州征伐後に筑前・筑後・肥前の領地をもらった小早川隆景が改修工事(1587)を行ない、その後、豊前中津から筑前に国替えとなった黒田長政が居城としたが、城下町を形成するに土地形状悪く福崎の地に福岡城を築造した。

その際に名島城の石垣や櫓などを福岡城に移したそうで、現在の名島城址に城としての面影はほとんど無い。


下の写真は珪化木

つまり樹木の化石であり、長い年月の間に樹木が地中で珪酸で置換されたものである。
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木の葉、貝など比較的小さな化石は数も多く発見されやすいが、このように太く長い樹木の化石が発見されることは珍しく天然記念物に指定されている。

福岡市教育委員会が設置した説明板によれば、名称は『名島檣石(Najima-Hobasira-Ishi)・Fossillized Tree-trunk Like a Mast at Najima』とし、『カシ属の幹の化石(珪化木)で、円柱状の石片が連続しています。名島の丘陵を形成する第三紀の地層中に露出したもので、時代は漸新世前期(約3700万年前)に属すると考えられています。』
『香椎宮の社伝によれば、神功皇后の三韓出兵の時に用いた船の帆柱が化石になったといい、近くの「俎石」や「縁の石」の大石とともに伝えを偲ばせています。』  2000年3月。と書いてある。
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写真でも分かるが細かな砂や泥状のものが交互に層を形成しているところに化石となった樹木の幹がぶつ切り状に並んでいる。

第三紀の堆積層に埋もれていたわけだから、当然この辺りは大昔には海の底だったはず。 それが隆起し、海水によって削られて露出してきたものであろうと考えられるが、3700万年前の地層である。

この珪化木の説明に関する限り福岡市教育委員会の説明板の役割は充分果たしていると言える。 

しかし、『香椎宮の社伝によれば、神功皇后の三韓出兵の時に用いた船の帆柱が化石になったといい、近くの「俎石」や「縁の石」の大石とともに伝えを偲ばせています。』との記述には馴染めないものを感じた。

これが福岡の観光協会や神社が作成したものなら分からないでもないが・・・。

科学的に実証された事柄と全く歴史的にも整合性のない造られた神話を、いかに「社伝によれば」とか「伝え偲ばせています」などと表現したところで、一緒くたに掲げるのはどうだろうか。 何か意図する事があってのことかと勘ぐりたくもなる。

既に記紀研究において神功皇后の「三韓征伐」は神話的誇張が多く、当時の新羅や百済、高句麗の状況と合わないし、香椎宮の創建年代と記紀との整合性が無いことも指摘されている。

三韓と呼ばれる高句麗、新羅、百済が成立したのは313年頃のことであり、仮にその折に用いられた船の帆柱だとして、せいぜい1700年前の出来事である。 それが3700万年もの大昔の地層に埋もれていたことをどのように説明するのか。 
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上は名島神社の社殿から海岸へ下りてきたところにある一の鳥居。

下は『縁の石』で福岡市港湾局が案内板を立てている。
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こちらも『神功皇后の伝説にまつわる旧蹟の一つ』とか、『言い伝えでは』などと書いているが、教育委員会制作ではないので、「まっ、いいか」といった感じである。

教育委員会は地教行法に定められた職務を果たすことを目的とするが、その職務範囲は広く、学校教育は勿論のこと、社会教育も文化財に関する諸々のことも含まれている。

そうした意味において案内・説明板の作成も業務内容と言える。 が、史実に明確でなく疑義多い神話伝説の類いを科学的に実証されている事柄と共に併記している福岡市教委の感覚にはズレを感じる。

民俗学が対象とする分野も守備範囲と言われるかもしれないが、それならそれで別途の策を講じるべきであろうと私は感じた。


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