October 2009

October 15, 2009

広島でのデート (ロシア女性と広島で再会の続き)

今回の広島での途中下車は、第一の目的がロシア女性との再会であり、このデートは大いに満足した。

第二の目的は今春退官した後輩I君の慰労であった。

退官後しばらくは何かと多忙であろうとの配慮から秋に入ってから声を掛けたのだが、これは正解であった。

3年ぶりになるだろうか、まずまず元気そうなので安堵。

瀬戸内海の魚を酒肴に先ず無事退官したことに対して祝杯をあげた。

そして、長い間の公務に対して慰労の杯を・・・

飲む口実と言えばそれまでのことだが、旧き友と飲む酒は格別にウマイ。

今回のホテルは常宿にしていたリーガロイヤルから東急インに変更してみた。
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上は平和大通りの三川交差点角に建つ東急イン。 手前の道路が平和大通り。

東急インは他所の都市で利用したことはあるが広島では初めてだったのでどのようなホテルか全く分からなかった。

しかし、広島駅から乗ったタクシーの運転手が東急インを評して「リーガロイヤルより数段格下」と言ったので仕方ないと思ったのである。

確かにエントランスホールは広いとは言えないしレセプションカウンターもこじんまりしていた。

私がチェックインしたのは2時くらいであったが、応対した若い女性は丁寧に笑顔で接してくれて気分が良かった。

一般にレセプショニストは『木で鼻を括ったような』と表現するのが最も近いと思える愛想の無い応対をするものである。

多分ホテルマンの養成学校でもそのように教えられているのであろう。 まるで何にも偏さず屈さずを体現するかのような入国管理官のような態度でいることを。

しかし、いくら事務処理に長けたホテルマンであっても温か味を感じられない木偶のようなホテルスタッフは私は大嫌いである。

ヨーロッパでも家族経営のような中クラスのホテルでは笑顔で接してくれるレセプショニストが多いが日本でも同じ傾向があるように感じる。
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ホテルの部屋から西の空を眺めたもので、左下に平和大通りが見える。

写真中央の高いビルの辺りに三井ガーデンホテル、クリスタルプラザ、ANAクラウンプラザなどが集まっており、右手遠方の高いビルが常宿にしていたリーガロイヤル・ホテルである。

今回、パソコンで某旅行会社のページを見ていて東急インのプランに気付いたのだが、1泊朝食付き料金が随分安かったのである。

私が常宿にしていたリーガロイヤルの1泊(素泊まり)分の料金で優に3泊できるのである。

もっとも、安かろう悪かろうでは具合が悪いのだが、レセプションの女性が「今回は少し広めの部屋を用意させて頂きました」と言っていたので、程度は分からないが普段は多少狭いのだろうけど、過去に利用した東急ホテル・エクセルホテル東急などに比べても遜色はないように感じた。

東急インでも釧路のツインは狭かったが、これは土地の条件もあるから仕方がないかもしれない。

広島の場合はバスタブも大きいし、一人部屋(シングルベッド)としては充分であった。

これにバイキング形式ではあるが内容豊かな朝食(博多や京都のエクセルと同程度)が付いていたのだから常宿の変更を考えているのである。
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リーガロイヤルの立地も良いが、東急インの立地も新天地、流川に近くて私にとっては良い場所である。

今回も『どんどん』『通』『赤い鳥』は連夜通ったし、『そごう』の山豊で広島菜の漬物も買った。

今回は堀川町の『ふみちゃん』のお好み焼きも味わった。

『へんくつや』『みっちゃん』など、数え切れない程いろんな店に行ったが混み合う店内が嫌で、たまたま午後2時過ぎに『ふみちゃん』の店の前を通ると鉄板カウンター席が空いていたので入ったのだが、ネギ焼きにモツ焼きでビールがうまかった。

店の場所にもよるが、コノ場所コノ時間コノ店が穴場、私にとってだが今回の発見であった。

写真は平和大通りの地蔵さんの世話をしていた女性。

平和大通りにはいろんな石灯籠が沢山据えられているのだが、そんな中に地蔵さんも祀られており、朝から近所の方だろうか、掃除をし、お花を供えておられた。


at 10:29|Permalink

ロシア女性と広島で再会

飛行機にも途中降機(stop over)というものはある。

乗り換え(transit)ではなく到着空港の外へ出てしまうことだが、JRは国鉄時代から途中下車という制度を取り入れている。

出発駅から目的地駅までの乗車券で、その行路上にある途中の駅で下車し(改札口を出る)、以後改めて目的地へ向かうために乗車できる制度である。

これには乗車券の有効期間内であるとか何百km以遠であるとかの規定があるが、私はこの制度をよく利用する。

日程の決まった仕事で他の土地を訪れる場合は単純往復が多かったが、時間的に余裕ができた今は新大阪・博多間では友人が多く住む広島に立ち寄ることにしている。

今回はロシア女性と広島で再会するという目的が加わったので途中下車が一層楽しく嬉しいものになった。

彼女は友人達と一緒だという。

デートに指定された場所は縮景園の広島県立美術館であった。
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何度も来ている所なのでよく分かっている。

エスカレーターで上階に上がっていく途中、久し振りに会えるのだとワクワクする気持ちを抑えられなかった。

このような気持ちになるのも全く久し振りのことである。

指定されたフロアで真っ先に彼女に会おうと進んで行った。

いた。
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 『国立トレチャコフ美術館展』“忘れえぬロシア”カタログP.82より。

Ivan Nikolaevich Kramskoy 1883 Oil on canvas 76.1×102.3cm
イワン・クラムスコイ 1883年 油彩 キャンヴァス 76.1×102.3cm

ちっとも変わっていない。

もう何年前になるのだろうか、彼女に初めて会ってから。

彼女の名前は『An Unknown Lady』。

そう、知らない女性。 名前は分からないのである。

でも、彼女の住まいは分かっている。

ロシア・モスクワのトレチャコフ美術館である。

雪が積もる厳しい寒さのロシアの町で、大通りに光彩を放つ彼女はいったい何者なのか・・・

やはり美しい女(ひと)だと思う。

私達の何年かぶりのデートを邪魔する人も少なく、静かな落ち着いた雰囲気の中で長い時間語り合うことができた。

下の女性は彼女と共にやってきた『女鉱夫』。
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 『国立トレチャコフ美術館展』“忘れえぬロシア”カタログP.110より。

Nikolai Alexeevich Kasatkin 1894 Oil on canvas 65.4×45.0cm
ニコライ・カサトキン 1883年 油彩 キャンヴァス 65.4×45.0cm

クリミア戦争で負けたロシアは国家体制の建て直しを図るために工業化へ力を入れ始めた。

この絵が描かれた時代は丁度シベリア鉄道の建設工事が始まっていた頃で、工業化への資源として石炭は重要な鉱物であった。

そのため炭鉱での採鉱・選鉱は重要な仕事ではあったが、今流に言えば3Kの仕事である。 つまり『きつい』『きたない』『危険』という。

しかし、どうだろうか、彼女の表情は。

労働についての辛さや厳しさはあるかもしれないが、彼女の体つきや微笑む表情からそのような暗さは感じられない。

むしろ彼女の優しさや人柄の良さを私は強く感じるのだ。

この時代、ロシアの工業は大いに発達していくことになるのだが、国家体制には多くの矛盾を生じて社会不安が増大し、ロマノフ王朝は1917年のロシア革命によってツァーリ専制政治の幕を下ろすことになるのである。

19世紀のロシアにおける写実主義と印象主義の絡まる絵画を集めた今回の展覧会の絵画を単に絵を鑑賞するだけでなく、もう一歩、当時のロシアの国家体制に関わる政治や経済などと共に人々の考え方や暮らしぶりなどを予備知識として持って見たならば一層素晴らしい秋のひと時を過ごすことができると思う。

広島での会期は10月18日までである。

もう一度会いに行きたいが、3日しかない。 あぁーーー


at 05:25|Permalink

October 14, 2009

博多を巡る【14】 語り 呑み 喰らう

「博多って、どんなとこ?」

私が博多のことをしばしば話題にするので尋ねられるのである。

しかし、尋ねられる言葉に具体性が無いので、いつも迷ってしまうのだが、そんな時に決まって、

「ええとこや。」

と、応じてしまう。

『博多』と場所を特定してはいるが、範囲は広いし『どんな』と言われても具体的造形から抽象的イメージまでを含めて答えるというのは難しいものなのだ。

今回は日程的に余裕を持たせたので、博多の友人達と食事を共にし、ゆっくり話をすることもできた。

いつも寄ってやることの出来ないT君の店にもS君の店にも寄ってやることができた。

私はT君やS君の料理の先生ではないのだから私が訪れても別に気にするほどのこともないと思うのだが・・・

彼らが余りに緊張しまくるので、私は訪ねていかない方が良いのかと思ったりするくらいである。

私の息子同様の付き合いをするようになって早7年を過ぎ、彼らも30半ばを越えて今流に言えばアラフォーの仲間入りをしてしまった。

春にT君の婚約者?に紹介してもらったし、今回は久し振りにS君の婚約者?・・・I子とも会い、5人で会食も楽しんだ。

会食の折にはT君の婚約者が仕事の取材予定と重なったので旬菜『和くら』のY子が同席したが、S君とI子が推奨した赤坂の割烹の料理は工夫が凝らされていてなかなかのものであった。

勿論、T君もS君も腕を上げている。

料理と言えば、今回春吉の『久岡家』にも立ち寄った。

娘扱いのY子と飲み歩き、締めに茶漬けでもと『久岡家』に寄ったのだが、てきぱきと甲斐甲斐しく動く調理人たちやお運びさんを見ていると、「もうちょっとだけ飲むか」とA氏に「あまり食べられないから酒肴を少しだけ」と頼んだ。
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Y子との2人分であるが、トラのてっさ、アワビ、ウニ、それに鯨のウネと百ヒロである。

食材は日によって変わるが好物ばかり。 私は芋焼酎『佐藤黒』をロックで、Y子は黒糖焼酎『長雲』をロック。

結局お茶漬けは飛んでしまったが、送りに出てくれたA氏を引っ張ってバー『花』へ。

ママのA子も交えて料理談義。 A氏もA子ママも調理師のプロ。 Y子と私は味わうだけだが日本料理の基本の基本、それがダシであることで一致。 後日、A氏のダシを味わうことを約束した。

1日か2日空けて『花』のA子ママと一緒に『久岡家』へ。

A氏には「何か椀物を」と言ったところ、暫くして提供されたのは松茸を使っての清まし仕立ての椀物。

「うん? 博多仕立てにすると味が薄めかな?」と思ったがダシは上々。

予約せずに突然訪れたのだから、そのための仕込みをしていたわけではない。

店を出た時、「関西風に少し味を薄めにしましたが・・・」と。 

ほっほっほっ、A氏、なかなかやるやないか。

博多の『ええとこ』、何となく分かるやろか。


at 09:33|Permalink

October 13, 2009

博多を巡る【13】 朝の散歩 中洲~清川〔B〕

散歩の帰り道、某駐車場で見付けた屋台。

これらの屋台は未だ明けやらぬ博多のいずれかの場所からココへ帰ってきて、午後2時か3時頃までコノ場所で眠るのである。

通常、屋台の主人(調理人)は屋台の置かれている所へ出向き、そこで営業活動を行うだけで、屋台の運搬は『引き屋』という専門の仕事人が行い、『引き屋』は何軒かの屋台を預かっている。

屋台は一代限りと聞いたことがあるのだが、その権利を売ったり貸したりしていることもあるらしい。
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一般の固定店舗と違うのは土地に関する費用は要らない代わりに屋台の駐車?料金や『引き屋』に対する支払いが必要となる。 営業する側の金銭的苦労は分からないが、博多名物のひとつとなっている屋台だけに一代限りで徐々に数が減って行くのならば淋しいことである。

写真の屋台には『たっちゃん』(長浜ラーメン・ギョーザ・おでん)『さんゆう』(博多ラーメン・やきとり・美少年)『松ちゃん』(天ぷら・牛タン・魚貝麺・串焼)と書かれており、それぞれの屋台で提供する主な品名を掲げているのだが、これは其々の屋台独自のもので、いずれの屋台でもラーメンを提供しているものでもない。

『松ちゃん』は春吉橋の『司』の並びにあったと思うが、他の屋台がどこで営業しているのかは知らない。

屋台だから料金は安かろうと思うのは大きな間違い。 一般の大衆酒場に比して何割かは高めの料金設定がされていることを承知しておかないと、自分の基準で料金を勝手に決めてはいけない。

麓の町で100円の飲み物であっても頂上に近い山小屋で求めれば200円するのと同じこと。 郷に入らば郷に従う覚悟がなければ最初っから屋台へは行かないこと。

屋台では屋台の楽しみ方がある。 もっとも、法外な料金を請求されることがあるということを地元・博多の人間から何度か聞いている。 店の名前も分かってはいるが、ココでは明かさない。 博多もんは親切だから尋ねれば安心できる屋台を教えてくれるので参考までに。
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上はキャナルシティの前、博多川に架かる清流橋。

橋を渡ると中洲の歓楽街である。 この一画は飲食店が集まる歓楽街ではなく、昔のトルコ、現在はヘルスと言うらしいがギッシリと建ち並んでいる。
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朝のうちだから割と平気で通れるのだが、昼から深夜にかけては私は通らない。

お店の門という門に黒服の若い男が立って声をかけてくるのである。

もう7年も以前のことだが知らずに歩いて多いに弱ったことがあった。

この通りを抜ければ国体道路に出る。

右へ行けば中洲1丁目の交差点で左は春吉橋東交差である。

この春吉橋東交差角の駐車場にMKタクシーの乗り場が開設された。

MKタクシーと言えば京都で『料金破壊』のタクシー会社として既存のタクシー会社との間で問題になったことがある。 現在はどうか知らないが、会社も運転手も目の仇のようにされていた。

しかし、タクシーを利用する側から言えば料金が安いだけでなく運転手の言葉や態度が親切丁寧で気持ち良いため私は度々利用してきた。

博多のMKタクシーを今回初めて利用し、乗る機会が三度あったが京都のタクシーと変わりなくなかなか良かったという印象を持った。

この隣に『かじ』という割烹店があるのだが、8月に50周年を迎えたということで安い朝食を提供していたのである。
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『かじ』には支店もあり、私は博多へ到着すると駅地下デイトスの『かじ天』を訪れ、また、帰る折にも必ず立ち寄ってから新幹線に乗るのである。

朝食時間以外に訪れる際の注文品は決まっており、剣先イカの活造りと芋焼酎の湯割りである。

このように書けば店の者は「あの人」とピンとくるはずである。

散歩の通り道なので店内を覗いてみたらデイトスの『かじ天』にいるバアサン(失礼だが事実)の顔が見えたので寄ってみたのである。 丁度博多駅が工事中でデイトスの『かじ天』は営業していなくて、彼女は本店の手伝いに来ていたというわけである。
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丁度『かじ』の社長もいたので50周年の祝いを言い雑談をしていたのだ。

社長には話していないが、もう何年も以前に2、3度だがこの本店も利用している。 しかし、仲居さんの応対があまりに悪くて気分を害することが続いたので以後一切訪れなかったのである。

だが、写真で示すように店も料理も悪くはない。 むしろ値段から言えば良心的な店と言える。

そんなわけで、明くる日に友人のT氏とU氏を誘って真昼間から宴席を持ったのである。
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勿論、私が注文するのは剣先イカの活造りであるが、松茸の土瓶蒸しに海老天ぷらなど豪華なものである。 もっとも酒は焼酎・白波だったが3人なのでボトルで・・・

ところが、おとなしいU氏が店を出てから、「あの仲居は商売する気があるのかねえ」と、ポツリ。

私も同じことを感じていたのだが、「おおおっ、見とるねえ」とT氏も同調。
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デイトスの『かじ天』が閉まっているので仕方なく私一人であったが明くる日に又『かじ本店』を訪れた。

客は私一人だけ。 店にはフロアに仲居が2人と厨房に若い男が2人。

ああっ、もう書くのは止めよう。 思い出すのも気分が悪い。

50周年と店も仲居も年だけ積み重ねたのでは、むむむむむ

社長の好々爺ぶりなーんて、私と変わらん年齢だが、優しすぎてナメラレトルのと違うかな?

仲居の年齢の方が上かトントンか。

接客についてはもっと厳しく指導せんとハッキリ言えばダメ。

デイトスの『かじ天』には今後も行くつもりだが、『かじ本店』は・・・




at 10:15|Permalink

October 12, 2009

博多を巡る【12】 朝の散歩 中洲~清川〔A〕

博多と言えど流石に冬場は寒さが厳しいが、午前6時ともなれば明るくなっている秋のこと、朝の散歩は何とも清々しい気分である。

中洲川端のホテルからの散歩コースは先に紹介した『寺町コース』の他、『博多座からポートタワーコース』『天神方面コース』『キャナルシティから博多駅コース』、そして今回紹介する『柳橋から清川コース』と、私自身が勝手に創り上げた方向別の行路がある。

どの行路を歩くかは全くその日の気分次第で、上記のコースが複合することもある。

今回のコースは冷泉公園のホテルを出て博多川を渡り、中洲の歓楽街を抜けて行くいくコースである。

歓楽街と言っても早朝の中洲は何も無い休日のオフィス街と同じ。明け方まで仕事があったのだろうか、一見してホステスと分かる若い女と、これも客と分かる若い男たちのグループがコンビニあたりで出会うだけ。
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写真は中洲の南側先端(上流方向)に立つ高燈籠で魚市場と刻まれている。

昔は魚市場があったのか、それとも航路灯のように背が高く立派な石造りの燈籠だから、この地まで船が入ってきていたということだろうか。

そう言えばこの上の方に住吉橋が架かり住吉神社がある。 住吉神社は住吉神=墨江神を祀っているが、表筒男命(うわづつのおのみこと)、中筒男命、底筒男命の三柱の神のことであり、以前にも書いた宗像三女神と同じく海の神、海上交通の神であるから、そうしたこともあるかもしれない。

もっと想像を膨らませば、住吉神社が創建された頃には海岸線が今以上に神社の近くにあったかもしれないが、住吉神社の歴史や博多の地層を調べたわけではないので全く想像の域を出ない夢物語の類いである。

それに、燈籠には魚市場と刻まれていることから、この燈籠がさして古い時代のものであるとは言えない。

古来、物品の交換や売買が行われてきた場所を『市』と呼んでいたが、余剰産物を特定の場所で売買するようになったのは都市化が進んできた近世に入ってきてからであり、それでも江戸の町では魚河岸であり市場という言葉は一般的ではなかったと私は思っている。

ちょっと話が飛ぶが、下の写真は高燈籠が建つ中洲の南側先端にある清流公園から那珂川の下流方向(北の博多湾方向)を眺めたものである。
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川の左手が春吉、西中洲で、右手のビル群が中洲の歓楽街で手前の木が茂る那珂川に沿う堤の遊歩道に夕刻4時頃になれば博多名物の屋台が組み始められ、ラーメン、おでん、天ぷら、焼き物、炒め物など、其々の屋台が客に料理と酒を提供する。

そして、午前2時ごろには店じまいと一帯を綺麗に清掃し、午前4時になれば元通りの遊歩道に戻る。

写真で那珂川に架かる橋が春吉橋であることから一帯の屋台群を春吉の屋台と呼んでいる。

博多の屋台では生ものの提供を条例で禁じているが、屋台の殆どは生の魚介類を博多の台所・柳橋連合市場から仕入れているので刺身で食べることが出来る鮮度の良いものばかりである。

ところで、博多の魚市場について博多の商業史を研究している人なら分かるかもしれないが、残念ながら満足できる答えは見付からなかった。

江戸時代に藩が魚の専売権を認めたようだが魚市場が確立したかどうか不明であり、その場所も特定できてはいない。明治期になって今の対馬小路あたりの船溜で魚市場が組織されたようだが、下呉服町の大浜あたりにも魚市場らしきものがあったとも記されており1箇所であったのか2箇所であったのか定かではなく、郷土史家も「はっきりしない。」と語っている。

しかし、仮にそれが魚市場という名称であったとしても、対馬小路にしろ大浜にしろ高燈籠の据えられている場所とは随分離れていることから場所の特定にもつながらず、多分移設されたものであろうというのが私の結論。
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しかし、近代的建築物の中に異質な時代を感じさせる高灯篭を点景として眺めるのは奇なことでオモロイと感ずる。

上の写真は高灯篭の上にある橋上から撮ったもので、那珂川が左の本流と右側の博多川に分かれ、中央が中洲である。 右端のビルがキャナルシティ。

この那珂川の左岸沿いに南方向に歩いて行くと朱塗りの住吉橋の袂に至る。
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この石は顕彰碑で「那珂川にかかる住吉の参宮橋は洪水のたびに流失していた。春吉に住む稲光弥平は橋が流される原因を究明して、安政2年(1855)、川の中央に人工島を築き、橋をかけて流失を防いだ。この石碑は昭和6年にその功績を末永く顕彰するため設置されたものである。」との説明板が立てられていた。

しかし石碑の方は誰かが拓本を取って後始末をきちんとしなかった為であろうか、彫られた字を読むことが出来なかった。

自分さえ良ければ・・・やったもん勝ち、言うたもん勝ちといったことがまかり通る馬鹿げた時代になったもんだ。

下はパノラマ写真にしてみたが、那珂川に架かる柳橋から下流の方(北)を見た写真である。
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遠方に見える赤い橋が先の住吉橋で、左手の木造の建物一帯が博多市民の台所と呼ばれる柳橋連合市場である。

あまり広いとは言えない道が縦横に続き、鮮魚や乾物などいろいろな店が軒を連ねている。

この柳橋から住吉通りを南側へ渡ると清川であるが、江戸期の昔、柳町と呼ばれていた遊里はこの柳橋辺りであると思われる。

と言っても遊郭らしき建物を見付けたわけではないのだが、史料によればということである。

下の写真は清川にある料亭で、那珂川に向かって建つ数奇屋の建物と緑が落ち着いた風情を醸し出している。
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この散歩コースでは対岸の住吉にも料亭が2軒あるし、私の馴染みの春吉の屋台『司』の裏手にも1軒見ることができる。

私は何かの会合で料亭を訪れることがあっても私個人で利用することはない。 まして芸妓遊びなど全く異なる世界のことである。

今では紅花緑柳の世界も廃れているようだが、この博多でも芸妓の数は少ないらしい。 明治の元勲や好景気の折の商店の旦那衆は芸妓を妾にする輩も多かったと聞くが、私など『都をどり』はヨーイヤサーという掛け声と踊りをテレビのニュースで見聞きするだけである。 あとは戎さんの宝恵駕籠に乗る芸妓はんの着物姿を見る程度か。

下は先ほどの赤色の住吉橋を渡った所。
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住吉神社の奉納の石灯籠であり、江戸時代にはこの橋の向こう側辺りに柳町の遊郭があったとされている。
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住吉神社はこの写真撮影位置の後方になり、博多駅(博多口)も同方向である。

今朝の散歩コースは清川まで行き、那珂川に沿って戻るコースで全行程の5分の3程度は歩いただろうか。

ビルに隠れていた太陽だったが、随分高くなってきた。


at 10:01|Permalink
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